第6章 彼女の終わりと明日を待つ夢 (前編)
リテュエッタがもう少し話をしたいと申し出ると、ナズィヤの巫蠱フィーカは「此処からは稚女の密談じゃな」などと体良く連れ立つ男の方を追い払う。
そうして術士の男は1人城砦庁舎を離れ、一旦宵闇亭へと向かっていた。実際、不詳な男が国賓と共に一晩留まるなど濫りがわしく、余程の事が無ければ禁じられるであろうから、何れにせよ已むを得ないだろうし、元よりそのような心算など無かった。
竜髄症を患う彼女が珍しく自らの意思を申し出た事も気に懸かってはいたが、それよりも案じられたのは、自身の今後の在り方だった。大衆酒場には目的としていた見目麗しい例の女給仕は不在で、夕食代わりに値の張る果実酒を数杯只管呷り続け、そのまま酔い潰れる前に宿へと戻る。
(──まるで、イヴナードから追放されたばかりの気分と言った所か)
彼は外套だけを荒々しく剥がすとベッドの上へと大きく倒れ込み、疎放に手足を伸ばして仰臥し、格子状に組み上げられている天井を見上げた。進んで酔いたいと思ったのはこれが2度目位だったろうか。
月白に染まり掛けた意識はなかなか混濁してこない。
閑かの耳鳴りだけが辺りを包み込む。
フィーカを名乗る年端も行かない少女の風貌をした女性は、将来こちらが金に困って彼女を頼り、彼女はこちらの碩学と術を頼って、何度か"簡単な仕事"を与えるのだと言う。然れどそれは少し先、動もすると未来の話だろう。
リテュエッタの事については当面手を尽くした。
また自身の過去を清算しないまま、英雄も死を望み、然し今まで通りこの国を支え続けてくれる事となった。
ミレス大将軍らが何かを咎めてくる事も無かったし、巫蠱の未来視を以ってして自身が少なくとも死罪ではない事くらい分かっている。そうして手元に残ったのは、双頭竜ケーリュケイオンの元に辿り着くという、何の足掛かりも無い無謀な到達点。全てが八方塞がりで、全てが自由となっていた。
もう熟すべき責務は当面無く、明日から己が頭で進むべき道を決めなければならない。あの突然転落してきた少女との出会いは、当初厄介事を抱えたと嘆きこそすれ、其の実救いだったと今更ながらに気付かされていた。
何れ会話すら儘ならなくなるだろうし、再びあのクリスタという同年代で親友という女給仕に頼ろうと浅はかに動いてしまったが、それは徒労だった。それともやはり、再び銀の手の巫女だろうか。蟠りだけが深々と澱のように心に降り積もっていく。
一先ずは明日、改めて彼女を迎えに行かなくては。
あちこち跳ね回る思考に翻弄されながら、彼の意識は漸く深更の闇へと沈んでいった。
術士が天来の間を去って間も無く、ナズィヤの巫蠱は夕食の前に、自国の作法に則り湯浴みを以ってその身を清めるのだと言う。
リテュエッタも誘われたが、自身の病と相手が異国の要人という事もあって、時を違えるよう願い出る。それに、温かい心地の中でこの緊張までもが抜け落ちてしまうのは何だか怖かった。浴室は1階に置かれている様で、彼女が呼びだされた時、フィーカは別の動線から戻る事で、入れ違いとなっていた。
湯船には浸からずに急ぎ身体を拭い清めると、足早に賓客の広間へと向かう。彼女より稚いそれは空々微睡みながら、リテュエッタの事を待ってくれていた。自身より少しだけ赤みの強い黒髪を全て下ろしており、瑠璃の差し色は見受けられない。それもどうやら装飾、即ちただの付け毛だった様で、粗い麻布の寝間着を纏って薄化粧を落としてしまった彼女は、何処にでも居る町娘にしか見えなかった。
寝惚け眼に伏せた睫毛の奥、煌めく紅い双眸を見て取り、そこで漸く彼女だと確信出来る。
そうして2人には同等の夕食が振る舞われたが、それは極質素な物だった。ライ麦粉で作られたプレーンの厚焼きガレットと、香草を塗した小さな蒸し鶏、それに僅かな玉蜀黍と豆のスープ。他は無い。
彼女自身が望んだのだと言うそれらを、ナズィヤの作法に則りただ黙々と食す。厳かと言えば確かに聞こえは良いが、最近は何時も同行者の男と歓談を交わしながら食事を摂っていたリテュエッタに取って、銀の食器の音だけの響く夕餉は少々息苦しく、詰屈なものだった。
食事を摂り終え、イヴナードの者と思しき女給仕らが全てを下げると、性急に口を開き掛けたリテュエッタを遮るが如く、
「──腹熟しに1つ、露台に繰り出して夜風にでも当たろうぞ」
そう彼女が機先を制して告げて来たため、羊毛で嵩のある外衣を受け取ってから、藍色の厚い窓掛けの向こう側へと踏み入る。
そこには星の数よりもずっと少ない光が大地に点在していた。
半円状の台座は小柄な2人が大きく手を広げたら少し触れ合ってしまう位での広さで、飾り気無く頑丈そうに見える手摺子は数えられる程だった。幾ら騎士国の冬が穏やかであるとはいえ、この時期の夜風は流石に冷たく肌を切る。透明な吐息はほんの僅かに白く澱んだ。
少しだけ向こうに立つ彼女の髪からは季節遅れの金木犀の香り付けが馥郁と漂い、鼻腔を心地良く擽ってくる。夜が明ければ嘗て能く使っていた交易都市の見晴らし塔と同じ様な心地良い景色が広がっていただろう。あちらは赤煉瓦で、こちらは白い石灰岩の屋根という違いこそあれ。
「この街の営みの灯…やっぱり好きだな。ナズィヤのよりもちょっとだけ綺麗で、何だか手の届きそうな感じがして」
フィーカは小さな雲の様にふわふわとした外衣の前合わせを胸元でぎゅっと重ね、リテュエッタの腰よりも少し高い位だった欄干の上から眼下の街並みを覗き込む。
「やっぱり何時まで経っても私の名前、呼んでくださらないんですね」
やや小振りな同じ外衣を羽織り、後ろ姿へと唐突に詰問を投げ掛けると、小さな町娘はくるりと翻って石造りの柵にその背を預け、然も当然の如く言って退けた。
「何時まで経っても貴方の方から名乗ってくれないから……それよりも、貴方に合わせて"久しぶりに"普通に喋ってみたのに。変、じゃないかな?」
リテュエッタは小さく頭を振って幾つかの意思を同時に示し、凪いだ瞳で巫蠱の装いを解いた少女を見詰め返す。
「それってつまり、私はもうこれから先、フィーカさんと会う事が無いって事ですよね」
ナズィヤの国家元首たる彼女は、眼前の少女が生まれ出ずるよりも前から、その語り口を勿体付けて自身に蓋をしてきた。
そうした変化は悲しい事の筈だったが、今更誰かに知って欲しいなどと露も思わないこの巫蠱は、不敵な笑みだけを浮かべて明るく問い返す。
「それを訊いて、どうするの?」
──新しい事を知れば、見えるようになるものもある。けれど、逆に見えなくなるものもある。
──もし知ってしまえば、知らなかった頃の自分には戻れない。だから僕は、きっとお前のもう一つの目なんだろう。
それは未来視など一切出来ない双子の兄の、誰に向けたものでもない、幼少期の呟きだった。
「貴方は本当に"それ"を知りたいの?」
彼女は先程まで居た石造りの塔の頂点にある小さな煙出しと、その奥にある濃紺の空を見上げる。
「……実は私って、"星占い"なんて全く知らないの。あんな沢山の小さな輝きだけ見てたって、何も分かりはしない。──私はずっと私の"直接視た"世界しか識らないし、この先も識る事は無い」
占星術師にあるまじきその独白は、殆どリテュエッタの確認に対する答えの様なものだった。彼女は右手を思い切り中空に伸ばし、星屑の海をその手でそっと浚う様に握り込む。
あの鉱石術士が今のまま自身を捨て置くとは到底思えず、それでいて既に行動を共にしていない。即ちそれが示すものとは。
「それって──」
「意地悪に名前も教えてくれない貴方の思っている通り…なのかな?そろそろ戻ろっか。折角お風呂に入ったのに、身体を冷やさない様にしないとね」
これまで長く占星術師の振りをしていた小さな少女は、頭上にある半分くらいの月をぼんやりと眺めながら、それに向かって呟いていた。
彼女らの寝室は天来の間と同じ高層に位置する。巫蠱の少女は暖炉の前に膝を抱えて屈み込み、手慣れた仕草でゆっくりと火掻き棒で熾火の薪を引き出し、燃え過ぎないよう鏝を使って軽く灰を掛けておく。
その後ろ姿──肌の色はもっと薄く、髪の色はもっと深かったかもしれないが、貴賎を問わない冬の日常的な光景を前に、ふと幼き頃の自身を重なってしまった。果たして両親は、こんな風に自身の事を見守ってくれていたのだろうか。リテュエッタもさっと窓掛けを解いて星明かりを遮り、ベッドの傍らに据え置いてあったランタンの灯りを夕暮れよりも少し仄暗く弱らせる。
「ありがとう。そう言えば誰かと同じ寝室なんて何時くらい振りかな…ふふ」
ベッドは2つ、それぞれ大の大人が数人で寝そべっても十分な余裕が有り、暖炉から遠い方に率先して入ろうとすると、小さき年上からやんわりと制止される。
「私の事は気にしないで。貴方がこっちだよ」
フィーカはぽんぽんと手近な方を手で叩くと、佇んだ儘で動こうとしない。
仕方なく示された方へと遠慮がちに入って横たわると、これまでの寝床とは比べ物にならない位ゆっくりと柔らかく沈み込んで、リテュエッタは驚きのあまり少し声を上げてしまった。
巫蠱は微笑みながら水鳥の羽毛が一杯に詰まった掛け布団を優しく首元まで引き上げてくれる。そうして彼女は同じベッドの縁に腰掛けると、ただ無心に暖炉の煌々とした光の方をぼんやりと眺めていた。
「……フィーカさんは眠らないの?」
気を紛らわすため、不穏な将来の影から目を逸らすために、沈黙を部屋の隅に追い遣って自然と問い掛けてみる。
「私?私はもう十分寝たよ。貴方がお風呂に入っている時くらい、かな」
不確かな橙に浮かび上がった彼女の横顔には、何の感情も顕れてはいなかった。
「私はね、殆ど眠らない──眠れない、と言った方が正確かな。だから、貴方の倍近くは生きていると思うけど、それよりもずっと沢山の夜を見てきた。"静かな夜"なら好きだから、良いんだけどね」
そこで漸く尖晶石を思わせる瞳が、ほんの少しだけ物憂げに翳る。
火の揺らめきに合わせて両足をゆらゆらと揺蕩しながら、ぼんやりと、
「それにね、多分、夢も見た事も無くて。私には今も未来も同じに感じられるから、実は未来の方が本当で、"今この瞬間を夢見ている"だけなんじゃないかな…って」
彼女は一旦ぐっと背伸びをしてみせると、寝ている少女の方を振り返って、あえかに微笑む。
「抑も本当の夢なんて見た事無いのに……何だか変な話だよね」
過去と今が同列の白昼夢の中で、記憶と今が混同し掛けるのは佳く有る事。ただそんな時は必ず、誰にも分からないくらいの僅かな自傷で今と未来を識別する。
そうしなければならない瞬間ですら、5年も前から既に分かってしまっている。
横たわる少女は照れ隠しに羽毛布団で顔の半分以上を覆うと、素直に本心を告げた。
「何だか難しくて…どんな感じなのか、全然分からないです」
竜髄症の少女は、自身の体温から来る心地良い温もりに包まれ、頭を使い、普段だったら疾っくに眠くなっている筈なのに、何故だかこの時は静かな動悸によって目が冴えてしまっていた。
「そう?…私にとっては皆の見ている"普通の夢"の方が、全然想像も付かないんだけどね」
町娘にしか見えない幼子のそれは、改めて顔を綻ばせてから目線を火元に戻すと、娘とも妹とも取れる齢の少女を眠りへと誘うべく子守唄の様に続ける。
「きっと私は貴方よりも頭が悪くて、中身もずっと幼いままだよ。今までに何の感動も、驚きも感じた事が無いの。全部事前に識ってしまって、精神的な成長に繋がる切っ掛けなんて一切無いから」
そんな精神に合わせるように、身体という器も一向に発育せず、成熟していないのだろう。彼女はそう考えていた。
現に未だ初潮すら訪れておらず、恐らく生涯に亘り自身の子は成せない。文字通り特異的な、唯の徒花だと。そう信じて疑わなかった。そうして冗談交じりに、これっておばさんの負け惜しみじゃないからねなどと微笑みながら小さな諧謔を添えている。
「──そうそう、こうして笑うのは簡単だから好き。怒るのは…何とか真似出来る、かな。でもね、悲しい気持ちなんて好く分からない。涙を流すのもどう頑張っても真似出来ないから、嫌いなの」
リテュエッタは諦観気味にそう零す彼女の横顔を見詰めながら、こんなにも悲しそうなのになと、曖昧な感傷に浸っていた。パチパチと薪の弾ける音と微か燻された木の臭いが漂って来る。
「双頭竜の処に行きたいんでしょう?なら──」
急に今までと異なる歪な単語を耳にして、寝床の少女は突如自身の意識が落ちかかっていた事を知り、靄のように釈然としない彼女の声を、像を、必死に結ぼうとする。
「放浪癖のある兄から聞いたのだけれど、"夜の光と昼の影が消え結ぶところ"。そこに貴方の方から勇気を出して一歩を踏み出せば、きっと行けるよ」
「あり…が……とう」
自身の声は覚束無い夢現へと解けては消えて行く。
「ふふ、眠いの?無理しないでね…おやすみなさい」
最後に優しく、何だか聞き馴れない名で呼ばれた様に感じた竜髄症の少女は、朧げな迂遠の夢へと深く沈んで行った。
窓の開く音と共に陽光が差し込み、中の空気と入れ換えに冷えた朝の香りが一気に流れ込んで来て、浅い覚醒が促される。
レルゼアは囚われていたその虚ろから漸く脱し、薄目を開けると、傍らで外套を拾い上げながら黒髪の少女が剥れながらこちらを流し見ていた。
「何だか部屋中凄くお酒臭いですし、なかなか迎えに来てくれないですし…途中から心配を通り越して、何だか腹が立ってきちゃいました」
起きあがろうとして上体を起こしかけた矢先、昨日出来なかった包帯と花弁を取り替えたいから、もう少しだけ目を瞑って寝ててくださいと釘を刺される。
正直なところ、こんな茫っとした中途半端な意識のまま、横になって睡魔に抗い続けるのは余計に緊かったが、こちらに瑕疵があるのは間違いなさそうだったので、甘んじてその責め苦を受けておく事にする。
「まさかこんなに深酒されてるだなんて。一体どうされちゃったんです?」
終日着けていた手当の帯を淀み無く取り払い、残り少なくなってきた新しいエリュシオンの花弁を広がる痣に当てながら、彼女は突如思い出した様に男の不義理を自身で擁護した。
「あ、そっか……英雄さんが天に召された晩餐、たった独りでしてたなんて、ずるいです。お酒は弱くてあんまり好きじゃなさそうって思ってましたけど、こういう時だけは、例外なんですね」
そう言って迎えの約束を反故にした男に微笑み掛けながら、居住まいを正し終える。
「起こしちゃってごめんなさい。もう少しだけなら、寝てて良いですから」
彼女はまるで難解なパズルでも解き終えた時の様に、満足げに上体を微かに左右に揺らしていた。
「──否、大丈夫だ、こちらこそ済まない」
無理をして少し起き上がると、鼓動が脈打つ度、自身の不甲斐無さを改めて責める様に目の奥が疼き痛む。昨晩は祝杯どころか対極に位置する陰鬱な気分だったのだが、敢えてこの男は否定をしなかった。それこそが真に小狡い立ち回りの筈だったが、天真爛漫な彼女と接する内に得た、相手の想像に委ねておくという計らいであり、信頼の証の1つだった。
やがて額に手を当て続けているのを彼女が見兼ね、早々に汲んで来てくれた水は、ヒリヒリと浅く焼けた喉を冷たく潤してくれた。
今朝のリテュエッタの目覚めは少しだけ遅く、その時ナズィヤの巫蠱は普段と変わらない出会った時のままの姿と口調に戻ってしまっていた。
まるであの夜伽の時が全て夢だったかの様に悠然と構えていたため、不安に駆られ、双頭竜ケーリュケイオンに至る手掛かりを改めて尋ね出る。
──夜の光と昼の影が消え結ぶ場所、そこに主の方から歩み出せば良い。
巫蠱は飄々と時知り顔で、あの男にそう伝えれば直ぐに分かるじゃろうて、などと嘯いている。そうして祖国に向けた出立の序とばかりに、我が身にそぐわぬ奢侈な馬車で宿まで彼女を送り届けてくれたのだった。
「夜の光と昼の影が消え結ぶ──」
レルゼアは概して晦渋なその言い回しを改めて呟いてみるが、謎めいた示唆の准う所など、労せず分かってしまっていた。嘗て妹が珍しく、夜の明かりを消したみたいに水面に月の影がなかった、そんな風に詩的に表現していた場所だったから。
「朔月湖、か…」
ただその示唆は、巫蠱が自身の兄から教えられたものだという。確か彼女とは双子で、若くして国王に推挙された人物で、ナズィヤの民曰く、巫蠱をその座に縛り付けるためだけに祀り上げられた何のカリスマも異彩も持たない愚鈍なる傀儡。
施政の全ては占星術師たる巫蠱に任せきりで、今や各地を巡り放蕩の限りを尽くしているというその男が、何故妹ラピスの言葉を。
レルゼアは顎に縦拳を当て殆考え込んでしまっていたが、其の実、兄から聞いたというのは態の良い逸らかしで、フィーカの遊び心だった。
そしてそれは何れレルゼア自身から彼女に告げられる事だったから、謀ろうとする意図も無く、ほんの少し戯れとして方便を施してみただけ。
「あの…そこって凄く大変なところ…なんでしょうか?」
心配そうに真横に身を屈めて顔を覗き込んで来たリテュエッタに対し、レルゼアは即座に取り繕う。
「ああ……済まない。少しだけ不思議な湖だが、とても安全な場所だ。此処から1日か2日程で着くだろう」
イヴナードの北に位置し、赤火山脈の麓に広がる鬱蒼とした森を少し入った所にあるスレイ川の水源の1つ。そこでは湖面に何故か月の形だけが映らないため、朔月と名付けられたものだった。
以前は巨大な大嵐の魔狼の水場、また周辺が浮蝕に覆われた時は幻惑の人魚らが多数棲息していたとも言われているが、騎士国イヴナードが興ってからは至って平和な地へと生まれ変わり、一般には避暑地として、また軍部では初心者向けの野営や潜水訓練の地として親しまれてきている。
その他、長石類を始めとした様々な鉱石や薬草の採取地としても知られ、特にこれといった危険性も無い。寧ろ騎士国の民なら何人かに1人位は訪れた事がある程度に凡庸な所だったから、一体そこからどうやって双頭竜の元に至るのか、却って目見当が付かなかった。
独白気味に、そうした自身の知る状況を洗い浚い眼前の少女に伝えると、
「……フィーカさんが態々教えてくれたんだから、何か有るんだと思います。悪戯っぽくて掴み所も無くて…何だか不思議な方でしたけど」
そう言って困った様に苦笑を浮かべ、尻窄みがちに彼女の事を高く評す。僅かな邂逅ではあったが、レルゼアに取っても、悪戯心は別として無闇やたらと人を陥れたり、誣言や奸計を弄したりする様な人物にはとても見えなかった。
「──それに、そんな風光明媚な場所なら…そんなの関係なくて、ちょっとだけ行ってみたいな」
何時になく直截的に強請られると、昨日不貞腐れて酔い潰れていた鉱石術士は寧ろ逡巡してしまっていた。進むべき道に悩んでいた彼としても、善は急げとばかりに飛び付きたいところだったが、何かが気掛かりで、心の片隅に痼りを形成している。
然れど今尚丸ごと頭を搾り続けられている様な疼痛に遮られ、思考が歪められたまま一向に廻り始めなかった。而して彼女からの奨めに素直に従い、出立は明朝に延期して、今日1日は安静にする事となった。
明くる朝、各々体調や準備などが万全である事を確かめ、日の上り切らない内からティニーの背に乗って北方へと向かう。酒の方はすっかり抜け切っていたのだが、竜の嗅覚は鋭敏だったようで、騎乗されるを初めて嫌がったためリテュエッタが短時間の内に優しく宥めてくれていた。
緩く眩しい朝焼けの中、街道は遙か遠く地平線の彼方の方へと一縷に続いている。
溶々と流れるスレイ川に寄り添う様に、昇ったばかりの低い冬の日差しに照らされながら空を進んで行く。都鄙の境は曖昧で、眼下にある疎らな灌木は密度を増し、人の住む小屋の類は徐々にその間隔を広げ、放牧された牛や馬も少しずつ姿を消していった。
「この辺り、乾期なのに草木が青く茂ってるだなんて…何だか凄いな」
生まれ故郷のスノーステップに於いては、初冬にとても見る事の出来ない牧歌的な風景を目の当たりにし、彼女は自然とその胸裡を呟く。そうして後ろに乗っている彼女は何故だか何時もより少しだけ燥いだ様に感じられ、気が付けば、今迄に無く笑っている事が多い気がしていた。巫蠱の元から戻った時くらいからだろうか。
レルゼアはそうした機微の変化を悟れど、その原因にまで思い至る事はなかった。
ただ純粋に楽しみなんだろう、そう楽観的に捉えていた。
朔月湖は首都イヴナードの中心部から殆ど真北の方角だったが、一度大きな風車小屋が林立する灰色の麦畑付近で川の支流に倣って少しだけ西に折れる必要があった。
騎士国に戻るまでの間はずっと西を背に移動してきたため、改めて左手に位置する浮遊大陸が雲と赤火山脈の間に垣間見えて来る。
浅い通り雨を避け、北方街道沿いの小さな宿場町で一泊すると、その後は赤火山脈を東に迂回して草原地帯へと続く北方街道からは逸れ、南の空に太陽が昇り切る前に、彼等は目指すべきその湖畔へと辿り着いた。
周辺は殆どが深い常磐色の針葉樹に覆われており、かの湖は底が見えると見紛う程に澄明な水面を湛えている。
大きさは奈落の大穴よりも小さい位だろうか。実際その透明度は非常に高かった様で、少し遠くからでもキラキラと照り返す陽光の隙間に動く魚影が見て取れる。
「わぁ…本当に素敵な所ですね」
彼に続いてティニーの背から降り立った彼女は、先程から周辺をぐるりと見渡しながら感嘆頻りだった。
赤火山脈の麓側、即ち北の畔にある集落から念のため多少距離を置いたものの、釣り人向けと思われる鄙びた低い桟橋が設えられているだけで、レルゼアはその途切れた終端まで一旦歩を進めてみる。
そこから改めてざっと見渡してみても、確かに景勝ではあるのだが、特に何か異質なものが有るといった雰囲気は全く感じられなかった。
この湖面に月が映らない事ですら、知識として確かに持っているけれど、実際目の当たりにするまで信じられない程、何の変哲も無く自然に溢れただけの穏やかな風景。
「──今の所何も無いな、少し場所を移そう」
湖は訪れた東側の先が少し小高くなっていたため、一旦飛竜と共にそこに上ってみて、湖全体を見渡せる状態で野営の支度を始める。
「何だかこういうの、久しぶりですね」
彼女の弾んだ言葉に自然と同調しかけていたレルゼアは内心苦笑し、熊や狼の出る時期は過ぎていたものの、念のため小枝の獣除けの香を塗しながら、先に焚き火を熾しておく。
「少し早いが仮眠を取る事にしよう。何か月が関係しているとすれば、切っ掛けが掴めるのは恐らく夜の筈だ」
──私はもう少しだけこの素敵な景色を心に仕舞ってからにしようかな、少女はそう告げてレルゼアらを先に寝かすと、遠い西の方角を、その空に浮かぶ不思議な大陸を飽きるまでぼんやりと眺めていた。
総じて温暖な森だったが、それでも徐々に空気は冷たくなり、日暮れが近付くと共に風も少し出てきて、吐く息には白さが混じり始める。
こうしてあの地を見上げられるのは、これが最後の事かもしれない。何故だか強くそんな気がしてしまっていた。
夜が更けるまで未だ時間が有ったため、こうして懐かしさで胸を一杯に満たしたまま眠りに就けば、もう少しだけ温かい陽溜まりの夢を見ていられるのだろうか。そんな風にぼんやりと思いながら、黒髪の少女は術士や小さな飛竜から少し離れた場所に腰掛け、同じ様に少し早い眠りに就いた。
夜の帳が下り切った頃、2人と1匹は示し合わせた様にやおら目を覚ます。レルゼアが丘の下を覗くと、湖面には薄く霧が出ている様だったが、その謂われの通り湖面に月の影など見当たらない。
一方で肩を並べて湖面を覗き込んでいたリテュエッタの方は、それと正反対の感想を口にしていた。
「綺麗なまん丸お月様…満月の時って、例外なんですか?」
術士の顔色を窺ったところ、彼は静かに首を振り、それだけで少女は事情を察した。
再びティニーの背に乗って湖岸に降り立つと、辺り一面低く漂っていた霧は淡く輝き始め、まるで夜光雲の近くに来たみたいだった。
(…私から歩み出せば良いって、確かフィーカさんはそう言ってた)
桟橋の先に向かおうとする彼女に対し、ティニーが小さく嘶いてからその長い首を彼女に絡めてくる。
「…急にどうしちゃったの?ごめんね、少しの間だけ確りとお留守番しててね」
突然甘えて来た飛竜の頭を頻りに撫でて落ち着かせてやると、ティニーは漸く彼女を解放し、それでもまだ不安そうに彼女の方を見ていた。
(大丈夫だよ──貴方のご主人様はきっと、ちゃんと戻ってくるから)
同じくレルゼアも無意識にその背に声を掛けようとしていたが、何を話すべきか分からず、直ぐ様思い留まっていた。そうして桟橋の端まで進んだリテュエッタの横に立つ。彼女は巫蠱の言葉通り、そこから暗き水面に向かってゆっくりと足を下ろしてみた。
すると足先は芝よりも柔らかく、綿よりも硬い弾力が返ってきて、まるで新雪を踏み締めるかの如く霧の湖面の上に自立する事が出来た。
「わわっ、何だか変な感じ……」
彼女の周りに大きく真円を描く様に霧の輝きが色めき立つ。そうする事が出来るのは月が映って見えた彼女だけなのだろうかと、幾何か躊躇していたレルゼアも氷晶石に似た光の中に意を決して踏み出してみると、問題無く霧の道に立つ事が出来た。
これまで奈落や建国の英雄、冥府神など幾つもの御伽話の出来事を目の当たりにして来たが、まさか夜霧の上に立つといった曲芸まで披露する事になろうとは。
全く泳げない訳では無かったものの、決して得意と言い難かった術士は、今の湖水と同じ位に内心底冷えしていたが、薄氷よりは確りと地に足の着いた感触に今は敢えて身を委ねておく。
「……全く、不可解な事ばかりだ」
「でも…このまま進めば、きっとケーリュケイオンさんの所へ行けそうですね」
彼女は自身の影と踊る様に、とん、とんと軽くステップを踏みながら中央へと向かい始める。
するとその足取りに呼応するかの如く、波紋の様に円い輝きが広がり、彼女の元へと付き従った。レルゼアがその光から少し外れてくると、急に足を取られる様な感覚に陥り、慌ててリテュエッタの後を追い駆ける。
「面白いなぁ、何だか夢の中にでも居るみたいですね」
一先ず彼女から付かず離れず歩調を揃えたが、少女は時折稚拙なターンを織り交ぜながら、三拍子の歩みを続けていた。それは円舞曲か小歩舞曲か。
聞くところによると、姉のミレイユは幼少期から歌や踊りが好きで、たまに教えて貰っていたのだと言う。以前住み込みで働いていたミルシュタットの大衆酒場でも、姉は時折客前で披露していたが、自身は虚飾の類には興味が持てず、専ら調理専門だったらしい。
そんな風に話していた以前の姿を思い出しつつ、何度か躓き転ぶ度、照れ隠しに微笑みながら1人で起き上がっていた。
固い地面と違って、幾ら転んでも怪我はしない。彼女の頬に当たる霧の光は少し冷たいだけらしく、火照った身体に心地良いという事だった。
──このまま竜髄症の元凶であるという双頭竜の元まで辿り着けば、首尾良く彼女から病を雪いでやれるのだろうか。
そして自身はその後どうするのだろうか。軽快に隣を行く少女に誘われながら、少しずつ晦の湖の中央に向かっていると思っていたが、ふと振り返って見ると先程より一段と、辺りの閑寂な闇が増している様にも感じられた。
余り湖岸から遠離っていない筈なのに、瞬く星々と満ちた月明かりの中、既に飛竜はおろか桟橋の影すら見えなかったし、北にある筈の集落の光も黒に溶けてしまっていた。
そうして気が付けば、あの奈落の底よりもずっと冥い。夜空は変わらなかったものの、地平の境は消える様に曖昧で、遠く微かに響いていた木菟の啼き声も何時の間にか聞こえなくなっていた。
神秘が到頭その牙を剥いて来たかとレルゼアは警戒感を強めるが、不思議なほど嫌な感じは無かった。
「レルゼアさん、そんなに心配しなくても……きっと大丈夫ですよ」
そんな彼を見るに見兼ねたリテュエッタが声を掛けてくるが、漸くそこで立ち止まって辺りを見渡し、きょとんとする。
「あれ、何か真っ暗ですね…こっちで良かったでしたっけ、うーん」
そう言いながらも、彼女は元から周りなんか見ずに星が平たく欠けた西の空を目指していたから、再び踊る様にリズム良く歩み始める。
やがて彼女が5回目に転んだ時、何の先触れも無く異変が生じる。リテュエッタが倒れ込むのと同時に足元の霧が眩く拡散し、瞬時に辺りの景色を一変させた。
「──え?あれ?お花……畑?」
黒髪の少女は起き上がりながらそう呟くが、レルゼアも瞑るに等しく細めていた目を開いて辺りを見遣ると、全く同じ言葉しか浮かんでこない。
色取り取りに無数の花が咲き乱れ、何時しか空一面が勿忘草色に染まり、見渡す限り空も地も果てが無かった。綺麗とか美しいだとかより、あまりに幽寂で、冥界とは異なる隠世の様相だったから、先程とは打って変わって心地良い陽気の中、何だかそら寒くすら感じられてしまう。
「弥々常識が通じなくなってきたな……ここは夢の中、なのか?」
猥雑な多種の花に囲まれていても何故だか香りすら漂って来ず、ただ青い空気の匂いだけ。こんな幻想的で優美な場所など、今まで見た事も聞いた事も無い。
嘗ての大魔法には、天変地異を引き起こすほかに転移の法があったと伝え聞くものの、それは飽くまで小さな物質に限られていた筈。
抑も先程まで経験していた宙に浮くという芸当ですら、魔法が失われた今、風の精霊術によって人を飛ばす程の突風を引き起こし、僅かな間浮くといった稚拙な真似が精々。あれだけ長時間安定し、然も自由意思で歩く事が出来るなんて、それだけでも既に相当に常軌を逸していたというのに。
ここまで来てしまうと、理屈や思考は全部放棄し、眠り薬か何かで見せられている心地良い幻覚とでも解釈しておいた方が、余程納得し得る説明だった。




