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第5章 英雄イヴニスと彼我の鎖 (後編)

然しその考えもまた、過剰に過ぎる我欲の凶行を知ってしまった以上、改めねばならなかった。憎むべきは神だけではなく、されど復讐の矛先は既に無い。

「──イリー…ジア…」

今更どんなに足掻いても、既に真実など得られず、色の無い虚ろさだけが彼の中に深々(しんしん)と滞留していく。不死の英雄は心の最も柔らかい部分を握り潰され、弱音を漏らした。ただそれは飽くまで回り道をしただけで、結局はメルクメリーの事を問い質したのと結果としては何ら変わらない。彼がそう気付いてしまう前に、救いの手を差し伸べたのは、"歳の近い"騎士ガヘラスだった。

「イリージア?」

双頭竜ケーリュケイオンの力を写し取ってしまったが為に人の世から隔離され、生涯に亘って妻と離別させられたこの青年に対して、同じく双頭竜の呪いを受けた最愛の人にあと一歩踏み込めず、その末期(まつご)を看取る事さえ出来なかったもう一人の彼が告げる。

「──(かしこ)くもそれは、我がグラム家の初代当主、誇るべき才媛の名です。英雄イヴニス…イリージア様は貴方の実子であったと?」


当時の大賢者グリムクロアは、イヴニスを遠く東へと封じた後、メルクメリーを何とか探し出していた。彼は深い自責の念を以て、これまでの顛末を(つまび)らかにする。それは彼なりの贖罪であり、懺悔だった。幼き子の母は黙ったままその話を聞いていると、やがてその美しい顔を台無しに歪め、深い憂苦を湛えながらぽろぽろと泣き笑いし、搾り出す様に確認する。

──では、これからは、私達が地上からイヴニスを支えてあげないといけないんですね。

この人で無し、悪魔、そうした感情的な誹りを待ち構え、自身に対してもそう評価していた老い先短い識者は、それを聞いて呆気に取られていた。彼によって護られるのでなく、逆にこちらが彼を支える。ただただ力を怖れ、そうした発想を持つ事の無かった古老は驚きを隠し切れなかった。解き放つ事こそ決して叶わないが、最後にお互い顔を見せるくらいなら。もう一度だけ、イヴニスに逢わなくて良いのかと何度も問い質すが、彼女は頑なにそれを拒否し、受け入れる事はなかった。

「何時の日かこの冷たい態度で嫌われたくないから、どうぞ私の事は秘密にしておいてくださいね」

気恥ずかしい振りをしてそう願い出る。イヴニスからは、アイツは善く勘定を間違えるし、感情的だし、あんたみたいに"賢く"こそ無いが、その温かさも良いんだと何度も聞かされていた。けれどそんな彼女は誰よりも賢く先の未来を見据えていた。もし逢ってしまったなら、きっと泣いて縋って彼の解放を望んでしまう。今でさえこんなにも苦しいのに。そんな事は手に取る様に分かっていた。


大賢者様のお話を聞く限り、少なくとも彼はこの子が生きている間に、もう人には戻らない。戻れないのだろう。時の流れから外されて無為に生き続ける事など、時の流れに身を任せている我々からすれば静止した死人(しびと)も同然。共に歩む事が出来なくなってしまったのなら、下手に逢って心が折れるよりも、いっそ何時までも互いの心の中だけで生き続けた方がずっと良い。自らをそう言い包め、何とか自分で自分を奮い立たせ、その背中を押す。そうして賢者の壮挙を裏で支え続けたのは、かの"王妃メルクメリー"だった。


私は我が儘だから、イヴニスが他の人を好きになってしまうのは絶対に許せない。けれどやっぱり、多くの人から、誰からも慕われる存在であって欲しい。この新しい国で、もし何時の日か人として戻って来る日が来てくれるのなら、皆から温かく迎え入れられる様な、そんな場所にしてあげたい。この先、生まれて直ぐに本当の両親から引き剥がされ、強く生きて行かなくてはならない人々が多数出てくる。その苦難はきっと善き試練となるが、それでも辛い事は沢山起きてしまうだろう。だから今、私だけが甘える訳にはいかない。

イリージア……願った通り、本当に素敵で、玉のように可愛らしい女の子。すくすくと育って行くその姿を、叶う事なら彼にも見せてあげたかった。だけどこの()なら、愛するあの人の子なら、きっと私なんかの手を離れても、確りと優しく育ってくれる。そう信じている。だからその代わりに私は、孤児(みなしご)達を沢山沢山引き取って、同じ様に愛を注いであげる事にしよう。


"真実を見極め、正しい行いを為すこと"。


私の変な口癖をすっかりこの()も憶えてしまい、何時も鸚鵡(おうむ)みたいに繰り返すようになってしまっている。以前ふと思い付いて、深く考えず、何だか格好良いなあって。ずっと座右の銘の様に使い続けてきたその言葉。彼からは、勘定を間違えた時の言い訳だよな、なんて毎回茶化されて、そうじゃないのと何時も必死に抵抗してきたけれど。


──お父さんはね、ずっと何処かで生き続けているの。


真実とは、イヴニスの悲劇。正しい行いとは、この先ずっと一人きりで寂しい彼を影から見護ってあげる事。何時の日かお父さんを支えてあげて欲しい。支えられるこの国の礎を作って欲しい。そんな縷々(るる)な願いをほんの少しだけ込めて、誇らしい我が子に弱いところなど決して見せず、一度だけ深く抱擁し、真新しい修道院へと送り出す。今はただ少しだけ、この冷たく甘い痛みを受け容れる事にしよう。


メルクメリーがその時娘に与えた小さな祈りは、やがて時を隔てて連なる彼我の鎖となり、今正に人の心を捨てようとしていたイヴニスを此処に繋ぎ止めるに至った。


喫驚のあまり顔を上げたイヴニスの瞳に優しい光が灯るのを最初に見出したのは、竜髄症の少女だった。

「……王妃の次は、誇らしい初代の当主様と来たか、本当に次々と……大仰なこった」

その王妃の夫であり、初代当主の実父でもあるこの青年は、少しだけ視線を落とし、幾つもの通り過ぎる雑念を噛み締めるようにそう独白する。深い妄執に身を窶し掛けた彼に取って、語られたその2つの話を真実と断定する材料こそなかったものの、それでも一度は道を踏み外そうとしていた過ちから一転し、彼を踏み止まらせるには十分過ぎる救いとなった。

「で…その初代当主の才媛様ってのは、一体どんな奴だったんだ?」

囚われの青年は更に静かに目を伏せ、まだ見ぬ、そしてもう決して見る事の出来ない我が子へと思いを馳せる。

「イヴナード初の女性騎士として、聖騎士卿(デイム・パラディン)の愛称で親しまれた才女だったと伝え聞いています。篤志家としても知られ、今のグラム家の名声をほぼ初代にして築き上げました。多くの子宝に恵まれ、その全てを廻し子として取り成しましたが、夫である副当主様と仲睦まじく余生を過ごされ、天寿を全うされたと。そう聞き及んでいます」

他の騎士国の民と同様に、直接の血の繋がりには殆ど執着しないガヘラスであったが、グラム家の興りが英雄の隠された直系であると知るのは何だか誇らしいものがあった。

「そうか……」

イヴニスはその才気溢れる生涯を聞いて思う。実の親の顔も見ないまま、勝手に成長して、勝手に歳を重ねて。(あまつさ)え勝手に名を残し、親を差し置いて勝手に天寿まで全うする。何て大層なご身分なのだろう。然も神の力に翻弄されているだけの自分と異なり、自身の力で、その意志だけで為し得るなんて。

もしあいつらの亡霊に逢えたのなら、見知った顔の老け込んだ婆さんと、見た事もない皺苦茶な婆さんから、"お父さん"などと(しゃが)れた声で呼ばれる事になるのだろうか。

(──何だかそれも、悪くはないな)

そして彼の知らない2人分の人生を、長い長い時間を掛けて姦しく耳に穴が空く程に聞かされる。その時一体、彼女らはどんな顔で自叙するのだろうか。幸せそうな顔をしていてくれるだろうか。辛かった事を吐露した時は、きちんと慰めてやれるだろうか。きっと叶う事は無いだろうが、そんな日が来たらと思うと楽しみで仕方がない。

ただもし本当にそんな日が来たとしたら、2人から全く逆の心配をされていたであろう事に、彼が最後まで気付く事はなかった。

私の夫は、父は、誰よりも強く長く苦難に耐え、この国をたった一人で裏から支えてきたのだと。だからもう、安心して、と。


「気が、変わった」

まるで冥府神に乗せられた様にも思え少しだけ口惜しくもあったが、きっと今が人として最期を迎えられる最初にして最後の機会なのだと、そう確信する。何の巡り合わせか、これまでどうしても手を伸ばす事が出来なかったものまで彼等は与えてくれた。人として繋ぎ止めてくれた。もし今を逃してしまえば、人でも神でもない禍々しい存在として未来永劫生き続けてしまう事になるだろう。英雄イヴニスは一拍を置き、到頭その言葉を口にする。


「……死を、望もう」


宣言したその瞬間から突如横殴りの強烈な睡魔が襲い来る。半ば予想はしていたものの、即座に死が、侵食してきた。歪み掛けた視界に入る3人は、今し方発した言葉に強烈な不安を呈している。

──心配するな、分かっている。

願う前に礼の1つでも伝えておけば良かった、あの若い方の男を罵った時、あちらは形だけでも礼を述べていたというのに。ただ死を願うのは、ここに居る(かつ)ての動乱に消えた名も無き男、それだけ。"お前等の知る英雄には"決してそう願わせない。

決して。

力と誓いが全てのこのイヴナードで、その祖たる男が、最後に誇りを、誰にも負けない意地を見せずしてどうするというのだ。彼は自身の弱気を一笑に付す。


四肢から急激に力が抜け、目も耳も、五感の全てが一気に衰弱し、耄碌していく。まともに声を出す事すら叶わない。もう何も見えないし、聞こえない。意識を真っ(さら)に塗り潰すような悍ましいまでの睡魔と、浮遊感すらなく静止した虚空の中へと閉じ込められて行く感覚に抗い、何とか唇を強く噛み切る。痛みすら殆ど感じなくなってしまっているものの、そうして思考の渦を無理矢理この場に押し留めた。まるで失った400年を一瞬で取り込んでしまったかの様な重い倦怠感が、自身の存在ごと纏めて押し潰しに掛かってくる。然し、──依り代を失ったケーリュケイオンの力が自身と共に消失など、そんな事、絶対にさせはない。

あのぶっ飛んだ神の御業が、この取るに足らないたった一人の男と共に逝くだなんて、"生の力"が死ぬだなんて、余りに滑稽過ぎるだろう。消え去るのは俺だけで良い、名も無き、ただ誰かを忘れられなかっただけの男。

メルクメリー、イリージア、愛しきお前達の生きたこの地と営みを、決して無くさせはしない。

この英雄に与えられた神の力が、加護が、築き上げてきたその歴史が露と消えるのならば、それはこの地に住まう者達全てがそう望む時だけだ。ただそんな日など、金輪際来ないし、来させやしない。今へと続く末裔らよ、ここを護る柱は、必ず此処に置いていく。何が何でも、絶対に。神の力よ、この地の加護よ、この大地そのものを、皆の心を依り代に、皆の心の中にこそあれ。

さあ栄華の神エファーシャよ、今だけはお前に願ってやる。その名の通り、改めて栄華なる日々をこの地に給え。矮小な人間一人を(ほしいまま)に、常しえに弄び続けるなど、そろそろ飽いた頃だろう。いいか、耳をかっぽじって能く聞け。

──()()は、死など望まない。

生温かい感覚が身体の芯からズルリと抜き取られて行く。心も身体もまるで凍り付くように寒く、それでいて何も感じない。そうして思念の最後の一滴が死の海に溶け落ちる瞬間まで、彼は強く念じ、止観し、そう深く祈り続けた。


先のイヴニスの言葉を聞き、黒髪の少女は両手を口元に当てながら瞳を見開いて愕然としていた。

──今し方、この青年は、何と述べたのか。

直ぐに理解する事は出来なかった、(いや)、理解する事を理性が拒絶していた。レルゼアもガヘラスも酷く動揺し、視線を泳がせている。グラム家初代当主の名を聞いて、憑き物の落ちたような顔をし始めた時、何となくおかしな予感がしていた。ただその時感じ取れた彼の決意は、決して後ろ暗いものでないと、そう自分に言い聞かせただけだった。かの言葉の直ぐ後、掠れてもう声にもならない声で「心配するな、英雄にはそう願わせない」、ほんの微かだが、(かつ)ての優しい彼の声で確かにそう聞こえた気がした。


イヴニスが冥府神ラズラムにその望みを提示した直後、彼が死の侵食と戦っている時。その双眸は急激に深く窪んでいき、頬は痩け、髪は抜け落ち、身体中の肉が溶け出し、骨に皮が張り付いて、まるで今まで生きてきた永い永い年月が一気に収束するように醜く変化していった。繋ぎ止めていた白く輝く魔人(ネフィリム)の鎖はより一層その光を強く増していく。

その2つの鎖はまるで彼を両手で掬うようにして吊し続けている。殆ど骸のそれは繋ぎ止められた右手を手枷から強引に引き剥がすと、その指先の全てを左胸へと突き立てた。どす黒く鬱血に濡れた手が透明に煌めく欠片を引き抜くや否や、輝く鎖は大蛇の様に大きく自身をうねらせ始める。青年だったものは震えながら掴んだ欠片を大きく天に掲げると、左の手枷も彼を解放し、その欠片をそれぞれ左右から捕らえるように咬み付き合った。骸がズルリと地面に倒れ込むのと同時に、2つの尖端だった結合部は甲高く鳴り続けながら眩く赫灼し、弾ける様な轟音となった。やがて強い光と音が消える頃には、まるで天から吊り下げられた1つの首飾りの様にその姿を変え、最下部は幾つもの(かさ)の様な柔らかい光の連環(リング)に包まれていた。


彼等は各々顔を覆っていた前腕や外套を払うと、その光景を前にして呆然と立ち尽くす。最初に行動に出たのはレルゼアで、急ぎ"口の悪い青年だったもの"の元へと駆け寄った。伏臥するそれを持ち上げるべく両肩に手を掛けるが、擦り切れた衣服の中で砂塵の如く瓦解し、音も無くゆっくりと朽ち果てて行く。その眼窩からは、血液とは異なる膿汁(のうじゅう)の様な濁った一筋が薄く流れ出ているようにも見えた。ガヘラスはそんな2人を横目に、魔人(ネフィリム)の鎖を(つぶさ)に注視しながら、不安げに呟く。

「イヴニス卿…貴方は双頭竜の力から逃げ(おお)せたのでしょうか…」

当然ながら、それに答えるものなど居ない。永劫の夢の中に居た英雄は、永劫に人々の夢へと消えていった。そうして遠い将来、加護の委細を知る者らから、今日この日こそが真のイヴナードの始まりであると、(かつ)て大賢者や王妃らがその日が来るのを切に待ち望んでいた、(いしずえ)たる英雄の犠牲を必要としない第2の始まりの日であると、歴史の影でそう語り継がれていく事を、この時の彼等はまだ知らずに居た。


3人がその胸に去来するものを確かめていると、やがて後ろで重く玄室の扉の開く音がする。

「──さて、頃合いのようじゃの」

頑是無い娘子と思しき声が響くと、レルゼアは膝の砂埃を払い除けながら手早く立ち上がって警戒の意識を向けた。振り返ると全身を覆う重鎧を纏った大男と、その孫位に見えない小さな童女が揃って部屋へと押し入ってくる。口髭を蓄えたその初老の大男は、禁色である紺青の外套を纏い、腰からは剥き身の波刃剣(フランベルジュ)を提げていた。その胸当てには太陽を象った大きな紋章が描かれている。傍らに立つ孫娘の如き子供は、其処彼処(そこかしこ)に華美な装飾の施された緩やかで白い絹の衣装を纏っており、両腕から伸びる袂は足元に付きそうで、左肩や腰から裾にかけて微かに琥珀めいた濃い象牙色の肌が大きく露わになる様に深い切り込みが入れられていた。長く艶やかな黒橡(くろつるばみ)の髪は纏めて結い上げられ、時折瑠璃の差し色が顔を覗かせている。更に摩訶不思議な模様の髪飾りや幾つもの大きな木製の腕輪を付け、どこかの呪い師のようにも見えた。


新たな来訪者ら玄室の中心へと歩を進めると先客の3人は身構えたが、呪い師然としたその幼子は「案ずるでない」と事も無げに言い放つ。

「ミレス様、何故ここに…」

イヴニス消失の動揺が未だ拭い切れないガヘラスが問い掛けるも、巨躯の重装騎士や神秘的な娘はそれに応ずる事無く、今は一つに結ばれた輝ける魔人(ネフィリム)の鎖の前に静かに立った。ミレスと呼ばれたその大男は胸に拳を当てて軽く会釈し、追悼の意を示す。

「──イヴニス様の加護は今後も変わらない、それは間違いないのですな?」

「暫しは不安定じゃろうて。ただそれも数日限りじゃろう。(ぬし)は新たな呪痣(じゅし)の処遇に少し頭を悩ます事になるかもしれんが、変わるのはその程度。少なくとも"妾の直接識る範囲では"、な」

彼等はそれぞれに光の鎖を見上げたまま、質素な会話を取り交わしていた。

「もし護りが消えたとて、見ての通り手遅れ、じゃがな」

幼子は口元を袖で隠しながら、静かに笑いを噛み殺す。ミレスが厳めしい目線でそれを見咎めると、彼女は悪びれもせず、赤銅色に(めか)されたアイラインの下にある赤く円らな瞳で彼を見返して、

「時には諧謔も必要じゃろ?生に彩りが無くなるぞよ」

余裕綽々でそう応じていた。

()も我が騎士国の主権に纏わる一大事、私目はそうした折に軽佻な戯れに興ずる程の大器ではございませぬので、どうぞご容赦いただきたい」

「──安心せよ。これからは(おの)が手ずから"非業"を作り出す事もない」

そう諭された大男は自ら戒めるように拳を強く握り締め、複雑な面持ちで(かつ)て英雄を捕らえ続けていたその白い輝きを見詰めていた。


レルゼアは彼等の不可思議な遣り取りに疑念を抱く。ミレス大将軍は厳格ながら仁義や礼に篤く、下々に対する敬意も厭わないのを知っている。実際に(かつ)てそうした姿を遠巻きに目にした事もあったが、この接遇は明らかに目上に対するそれでしかなかった。そしてミレス大将軍より地位や立場が上の、この様な幼子など存在したであろうか。疑惑の眼差しで精察していると、

「久しいの、レルゼアよ。(いや)、今はまだ初対面だったかの」

幼気(いたいけ)な少女は尖晶石(スピネル)を思わせる真紅の瞳を煌めかせ、そう彼に応じる。

「さて。(おの)が目にしてもう満足したであろ?…こんな辛気臭い所からは疾く立ち去らんとな」

彼ではなく隣の重装騎士に向けて安々しくそう告げると、彼女は早々に踵を返し歩き始めていた。

「……そうそう、レルゼアとそこの女子(おなご)、共に妾の元に給れ。ガヘラスは…そうじゃの。主の手下が故、好きに処すが良い」


怪しく滅紫(けしむらさき)仄光(ほのひか)る玄室から土の階段へ、そして暗渠を経て外に出ると地上は既に宵の口で、出迎えたのは複数の武装した騎士らと目深にフードを被った体格の良い黒装束の男2人だった。ガヘラスは1人ミレス大将軍に直接連れられて行く。レルゼアとリテュエッタは宿への帰路に就く事無く、謎の少女と共に頑強な客室(キャビン)付きの馬車に乗せられ、城砦庁舎(グランパレス)へと半ば強制的に連行されていた。

先導する幌馬車には騎士らと黒装束の男らが乗り、到着してからも騎士らの間に挟まれて歩かされると、南塔の最上階に設けられた"天来の間"と呼ばれる賓客用の広間に幼子と共に招き入れられる。そこは足音が全くしない程厚く美麗な絨毯で覆われ、至る所が金と銀の細工で飾られた美しい迎賓の間だった。黒装束2人は妖しい少女の付き人だった様で、呪い師然とした幼子は男2人を一旦部屋の外に下がらせると、宝飾の座に鷹揚と腰掛けた。同伴してきたイヴナードの騎士達も会釈と共に退出して行き、而してレルゼアとリテュエッタのみがこの謎めいた童女と対峙する事となった。

「さてと…妾に問いとう事がたんとある、といった風の顔じゃの」

その姿を見ていると、まるで人形か縫い包みが椅子に据え置かれたかの様に錯覚してしまう。様子を窺って押し黙っていると、イヴナード側の従者と思われる女給仕が陶で出来た茶器を3人に差し出し、まだ湯気の立つ液体を注いだ後、音も無く立ち去って行った。絢爛豪華なレース生地の敷かれた卓上は温かく(かぐわ)しい香りで満たされ、少女はくすんだ緋色の液体を安穏と啜っていた。


ガヘラスから聞いていた国賓とは"ナズィヤの巫蠱(ふこ)"との事だったが、この状況から察するに、彼女がそうなのだろうか。何れにせよ護衛は少なく、無防備に過ぎる。そして歳の割に幼い風貌とは耳にした事があったものの、まさかこれほどの子供だったとは。

「これ、不埒な事を(のたま)うでない。妾は主よりほんの少し年上ぞ」

彼女は宙に浮いた足をふらふらと揺り動かしながら悪戯っぽく微笑む。まだ一言も発していないというのに、(かつ)て冥府神と出会った時のように心を読まれていた。

「…失敬。うら若い姿と伝え聞いていたが、まさかここまでの幼さとは」

この見た目で自身よりも年上とは、魔女か何かの類であろうか。冗談を言っている様には思えなかったが、本心とも到底思えなかった。

「"相変わらず"、率直に無礼よの、主は。くれぐれも、その舌禍で身を滅ぼさんようにな」

そう(かこ)ちつつも、彼女は楽しそうな表情を絶やさない。

「……私は貴方にお会いした事が無いと記憶している。その御言葉といい、何故私の名をご存じなのか」

困惑し続ける彼に対し、眼前の巫蠱と思しき者は事も無げに言い放った。

「何ぞ些末な事──妾の事を色々と聞く前に、騎士たる主は改めて名乗り直すじゃろ?さあ、教えて(たも)れ」


彼女の祖国、ナズィヤ王国は"(すな)の国"と呼ばれる程に荒瘠(こうせき)ではあったが、豊富な鉱石資源や武力などで国家としての体裁を保ち続けている。中でも特に重要視されているのが占星術で、(かつ)ては浮蝕などで行商の大帯(マーチャント・ベルト)を迂回する商人団(キャラバン)などが(たむろ)するだけだった地に、強固な王国が築かれていったのは、強大な力を持つ占星術の導きあっての事だった。その歴史は人の世界(テリス)の中でもかなり古く、恐らくオルティア大教国に次いで長いとも言われている。また王国とは(いえど)実際に王は傀儡となっており、"ナズィヤの巫蠱"と呼ばれる当座に於ける最高位の占星術師が(まつりごと)を取り仕切っていた。

こうした事から、ナズィヤ王国については、ただ"ナズィヤ国"と称される事の方が多い。つまりこの幼子にしか見えない呪い師は、実質的に当代の国家元首と言って差し支えなかった。イヴナードでは屡々(しばしば)有力な占星術師が国外から招かれる。廻し子を上手く維持していくためには、どうしても何かしら公平な指針に頼る必要があり、それが占星術だった。当初は大賢者グリムクロアの持つ広い知識で執り行われて来たが、専門的な技術や最新鋭の知識を取り込むため、日々招聘が行われる様になっていった。必然的にその中の最高位であるナズィヤの巫蠱も対象となるが、それだけ高位な占星術師となると、余程の機会に限られていた。そして今回の来訪は、イヴニスの消失に纏わる混乱を防止する為、異例中の異例として彼女自らが望んでやって来たのだという。直前まで真の目的を伏せていたため、日中は厳重な警戒態勢が敷かれ、到着後にイヴニスの件をミレスに明かすと、彼は最低限以外の警備のみを残し、"単なる物見遊山だった"という体にして人払いしたのだった。


──それではまるで、我々が侵入し易い様に影ながら手助けしていたという事ではないか。

強い訝しみから、自然とレルゼアは更に眉根を寄せ、意図せず彼女の事を()め付けてしまっていた。

「騎士国から来る飯は美味いでの。今(つい)えられたら国が餓えてしまう。もう昔の様には戻れん。妾に取ってこの国の民草は、差詰め騎士というより農奴と言ったところじゃな」

彼女は素っ気なく付け加えると、紅い茶を最後まで飲み干した後、カップの底に沈んでいた桜桃(チェリー)の果肉を(つま)み、嬉しそうに食む。先程の地下での発言と同様、加護は今後も問題ないと、言外にそう告げていた。

「だが巫蠱よ、幾ら占星術に長けているとはいえ、私の名を存じ上げていた事や、お会いした事があるようなその物言い」

「──"(あたか)も未来そのものが完全に視えている、そうとしか思えない"、と」

レルゼアが続けようとしたその心の中の一字一句を、彼女は先んじて読み上げていた。


遠く鐘の音が夜の始まりを告げている。彼等は黙したままで暫くの間視線を交わし、その音は街の灯りへと溶けていった。窓の外に目を遣りながら口火を切ったのは、ナズィヤの巫蠱だった。

「腹が減っておるから本当なら続きは夕餉の後か明日(みょうにち)にしたいところじゃが…それではまあ主らが落ち着かんじゃろうて」

その言葉とは裏腹に少しも不服そうには見えず、彼の方へと向き直り、声の調子を少し下げながら尋ねてくる。

悪魔の血統(レヴァレント・イヴィル)、聞いた事はあるかの?」

リテュエッタは即座に首を振ってみせたが、レルゼアは少し間を置いて静かに頷く。

「──瞬き程の未来が視えるいう、忌み嫌われた古の部族。仄聞(そくぶん)程度には」

そう聞いて彼女は複雑そうな笑みを浮かべると、人差し指を軽く上唇に当てながら囁き告げた。

「妾の従者、なるたけ顔を見られんよう心掛けておる先の奴等が、それじゃ。月並みには主の知っておる通りじゃろうて……決して逆らわんようにな」

その部族は魔法の残っていた太古から既に存在しており、(かつ)てはそんな悍ましい(いみな)で呼ばれてなどいなかった。ただ今となっては何かしら暴力行為に頼るしか生きる(すべ)が無く、盗みや暗殺、賭博といった裏の稼業を生業とする者が殆どだったため、何時しかそう呼ばれるようになってしまった。レルゼアはこれまで辟易する程に伝承のそれ、即ち封じられた英雄や奈落の底、果ては冥府神まで目の当たりにして来た事もあり、今更その実在を(つまび)らかにされたとて、特に動じる事はなかったし、その血統は竜髄症と同等か下手をしたら竜髄症の方が珍しい位の言葉として広く知られていた。


一般的に知られている事実とは、彼等の持つ神通力の様なものは感覚や直感の延長に近く、瞬時の判断が支配的な行為、例えば白兵戦や狩猟などで無類の強さを発揮するという事。実際にはその意思とは無関係に"今と少し先の未来までの間を同時に"感じ続けてしまうらしく、生まれて直ぐその感覚に慣れないと呼吸すら困難で、そのまま死を迎えてしまうのだと言う歩くといった平凡な動作でさえ習得に通常の倍以上掛かってしまい、3歳から5歳位までの間は殆どの者が真っ直ぐに立つ事すら困難らしい。恐らく精神への負荷が常に高いため、知育が抑制されてしまい、どれほどの努力を重ねても読み書きすら身に付かない者が多く、平均的な寿命も30に届かないという。畢竟、動物に近い原始的な生き方が適しており、その稀有な能力から、時の権力者の隠れた手駒や子飼いとなっている事も多い。また生まれながらに能力を発現しない者もあり、そうした時は一般人と変わらない成長をすると言われている。但しどれだけ他の血を取り入れようと、その力が代々失われていく事は無く、而して人々からは忌み嫌われ、社会から隔絶された少数民族となっていってしまった様だ。そしてナズィヤ国の裏では兼ねてからこの部族が暗躍しているという流言飛語が騎士国に限らずあらゆる場所で(まこと)しやかに飛び交っている。ただイヴナードの騎士が実際に彼等に接触したという噂が有るのと、イヴナードで生きる者の中にも、特に灰市街にはそうした者が稀に居るのだという。


「──そして……この妾もな。内緒じゃぞ?」

元首たる彼女は幾何かの愁いを帯びて吐露した後、(いとけな)く微笑む。流石にそこまで聞くと、レルゼアは少なからず驚きを隠せなかった。見た目と年齢の乖離、極端な幼さは別として、彼よりも、平均的な寿命よりも既に長く生きているというだけでなく、知識や知能は常人のそれに比べても随分と高く感じられる。単に特性を発露しなかった者だろうか。ただそうは言っても、日向で生きられない筈の人種が今正にナズィヤの頂点と立っているとは。

「……仮にそうだとして、先の話とどう繋がってくるのか私には理解が出来ない」

殆ど独り言の様に呟くと、何となく、本当に何となく嫌な予感が押し寄せて来て、手がじっとりと汗ばんで来る。幼き少女の外観をした彼女は、突然小さな右手を目一杯広げ、彼の方へと翳して見せた。

「それは一体どういう…」

レルゼアがそう口にすると同時に、彼女は一旦人差し指だけを立て、その後1つ1つ数え上げるようにゆっくりと開いて行く。

……一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。

卓上に落ちた彼女の指の影も、全く同じ様に増えて行った。5倍、即ち瞬き5回程の未来まで視えるという事だろうか。それとも星の導きによって5回の邂逅が分かっているという事だろうか。術士の男は顎に縦拳を当てながら思い倦ねていると、此処ぞとばかりにリテュエッタが横から口を挟む。

「普通と違って、5日くらい先まで視えちゃう…って事?だったりして」

悪魔の血統の仔細を知り得ないリテュエッタは、何とか話に加わろうと安易な着想を口にしてみるが、レルゼアからしてみれば、それは常軌を逸した途轍も無い考えだった。而して幼子の姿をした年上の彼女は、純真無垢な少女からの答えを否定する様にただゆっくりと首を横に振る。


リテュエッタはうーんうーんと小さく唸りながら考え続けているし、レルゼアも微動だにせず思考を巡らせていた。その細い閑寂を縫って、風も無いのに卓上の燭台に据え置かれた小さな火の欠片が一際大きく揺れ動く様に感じられた。彼女は無邪気に微笑みながら、暫く彼等2人から答えを待っていたが、術士の男は耐えきれず大きく嘆息すると、早々に白旗を揚げる。

「分からない。そろそろ教えてはいただけないだろうか」

「なんじゃ、もう降参かえ?」

彼女は掲げていた右手を下ろしながら空嘯(そらうそぶ)く。

「仕方ないの。そこの稚女(おとめ)、先程のは良い線じゃった。何の事はない──5日ではなく"5年"じゃよ」

レルゼアはそう聞いて無意識に立ち上がりそうになっていた自分に気付き、何とか胸に手を当てて動揺を抑え込んだ。この者はこの一時(ひととき)で、5年も先までの間を同時に生き続けているというのか。瞬き程の未来までを今と同時に感じられたとして、それすら想像の付かない奇跡だというのに、隣の少女はその答えに得心し、純粋にあれこれと空想を巡らせ始めていた。齢を含め、ただ良い様に揶揄(からか)われているだけとも取れる。ただもし仮にそれが事実だとすれば、これまでの発言全てと符合する事に間違いはなかった。どういった目的で、何のために接触してきたのか、そもそもこの者は一体何者なのか。知らず知らずのうちにレルゼアは彼女の事を再び険しい眼差しで見詰めてしまっていた。

「これ、化け物を見る様な目付きで妾を見るでない…全く主という輩はのう」

彼女は両の袖で顔を覆って恥じらいがちな素振りを見せるが、裏にあるその顔は完全に面白がっている時のそれだった。

リテュエッタは小首を傾げて殊更状況を掴めないでいたが、レルゼアはその禍々しいまでの異質さが理解出来てしまったが故に、未だ大きな混乱から抜け出せないでいた。

「──つまり、これから先5年で、私は何度か貴方に…巫蠱にお会いする、と」

ゆっくりと噛み締める様に確認の言葉を口にする。

「フィーカ」

小さき妙齢の少女は、再び人差し指を上唇に当てながら呟く。

「……妾の真名(まな)じゃ。主からはそう呼ばれんと、居心地悪うて仕方ない、心に刻んどくれ」

悪魔の血統の事は(おろ)か、今となっては"巫蠱"としか呼ばれなくなった彼女の本当の名まで知る者など、指折り数えられる位しか居ない。年の割に何時まで経っても妖艶さが身に付いてこない童女は、妾の真名も出来るだけ内緒じゃぞと戯けながらに付け足し、破顔してみせた。


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