1章-2 まだ不確かな渇き
次に少女が目を覚ましたのは、何処ぞと知れぬ安宿のベッドの上だった。
身体中、特に胸の中央がまだ強く痛んだものの、大怪我の殆どは緩やかに治癒しかけていた。
ざっくりと裂けた鳩尾辺りの衣服の奥に、酷く濡れた出血の跡が見て取れる。
それを含め、傷の全ては悉く塞がりつつあるように見える。
厚布などは一切掛けられておらず、肌を大きく露出させていたので、少女は破れた胸元の辺りを無意識に両腕で隠しながら、何とか上半身だけ起こした。
気が付くと手の届くくらいの距離にあった椅子に男が腰掛け、無言で窓の外を眺めていた。
そのまま話しかけるべく口を開きかけたけれど、肺には空気が行き渡らず、動きに気付いた彼が遮るように声を掛けてきた。
「……ようやく目が覚めたか」
存外優しい声音だったのに、次に続いたのは少し強い語気を孕んだ自身への詰問だった。
「人に触れた時、おかしな痛みを感じ始めたのは、いつからだ?」
リテュエッタは円らな瞳を大きく見開き、しばし言葉を失う。
朧気になりつつあるあの転落の事ではなく、少し前から気になり始めていた違和感への指摘。
その事に、酷く当惑してしまった。
どう、答えたものだろう。
僅かな沈黙と共に、男の顔を具に観察してみる。
恐らく自身より二回り程――実際には二倍程に歳を重ねている男は何かを隠すような平坦な表情で、一切感情を読み取る事が出来なかった。
艶の無い藍鉄じみた髪は両目の上端程で乱雑に切り揃えられており、血色の悪い顔色が不健康さを雄弁に物語っている。
しかし落ち着いて能く観察を続けると、先の言葉は威圧や嚇しの類ではなく、彼自身、どこか急かされて発してしまったもののように感じられた。
「貴方は……誰?」
喉を使うと想像以上に胸の奥がチリチリと痛み、胃液を丸ごと戻しそうになる。
一先ず質問に質問を重ね、男の様子を窺う。
「あ、ああ…………性急に過ぎた。済まない。私はレルゼアという。少し遠く、東方にあるイヴナードという騎士国の者だ」
強く訝しんだ誰何に怯み、第一声の優しく穏やかな声音、寧ろ弱気に思える程の返事だった。
――――イヴナード。
そんな聞き慣れない遠い国だと、相当な長旅のようだけど、衣服は随分と小綺麗なままだった。
よく見れば服の装飾なども緻密な細工が鏤められており、位の高い男性なのかもしれない。
彼女はそう感じたのだが、それはただ、かの国の鉱石術士に能くある風貌というだけだった。
慇懃ながらも覇気のない自己紹介を聞き、少女は少しだけ警戒心を緩める。
「そういえば私、あの見晴らし塔から落ちちゃった……んですよね?」
「ああ、そうだな」
少女にとっては生死を問うくらい重要な確認の筈だったのに、男は興味なさげにぼそりと肯定しただけだった。
「……貴方が治してくれたの? 凄く酷い怪我だった気がするのに……」
先の余りに素っ気ない答えに、返す言葉は自然と窄んでしまっていた。
「それに答える前に、こちらの、先の問いに先ずは答えてはくれないだろうか」
術士の男は真剣な眼差しで彼女を見詰め、静かに返答を待ってくれていた。
「……二日くらい前から、かな? 誰かに触れると少し痛いっていうか、何だか気持ち悪い感じっていうか…………でも、何で分かっちゃったの? まだ誰にも話した事なかったのに……」
男はその疼くような予感の的中に、内心大きく溜め息を吐いていた。
そして再び顎に縦拳を当てながら、苦々しい面持ちで告げる。
「――その痛みや不快感は、君の方だけではない。程度の差はあれ、触れた方も同じように感じてしまうものだ。まだ軽い違和感くらいとして、周囲から取り沙汰されなかっただけかもしれない」
茜色に染まり掛けた窓の外がふと視界に入り、少女は出し抜けに思い出す。
「あっ、そういえばあれからどのくらい経ったんでしょう? 私、もう帰りたい……そろそろお仕事に戻らないと!」
仕事とは酒場の給仕の事だった。
窓の外は既に夕暮れの書き入れ時を告げている。
先の洗濯物も取り込んでいない。
普通なら即死するような大怪我を負っていたというのに、今の些細な怪我の具合により、そうした疑念がすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。
男は少し気後れしながらも、殆ど独白に近く、彼女の問いに答える。
「丸一日くらい、だろうか……出血が酷かったから、匿い続けるのにはとても苦労した」
予想外の言葉に、黒髪の少女は先程よりも更に大きく瞳を見開いて仰天する。
後半の補足は、彼女の意識には留まらなかった。
「そっ、そんな……大変! お姉ちゃんが心配しちゃう……早く帰らないと!」
彼女は急いでベッドから飛び降りようとするも、身体中の軋みと立ち眩みに負け、大きく体勢を崩していた。
急いでその両肩を支えた術士は、そこで初めて憐憫とも言える表情を見せ、僅かに眉を顰めた。
「……無茶をするな。あれだけの傷だったんだ。自由に動けるようになるには、まだ少し時間が掛かるだろう。だからせめてその間……私の話を聞いてくれないだろうか」
耄碌し始めた宿の主人には通常の五倍ほどの額を掴ませてある。
だから、死にかけを連れ込んだ事がバレても、しばらくは何も言ってこない事だろう。
彼は改めてリテュエッタを宥めてベッドに腰掛けさせると、彼女が最近感じ始めた違和感について、まるで見知ったもののように淡々と語り始めていた。
* * *
術士の男の説明によると、詰まるところ〝竜髄症〟という奇病を発症したのだという。
何十年にたった数名程の、癒える見込みのない難病にして死病。
そして余りに奇っ怪なそれは、〝古代竜の呪い〟ともいわれていた。
初めは人間を含めた生物との接触により、不快感や苦痛、吐き気などを感じ始めるようになる。
程度の差はあれ、それは接触した側にも同じような感覚を齎す。
症状が軽いうちは、衣服越しかどうかに拘わらず物理的な接触時に限られるものの、悪化していくと少し近接するだけで。
更に進行してしまうと、多少離れていても、言葉を交わすなど〝心の通う行為〟をしただけで、周囲に苦痛を撒き散らす厄介な存在になってしまうのだという。
やがてその〝触れ合う痛苦〟は、死と同等の、耐え難きものへと変貌していく。
もし発症後、たった一人で生きて行けたとしても、病は次第に内臓をも蝕み、短ければ一年程、長くとも数年程度で命を落とすのだという。
そしてこの難病は、利点ともいえる変質を伴う事で知られていた。
それは〝外傷に対して滅法強くなる〟という事。
異なる言い方をすれば、罹患した時点で、その病魔以外に対して当面不死身になったといっても差し支えない。
先の転落事故のように、たとえ致命傷を受けたとしても、徐々に回復しきってしまうし、そもそも傷付けること自体が難しくなっていく。
また末期に酷い外傷を受けると、回復が行き渡らず、文字通り死ぬまでその苦痛に苛まれてしまう。
更に餓えや渇き、毒などにも強い耐性が付き、完全に飲まず食わずでも病死に至るまで生き長らえるのだという。
食事については寧ろ全く摂らない方が内臓に負担をかけず、延命出来るという説すらあるらしい。
捉え方によっては、発症した時点で既に〝生ける屍〟になってしまったといっても過言では無い。
即ち、生きているか既に死んでいるのかさえ分からない状態。
死にたくても、もう自らの意思では、死ねない。
やがて来る病死を、ただ孤独に、苦しみながら、もどかしく待つのみ。
そうした竜のような頑強さと、それを無理矢理人の器に押し込めたような不安定さから、その病は騎士国イヴナードに於いて、〝竜髄症〟と呼ばれ、疎まれ続けてきた。
人から人への直接的な感染はしないとされていたが、近親者において稀に連鎖的な発症が見られた事から、家族らも当面幽閉されてしまうのだという。
発症の原因は不明で、領主や英雄など、支配層に於ける罹患が比較的多く、外傷に強いという事実だけをもって、力により、束の間の暴君になった者もあるらしい。
なお他の地域では、痛み憑き、呪痣、隔絶痕といった様々な呼ばれ方がされているとの事だった。
* * *
彼女は当惑し――まるで他人事のように、静かにそれを聞いていた。
「教えてくれてありがとう……って言えば良いのでしょうか……でも、全然信じられなくて。怪我の治り具合を見てると、本当の事……なんですよね?」
自らの開けた胸の中央、両手で深く隠した奥の、本来なら癒える事のなかった傷口を覗き見る。
「要するに、もしその竜髄症っていうのに罹ってなかったら、きっと私、あの時もう死んでたって事で……何て言うのかな、その……寧ろ良かったって感じなのかな……あはは」
無理に明るく努めようと、乾いた笑いが差し込まれる。彼は敢えてそれを気に留めず、淡々と応じた。
「先の質問だが、結局のところ私が何か処置したかといえば、ただここに運び込んで安静に寝かせていたというだけで、何もしてはいない」
「でも……やっぱり、助けていただいてありがとうございます」
さっきとは打って変わり、彼女生来の自然で柔和な笑みを浮かべ、改めて自身を攫った男に謝辞を述べる。
「私……やっぱりこのまま帰っちゃったら、駄目……ですよね?」
彼女はぽつりと呟くが、レルゼアは少しだけ間を置き、一つ一つ慎重に言葉を選びながら、その尤もな疑問に答えを提示する。
「恐らく……否、間違いなく、いずれ君は周囲に恐怖を与える存在になる。あんな怪我をしても平気な顔で戻ってきて、しかも近付くといずれ祟られてしまう。相手とどれだけ親しくても……寧ろ親しければ親しい程、文字通りその人に強い苦痛を与えてしまう存在になる……それでも構わないなら、今直ぐ帰っても問題無いのだが」
男は一通り、彼女が考えないようにしているであろう事実だけ切り揃えて言い渡した。
(――だからこそ、突発的に連れ去ってしまった……)
続く自戒の念だけは、心根に留めておく。
「そう、ですよね……なら私、これからどうすれば…………」
それは傍らの男に向けた弱々しい問いとも、単なる独白とも取れた。
彼としても、彼女を寝かせている間に頭を悩ませていた難題であり、路頭に迷う少女に対し、何かしらの妙案を示してやる事など出来なかった。
「より悪化するまでは、普段通り過ごすのも一つの手かもしれない。ただその場合、次第に別れを切り出すのが難しくなり、機を逸すれば逸する程、拗れる可能性は高くなるだろう」
彼は実際そうした〝拗れ〟を目の当たりにし、その事について深く悔いていた。
「君が寝ている間、君がこれからどうすべきかを私としても色々と考えていた。ただ、結論は出なかった……済まない」
最後に形式だけの謝罪を添える。
そうしてそのまま、顎に縦拳を当て、再び考え込んでしまっていた。
重い沈黙が頭を擡げる。
リテュエッタは不意に、ようやく、自らの置かれた境遇がするりと心に入ってきて、少しだけ泣きそうになってしまっていた。
ただそれは、きっとまだ上辺だけのものだろう。
完全に受け容れる事は元より、これからを想像するなど、出来る筈はなかった。
もし今の状況を、これからもう誰とも触れ合えない、死せぬ屍である事を受け容れてしまったのなら、きっと自暴自棄になり、心の方が先に死んでしまった事であろう。




