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3章-4 猛竜の阻み

 冥界の(ふち)に到達したその翌日の真昼頃。


 彼等はとうとう奈落の底へと足を踏み入れる事となる。



 今日は比較的天候が良く、(ほの)暗い浮蝕の大地に於いて、これまでの行程で最も明るい日となった。


 ティニーの首に提げてあった道具袋を改めてしっかりと括り付けておく。


 そうして鞍に(またが)った後、命綱の遊びを目一杯無くし、彼等二人とティニーを完全に固定してしまうくらい、(きつ)く結び直した。




「……そろそろ、行こう」


 飛竜が緩やかに羽ばたき始めると、(しょう)(まみ)れた地表から、少しずつ、ゆっくりと離れていく。


 大穴の中央上空くらいにまで来たところで、そこからは徐々に下降へと転じた。



 微かに鼻を突く嫌な臭いが強さを増してくる。


 レルゼアが足下(そっか)を覗き見ると、殆ど先の見えない昏々(こんこん)とした薄い闇が広がっていた。


 浅く飛竜何頭か分潜り始めたところで、その異変は突如として(あらわ)れた。




 彼等の視界に大きな影が落ち、反射的に大空を見上げる。


 そこには翼を広げた巨大な鱗の塊――猛火の翼竜(ワイバーン)が頭上で陽光を遮り、こちらを()め付けていた。


 少し距離はあったものの、目測でティニーの十倍はあろうかという(きょ)()



 この場での逡巡は直ちに死を意味する。本能がそう警鐘を鳴らしていた。


 大穴を塞ぎきる程ではなかったにしろ、()みじくもそう錯覚してしまう位に大きなそれは、腹の底をビリビリと震わせる(おぞ)ましい咆吼を上げ、真っ直ぐにこちらへと向かって来る。


 墨々(まじまじ)と眺めている余裕など無かったものの、その口元に赤い(かく)(しゃく)(しゅう)(れん)して行くのが(かい)()見えた。


 彼が反応するよりもずっと速く、ティニーが勢いよくその身を(ひるがえ)す。



「――わわっ」


 虚を突かれたリテュエッタは、振り落とされそうになりながら、レルゼアの乗った鞍の後輪(しずわ)をぐっ掴み、何とか(こら)える。


 先の翼竜からさしたる予備動作も無く放たれた火球は、熊程はあろうかという大きさで、伸ばした腕四つ分くらい先を(かす)めていく。


 それだけの距離があっても、空気の薄膜は一瞬で溶け落ち、まるで直接(ほのお)が肌を()ったかのような熱と、大気の焦げる臭いを残していった。



「……不味い!」


 何故こんな大詰めで。ここまで上手く行き過ぎていたのか? レルゼアは歯噛みしつつそんな思考を振り払う。


 粉塵による()(くら)まし、短剣の投擲(とうてき)、いずれも上空に向けては恐らく効果が薄い。


 手綱は押すべきか開くべきか。後ろのリテュエッタの状況は。


 次の攻撃の猶予は。互いの距離は。


 こんな空中では、自身を囮にして逃がしてやる事も出来ない。


 かといってこのまま大穴の底に向かえば、袋の鼠なのは間違いない。


 ここから切り返し、穴の外に逃げたとして、果たしてこの体格差を(もっ)て奴を振り切れるのか――――。



 刹那の(せめ)ぎ合いに、身を預けている飛竜が少しだけ首を落としたから、もう何も考えられずにそれに従う事とした。




「思い切り屈め! 頭を下げろ! 舌を噛まないように目一杯食い縛れ!!」


 弾かれるように次々とリテュエッタに指示し、自身も行動を同じくする。


 小さな飛竜はそれを聞いてから一瞬だけ惑わすように蛇行した後、流線型に、まるで解き放たれた矢のように真下に向かって落ち始めた。


 宙に浮く不快な圧力が内臓を襲う。


 目を細めても一切見えない深い黒の底に向かって、幾つかの薄い(しょう)()の雲を突き抜けながら、一直線に、尻上がりに加速していった。



 耳を(つんざ)くような轟音と、振り落とされそうになる強烈な風圧に耐えつつ、必死になって飛竜の背に強く縋る。





 やがて永遠にも思えるような短い時の後、勢いを殺すことなく、殆ど体当たりに近い状態で奈落の底に着地(・・)する。


 衝撃によって、肺から一瞬で空気が抜け落ちていく。


 手早くナイフで命綱を断ち、眩暈(めまい)に負けじと倒れ込んだ飛竜の背から(まろ)び出て、急ぎ頭上を仰いだ。


 遙か上空に霞む翼竜は、先程より随分と小さく見え、大穴の入り口辺りをしばらく旋回し、(たむろ)しているようだった。


 やがて追い掛けて来る事も無く、その長い首を大きく折り返し、悠然とした身の(こな)しで飛び去って行くのが見えた。




 * * *




「痛ったた……」


 着地の震盪(しんとう)により気を失っていたリテュエッタは、頭を(もた)げて半身を起こす。



「ここは……」


 睫毛に付着した土埃で少し視界が霞んだため、手の甲で拭いながら、自然とそう呟く。


「――――地獄……ではないな。残念ながら、その直ぐ手前だろう」


 鉱石術士の男は傍らで片膝を立てて静かにこちらを見守ってくれており、彼女の素朴な問いに疲弊した様子で応じた。


 どうやら命綱を()き、しばらくの間寝かせていてくれたのだろう。


 気が付いた時に頭の後ろが少し柔らかかったのも、彼が自身の外套(がいとう)を脱ぎ、枕代わりしてくれていたからだった。



「それじゃあ、ここが、奈落の底…………」


 大きさからして反響する程狭くもなさそうで、呟く声は無音で周囲の闇に溶けていく。


 そうして、短い静寂(しじま)が訪れた。



 (まる)く切り取られた空からは僅かに光は届いていたものの、薄暗く、余り遠くまでは見通せない。


 起伏はほぼなさそうで、これまでと違い底冷えする(しょう)()の気配も感じられず、不思議と嫌な感じがしなかった。



 それどころか、注意深く観察すると寧ろ全くの逆で、温度も一定に保たれており、とても静かで心地が良い。


 どこか静謐(せいひつ)な礼拝堂のような雰囲気だった。



 オルティアの調査団が遠い昔に到達した筈だが、辺りを見回しても、これまで人が立ち入ったような形跡は全く見受けられない。


 まるでこの二人と一匹が初めての訪問者のような、極めで清潔で神秘的な場所だった。



「あ、そうだ! エリュシオンの花は……」


 彼女は思い出したかのように口にするが、傍らの術士は言葉ではなく上体を軽く捻り、彼女にそれを示した。


 起きあがりかけの少女は、彼で遮られていた少し先の方を覗き見る。


 少し先に、薄黄色の布を大きく広げたかのようにして、かの花がひっそりと咲き誇っていた。



 湖程の大きさはあろうこの地下空間に対し、咲いている範囲は精々大きなベッド三つ分くらいだろか。


 小さく身を寄せ合って咲いているその可憐な花は、天から真っ直ぐ届く微かな陽光に(きら)めき、風も無いのに小さく揺れて見えた。



「わぁ……凄く綺麗…………」


 彼女は指を真っ直ぐに組んでしばらく()()れていると、男は緩慢な動作で立ち上がる。



「再び飛べるようになるまで、まだ時間が掛かりそうだ。少しの間辺りを見て来る、その間に持って行く分を見繕っておいて欲しい」


 特に魔物などの気配は感じられなかったが、闇の中でひっそりと()(ぐす)()を引いている可能性もある。



 彼女は目覚めてからずっと淡い夢の中に居るような心地だったけれど、ようやくその言葉でようやく現実へと引き戻された。


 そしてあの小さな飛竜が見当たらない事に気付き、慌てて辺りを見回す。


 何の事はなく、窮地脱出の立役者は彼女の後方に横たわっていたのだが、その長い首をぺたりと地面に着け、ぐったりとした様子だった。



「……ティニーっ! だっ、大丈夫!?」


 彼女は反射的に立ち上がって駆け寄ると、小さな飛竜は翼を微かに動かし、生きている事を示して見せる。


 落下の衝撃で負傷してしまったのだろうか。


 息は少しだけ荒かったものの、きちんと意識がある事に一先ず安堵する。


 そしていつもみたいにゴツゴツとした頭をそっと撫でてやると、後ろから術士が安穏とした声を掛けてきた。


「致命的な打撲などはなさそうだったが、無茶な飛行による疲れが出てしまっているようだ。念のため先程滋養の薬を与えておいたから、しばらくすれば回復してくれるだろう」


 レルゼアは去り際にそう言い残して歩き出す。


 貴重な花の採取と、愛くるしい飛竜の介抱と。


 彼女の優先事項は、言うまでもなかった。




 * * *




 鉱石術士の男は少女らがギリギリ見えなくなる位まで一旦距離を置くと、そこから周囲を警戒しつつ、時計回りに歩みを進めた。


 野営の時に使っていた(けい)()の粉を少しずつ撒き、出来るだけ足跡(そくせき)を残す。


 先の花園から(いたずら)遠離(とおざか)ってしまわないよう、用心深く辺りの様子を確かめた。




 丁度を半円を描いた頃位だろうか。


 彼の眼前を、薄い人影のようなものが通り過ぎる。


(――――っ!)


 永久浮蝕の最奥とは思えない位に(せき)(りょう)として、清冽(せいれつ)な空間だったから、どこか気が抜けていた事に気付かされ、歯噛みする。



 ただ続くおかしな気配は無い。


 一瞬の錯覚だったのだろうか。


 そう思い込もうとしたところで、またしても同じような人影が視界の少し先を通り過ぎ、彼はその横顔を(つぶさ)に見てしまった。



(ラピスっ……!)


 つい声を上げそうになったものの、(すんで)のところで息を飲む。



 たった今目にした妹の横顔は、気丈で、凜として、誰にも負けない強さと輝きを放つ、以前彼がよく目にしていた時の彼女のものだった。


 裏を返せば、最後に見た時(・・・・・・)とは、大きく異なっていた。



 思い出したくもなかったけれど、別れ際の彼女は、(やつ)れ果て、瞳には深い(きょう)()の色を浮かべ、まるで別人だった。



 ここは冥界(ラヴィス・マイス)への入り口。


 だからきっと、そういう事(・・・・・)なのだろう。




 もしも――――もしも先程見た彼女が、悪しき死霊の類でないのなら。


 少しでも、ほんの少しでもまた会話が出来るのなら。


 どんな言葉を掛けたら良いのかも決まらないまま、無意識にほんの一歩だけ、影の消えていった所へと踏み出そうとする。


 その瞬間、彼と人影の間の地面が、音もなく隆起を始めていた。

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