エピローグ 新しい日々
眺める空は滲んだ茜色で、光は部屋の奥まで浸透してきて、雨期から乾期への移り変わりを告げている。沈み行く眩しい西日の少し上方には、一筋に棚引く細長い雲の様に何食わぬ顔で横たわる浮遊大陸の影が見て取れた。離れの2階からオウレル神殿の方を見遣ると、女性と思しき姿が目に入って来る。眼鏡を着けていなくても、直ぐに誰だか分かってしまった。
「ユメリーさん?こんな時間に戻って、忘れ物でもしちゃったの!?」
精一杯の大きな声で呼び掛けてみると、年配と言うにはかなり早い彼女もこちらに届くように少しだけ声を張って応じてくれた。
「色々あってね、今日はこのままこっちで夕食を摂る事にしたよ!今から準備するから、大人しく待ってておくれ!」
ユメリーと呼ばれた女性は食材を詰めて抱えていた布袋を高く掲げる。呼び止めた方の少女は、そのぼんやりと形を失う輪郭から、にっこりと笑い掛けている何時もの温厚で若々しい表情を想像していた。未だ収穫祭の準備で忙しいだろうに、それにお子さんの熱も、もう下がったのだろうか。きっと最近この離れにずっと1人だったから、きっと態々自分の事を案じてくれたのだろう。他の家事はさて置き、火や刃物を使った調理は自身だけでは未だ全然慣れなかったため、少女はほっと安堵していた。
騎士国の、その首都の名でもあるイヴナードの東端、この国ではやや珍しい農耕神オウレル神殿の離れで、少女レナリアは1人慎ましく暮らしていた。日中はユメリーを含めた複数の神官騎士や修道騎士らが切り盛りしており、更に他の廻し子が居る時は当番制の宿直も本殿に在中するので、敷地内で本当にたった1人になる事は意外と少ない。
そんなレナリア自身、星の導きが示されないまま、もう直ぐ16にも手が届いてしまうところだった。ここまで成長して星の導きが無いのは、恐らく廻し子が始まって以来初めての事だろう。本人としては至って気楽に構えていたが、流石に周りから見てそろそろ自立出来る年齢だろうと、体調の優れない時を除き、彼女だけなら当番も不要としていた。
ユメリーと呼ばれた女性神官はその夜遅くに帰宅してしまい、まだ朝日が顔を出し切らない翌朝、レナリアは何時もの様に小豆色の修道服に着替えていた。小柄ではあったものの、廻し子の印である"星の子の衣装"は既に身体に見合う物が無くなってしまっていたため、12になった誕生日のお祝いにと、当時の修道騎士らが皆で贈ってくれた大切な物だった。
これを着ると大人になれた気がするし、誰かとの入れ替わりで新しい騎士が着任した時、必ず"小さな先輩"と勘違いしてくれたため、何だか一人前みたいで誇らしかった。ただ、他の修道騎士らは身体にフィットしたサイズのところ、育ち盛りの将来を見据えて大きめに誂えて貰ったのが仇となってしまった。初めて袖を通した時は嬉しさの余り想像もしていなかったが、どうせならこのゆったりとした服がぴったりと似合うくらいには大きくなりたかったから、敢えて自身の得意な裁縫で仕立て直しはしていなかった。
そんな事をぼんやりと考えながら、修道頭巾に、肩口くらいで乱雑に切り揃えてあった薄い錫色の髪を仕舞い込んで全体を整える。それから木桶と器部分が金属になっている柄杓を持って中庭へと足を運び、小鳥達が囀り始める中、日課になっている草木への水遣りを終えた。序に女官らの仕事である山羊や鶏といった家畜への水と餌も補充も分かる範囲で済ませてしまい、何時もの様に神殿騎士らの出勤を待った。
苦手だった騎士の基礎訓練は、大きくなるに連れ、同年代に比べても小さ過ぎる体格やどの家系にも属さない境遇によって、一部の座学を除いて全て免除される様になっていた。幼少期は免除される事で遊び相手と会えない不自由さを感じていたが、以前から何かしらの指遊びが好きだった彼女は、次第に1人でも手先を沢山動す事の出来る裁縫や刺繍に没頭していった。特に自身の名の由来でもある姫金魚草をワンポイントで入れ込むのが好きで、"誰とも分からない"実の両親との絆として、修道服の襟元など、自身の使う布地類には概ね施してあった。
実の両親が分からないのは、彼女が廻し子として取り成されたのではなく、捨て子だったからだ。
冬の真っ只中、手厚く温かな布に包まれ、「この子をお願いします」、それだけ書かれた手紙と共にこの花の一房が添えられ、神殿の入り口に取り置かれていたらしい。元から身体は弱い方だったが、見付かった時は既に体の芯まで冷え切っており、仮にもう少し発見が遅かったら命は無かったとも言われている。
赤子の肌や髪色も薄く、顔立ちもこの辺りでは殆ど見掛けない純粋なオルティア系の様だったが、ここから東は延々と開拓中の平原で、而して外部からは碌な人の行き来も無い。抑もイヴナードでは子を捨てる必要など無いから、態々こんな辺鄙な所に置き去にする理由も分からず、更に言えば添えられていた花も春に咲く筈で、神殿付近には自生していなかったし、彼女と共にあったその一房は長期間枯れなかったと言う。
何れにせよ怪しい事だらけだったが、その時他の赤子も2人ほど居たため、併せて引き取られる事となった。他の2人は数か月も待たず星の導きによって巣立っていったが、彼女だけは今に至るまで、15年以上もここに取り残されてしまう。それでも数年に亘って星の導きが示されない赤子は稀に居たため、結局の所少し変わり種の廻し子として、彼女自身は今のオウレル神殿での生活を満喫し、謳歌していた。
神殿に属する騎士らは概ね5年から10年程度で配置換えされて行くが、その誰もが優しく、特に今のユメリーはまるで我が子の様に可愛がってくれていた。実際もし叶うなら、星の導きがユメリーの所になれば良いのに、そう考える日も少なくなかった。
刺繍という趣味のお陰で乾期の長い夜も退屈しなくなっていたが、その代わり幼い頃から手元ばかり見ていたので、かなり目が悪くなってしまっている。
幸いな事に、イヴニス信奉が殆どのイヴナードに於いて、毎年多大な寄付を収めてくれる熱心なオウレル信者がこの辺りに存在するらしく、修道服よりずっと高価な眼鏡を以前買い与えて貰っていた。当初は着脱や重さが煩わしく、どうしても気になってしまっていたが、慣れてくるとそれも些細な事として、今では僅かな不便さなど気にならないくらい、生活や趣味の場で重宝していた。
そして成長するに連れ、神殿内の託児室では暮らし辛くなっていったため、多大な寄付を使って物置となっていた離れを改築し、専らその2階に住まわせて貰える様にもなった。今となっては物置小屋と言うより完全な住居の見てくれで、下手をしたら貧しい家系に比べて何倍も立派な造りの家屋となっていた。
その信者には本来なら感謝こそすれ、疎む理由など無い筈だが、どうやらその男は街外れにある鄙びた小さな墓地に住む墓守と聞き、更には顔を隠した黒装束で訪れているのを見た事も有ったため、何だか薄気味悪い存在に感じてしまっていた。
気付けば季節は巡り、更に1年が過ぎていた。その間に預けられた廻し子たる赤子は3人。何れも彼女と親交を深める事はなく、誰もがたった2週間程度で遠く離れた中心部の方へと引き取られていった。そうして今年もまた、収穫祭の時期が近付いて来ている。
ただユメリーは先日神殿長の命によって、急遽別の修道院へと移ってしまっていた。昨年はあの後自分が風邪を引いて寝込んでしまい、彼女と一緒に回る事が出来なかった。それだけでなく、お祭りの間は看病まで甘えてしまったというのに。
中庭に1本だけ植えられた貧者の桃の木には、鮮やかな果実が撓わに実り始めている。小鳥に啄まれない様に半分くらいは薄い布を被せてあったので、腰の高さ程もある階段状の踏み台に乗って、オウレルの豊穣なる恵みに改めて感謝しつつ、育っていそうな袋を幾つか選び取る。
ユメリーと入れ替わりに配属された神官騎士の女性は、自身より1つ下と飛び抜けて若く、桃が好物だと聞く。あまり日に当たっていない分、追熟に少し時間が掛かるだろうから、食べ頃になったら彼女も誘おう。
ユメリーの去り際には、感謝の証として、新しい裁縫道具を買うのに取ってあった小遣いで細やかな花束と、真新しい手巾に姫金魚草の刺繍を小さく配った物を手渡した。
「こんなの初めてだよ…ありがとうね。でも今生の別れって訳でも無いんだからさ。何時でもこっちに遊びにおいでよ。お星様の導き、早くレナにも届くと良いね」
カラッと笑いながらのお別れだったが、その目尻はほんの少しだけ潤んでいるのを見てしまった。
彼女の至上なる家法は、"喜びは常に誰かと分かち合って生きよ。悲しみは常に自身の中だけに留め置け"。以前見えざる加護の境界線を警邏していた旦那さんが浮蝕の魔物に襲われて大怪我を負ってしまった時も、彼女は決して泣き言を漏らさなかった。だからこちらも、出来る限り湿っぽくならない様に、笑顔だけで送り出す。
会おうと思えば、また何時でも会えるのだから。
収穫祭を間近に控えた夜更け、ふと窓の外を見遣ると、今までに1度くらいしか見付けた事の無い流れる星の輝きが見えた。
(──お星様の導き……か)
落ちた先は何処だろうか。特に発見した感慨も無く、ユメリーの言葉を思い出してしまって内心溜め息を吐き、今更誰かの家族になれるのだろうかと改めて陰鬱な気持ちになっていた。
このままで良い。このままが良い。
年齢的にも後輩となる新しい女官は、1月と経たず職務には慣れてきて、神殿に奉する騎士の一員として与えられた仕事を立派に熟し始めている。若くして神官に抜擢されるとは、とても優秀な逸材なのだろう。翻って自身はというと、今まで通り内向けの簡単な手伝いばかり。そして自身の家事すら碌な出来では無く、彼女が来てからは何だかずっと気後れしてしまっていた。
地道に刺繍の下絵と向き合っている時は無心になれたが、最近はそれもさっきの様に雑念に遮られ、度々手が止まってしまっていた。
騒がしかったお祭りの日々は終わりを告げ、恒例の仕上げとして、深夜に代々受け継がれている古代衣装の奉納を手伝う。ご奉納とは言っても、来年には再び取り出すと言うのに。
閑散期は種子の選定や苗床の準備、農耕具の修理と点検を一通り行うくらいで、圃場の整備はまだ少し先の話。収穫祭の翌日は例年殆どお休み状態で、最近は面倒見の良いユメリーさんが買って出ていたため、年下の彼女が敢え無くそれを引き継ぐ事となった。
ただ流石に新人1人では心許ないとして、もう1人眉雪の神官騎士が付き添う事になっていたが、そのお爺さんは夕べは飲み過ぎたなどと上機嫌で愚痴を垂れながら早々に帰っていってしまった。
残された彼女も、初めての収穫祭を無事終えられ、その事を直ぐに母親へ報告したかったのだろう。貴方も体調悪いんだよね?と囁いてみたところ、最初は不審そうな面持ちだったが、後は私が居るから大丈夫だよと再び背中を押してみたら、一気に顔を綻ばせ、何度も頭を下げて帰路に就いていた。
小さい頃は喩え凶作でも豊穣を祝うという意味が全く分からなかったけれど、こうして未だ浮ついた空気に1人取り残されると、ほんの少しだけそれが理解出来る様な気がしていた。
どうせ誰も来ないだろうと高を括っていたのに、こういう日に限って招かれざる客人はあるもの。裏口の方で鐘を鳴らす音に息を呑むが、咄嗟に眼鏡を外し、急ぎ不審な来訪に応じる。背はあの娘よりかなり小さかったが、今は同じ修道服だし恐らく問題はない、そう自分を励まして。
「な、何か…御用でしょうか?」
農耕騎士らも逐一顔までは覚えていないだろうと扉を開けてみると、眼前に現れたのは、例の"信者"と思しき胡乱な男だった。漆黒の汚れたローブを身に纏い、フードを目深に被って、右手には小さな歩行杖を携えている。
「──今日は君だけか?」
その嗄れた声に強い不快感を覚えるが、一先ずのところ冷静に頷いておく。朝方に帰ってしまったあの老練の騎士より更に老いて見えたこの男は、お世辞にも矍鑠とは言い難い頼りない雰囲気だった。
眼鏡を外して来てしまったため、少し見上げた位置の顔立ちまで能く分からなかったが、何故だか記憶の片隅に引っ掛かるものがあった。
「ユメリーという女性は明日来るだろうか」
「──彼女は最近、別の修道院に異動となりました。私が後任の者ですが、如何されましたでしょうか?」
心臓が跳ね回りつつ、表面上は出来るだけ平静を装い、成る可く堅い言い回しでそれっぽく用件を聞き出そうとする。
「……そうか。今年の寄付だ。神殿長に渡しておいて欲しい」
お礼を告げ、差し出された革袋を両手で丁重に受け取ろうとした時、白髪交じりの信者は前髪の隙間から一瞬だけこちらを睨め付けた様に感じられた。
恐怖の余り小さな悲鳴が口を衝きそうだったが、そのまま男は何も言わず踵を返し、右手に持った杖を突きながら、左足を引き摺る様にしてゆっくり立ち去ろうとする。その姿はまるで土の底から這い出た屍の様だった。
未だ両手にすっぽりと収まっているそれは、金貨にしては重量と質感が少しおかしい気がしていた。危険物ではないか中を検めておこうと、レナリアは黒装束の男が完全に遠退いたのを確認してからそっと扉を閉じ、恐る恐る革袋の中を覗き込む。
(……宝、石?)
そこには亡者の如き彼からは想像すら出来ない程沢山の、華やいだ輝きがあった。一目見て、相当高価な物だと分かる。まさか盗品ではと一瞬だけ疑念が頭を過ぎったが、直後、一片の折り畳まれた小さな紙が入っている事に気が付く。
いけないとは思いつつも、好奇心に負けて手早く取り出し、開き見てしまった。そこに記されていたのは、入っている宝石の明細と、意外な事に自身への予言めいた言葉だった。
──大変申し訳無いが、今回で寄付は最後となる。間もなく17を迎える星の子は、きっと近い内に導きがあるだろう。出来ればその際、この半分を彼女に託しておいていただきたい。
横柄だった口調とは裏腹に、慇懃な書信を目の当たりにし、先の対応の時なんかよりもずっと強く、心臓が早鐘を打っていた。震える指先で急ぎ紙を元に戻し、何も見なかった事にしようと努める。ただ今更心の奥に焼き付いてしまった不気味な言葉を消すなど、目を緊く閉じようとも、何度深く呼吸しようとも、到底出来はしなかった。
何故、どうして。
錫色の髪をしたレナリアの頭の中は、その後ずっと動揺と良くない想像だけが渦巻いて、他に何も考える事が出来なかった。
あの妖しげな男は一体何者なのだろう。何故私に導きが届けられる事を知っているのだろう。ひょっとして、占星術師か何かなのだろうか。どうして今回、多額の寄付の半分をいきなり私に渡してくるのだろう。何か邪な考えでもあるのだろうか。私は何処の家に行く事になるのだろう。
夕暮れ時、男の帰った裏口から出るのは気が引けたため、自身が以前置かれていたという正面玄関から出て、確りと施錠しておく。受け取った革袋は何だか呪われた品の様に思えてしまったため、離れには持ち帰りたくなかったが、他に安全そうな場所も思い当たらず、已む無く自室の卓上に置いておく事にした。
(明日、出来るだけ早く神殿長様に渡してしまおう。ああでも私から渡してしまえば、途中で帰ってしまった彼女が不審がられてしまうかも……どうしよう、どうしよう)
床に就くまで、少女は自身が何処でどう行動したか詳しく思い出す事が出来ず、渦巻いた思考から解放されて深い眠りに落ちるまで、とても長い時を要してしまった。そうしてレナリアは、その夜不思議な夢を見る。
まるで身に覚えはないのに──何故だかとても懐かしく感じられる、短くて長い不思議な夢を。
明くる朝、彼女は夙に目が覚めると、寄付の革袋の事もすっかり忘れ、厚い寝間着のままで靴の音を鳴らして一心不乱に駆け出していた。目指すべき先は、例の信者が住まうという墓地。
以前修道騎士の1人が事故で急逝してしまった時、その葬送に立ち会うため一度だけ訪れた事があるから、場所は大体分かっている。
足元が昏く、覚束無い。それでも気が気では無く、只管急ぐ外無かった。
どんなに一生懸命に走ってみても全然足りなくて、ただ胸が張り切れそうで、普通より弱い身体が今更心から恨めしく思えた。それでもこの深い痞えと苦しみは、限界以上に身体を動かそうとしているからだけではないと、心の何処かで知っていた。
「──はぁっ、はぁっ……待ってください、レルゼアさんっ!!」
墓地の最奥、僅かに窪んだ大地の壁に凭れ掛かる様に建てられた荒ら屋の前で、大きな荷物を携えながら今にも何処か遠くに出立しようとする男が居た。周囲が仄明るくなってきた中、視力だけの所為ではなくて、緩やかに世界が滲んでしまっている。
「……昨日の君か。どうした?」
平然と、冷然と、まるで言葉で突き放すかの様に、彼の方は素知らぬ振りを続けていた。黒装束の男の向こう側には、最盛期を大幅に過ぎたと思われる小型の乗用飛竜がこちらを見ている様だった。名を呼ばれても否定をしないその男の元へと、意を決して、再び全力で駆け出す。
あと10歩、5歩、半歩。そうして漸く彼にしがみ付く事が出来た。老体ながら右足と杖で器用にバランスを取って彼女の事を受け止める。
ただこのままでは、少し距離が足りない。見知った筈の顔の詳細まで、きちんと確認する事が出来ない。相手の片足が悪いとはいえ、体格の差と自身の力が弱過ぎて、錫色の髪をした少女は無意識に精霊へと祈りを捧げていた。
(──シルフさん……お願い!)
旋風が男の軸足を絡め取る。彼は携えていた大袋を傍らに落とし、その場に尻餅を搗いた。
小さな少女は一緒になって倒れ込み、少しだけ攀じ登って何とか顔を近付けると、鼻と鼻が触れ合いそうな所まで迫ってから、何時の間にか大量に溢れ出ていた涙を大雑把に拭って彼の顔をじっと見遣った。
「痛いな……悪戯にしては、度が過ぎる」
荒れた吐息と静かな吐息が触れ合う程の、ぼやけた世界がやっと綺麗に映る位の近さで2人は見詰め合う。その顔は刻まれた憂苦の皺に加え、其処彼処に染みや爛れこそあれ、間違いなく昨日の夢に見た、以前僅かな旅を共にした、鉱石術士のものだった。
彼の衣服にはこの地に繋がれて以来、湿気った腐臭が染み付いてしまっていたが、レナリアは終ぞそこに意識を割く事が出来なかった。
「どうして……どうして"私"は此処に居るんですかっ!?」
ただ無我夢中で問い詰める。もう今朝からずっとリテュエッタとしての記憶とレナリアとしての意識が、色の無い水同士がゆっくりと混ざり行く様に同化し始めている。
「君が此処に来た理由なら、私の方が先に尋ねただろう?」
そう言いながらも黒き術士は視線を泳がせていた。その白ばっくれて連れない態度こそが、偽り無い証明であり、答えだった。彼女は元来色素の薄い方だったが、襟元を握り締める指先は、力を込め過ぎて、更にどんどんと青白く染まっていく。
「目が覚めてから私、もう、何が何だか分からなくて……どうして…」
お気に入りだった綺麗な浅葱色の部屋着は、道中生い茂っていた草木を擦った跡や土埃で所々汚れてしまっている。ただ今はもうそんな事どうでも良かった。
「そろそろ退いてはくれないか」
伸し掛かってくる彼女は羽根の様に軽かったが、それでも今は引き剥がし、飛び立たせてやらねばならない。そんな老いた男の思惑とは裏腹に、彼女は胸元に顔を埋めてきて、大きく首を振って必死に抵抗してみせた。
あの時と違い、ほんの一瞬だけ躊躇ってから、レナリアの錫色で小振りな頭に触れ、骨張ったその指で一頻り撫でてやり、混乱する彼女を宥めてやる事にした。
夜明けが遅くなり始める季節といえ、気付けば朝日はもうすっかり顔を出してしまっている。彼女の頭に枯れ枝の様な手を乗せたまま、その呼吸と意識が落ち着くまで、レルゼアと思しき老者は白くくすんだ眼差しで、逆さまの空を見上げていた。
レナリアの方は瞳から流れ落ちるものを拭おうとはせず、而して彼の胸元は、まるでうっかり飲み物を零した時の様に濡れ濡ってしまっていた。何度も鼻を啜り、しゃくり上げ、こんな風に沢山泣いてしまったのは、恐らく"レナリアとして生を受けてからは"初めてだったかもしれないと、ぼんやり考えていた。
どのくらいの間、そうしていた事だろう。
やがて根負けした男は掠れた声で淡々と語り出す。あの時運命と回帰の神リヴァエラが、クリスタという少女が提案したのは、竜髄症だった少女を再び生まれ変わらせる事だった。
ただ当の少女は既に事切れてしまっており、その僅かに残った抜け殻も静かに消滅を待つのみ。だから"足掛かり"として男の魂を大きく削り取って、それを支えとし、急拵えの転生が行われた。冥界を介す事なく、長期間に亘る浄化もなく、ただ急ぎ、その存在が失われない様に。
それも通常なら不可能な事だったが、幸い彼等には英雄イヴニスと、引いては栄華神との微かな縁があったため、実現する事が出来たのだという。やがて彼は魂を削った代償として、普通よりずっと早く老衰してしまう事となり、また嘗ての古傷によって左足も再び不自由となってしまっていた。
「そん、な……そんな事って……」
レナリアは顔を上げ、改めて彼の顔を見詰める。その表情はまるで興味の無い世間話をしている時の様な、平坦なものだった。
「安心して欲しい、今の君に何の影響も無い。ただ転生前と同じ年齢に育つまでの間、不安定とならないよう、念のため近くで見守る事にした」
彼の魂が足場となった事は、確かに今の彼女、即ちレナリアに対して何の意味も成さないが、それでも彼女は大切な記憶を最後まで離そうとしなかったために、これから何が起きるかはリヴァエラにすら分からないという事だった。
実際彼女は予想していたよりもずっとひ弱に生まれて来てしまった。身体も確りと育つ事がなかった。肌や髪も、本来ならもう少しだけ色の濃いものだったろう。
「上手く言えないが…君が新たに生き抜いてくれて、本当に良かった」
見た目も声も全然違うけれど、仕草や表情など、遠い記憶に埋もれ掛けていた竜髄症の少女の面影が微かに残っている様に感じられた。
転生した彼女の生まれ落ちる地はリヴァエラから予め伝えられたが、それは騎士国の中だったため、少なからず問題があった。イヴナードは、最低限設けられている公法によって、新たな民となるのは比較的容易でも、一度国を捨てた者が再び属するのは固く禁じられている。
騎士たる印、装身具を誰かに明け渡してしまうという事は、即ちそういう事だった。短期間滞在するだけなら良いが、長期間となると何かしら手を打つ必要がある。
而してナズィヤの巫蠱の力を借り、偽りの身分によってこの地の墓守として、隠者として遁世した暮らしをする事となった。また身体の弱い彼女を影ながら支えて行くためにも、先立つものが必要だった。
身分や対価と引き替えに巫蠱から与えられた幾つかの"相応な仕事"は、鉱石術による毒と禁忌ばかり。それは何れも実に簡単なもので、割の良いものばかりだった。
そうした意味でも墓地というのは色々な面で都合が良く、国家の元首として裏の伝手が必要な事も十分に理解していた。
──そして何より此処には、彼女の、レナリアの両親が眠っている。
だから彼女の事を非難する謂われは何も無く、寧ろ恩義を感じているくらいだった。
「…私はもう長くないだろう。本来なら、ここまでも生きられないと思っていた」
レナリアとして生きたのと殆ど同じくらい、もう1人分の記憶を急に詰め込まれて酷く困惑していたというのに、機微に疎いこの男は更に次々と苛烈な真実を突き付けてくる。きゅっと目を閉じて、先程より彼の顔に近い首元に頭を寄せ、彼女は声を胸から搾り出す様に問い質す。
「それじゃあ、ロレアさんは……ロレアさんとは、どうされたんですか…?」
彼女なら当然、今の様な彼を放っておく筈がない。
「魂の欠落といった酷い穢れの者を、銀の手の巫女の傍らに置くのは流石に危険だろう?」
然も当然とばかりに言い退けてくる彼に対して、遣る瀬無い怒りが湧いてきて、寧ろそう思い込みたくて、トン、トンと弱々しくその胸を叩く。そうしてじわりと目頭が熱くなってきて、またぐずぐずと子供じみたしゃくり上げが始まってしまっている。
「何で……何でそんな風に他人の事を心配するくらいなら、私の事を放っておいてくれなかったんですか…」
彼は顎に縦拳を当て、嘗ての様に一通り思案する。
「──私がただ、他の誰かの幸せを願ってはいけないのだろうか」
それは殆ど自問自答だった。何て拙い弁明、何たる詭弁とレルゼアは内心忸怩たる思いだった。
恐らく昨日自身と会ってしまった事が切っ掛けで、彼女は全てを思い出してしまった。
自身の身勝手な選択に彼女を巻き込んでしまったのは間違いないが、それでも全て知らないままで済ませてやりたかった。
最後の寄付を修道騎士に手渡した時、何となく嫌な予感がしてしまっていた。出来る限り付かず離れず、直接的な干渉は入念に避け続けていたのに。然し、こうして最後の最後で失敗してしまい、また深く傷付けてしまった。
もしあの時出てきたのが彼女以外だったなら、少し顔を合わせた程度で何も思い出さないままだったなら、どんなに良かった事だろう。本当は"誰か"などではなく、ただこの少女の幸せを願っていたかっただけなのに。
「まさか君が出てきて応じるとは、考えもしなかった……迂闊だった。辛い思いをさせてしまって、本当に済まない」
彼女は先と同様に、顔を伏せたまま大きく首を振る。
「──でも、何も思い出さないより…全部知らずに忘れちゃってるより、ずっとずっと良いです……」
その言葉は彼に取って救いであり、罰だった。レナリアという名前くらいは聞き及んでいたが、生まれ変わった彼女がどんな顔や姿かも知り得ない。
あの時この年端も行かない少女を見て、次第に色褪せていく彼女の幻影と一瞬重なった気がして、つい懐かしんでしまった。その事に耐えきれず、今朝、逃げる様に此処を立つ心算だった。
もし彼女が間に合っていなければ、自身が目の当たりにしないだけで、もっと侘びしい思いをさせてしまっていたかもしれないと思うと、深く胸が締め付けられる様だった。フィーカの依頼も卒なく熟し、ここまで長く生きて来たのに、老獪に近付くどころか、止まってしまった時の中で何も成長していなかった自分に改めて気付かされ、心苦しかった。
辺りにはキラキラと三稜鏡を通したみたいな光が差し込んでいる。
出発を待っていた飛竜は、最近だともう余り長くは起きてはいられず、空々浅い眠りに就いていた。
同じく歳を重ねた術士は、縋り続ける小さな少女に対して、精一杯の虚勢を張って諭す。
「近々君には、星の導きが示されるだろう──ユメリーの所だ」
きっとあの女性なら、これからも立派にこの少女を育ててくれる。安心して任せられる。そう考えた彼が裏で手を引いたものだった。
金を積めばどうにかなると知ってはいたものの、元騎士国の民として、実際にそうした取引を行うのは実に複雑な心境だった。この歳まで取り置かれたのは酷い巡り合わせだったが、以前の年齢に達してしまう以上、心安らぐ家に迎え入れられて欲しかった。
今の彼女が特に慕っていると伝え聞いていたし、ユメリーについても満更でも無さそうという話だった。少し遅くなってしまったが、自身からの最後の後ろ盾として。
「──嫌です…」
きっと喜んでくれるだろうと浅はかに考えていた黒の術士は、予想外に強い少女からの拒絶に、少なからず途惑いの色を滲ませる。
彼女はそっとあの時の様に首に両手を回してきた。もし"レナリアだけ"だったのなら、この小さな少女は喜んで受け容れていたのかもしれない。ただリテュエッタとしての記憶を取り戻してしまった今、全てを思い出してしまった今となっては、そんな大逸れた事、出来る筈が無かった。
"悲しみは常に自身の中だけに留め置け"。
思い出すまでは十分に幸せだったのに、もうそれだけでは満足出来ない。悲しみは、自身だけで抱えきれない痛みは、誰かと、いや、この人と分かち合いたかった。だから、ユメリーさんの所には行けないし、行きたくない。それに、
「私は……私は貴方と…レルゼアさんと一緒が良い」
年老いた男の弱々しい鼓動がこの胸に染み込んで来る。ずれていた2人の鼓動が次第に重なっていく。
「私の事、また攫って行ってください」
あの時は、今と違って色んな世界を見て回った。とても短かったけれど、そこまで生きてきた日々よりも、ずっと沢山の事を知って、心に刻んだ。
「──生まれ変わる前の事を急に思い出して、以前一緒に居たのが今まで沢山寄付してくれてた信者さんで、また今から私達だけで旅立ちますなんて、そんなの誰も、信じてくれないです…」
「確かに、そうだな」
レルゼアは勿体付けた彼女の言い回しに、つい苦笑してしまう。
顔は見えなかったけれど、何時の間にこんなに優しく笑う様になったんだろうという悔しさと、私だけがこうして笑わせてあげられるという誇らしさが同居する。
「……先ず、フィーカさんの故郷に、ナズィヤに行きましょう?それからまた見た事もない所へ、東の果てに行って、草原地帯にも行って、それから、それから……」
2人の記憶を持つ少女は、段々と自身の声が詰まり始めて、再び嗚咽に変わっている事を自覚した。
老いさらばえた男は、遠い昔、ロレアとは知らずにしてやった様に、時折静かに背中を摩ってやりながら、静かにその続きを促す。そうしてリテュエッタたるレナリアは、思い付く限りの行きたい所を口にする。
生まれ変わる前も、レナリアとして生まれてからも、これまで一番大切なものを全部後回しにして来てしまった気がする。誰かとの最後のお別れは、たった1度きりの筈なのに、もしもう1度だけ訪れてしまうというのなら、そんなの出来るだけ先が良い。そうに決まっている。
だからどうか、私達に、あとほんの少しだけ猶予を。叶う事なら、彼の死と共に、あの時の様な優しく甘い眠りの毒を。
「どんなに大変でも、絶対に付き合って貰います、"最後まで"一緒に居て貰いますから」
彼と居て訪れる安息は、きっと束の間の物なんだろう。
先なんて見えなくても、眼鏡なんてなくても、今みたいにずっと近くに居れば良い。
1度終わりを迎えてしまった少女は、健やかで何も無いこれからよりも、今を与えてくれた愚鈍な老躯との、穏やかで何故か心逸る温かい夢の続きを欲していた。
「…相変わらず、頑固で手厳しいな。君は」
思い出の数を増やせば、きっとそれは明日という日を、果て無き終わりを生きる糧になる。
(──だから今はまた一緒に、新しい旅に出ましょう)
彼女は目一杯の力で老いた術士の事を抱き締めていた。




