3章-5 冥を象るもの
大地の隆起が術士の数倍程の高さにまで達すると、今度はボロボロと土塊が肉片のように剥がれ落ちていく。
そうして、雄々しい骸が顕現した。
屍のような印象を受けたとはいえ、晒されているのは顔の一部と殆ど左腕のみ。
身体は幾重にも重なった真っ白な慧解の法衣を纏い、そこかしこに黒を基調とした妖しい紋様が編み込まれている。
頭は漆黒のフードに深く覆われ、そこには煌めく星々のように幾つもの橄欖石や紫水晶が鏤められていた。
半ば隠された相貌は、その殆どが骨と皮しかなく、歯の根も剥き出しになっている。
フードの奥からは、薄い竜胆色の髪が無数の大蛇のように広がり、まるで命あるもののように蠢いていた。
一方で剥き出しの左腕は肉が厚く、土気色の肌は薄く光り、水銀の血液が脈打っているのが見てとれる。
こちらに差し出した指先は鋭く長い爪が生えており、人差し指からは絹のように細い糸の先に黒曜の宝玉二つが縦に垂れ、おかしな振り子のように不規則に揺れ動いていた。
幽玄且つ禍々しく、猛々しき体躯ながらも揺るぎない知性が滲んでおり、滾々と畏怖を放ち続けている。
(なん……なんだ…………これは……!!)
思考が全く追いつかない。
レルゼアは悪魔に魅了されたように立ち竦んだまま、眼前のそれをただ呆然と見上げる事しか出来なかった。
その塊は土から完全に身体を顕した後、こちらを覆わんがばかりに背筋を弓のように撓ませ、真暗に沈んだ瞳のない眼窩で静かに見下ろして来ていた。
『――――己が結びに惑いし子よ、この先、肉を以て入る事能ず』
頭の底に直接響く声無き声。
そこでようやく、彼は強い悪寒がして、足が微かに震え始めた。
人語を解す高貴なる存在。且つ、この精神への直接的な介在。
一先ず、急ぎリテュエッタに――――。
『…………芽吹きし童女、傅く小竜へと、その憂虞を手向けんとすか』
振り返って何かを叫ぼうとした瞬間、更に深く、意識の底へとずっしりと語り掛けられ、喉元まで出かかっていたそれは行き場を失くしてしまう。
(――――思考を…………読まれた??)
余りに愕然としたものの、その衝撃によって鈍っていた頭は激しく回転を始める。
そして眼前の悍ましきそれを、何らかの〝理解できるもの〟に変化させようしていた。
粗暴なる闇の座。
腐敗巨人。
死せる死術士。
幾ら思考を巡らせてみても、知識の中のいずれとも噛み合ってこない。
単なる悪魔やアンデッドにしては余りに高貴で、しかし何かの人のようなものが死霊術を使い、その身を置き換えたものとも思えない。
『…………我が名はラズラム、冥府の主にて、冥界それ自身』
それはこの一柱にとって、ただ人の子に答えを呈しただけの小さな差配だったのかもしれない。
しかし彼にとっては、まるで太い氷柱を背筋に突き立てられたようで、一瞬にして全身が凍り付く心地だった。
………今し方、これは、一体自身の事を何と称したか。
それはかのエスト神族、フレア=グレイスの七柱に名を連ねる、冥府神のものではなかったか。
されどこの風格とこの重圧、偽りなど微塵も感じられなかった。
神とは、実際こうして世に具現するものなのか――。
神殿にある偶像は、決して想像の産物では無かったのか――。
今度こそ本当に、まるで思考が廻らなくなってしまっていた。
果たして、夢幻の中にでも居るのだろうか。
畏れ多くも自らを神と言い放つ者が、三つ首の業犬よろしく冥界の入り口に鎮座するとは。
一体何の冗談だというのだ。
『抑も、同源たればこそ、此処に在りて此処に無し。最奥に在りて最奥に無し。故に先の鏡に同じ』
鏡とは、レルゼアが見た妹の姿の事だった。
あの幻影は心の奥底で秘かに願ってしまっていた、彼女に望むべき姿であり、漂う自我無き冥の霧がその思念に呼応し、一時的に象られてしまっただけのものだった。
即ちそれは、心の鏡。
しかしその貴い示唆について、レルゼアが完全に理解する事はなかった。
『汝の好奇は人たる故が意業。誇れこそすれ、努々恥じるなかれ』
その言葉は、レルゼアの思考の少し先に置かれたもの。
自身の考えが全て冥府神への問いとなってしまう事に、今正に〝畏れを抱こうとしていた〟その矢先。
冥府神は彼がそう感じてしまう前に、先んじて安堵を差し伸べてくれていた。
何故、かの尽瘁の動乱で人々と敵対した筈の神が――。
レルゼアは自身の安全を顧みる前に、思考がこの冥府神に対する興味、即ち深い関心へと再び傾いてしまった事を自覚し、内心後悔する。
『件の諍いは我が手落ちにて、助けこそすれ、何ぞ必ずしも争わん。ニベルに紛いし、篤き日ぞ――――』
奇しくもそれは、騎士国イヴナードの〝真の歴史〟にして、本当の興り。
そうして彼は、極一部の者にしか語り継がれない故国最大の秘密、隠された歴史に辿り着いてしまう。
ラズラムと名乗るそれは、微動だにせず、声無き言葉を続ける。
その左手にある二つ縦に並んだ振り子と、そこから滴るドス黒い雫だけが、時の流れを示していた。
* * *
一般に広く知られている騎士国イヴナードの歴史、それは先ず四百年程前の尽瘁の動乱に端を発する。
始祖の英雄たるイヴニスには、稀有な賢者と魔道士という二人の心強い仲間があった。
大賢者の名はグリムクロア、黒の魔道士の名はニベルという。
英雄は二人と共に大軍を率い、奈落の底から溢れ出た不死者の群れを凌ぎ切って、長きに亘るそれを収束させた。
更にイヴニスは現在のイヴナード領に移り住み、動乱を制した人ならざる強き力を以て、巨大な魔獣が跋扈し続ける平原に加護を齎し、騎士国イヴナードを興したとされる。
もし英雄達の力がなければ、人の世界はいずれ冥界のように亡者で埋め尽くされたであろうともいわれている。
これらの偉大な功績の結果、人ながらにしてエスト神族の一柱に迎え入れられたと、故国では真しやかに言い伝えられていた。
かのグリムクロアは高齢ながらイヴナードの建国を支え、開国当初は内政に於いてもその力を如何なく発揮したという。
他方、黒の魔道士ニベルは動乱の終結と共に忽然と姿を消し、その行方を知る者は無かった。
英雄イヴニスは当然として、大賢者グリムクロアについても騎士国では広く知られているが、ニベルだけは歴史の影に置き去りにされて来た。
その魔道士は、失われた魔法に似た怪しげな術を行使出来たという怪しげな記述だけが残されており、この事から、一部の好事家らが今尚その後の足取りについて調査を続けるだけだった。
そしてラズラムが無知蒙昧な彼に示した裏の歴史、真の建国の歴史とは。
四百年程前の尽瘁の動乱、それは一般に冥府神が不死者を人の世界へと侵攻させたと考えられて来た。
しかし当のラズラムは、生者と死者のいずれをも深く尊び、不用意に行き来する事は是としないのだという。
彼の持つ役割は、冥界の厳正なる統治のみ。
具体的には、死者の魂を一所に集めて浄化し、運命と回帰を司る女神リヴァエラに引き渡す事。ただ、それだけ。
彼にとって生者が無為に死す事、また死者がリヴァエラの元に辿り着き新たな命を得る前に、生者の世へと転び出てしまう事は、禁忌でしかない。
全ての魂は厳かなる〝生〟と〝死〟、その二つの確かな理によって正しく分け隔てられている事のみを善しとしていた。
だから、その一柱が人の世界に敢えて不死者らを侵攻させる理由も無く。
実際は当時、栄華の神エファーシャの力が僅かに増大し、神族間の均衡が微かに歪んでしまった事で、冥界の端にほんの小さな綻びが生じてしまったのだという。
その際彼の力を以てしても不死者の流出を完全には防ぎ切れず、黒の魔道士ニベルに扮して人に対して助力し、これを収める事としたらしい。
一方遠因となったエファーシャは、他の神族が手ずから収拾を付けようとする事案に直接介入するのは憚られたようで、手近な、死にかけていた適当な男に対して〝生の力〟を与え、間接的に支援したのだという。
ただ、話はこれだけで解決しなかった。
戦渦が予想以上に長引いた事で、男の魂は殆ど力と同化してしまい、既に女神エファーシャの手によっても引き剥がす事が難しくなってしまっていた。
栄華の神の創り出した生の力は余りに強く、竜髄症の利点、即ち不老不死をその男に意図せず齎してしまった。
そして大賢者グリムクロアは、人に似つかわしくない、有ってはならないその力を、殊更危険視する。
ラズラム自身も厳然たる理の外にあるものを嫌忌し、グリムクロアに手を貸す事で、遠く東の地、今のイヴニス神殿の地下辺りに封じたのだという。
そして大賢者は、その封印を長きに亘って監視させるべく、地上に新たな国を興す事を目論む。
封じられた平原は、予てから巨大な魔物が跋扈していたため、元々人の寄り付けない土地だった。
そこで封じられた英雄の力を逆手に取り、大規模な結界を形成する事にした。
グリムクロアによれば、結界は彼の力を少しずつ吸い上げ、弱らせていく事も意図していたらしい。
加えて〝廻し子〟の仕組みについても考案する。
これにより、血統や血脈に依らず、皆が意識する事無く、封印の維持を確実に継承し続けられるよう、画策したのだった。
やがて数多の記録を改竄し、英雄が神となって直接国を興したかように見せ掛けた結果、現在に至るのだという。
そしてこれらの真実は、封印の維持と監視に直接携わる者すら知らされず、円卓に着く者達、即ち歴代の中心的な為政者くらいしか知り得ない、故国の隠された歴史となる――。




