第1章 レルゼアとリテュエッタ (後編)
無事に別れを告げ終えて、彼等は一旦ミルシュタット西市街の更に西端の方へと向かった。当座の目的地は北西のオルティア大教国、そしてその首都である皇都グラドリエル。レルゼアは少女にその旨を伝えると、そのためには先ず南下するか北上して蒼蛇山脈を迂回する必要がある事を付け加える。そうして交易都市の西の玄関口、厩舎や取り扱いの多い商業地区に小型の騎乗用飛竜を買い付けるべく足を踏み入れていた。
大教国はその殆どが山岳地帯なのだが、間に横たわる蒼蛇山脈はその名の通り蛇のように長く、自然に出来た城壁のような役割を果たしている。流石に冬期を控えたこの時期にそのまま山脈越えしようとするのは無謀としか言いようがない。更に大教国自身も山間の渓谷や峡谷に点在するようにその街並みが広がっていたため、予てから陸に於ける馬の様に、獅子鷲や小型飛竜が重宝され、半ば日常的な交通手段となっていた。レルゼアは騎士国イヴナードで飛竜の騎乗訓練も受けてきており、兼ねてからその浮遊感が苦手だったものの、大教国内での移動を考えると何れ必要となるのは明白で、已む無く先に調達する事にしたのだった。
幾ら取り扱いが多かろうと言え、この交易都市では大教国に比べて圧倒的に馬の方が持て囃されており、取引所はざっと見て2つ程しか見受けられなかった。既に夕暮れ時が近く、気が進まない事もあってか、恰幅の良い初老の店主と雑談しながら一旦出直そうかと思案していると、リテュエッタは突然
「この子が良いんじゃないかな」
と、小型飛竜の中でも更に小柄な個体を見繕って強く推してくる。曰く、厩舎を眺めていたら何となく目が合ったらしい。
竜髄症との兼ね合いで生来の気性を刺激してトラブルになる可能性は高く、慎重に選ぶ必要があったものの、その推薦された個体は異常な程に人懐っこく、リテュエッタの方に向かって積極的に長い首を絡めようとしてきている。とても穏やかそうな見た目で、まだ比較的幼いのかもしれない。最初はおっかなびっくりだった彼女も、触れても"問題ない"事に気付くと、ゆっくりとその硬い鱗に覆われた頭を撫で、撫でられた飛竜の方も気持ち良さそうに目を細めていた。確かイヴナードの文献によれば、馬、猪、野犬、魔獣、果ては悪魔など、あらゆる生物を拒絶する奇病だった筈なのだが、その名の通り、竜とは多少相性が良いのかもしれない。然し、古代竜と眼前の小型飛竜はそもそも全くの別系統、別の生き物と言っても過言ではない。前者は魔術だけでなく人語も容易に扱える程の高等生物で、想像上の生物だと考えてしまっている者も多い。レルゼア自身もそうだった。翻ってこの乗用飛竜は、どちらかと言えば小型魔獣の類であり、知能は馬かそれ以上に賢いとされているものの、流石に人語までは使い熟せない。また古代竜のような伝承の存在でもなく、こうして目の前に存在しており、野生種としての分布域も広いため、乗用として広く利用されている。同じ竜という括りで良いのか甚だ疑問ではあったが、一先ず問題無さそうならばそれで良いかとレルゼアが決め倦ねていると、リテュエッタは「ティニー、一緒に行きたい?」などともう勝手に名前まで決めてしまっていた。仕方なく店主と対価の交渉に入る事にする。
「しばらくの"借物"になるだろうから、勝手に名付けないでくれないか」
これからの事を考え、彼女には軽く言い含めておく。実際には一旦買い取って、不要になったらどこか別の取引所や飼育場で売り払うのが一般的だったが、彼女はその方便を受けて素直に反省したようだった。
翌日、いざ"ティニー"の背に乗って移動を始めると、リテュエッタは甚く感動していた。少し前後に余裕のある1人用の鞍に2人で詰めて、後ろから彼女が密着してしがみ付くような形。
空がとても近い。風が強く、地表より少し冷たく感じる。
実際には大人40人ほどの高度でしかなかったが、景色の差は段違いで、以前よく使っていた物見櫓の屋上より余程遠くまで見渡せた。北東の空は少し暗くなってきており、珍しくこの時期雨か雪が降り出しているのだろうか。かのステアフロートも、心なしか大きく力強く見える。何もかもが新鮮だった。上昇するときは全身にぐっと掛かる重力を少しの間だけ感じたものの、一旦浮かび上がってしまえば羽ばたく度上下に少し揺れる程度の独特な浮遊感が心地良い。正に、鳥になった気分だ。長老の道と名付けられた直下を走る交易路からは、まだこの辺りでは騎竜者が珍しいのか、見上げてくる者も少なくない。いっそ手を振って挨拶してみようかとも考えたが、彼の背から手を離すのは少し気後れしたため、止めておいた。彼はこの体勢を見越して鉱石で作った"緩衝剤"を用意してくれており、それを飲むと皮膚感覚がほんのちょっとだけ麻痺し、竜髄症の接触の痛みが和らいでいた。渡された粉薬はとても苦かったが、レルゼア自身も飲み干す際に思い切り眉根に皺を寄せていて、内心少しだけ笑ってしまった。
彼の表情は今窺い知れないものの、彼女が縋る背は緊張で固く強張り、耳を寄せると鼓動も早鐘になって聞こえていた。竜髄症対策はしてあったものの、衣服越しでも触れ合う事への不安なのか。それとも全く別の何かなのか。飛竜に乗るのも久しぶりだ、と零していた時に見せた彼の表情や仕草は、姉が苦手な乾酪を出されたときのそれと変わらなかったから、敢えて何も尋ねず、気にしない事にしていた。生まれ故郷の土地柄、リテュエッタは幼い頃に乗馬慣れしていたものの、騎竜については初めての経験。そのため今の体勢は彼の方から提案してくれたもので、慣れないうちは連結鞍でなくこうした方が良い、と。縄で簡易的に2人目の鐙代わりも作ってくれたし、命綱も1人向けのものを使って2人の胴を確りと繋いでくれている。だからリテュエッタは彼の背に頼ったまま、見渡す景色だけに集中して、目一杯心躍らせることが出来た。
幾つかの小さな砦跡地の上空を過ぎてから、ふと出立前に見せて貰った粗悪な地図のことを思い出し、尋ねてみる。
「どうして真っ直ぐあっちの方に向かわないの?」
吹き荒ぶ強風に負けないよう、少し声を大きくした。山の麓の検問を経ず、真っ直ぐ皇都グラドリエルへ向かうのが良くない事くらいは分かる。然し大きく紆曲した交易路をそのまま擦っている事がどうしても不思議だった。
「差し迫っている時ならそうする。ただ陸と同じ経路の方が、何かと便利で安全だろう。だがそうだな…野営の際は少し距離を置こう。飛竜は高価だから狙われやすいかもしれない」
騎乗用の飛竜は、奪う際に殺すしかなかったとしても、皮や牙、翼など色々と剥ぎ取る事が出来る。更に言えば、オルティアに入る随分前から使役しているから、恐らく騎乗側も裕福と見られ、目を付けられてしまうだろう。これがもし大教国内やそれに近い場所なら、あまり気に掛ける必要は無かったかもしれないが、今から用心しておくに越した事はなかった。
時には小さな宿場町も利用したが、その後10に届かないくらいの野営を繰り返し、蒼蛇山脈を北回りに迂回してオルティア国境部に降り立つ。途中、リテュエッタは何度も飛竜の事をうっかり名前で呼んでしまっていたため、結局レルゼアの方にも済し崩し的にティニーの名が定着してしまっていた。そのティニーのお陰で此処までの行程は予定より随分と早まっていたのだが、検問所では更に1週間ほど足止めを食らってしまう事となる。
交易路側から見て切り立った小高い丘のような地形の上に大きな門が鎮座しており、左右には申し訳程度の障壁が山の麓へと入り込むように行く手を阻んでいた。更にその奥、オルティア国内側は断崖や針葉樹の斜面が直ぐそこまで迫ってきており、そうした検問所の造りすら矮小なものとして見下ろしている。国境の両側には小さな建造物が幾つか軒を連ねており、名も無き町のような体裁で旅人や番兵らの暮らしを支えていた。門の警備兵らにイヴナードの身分を示すと、暫くこの辺りで時間を潰すよう命じられてしまう。場末の国境検問所では大した入国管理の機能を持ち合わせていないらしく、態々当座の目的地である皇都グラドリエルに確認を入れているようで、日数が掛かるだろうという説明だった。レルゼアは閉口気味に階段を下りて行きながら、少女と飛竜の待つ交易路側の宿へと向かった。
騎士国イヴナードとオルティア大教国は、兼ねてから友好的な関係だったものの、数年前から奇妙な緊張状態にある。ただ彼が幽閉されていた間の僅かな趨勢の変化で、当然レルゼアはその事を把握していなかった。故国からは仮初めの命を賜っており、いつか訪れる予定だったため、事前通知が行き届いているとばかり考えていたが、流石に次の春を待たずして真っ先に訪れる事までは想定されていなかったようだ。特殊な分厚い外套や手袋などはオルティアに入ってから調達する予定だったが、ここでも取り扱っていたため、空いた時間を利用して一通り冬に向けた装備を先に調達しておく。彼女は「私って凍傷になっても死なないんですよね」などと甚く遠慮していたが、流石に凍えさせるのは後ろめたさが勝つし、動けなくなってレルゼアが運ばざるを得なくなる様では意味が無いので、強引に買い与えておいた。
無為に待機している数日間、リテュエッタとはどうしても些細な会話が増えて行ってしまう。ちょっとした折に口にする互いの身の上話も随分と嵩んでしまった。年頃の娘はこちらから話さずとも、自ら楽しそうによく喋る。だから退屈はしなかったものの、別の意味でレルゼアは強い焦燥感を覚えていた。彼女は前の春に17になったばかり、30を少し過ぎたレルゼアの半分程。クリスタの呼んだ愛称だけでなく、リテュエッタという本来の名についても自然と知ってしまう事になる。どうやら彼女は草原地帯グラスラントの北西付近、これから向かう大教国と国境僅かに接しているスノーステップという所で生まれ育ったらしい。1年中うっすらと雪の積もる平野はとても幻想的で素敵だった、と。また住んでいたラダの村は幼い頃何らかの戦渦に巻き込まれてしまい、南に下って先の交易都市ミルシュタットに流れ着いたのだという。両親は既に死亡しており、身内は姉のミレイユだけ。彼女らが10にも満たない頃の話で、幼い子供2人では生きていくのに相当苦労したという。加えてどんな食べ物や味付けが好きだとか、どんな衣装が好みだとか。そんな他愛ない会話によって彼女の人物像がゆっくりと記憶に染み込んでしまい、都度聞かなければ良かったと後悔してばかりだった。
翻って彼からは、妹ラピスの事やその恋人の事、そこから派生して自身の家族構成なども意図せず露呈させてしまった。何とか直截自分自身に関する事は口にしないよう心掛けて死守していたが、そうした話の中で最も彼女の興味を引いたのは、ガヘラスという騎士、即ちラピスの恋人の話ではなく、"廻し子"という騎士国イヴナード独特の家族制度の事だった。
「廻し、子…?」
彼女は愛らしく小首を傾げる。
「そういえばあれはイヴナードに限られ、あまり一般的ではなかったかもしれない」
レルゼアに取っては寧ろ廻し子の方が一般的であり、それが当然の社会だったため、何から説明に手を付けたものか思い倦ねる。
「端的に言うと、血統を重視しない、国家全体で高潔さを育てていく制度、といったところか」
小さな酒場で慎ましい夕食を摂りながらだったが、彼女は匙を銜えたまま暫し手が止まってしまう。彼の説明が漠然とし過ぎており、全く伝わらなかったようだ。
「具体的には、どの家庭でも生まれた赤子は直ぐに修道院や神殿に引き取られる。そして星の導きが示された時──つまり占星術が示した結果によって、また別の家庭へと戻される」
「生まれて直ぐって事は…お父さんやお母さんが全く別の人になっちゃうって事?」
「そういう事だ。結果として、家族は血ではなく"信じる掟と絆"により固く結ばれる」
「うーん…。何だか可哀想…イヴナードの人たち全員が養子みたいな感じなんでしょうか。知らなかったなあ。でもそれが当たり前なのって、何だか不思議な感じがします」
「感情的にはそういう一面があるのかもしれない。ただ私達からすれば、実際の血の繋がりの方が無用な愛憎を招いてしまうように思えるのだが」
血統は誇るものでなく守るもの。愛情も躾も。全てはそれぞれの家における"血の掟"、至上命令たる私法が支配する。力の弱い者も力の強い子をなせる。そして、その逆も然り。そうやって脈々と意思や強さが育まれ、引き継がれていく。英雄イヴニスによる建国から約400年、他国に比べて紡がれている歴史は浅い方だったが、他と比肩するほどの国へと急激に発展したのは、間違いなく廻し子制の存在も大きな要因の1つだったと言えた。男女問わずほぼ全員が何らかの騎士の称号を得るイヴナードでは、血統は言い訳に使えない。寧ろそれは背負い立つべき試練。"力と誓い"、それが日々唱えられている国是だった。
「じゃあラピスさんとも血が繋がってなかったの?」
「その言い方は好ましくない、ヴォルドー家として、家族だ」
然し。言葉には続けなかったが、逆にレルゼアは自身の方がヴォルドー家に相応しくないと予てから考えていた。通常は1歳にも満たない時に修道院などを出て行くことが殆どだったが、レルゼアは9歳になるまで修道騎士──いわゆる修道士や修道女達に育てられていた。そこまで経ってしまうのはかなりの異例で、過去にあまり例が無い程の間、星の導きが示されなかった。だから、ヴォルドー家での生活にはしばらく馴染めなかった。一生懸命、家規に従うよう努力していた。父の時点で既にかなり落ちぶれてはいたが、だからこそ次の子は、と期待されていた。ただレルゼアは生まれながらの体力や胆力に恵まれていなかったし、慣れない修道騎士らによる"曖昧な"育て方だった事もそれに拍車を掛けていた。一人で本を読むのが好きだったので、ようやく鉱石術という学び甲斐のある将来が見えた時には、もうその事しか考えられなくなっていた。そして彼と数か月も違わず、ヴォルドー家には栗色の髪をした赤子、妹のラピスが迎え入れられる。ラピスは運動能力が高く才気にも溢れ、一足飛びに聖騎士隊への配属となった。奇しくもその祝杯の日に、彼は竜髄症を知る事になったのだが。
「興味深い話をしているね」
突如後ろから声を掛けられ、ほんの一瞬だったが、レルゼアは思い出したくもない郷愁に沈んでいる事に気付かされた。かの呪われた病の事を直截口に出していなかっただろうかと、頭の中で少しだけ反芻する。2人は兵士の詰所に付随している酒場兼休憩所でそのまま話し込んでしまっており、そこに漆黒のローブを纏う胡乱な男が後ろから声を掛けてきたのだった。
「廻し子もそろそろ形骸化して、一部では産み落とした我が子を金の力で改めて迎え入れる事が頻繁に罷り通っているって話なんだけどね」
男は無遠慮にレルゼアの隣へと腰掛け、給仕には愛想良く蜂蜜酒と羊肉の料理を1品注文していた。
「治世に関わるような著名な騎士を輩出し続けている家系では、特にね」
恐らくこの男も、今日はもう遅く国境を通して貰えないため、翌朝まで暇を持て余しているのであろう。
「私はファン・ラズラム。しがない吟遊詩人さ」
レルゼアは敢えてこちらから問い掛ける事をしなかったが、改めてその男は投げ遣りに自己紹介をしてきた。
「──詩人?」
よく見ても楽器のようなものは見当たらないし、嗄れた低い声でいちいち聞き取り辛い。それが到底商売道具にならない事も明らかだ。レルゼアはその明白な虚言に対して流石に怪訝さを全面に押し出す。
ごちゃごちゃとしたアミュレット類、殆ど骨に近い指にいくつも嵌められた指輪、左手の甲の紋様、そして誰しもが先ず目に付く漆黒の法衣。目深なフードの奥にはギラリと輝く双眸が控えており、如何にも魔術士然としている。そして極めつけはその名、"ラズラム"とは確か、フレア=グレイスの七柱のうち冥府神の名ではなかったか。年齢は若いようで年老いている様にも見え、格好以上に掴み所がない。
「流石にそこは直ぐにバレてしまうか、同業のようだしね。色々と話を聞き出すには便利な肩書きなんだが…実際には"魔術"を少しだけ嗜んでいて、占星術も扱う、かな」
魔術と一口に言っても、精霊術、鉱石術、七柱の信仰術、妖術、占星術など実に多彩だったが、レルゼアは関わり合いを避けるため、敢えてその誘導には乗ろうとしなかった。
彼が無視を決め込むと、何か占ってあげようか、と今度はリテュエッタを標的にして話を持ちかけている。彼女はニコニコと笑顔を浮かべながら、どう答えるべきか無言で思案していた。先立つものを持たないリテュエッタは、報酬が必要なのか、それとも単なる社交辞令なのか、深く思い悩んでしまっている事であろう。逆にもしそこを尋ねれば、恐らく彼の口車に乗せられ、あれよあれよとあちらの調子に巻き込まれてしまう。酔っ払って絡んでくる客に対しては、一先ず黙って愛想笑いをしておけと言う給仕時代の店主の教えが彼女の中に確りと根付いているようだったが、こうした場合押し黙っていては、勝手に肯定と看做されてしまう小狡い立ち回りもある。だからそうした憂慮を断ち切るべく、彼は渋々口を挟まざるを得なかった。
「生憎だが、今は遠慮しておこう。…それより、何故そんなにイヴナードの内情に詳しい?」
レルゼアは揺り戻すように話題を反転させる。
「あれ、そっちに食いつくのかい?私はてっきり、"ラズラム"の方だとばかり」
男は軽く首を竦めて軽くぼやくが、ここはさらりと配っておく事にした。
「…確かにあまり聞かない名ではあるが、何かしら七柱の威光を借りようとしているだけなのだろう?」
「でもね、あの中でも冥府神だよ冥府神。それでこの真っ黒な出で立ち、自ら進んで事細かに説明するのも何だけど」
そう良いながら自らの衣装を指し示す。この口調や仕草だけ切り取れば、実はかなり若く、レルゼアよりも年下ではないだろうかと慮る。
「──占星術、一時期かの国に雇われていたんだよ」
魔術士の男は1人鷹揚に言葉を続けた。
「てっきり周知の事実だと思っていたんだけどね。楽しかったよ、じゃあね」
レルゼアとしては最初の彼の独白に対し、知るとも知らぬとも反応しなかった心算だったが、形骸化の下りは昨今騎士国の誰もが懸念している事だった。ファン・ラズラムと名乗ったその男は、頼んだ料理が届くや否や、2人にはもう飽いたとばかりに杯と皿を持って、他の客、屯しているオルティア国境警備兵らの元へと去っていった。
大教国に入ってからは、再び順調に旅を続ける事が出来た。真っ先に2人が目指したのは巡礼路の街セレネリアで、件の検問所から南北に長いその街並みまで半日と掛けず着く事が出来る。セレネリアは言うなれば大教国の大動脈のような都市で、皇都すら凌ぐオルティア最大の街並みだった。断熱の観点と周囲に豊富な木材がある事、また気候的に腐敗までの期間が長くなる事などから、素朴な木造の建築物が入り交じり、食べ物を見ても、先の交易都市では脂の乗った海水魚ばかりだったところ、この辺りでは巨大なセレネリア湖の淡水魚が大半となっている。
この街から更に蒼蛇山脈の裏側へと回り込むようにして西へ西へと進んだ先に、かの皇都グラドリエルがある。検問所の余暇を使って装備は或る程度調えてあったが、皇都までまだ1週間位は掛かるため、詳細な地図や臨時の食料なども追加調達し、万全を期しておく事にした。教国内は基本的に山間を流れる細い河川沿いに進んでいく事になり、少し奥に入れば短い夏を越した万年雪にも事欠かないため、水の方は余り気に留める必要がない。それとリテュエッタが特に心配していたティニーの扱いについても、特に何か特別な対応は必要無さそうだった。
1年の大半が冬となるオルティアは、やはり寒い。翌朝巡礼路の街を出立すると、レルゼアはそんな当たり前の事を改めて実感しつつ、徐々に飛竜の高度を上げていく。リテュエッタは生まれ故郷がスノーステップという事もあり、この位なら慣れっこだったが、比較的温暖な交易都市での生活も長くなっていたため、肌を切るようなこの冷気や吐く息の白さに懐かしさすら覚えていた。まだ初冬にも関わらず、既に周囲の山並みは白い薄化粧を纏い始めており、更なる寒波の到来と冬季の厳しさを滲ませていた。
セレネリアを出立した後、幾つかの小さな宿場町を経て、彼等は無事に皇都グラドリエルまで辿り着いた。南北に長い先の巡礼路の街とは異なり、円く刳り抜かれた様な盆地に座する小さなその都は、蒼蛇山脈を背にして要塞のような外観をしている。木造の建造物も殆ど見当たらず、再び石造りに様変わりし、手前は厚さと高さの異なる2重の外壁で囲われていた。盆地の中央部には開けた広場のような空間を人が行き来しているのが小さく見て取れる。更にその奥、ほんの少しだけ小高い平地には、距離感のおかしくなるような巨大な規模の聖堂が1つ、雄大に佇んでいた。
門に近付くと、寄ってきた哨戒中の騎竜兵の指示に従い、一旦降りて徒で進む必要があった。どうやら余程の緊急時でもない限り、グラドリエルの上空を一般の旅人が飛び交う事は許されていないらしい。馬車が5台は並んで通れそうな程大きな正門を抜け、中央通りを進んで行く。ティニーは最初慣れない歩様に途惑っていたが、手綱を少し引いて調子を合わせてやると直ぐにコツを掴んだようで、曳き馬と殆ど同じ様な感覚で連れ歩く事が出来た。
街行く人の中には、馬と同じように小型飛竜や獅子鷲の背に乗って移動している者も居る。リテュエッタにどうするか尋ねようとしたところ、彼女は落ち着かない様子で周囲を眺めており、突如思い詰めた様にしてレルゼアの方を向き直った。
「…これまで、本当に、本当にありがとうございました。それではっ……!」
唐突に別れを切り出し、倉皇とこの場から立ち去ろうとする。レルゼアはティニーの主食である飛竜草の調達や、これから暫く滞在するだろうから、きちんとした厩舎のある宿を、などと複数の思考を巡らせており、虚を突かれる形となったが、偶然話し掛けようとした瞬間だった事が功を奏し、手綱から即座に手を放して彼女の手首を掴み、この場に留めさせる事に成功した。
「一体何処に向かうつもりだ?」
駆け出そうとしていた彼女は強い苦悶を感じて後ろ手に呻くが、掴んだ方の彼もまた強い痛苦に苛まれ、顔を顰めている。彼女に答えの準備など無く、ただ衝動的に、目的地と聞かされていた場所に着いたため、ここが終着点なのだと思い至っただけだった。
「えへへ…」
リテュエッタは脂汗を流しながら笑って誤魔化そうとしたが、痛みで上手く笑う事が出来ない。もしここで彼女を見失ってしまえば、探すのにかなり骨が折れるだろうと、レルゼアは更に強く彼女の手首を握り締める。二人を襲う竜髄症の疼きはズキズキと大きく歪みながら悪化し、吐き気にも似た尋常ならざる不快感まで押し寄せてきた。
「だって、もうこれ以上は──」
そう呟いて濃く灰色めいた曇天を仰ぐ。冬に入って間もないため、柔らかい細雪がちらほらと降り注ぎ始めていた。
「…これ以上は、何だと言う?」
努めて冷静に、声を荒げないよう話しておきながら、彼自身、特にこれといった理由もなくリテュエッタを引き留めていた事に気付く。
「いやっ!!もう離してっ!」
彼女は痛苦を全て覆い隠す様な金切り声で悲鳴を上げ、振り解こうと懸命に腕を振って藻掻いていた。最初は痴話喧嘩程度に見られていたのだろう。素通りして行く者ばかりだったが、徐々に少し足を止めて訝しむ者も出てきていた。捕まえていた術士は、これ以上衆目を集めるとまずいと思いながらも、痛みに気を取られてそれ以上に深く考えが巡らない。而して強く抵抗を示したのはほんの短時間、黒髪の少女は強く咳き込みながらその場に膝を突いて頽れると、彼も漸くその手を離す事となった。
ティニーがリテュエッタの顔の方へと首を伸ばし、覗き込むように頭を擦りつけて甘えている。きっと2人のいざこざが収まる頃合いを見計らっていたのだろう。機微に聡い個体だった。レルゼアはまだ痛みが強く後を引いている右手を逆の手で摩りながら、そのぼんやりと光景を眺め、この飛竜に対してはまだ然程拒絶反応が出ていないのだな、などと虚ろに考えていた。
黒髪の少女をティニーの背に乗せ、急ぎ手近な宿を見繕うと、青ざめて窶れた顔のリテュエッタに極力触れないよう部屋まで誘導し、柔らかいベッドに寝かせ付ける。中央広場に面した1等地で、壁や天井の真っ白で艶やかな漆喰が仄赤い明かりに照らされ初雪のように眩しい。この際費用の事は気に掛けていられなかったが、巡礼期間外の閑散期という事もあってか、立地の利便性や美しい調度品、丁寧な接遇の割にとても良心的な価格だった。
「…全く、余計な手間を掛けさせてくれる」
彼自身にも相当なダメージがあったため、終ぞ口にした事の無い愚痴が漏れてしまうが、疲弊して呼吸の荒くなっていた彼女には幸い届かなかった様だ。暫くして意識が落ち着いてくると、彼女は薄く目を開ける。
「……何だかこの街って、尖った屋根、多いんですね」
彼女は窓の外を見遣って弱々しく暢気な台詞を呟くが、レルゼアはただ曖昧に頷くだけだった。
(──こういう事、なのか)
ラピスとは発症後間もない別離だったから、正直此処まで悪化した段階での接触は彼に取って初めての事だった。ただレルゼア自身疲弊し切って気付いていなかったが、向こう見ずな少女を思い遣る心と、彼女自身の必死さが痛みや不快感を増幅させていただけで、実際軽く触れた程度ならば竜髄症の痛みや苦しみはそこまで増悪していない。もしそうでなければ、直前まで長時間背中にしがみついていたというのに、いきなりあれ程の痛苦に変容する事の説明が付かない。そんな簡単な事にすら思い至れない程、少なからずレルゼアも疲弊して気が回らなかったし、竜髄症の将来齎すであろう苦しみに動揺してしまっていた。
自身も徐々に回復してくると、気を紛らわせがてら、当座の行動に出る事にする。
「しばらく安静にしていてくれ、少しの間、出掛けてくる」
これまでの僅かな旅路でも、幾何かの路銀稼ぎや物資の調達で彼女と短い間別行動する機会が屡々あったものの、先の軋轢の件もあってか、行き先すら告げない行動に強く後ろ髪を引かれていた。
「……ありがとう、ございます」
それは何に対する謝礼なのだろうか。恐らくこの宿に連れてきて、安静にさせた事が含まれているのは間違いないであろう。ただ想像以上に素直で、且つ弱々しい返事を受け、戻ってきたら彼女が失踪しているといった懸念は一旦胸の奥深くへと仕舞い込み、レルゼアは踵を返す。
(ラピスさんがお兄さんに殺してくれって頼んだ気持ち、今なら分かるな…)
リテュエッタは途惑いの中、再び静かに目を閉じ、浅い眠りへと沈んでいった。