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第6章 彼女の終わりと明日を待つ夢 (後編)

「あっちに、大きな樹が見えます」

 悠遠に連なる花々の小面(ファセット)以外に何も無いと思われた景色の中、リテュエッタの指さす方向には確かに薄ぼんやりと、大樹の様な物が見て取れた。

 暖かく柔らかい一陣の清風が彼女の緩く編み込んだ黒髪を揺らす。英雄イヴニスによると、生と死を司る双頭竜は創世樹の元に棲むのだという。目立った目標物がそれくらいしか見えなかったため、一先ず少女と共に歩き出す。


 見上げると空には薄い彩雲が流れ、視線を戻すと折り重なる千紫万紅の中には可愛らしくも煌びやかな蝶が止まり、人に香らない蜜を吸っている。目を凝らせばそうした花々の中に、最近見知ったばかりのエリュシオンも紛れ込んでいるのが見て取れた。

 気が付けばリテュエッタはそんな(のど)やかな光景を一切意に介さず、これまでに見せた事の無い脆弱そうな面持ちで、まるで傍らに誰も居ないが如く、歩みを進めていた。


 どれくらい歩いただろう。2人とも何時しか羽織っていた厚手の外套を外し、腕の中に抱え込んでいた。大樹の麓は台座の様に足首ほど迫り上がって、更に樹の袂は(うずたか)く張った根によって幹が見上げるくらいの所から始まっている。清流とも小川とも言えない細い水流が幾つか広がる筋となって向こう側から流れて来ていた。大樹の根元に咲く花々は殆どが白に近く、柔らかい布の様に大きく一円を覆っている。幹を見ると数十人規模でないと囲えないくらいはあるのだろうか。


 2人が辿り着くと、その陰から巨大で真っ白な2つ首の竜が現われる。そうして頭の1つに腰掛けていた少女が遠く上空から聞いた事の有る声を放った。

「思ったより早かったね、リティー」

 白き双頭竜が片方の首を地表付近までゆっくり下げると、乗っていた少女はまるで羽根でも生えていたかの様に、咲き誇る白き花の雪原へと降り立った。腰の高さ位まであった双頭竜の大きな頭を撫で傅く。そんな少女の姿を(つぶさ)に見て取り、術士と隣に立つ竜髄症の少女は、何れも我が目を疑っていた。


「…クリスタちゃん?」

 少女の親友を称していた例の女給仕は、最後に大衆酒場で見た時のままの格好で、その日まるで急に外に呼び出されて着の身着のまま出てきた風にすら見える。

 レルゼアは何とか困惑を押し殺し、強く歯噛みしながら腰に着けていた短剣(ダガー)に手を掛けた。


「待ってよ。折角こんなに綺麗な所なのに…もっと心安らかに、ゆっくり眺めてて欲しいんだけどな」

 飄々と辺りに手を差し伸べて彼等の視線を促しながら、優艶に微笑む。

 やがて頭巾と結い上げてあった黄金色の髪をするりと解き、辺りの花々にも決して劣らない美しい髪を細い指で軽く梳きながら、

「全く…フィーカだよね。あの()ったらさ」

 少なくとも敵意が無いと悟ったレルゼアは掴んでいた柄から手を離したが、リテュエッタは未だ口元に手を当てたままで混乱から抜け切れていなかった。1つの頭を下げていたケーリュケイオンは全体が白く輝く滑らかな鱗で覆われており、巨大な魚を彷彿とさせる。それを手懐けているという事は。


「貴方が運命神リヴァエラ……なのか?」


 そう問われた彼女は素っ気なく、ただ苦笑を浮かべる事で、肯定の意を示した。

「その呼ばれ方、実はあんまり好きじゃないんだけどね」

「そんな…まさかクリスタちゃんが、女神様だったなんて……」

 双頭竜ケーリュケイオンは甘える様に再び主たる女神にその頭を擦り寄せ、それを察した給仕も優しく撫でてやる。竜の体格が違い過ぎるものの、その姿はまるでリテュエッタがティニーをあやしている時と同じで、不思議な位ただの"人"にしか見えなかった。

 フレア=グレイスの七柱、その冥府神が如何にも神といった様態だったから、言い当てた側のレルゼア自身、未だ深い疑念を全て捨て切れてはいなかった。


「──私まで運命の駒になってたなんて、初めてなんだよ?もうホント、びっくりしちゃった」

 神たる少女、運命と回帰を司る女神リヴァエラの象徴(シンボル)とされているのは、切り札と双葉の芽。2人には遠く理解が及ばないものの、少女の零した言の葉は、彼女との賭けをこの男が一時(いっとき)でも制し、(あまつさ)えここに辿り着いてしまった事だった。

 クリスタたるリヴァエラは軽く嘯いていたものの、実際たかが運命の一欠片すら御しきれず、挙げ句自身まで弄されるなど、(かつ)て人ですら扱えた転移や宙に浮くといった"些末な"魔法なんかよりもずっと、圧倒的に異常で異質な出来事だった。


「さて…と。あんまり気が進まないんだけどね。急勝(せっかち)なおじさんも隣に居る事だし。リティーの事…治しに来たんだよね」

 押し黙ったままで何も答えようとしない黒髪の少女に代わって、隣の男は不言に頷く。

「でも、ごめんね。私が根本的にそれをどうにかしてあげる事って、出来ないんだ」

 元凶はケーリュケイオンであり、それを子飼いとしている運命神なら至極簡単な事。(いやしく)もそう考えてしまったレルゼアは、当てが外れて反射的に問い返す。

「それは一体どういう事だ…?」

「まあ、全部話すと長くなるから。或る程度掻い摘んで話すとね──」


 親友たる給仕の語った事とは。

 竜髄症は、確かに双頭竜ケーリュケイオンの持つ生と死の理がその根源となっている。ただそれは自然と齎されるだけで、女神自身関与してはいないし、(そもそ)も出来ない。運命と回帰の神リヴァエラの役目は、冥界(ラヴィス・マイス)に戻った魂の(うろ)を、次の転生に向けて栄華神エファーシャの元に導く事、ただそれだけ。

 然し稀に、生と死の不可分な理に悖る魂が出て来てしまうのだと言う。それは極端な自家撞着──端的に言えば、同一の対象に対して何かしらの強い愛憎を同時に孕み、自身が立ち行かなくなってしまう事で生じてしまうものらしい。


 愛するだけなら、それは生きる糧、生かす糧となる。憎むだけでも良い。それは何れ自身か相手を問わず死の糧となる。そうして人は、やがて生まれ変わる。


 ただそれが同時に全く同じ強さで生じてしまった場合、際限無く自身の精神状態を損耗させ、その魂は襤褸襤褸になって何時の日か潰えてしまう。それは死ですら無く、即ち2つの理の輪から零れ落ちてしまう。従ってその魂が生まれ変わる事もない。

 そうならないが為に、両の首を併せ持つケーリュケイオンの力の余波によって自発的に生じているのが、竜髄症という生と死を併せ持つ"症状"なのだという。

 生じた傷や打ち身は、意識せずとも快方に向かう。それと全く同じで、失われる魂に対し、強制的に生と死の理が植え付けられ、正しい方向に向く為の過程。人から見ればそれは病と言えるが、もっと大きな視点から見れば至って正常な情態だった。


 何処から見てもただの人にしか見えない運命神は、時の無い青空を仰ぎ見ながら呟く。

「大まかな仕組みは浮蝕と大体同じなんだけど。大地に芽吹くのは理のバランスが偏って極端に乱れてしまった時、かな。こんなに強い辜負(こふ)を内包するなんて、人くらいだし」


 僅かな静寂(しじま)が辺りを覆う。

 そうして次に口を開いたのは、(くだん)の少女だった。

「……あーあ」

 諦観と納得。近くて遠い、軽くて重いそれらは(まだら)に混ざり合って、今更ながら腹の奥底へと転がり込んできた。彼女から半歩下がったところに居た術士が顔色を窺おうとすると、黒髪の少女はさっと機敏に距離を取って翻り、凪いだ瞳で小さく舌を出して戯けていた。


「到頭バレちゃった…私って案外、悪い子なんですよ。えへへ」

 きっとあの時、姉の秘密を知って、芽生えてしまったのだろう。それを知ってしまった事で、知らなかった自分にはもう戻れなかったから。



 あれはレルゼアと出会う少し前の事だったろうか。庶民向けの著名な旅芸人一座が近くまで来ている事を知った時、以前から話題に上げていた姉が見に行かないのを不思議に思い、色々と周囲に聞いて回ってしまった。それが端緒で、後は芋蔓式だった。

 両親を失った状態で郷里の村を追われ、年端も行かない自分達が生き残っていく事など、並大抵の苦労では無い。確かに泥水を啜る様な時期もあったが、それでもまさか、窃盗や娼妓の真似事にまで手を出していたとは。その行為自身も耐え難くはあったが、何より今まで(ひた)隠しにされた事が、一緒に居たのにずっと知らなかった事の方が余程悲しかった。

 思えばおかしな収入や行動など、幾らでも見受けられたのに、信頼し切っていたが故に見えていなかった。


 旅芸人一座の件も「別にそこまでの興味は無いよ」と退屈そうに笑うだけ。絶対にそんな筈は無いのに、私達の間は、何時から嘘に塗れてしまっていたのだろう。大好きで、尊敬出来て、大切な唯一の家族である事は変わらない筈なのに、心の底で深く嫌悪する事さえ出来ないという大いなる葛藤。

 聞いた殆どが生活が不安定だった頃の事で、酒場(パブ)に住み込みになってからはすっかり足を洗っていたらしいが、その日以来、姉の事をどんな目で見れば良いかすっかり分からなくなってしまった。


 きっと私を護るため、私に辛い思いをさせたくなくて。そんな姉を楯にして、自身だけがその庇護の元で()()うと手や身体を汚さずにいた事が、どうしようもなく寂しくて、辛かった。表向きには明るく努めてみても、暫くの間、内心鬱ぎ込みがちになってしまっていた。

 きっとその時"発症"してしまったのだろう。

 レルゼアと出会ったのは、そのほんの少し後、そうした事実を少しずつ、真っ直ぐに飲み込み始めた時の事だった。


「…好きなものを時に嫌っても良いし、それが決して悪い事とは思えない。(いや)、きっと誰しも時に思う事だろう。だから、どうかそんな事で自分を責めないで欲しい」

 レルゼアからそう安直に慰められると、不意に強い耳鳴りがして、リテュエッタは外套を両手で包み込み、ぎゅっと顔を(うず)める。


「──それって、ラピスさんにも面と向かって伝えられますか?…ラピスさんはきっと、貴方を強く慕い、憎んでいたんですよ?」

 想定外の返答に術士は言葉を失ったが、寧ろ渋面を浮かべていたのは、動揺してそう反射的に言い放ってしまった少女の方だった。"そんな事で"、それは彼女に取って最も忌避すべき言い回し。


 少女の故郷は小さな村、交流範囲は広くなく、それ故時折"外の血"を入れる風習があった。だから、自身と姉は似ても似つかない。

 こんな真っ黒な、呪われた様な髪色をした者など、ラダの村では彼女を於いて他に誰も居なかった。そしてこんなにも異質で極端な組み合わせなど、多くの場所を巡った今、村外ですら殆ど見掛けないのだと知った。

 自身の出自を(ただ)す度、両親を含めた周囲の大人達は皆、何も心配は要らない、"そんな事で"何かが変わる訳じゃないよと逸らかされてきた。そうして同年代からの揶揄(からか)いは、大人や姉が何時も庇ってくれていた。


 肌は母と同じオルティア系、髪や顔付きは名も知らぬ南方系。

 もうあんな言葉は辛くなんて無くて、疾っくの昔に慣れきってしまったとばかり思っていたのに。幼き日の幻影が暗澹と胸中に渦巻いていた。



「……ごめんなさい、ちょっと意地悪が過ぎちゃいました」


 あの模範的な慰め方が、まるで愛しく憎むべき姉そのものだったから。弱々しく謝罪しながら、再び竜髄症の少女は深く外套に(おもて)(うず)める。

 自身は母や姉達と半分だけ繋がっている。それでも血は全く繋がっていないのに、それ以上に確りと繋がっていた家族の事が、心の何処かでほんの少しだけ羨ましかったのかもしれない。少女は余りに醜く見苦しい(そね)みだったと気付き、窃かに落胆していた。


(いや)、良い…ありがとう。言われるまで気が付かなかった。それに、どうしようもなく今更の話だった。君がどうして自身の事を苦しめているのか、少しだけ理解出来たかもしれない」

 自身が何か傷付ける発言をしたのだろうと、レルゼアは疑う事なくただ反省する。妹と若き騎士ガヘラスは予想以上に仲睦まじかったし、両親との軋轢も特に見受けられず、他の誰とでも上手くやっていた。そんな風に見えた。ただ一人、自身を除き。つまり自家撞着の相手は、愛憎の向いていた矛先は、自身だった可能性が高い。至極納得の行く指摘だった。

(──そういう中途半端な優しさ、他人の弱いところに堂々と踏み入ってくる真面目さが、より一層ラピスさんを苦しめたんだろうな……)

 まだ温かい贄を頬張るが如く、心根の底で何かの潰れていく音がする。



 腰に両手を当てながら2人の遣り取りを無言で見守っていた女神に対し、鉱石術士の男は改めて希う。

「本当に…どうにもならないのか?」

 縋れるものは本当にこれで最後だったから、幾ら情けなく無様でも、必死に訴えるしか無い。そんな無力な男には目もくれず、女給仕は寂しがり屋な少女の方に歩み寄り、顔も上げない彼女をそのまま優しく抱擁する。

「リティーの心は何時も分からなくって。不思議で、一緒に居て本当に楽しかった。今思うと、やがて生と死の理を放棄するからだったのかもしれないけど…」

 言葉の終わり際、恵風が通り過ぎ、まるで地吹雪の様に幾多の小さな花片が舞い上がった。


 クリスタたるリヴァエラはそっと竜髄症の少女を解放すると、微かに怯懦している少女を蒼く翳った瞳で改めて見据えていた。

「悠久と共にある私達エストの一族、そこに意思は存在するけど、命は無いの。ただ役割があるだけ。だからこんなの、本当は良くないんだけどね。"誰よりも大切な親友"だから」

 彼女はそう言って両膝を折ってその場に屈み込むと、ほんの僅かに桜色を帯びた白い花弁を1枚だけ摘んで立ち上がる。そうしてまだ微かに湿ったそれを唇に押し当て、自身の黒髪を疎んでいた少女へと差し出した。


「さあ、顔を上げて、リティー。今から貴方に1つの選択をあげる。私から理の外へと食み出す方に仕向けるなんて、例外中の例外なんだからね」

 優しく諭された少女は塞いでいた視線を上げ、怖ず怖ずと同じ高さにあった知己の少女の顔を見る。彼女は黄金色の髪を靡かせ、(はた)と息を呑む様な、今まで誰にも見せた事の無い女神然たる憂懼(ゆうく)の笑顔でこちらを見詰めていた。


「これに触れれば2つの理は貴方から剥がれ落ちる。今の苦しさと寂しさから直ぐ解放してくれる。でもね、そうしたら貴方の存在も消えてしまうの。あのイヴナードを護っていた古い英雄みたいに」

 英雄と違うのはただ1点、もう生まれ変われないという事だけ。運命神リヴァエラは殆ど聞こえない位の小さな声でそう付け足した。


「……なっ、何を言っている!」


 慌ててレルゼアが引き留めるべく手を伸ばすと、ケーリュケイオンの首が彼女達を護るが如く割って入ってきた。


「──何故…止めようとするの?」

 クリスタが冷然と宣告し、術士がその手を引くと、双頭竜は再び首を擡げて彼等の視界を繋ぐ。そうして給仕の佇まいをしたリヴァエラは、こちらを一切見ないまま、静かに苦言を続けた。


「心を賭した選択に、他の誰かが口を挟んで良い理屈なんて無いんだよ。それに…"貴方の為"だなんて自分勝手で古臭い誘い文句、今時酔っ払ったペテン師だって使わないよ」


 去りゆく上風(うわかぜ)(そよ)いだ草葉の微かな音だけが辺りを包み込んでいる。天つ大樹からは溢れる木漏れ日が辺り一面春の六花の様に降り注いでいた。

「リティー、貴方に残された僅かな日々は、貴方が選べば私が今ここで引き取るよ」


 言われるが儘に、少女は震える心で、震えない手を真っ直ぐ差し伸べる。

「リテュエッタ!!」

 レルゼアは(まなじり)を決しながら、思いの外声を荒げてしまった自分自身途惑っていた。差し出された花弁に触れる直前だった彼女は手を止め、さして驚いた様子も無く、ただ穏やかに微笑み返していた。


 そうして、"今日は少しだけ早起きなんですね"、そんな有り触れた朝の会話の様に、満ち足りた口調で彼に告げる。

「──そんな大きな声出しているの、初めて聞きました」

「今これから、自分が何をしようとしているのか、理解、しているのか…?」

 愚昧に過ぎる問いだったと自覚しつつ、苦々しく吐き捨てる。黒髪の少女はそんな当たり前過ぎる事を今更問われ、まるで我が子の駄々に困った母親の様に、どう言い含めようか眉を曇らせ逡巡していた。


 ここに向かうと知ってから?フィーカの言葉を聞いてから?それとも、もっともっとずっと前からだったかもしれない。こうなる気がしていた。何となくこうなる事が分かっていた。きっと私は此処で終わるために、こんな遠い所までやって来たんだろう。この男と、連れ立っていたのだろう。

 あの見晴らし塔から転落して以来、今まではずっと心地良い夢の中だった。ただこの日が来るのを待っていた。多分それは、何物にも代え難い幸せな猶予だったんだろう。そんな晴れやかな気分だった。


 あの時は不意の事故だったが、今は違う。暫くの間悩み抜くが、結局笑顔以外に何も返せないまま、自ら生じた相反の輪から抜け出すべく、彼女はそっと女神から差し出された剥離の花弁に触れた。自身を此処へと導いた鉱石術士は、その迷い無い選択を、ただ遠巻きに見ている事しか出来なかった。


 触れた瞬間は、音も光も何も生じない。ただ黒髪の少女が糸の切れた操り人形の様に、大地にふらりと力無く蹌踉めくだけだった。距離にしてたった5、6歩。塔から転落したのを見て駆け付けた時よりもずっと早く、クリスタと共に何とか彼女の背に両手を差し込んで支える。

 そのまま自身と彼女の外套を敷き、そっと横たわらせた。その姿はまるで、暖かな花の雪原に沈んでいる様だった。


「何て馬鹿な事を──」


「あはは、馬鹿だんなんて…酷いですよ。イヴニスさんの時みたいに、直ぐに消える訳じゃないんですね」

 空を仰ぐ少女は、膝を突いて覗き込んでいたレルゼアの頬に軽く触れる。

 大樹の隙間から差す麗らかな陽光に照らし出された彼女を見て、レルゼアは不覚にも美しいと見惚れてしまっていた。顔色も、何も変わらない。ただほんの少し吐息が弱くなっていて、左の頬に触れた手が微かに冷たくなって来ているように感じられた。

 何故こうなってしまったのか、内心強く(ほぞ)を噛む。


「やっと、普通に(さわ)れました」

 柔らかく微笑みながら、撫でる様に少しずつ角度を変え、ゆっくりとその輪郭を確かめていた。レルゼアはその手を握り取って、殆ど自問自答の如く(かこ)つ。

「まだもう少し、生きられたかもしれないというのに……」

 それを聞いたリテュエッタは悪戯っぽく、無垢に顔を綻ばせ、目を細めていた。


「だって、苦しいのも寂しいのも、嫌だから…それに、私だけの大切な思い出、誰にも上げたくなくて。このまま"死ななければ"…最後まで、何も失くさずに済むんですよ?」


 それは綺麗なだけじゃなくて、怒ったり、落ち込んだり。悩んだり、羨んだり。色々な事があった。だからこそ、素敵だった。

 両親も姉も、これまでずっと近くて遠かった。クリスタと過ごした時間も十分に楽しかったが、人ですら無かった彼女は、やはり何か肌に感じるものが違っていた。

 誰に対しても心の何処かで顔色を窺ってしまっていた。一緒に居て良いのか、何となく自信が無かった。

 そんな中、何時まで経っても他人行儀で居るこの男は、他人行儀だからこそ、今までで一番近しい気がしていた。


 生まれ変わりによって、こんな大切な思い出まで消されてしまうのなら、いっそ。


「──何だか最近、一人でいる寂しさを思い出しちゃって……最後に寂しいのは、嫌なんです」

 自分は生まれてこの方ずっと、温かい人々に囲まれても、何だか寂しかったんだろう。寧ろ、周囲が温かかったからこそ、より一層寂しかったのかもしれない。

 不可解で意志薄弱な鉱石術士と、頼もしい小さな飛竜と、先の見えない僅かな日々を過ごし、そうでない事を知ってしまった。何となく、胸が少し締め付けられる。少しずつ、自身の鼓動が弱まっていくのが分かる。

 意識が次第に輪郭を失い出し、浅い眠りの入り口の様だった。


 気が付くと、右手が痛い程緊く握られていた。意識を繋ぎ止めてくれるその優しい痛みが、寧ろ今は心地良かった。

「レルゼアさんの手って、意外と温かいんですね……ねえ、笑っててください。今はそんな難しい顔……しないで欲しいな」

 そう指摘した自身は今、確りと笑えているだろうか。温かい世界から冷たい世界は想像出来ても、それは単なる想像で、冷たい世界から温かい世界は、想像すら出来ない代物だったから。

 青空のずっと手前にある彼の顔は、逆光の翳りの中、複雑そうに歪んで見えた。


「レルゼアさんが凄く臆病なのは知ってます。でも大丈夫です……私もなんですよ」

 ぐずぐずと徐々に濡れ(そぼ)つ胸中を必死に隠しながら、少しだけ戯けた口調で楽しそうな振りをしてみる。

 彼女を見下ろしていたレルゼアは、彼女の儚げな微笑みが、ふと最後に見た妹と重なって、まるで自ら刺突短剣(スティレット)をその胸に突き立てた時の様だった。


「レルゼアさんと旅をした日々……何だか楽しかったな」


 残り火が小さくなってきているのか、彼女の声は既にか細く消え入りそうで、その上半身を抱き起こし、片手でその背を支えた。そうして彼が口を開き掛けると、彼女は人差し指で蓋をする。少しだけ間を置いて、自身の唇に当て直しながら。

「──今は、もう何も。喋っちゃ駄目です。絶対……絶対ですよ?」

 そう言ってレルゼアの発言を柔和に制すが、それでも男を止める事は出来なかった。再び空いた左手で彼女の口元に添えられた手を取ると、レルゼアは勢いに任せて吐露する。


「私も…幸福で、安らいで、まるで心が救われた様な気分だった。共に居られて、楽しかったんだ」

 押しに弱く、流されるとばかり思っていたリテュエッタは、彼の明け透けな心情を聞き、目を丸くしていた。


「……何で……何で今、そんな事言っちゃうの?」

 ずっとずっと、心の奥底に秘めて我慢し続けていたのに。そんな言葉、今は聞きたく無かった。気が付けば瞳からは温かい感情の粒がポロポロと溢れ出していた。

 そしてそれは一旦零れ始めると、止め処なく後から後から溢れ続けていた。

 人はただ、その寂しさを紛らわすために生きているだけなのに。

 この世にこんな惨めな事など、他にあろうか。ぐじぐじと両手で涙を拭い、それでも全然足らない。


「何も言わないでって、お願いしたのに……私だって、私だけだったら嫌だし……私だけじゃなかったら、また消えたくなくなっちゃうし…今更、また寂しくなっちゃうし…」

 一度口を衝くと、これまでずっと抑え続けてきた何かが大きく決壊してしまい、留まる事はなかった。

「もっともっと、一緒に居たかったなって…そんな事、考えちゃう……折角、もうこれで全部お終いだって、心に決めてたのに……何で…どうして今そんな事言っちゃうの……」


 あの時も、この時も。出会ってから、姉とお別れをして、オルティアに向かって。ティニーと一緒になって。ロレアに出会って。奈落という悍ましい場所にまで連れ立って。慣れない仕事を手伝って、沢山の料理をして。

 ずっとずっと東へ、見た事もない建物や生活を見て、英雄を解放して。ナズィヤの巫蠱に出会って。

 そしてこんな創世樹なんて突拍子のない所までやって来て。そこにクリスタが居て。然も彼女は運命の女神で。


 その間ずっと、一緒に居てくれて。──(しか)も、"楽しかった"だなんて。


 胸が一杯で、もうこれ以上は何も言葉にならなかった。どれだけ頑張ってみても、嗚咽は止まらなかった。


 レルゼアは、ラピスの時の様に何も言えないままが嫌だっただけとはいえ、余りに利己的な発言で彼女を苦しめてしまった事を深く悔恨し、懺悔する。

「済まない…それでも、伝えたかった。後悔したくはなかった。ただの我が儘なんだ、どうか許して欲しい…」


 その言葉を耳にした灯火たる少女は、更に強く胸を打たれた様な気分だった。この男は、本当のところ姉とは似ても似つかなかったのだ。

 こんな時ですら嘘を吐けず、隠し事も出来ない。そして、そんな簡単な事にすら自分は気付けていなかった。悲しいのに嬉しくて。遣る瀬無さで一杯で。

 もうたった一人きりでは、こんな非凡な寂しさを受け止め切れないと悟っていた。


「ねえ、さっきクリスタちゃんがしてくれたみたいに、ギュって…してください」

 涙は溢れ続け、既に声に力は入らず、あえかに呟く。

 これ以上は情けない泣き顔を見られたくないだけ、それに、誰でも良かった訳じゃない。

 今更そんな下らない言い訳をしている自分に内心呆れながら、傍らに居る男の首にしがみ付くと、レルゼアは竜髄症だった少女の黒髪と背の間に両腕を廻し、途惑いながらも不器用に抱き返した。

 そうしてただ鮮やかで(いとけな)い感情の塊だけが、彼女の中に目一杯に詰まって行く。


「──戻ったら、ロレアさんの事、大切にしてあげてくださいね」

(いや)、彼女の事は…」

 反射的に何か言いかけた術士の声はさざめく風音に掻き消され、リテュエッタは弱りゆく両腕に何とか力を込めて深く彼の頭を抱き寄せた。結局私は、何処に行っても誰かのお邪魔虫なのだろう。そう卑屈に考えてしまい、鼻の奥にツンと来る想いの丈が湧いてくる。


「……あんな素敵なキスまでしちゃってるんだから、ちゃんと答えてあげなくちゃ、駄目ですよ」

 何とか落ち着かせた落涙を繰り返さない様、緊く瞳を閉じると共に、心からただ彼と彼女の幸せを願う。

「見て…いたのか」

 諫められた無自覚な男は、心臓を握り潰された様な気分になって、掠れた声で独白していた。そういえばイヴナードへと戻り始める頃だったろうか、彼女は次第に自身の望みや希望を殆ど口にしなくなっていった様に感じられていた。あれはロレアに対して引け目を感じていたからだったのかと、勿忘草色の大空と色取り取りの地平をぼんやりと眺めながら漸く気付く事が出来た。

 やがて思い至るよりも先に、(かいな)に抱く少女が、顔の直ぐ隣で首を横に振るのを感じた。


「今度こそ…今度こそ何も言っちゃ駄目、です」


 心音の間隔が少しずつ乖離していき、命の火が消えゆくのが感じ取れる。それは死ですらなく、神さえも届かない深淵に澱むもの。

 その時彼女は、どんな表情をしていたのだろうか。


「……疲れたから、ほんの少しだけ、肩を借りているだけなんです」

 例え何も無くても、今だけは。

 澄んだ水面の様に、心の波が穏やかに消えていく。意識が濁っていく。景色も、音も、感覚も、ゆっくりと何かに溶けて落ちていく。

 どうして出会った時には、もう終わってしまっていたんだろう。

 どうして彼は、こんなにも一生懸命に寄り添ってくれたのだろう。

 どうして私は、果てない寂しさに一人押し潰されていたのだろう。

 何故こうなる事が、最初から決まってしまっていたのだろう。

 幸せになる事を、寂しく無くなる事を、どうして諦めてしまっていたのだろう。


 もし全部運命の所為(せい)にしてしまったら、きっと傍らに居る親友たる女神様にまた怒られてしまう。

 これは間違いなく自ら選び抜いた終焉で、だから、きちんと受け容れなくてはいけない。


「──さようなら、レルゼアさん。ありがとう、クリスタちゃん…」

 最後は、囁くよりもずっとずっと小さな声だった。

 これまで父親以外の男に深く抱擁された事などない少女は、少しだけ擽ったい気持ちで、揺蕩(たゆた)う様な揺籃(ようらん)の夢の中、静かにその息を引き取った。


 彼女の身体から力が抜けきった後、その亡骸を抱いたまま、一体どれ位の時間が過ぎ去った事だろうか。目を開けても、空はただ晴れ渡ったままで、遺骸の肩越しに見える景色は変わらない。これが終わりで、ここが始まりなんだろう。


 彼はまるで眠っただけの様にも見えるそれを気怠げに(ほど)き、再び仄白き花々の棺に横たわらせる。彼女だったものは古き英雄の様に直ぐ消え去る事はなかった。

 給仕の格好をした運命神は、何かを全部覆い隠した様な真摯な眼差しで、眉一つ動かさず、そんな彼等の別れを最後まで見守っていた。


「──リティーは満足してくれたかな。私からのせめてもの餞に」

 それを聞いて居ても立っても居られなくなったレルゼアが漸く立ち上がると、代わりにリヴァエラたるクリスタは横たわる眠り姫へと静かに歩み寄り、冷え切った彼女の頬をそっと撫でる。その蒼玉の瞳に宿った綺麗な光が一瞬淡く揺らめいた事を知る者は無かった。


 そうして屈んだまま、傍らの術士へと告げる。

「…おじさんにも選択をあげる。リティーを看取った人だし、ね」


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