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第1章 レルゼアとリテュエッタ (前編)

その少女リテュエッタは、遠く空に浮かんだ大陸を眺めていた。詰まらない雲の切れ端のように、少なくとも数千年以上の間、この大地を見下ろしてきた謎の遠い浮遊物。手の届くようで届かず、何か潜む様で"直接的には"何の干渉もしてこない巨大な天体。それは遥か西の方角を、まるでナイフで刺し貫いたかのように細く長く穿っていた。夕暮れに差し掛かった空は濃い藍色を湛え始めている。傍らには外套に包まれ静かに寝息を立てる男、レルゼアが居た。更にその隣には、騎乗用の小さな飛竜も瞳を閉じて静かに身体を上下させている。その子にはティニーという愛らしい名を付けてみたものの、以前彼からは情を移すような事をするなと咎められてしまったっけ。少女は柔らかく編み込んだ自身の黒髪が初冬の風に靡くのを手で軽く抑え付けながら、もう直ぐ星が顔を出さないだろうかと澄んだ天蓋の方を見上げてみる。透き通ったその白い頬は、そら寒い宵の口に浮かべた花弁の様に自己主張して止まない。視線を西へと戻しながら、彼女は、そう言えば小さな頃からあの空に浮かぶ大陸、"ステアフロート"を眺めては色々と考えるのが好きだったと改めて思索に耽る。太陽の様に目を焼く強さと雄々しさがある訳でなく、星の様な儚さと美しさもない。雲の様に夜に溶けるでもなく、ただ其処に横たわる。


あの謎の大陸が浮蝕を齎すと言われ、それにより人々が長年苦しみ続けている事は、誰もが皆知っている。浮蝕が去ってくれれば、目を見張るような肥沃な大地が戻ってくる。吹き荒ぶ嵐のような、川の氾濫のような、言わば自然現象。それは光ではない何かによって産み落とされた大いなる浮遊大陸の影であり、気紛れな昏き大地の(まだら)。そう真しやかに言い伝えられてきた。人々は甘んじてそれを受け入れる外無い。問題なのは、それが何時やって来て、何時終わるか分からず、瘴を呼び、引いては魔物を呼び寄せてしまうというだけ。


影の元だからと忌み嫌う者も当然少なくはない。それでも自身は、昔から西の空を真一文字に横切るそれを眺めるのが何となく好きだった。あそこには一体何があるのだろう。時折薄く見える緑の上辺は、群生する植物なのだろうか。誰か住んでるのだろうか。どうして色々な場所から眺めても、同じ様にしか見えないのだろう。多くの場所から見た訳では無いけれど、今尚不思議で仕方ない。


かの浮遊物は本当に大陸なのか。そして何故、階段(ステア)と呼ばれているのか。ただただゆっくりと、そうした事に想いを馳せるのが好きだった。吐息は薄く白く、横風に千切られていく。眼下に広がる鏡みたいに透き通った水面は、薄く輝き始めた星々だけを湛え、同じ様に遠い空を見上げていた。


そういえばあの時、この傍らで眠る彼に着いて旅立つと決めた時も、同じように遠い空をぼんやりと眺めてやらかしたんだっけ。今思うと唐突過ぎる事故と、かの病の先触れと、突発的な英断。こうして僅かな日々を過ごし、流れに任せて下したあの時の決断は、きっと正しいものなんだろう。心の何処かでそう信じ続けている。だからこれで良いんだと。彼女はそうやって自身を納得させ、少しだけ離れた場所に腰を下ろしながら、厚く鞣された外套を口元まで覆って、再び浅い眠りに就いた。


時は、2人の出立の頃まで遡る事となる。


リテュエッタは石造りの小高い塔、物見櫓の天辺で多数の洗濯物を干しながら、晴れ渡った露草色の空を仰いでいた。

(──今日はよく乾きそう)

雨期の終わりが近づいて、空気は徐々に乾燥して冷たくなって来ているものの、日差しはまだ衰えきらず、ほんの少し汗ばむくらいの陽気。トレードマークの大きな三つ編みも風に靡いていたが、頭巾や前掛けの方は飛ばされないよう確りと結んである。一息に干し終えた後、彼女は腰くらいの高さで凹凸の続く(へり)の高い方に飛び乗って、スカートの端から覗く華奢な両足を空の方角へと投げ出した。

──危ないからそんな事しては駄目よ。

記憶に甦る姉ミレイユからの小言。何度も口酸っぱく言われて最近は自重していたのに、快い晴天を前に、到頭我慢が効かなくなっていた。


こうして遠い空を眺めるのはどれくらい振りだろう。雲は薄く筋状で、交易都市ミルシュタット西側を占める旧市街の全体、起伏のある雑多な石屋根の絨毯が遠くまで見渡せた。かつて訪れた大きな浮蝕により、このミルシュタットの中心部は背中側、新市街地の方へと移ってきている。細々(こまごま)とした街並みや霞む稜線の向こうには、細く長く、かの浮遊大陸(ステアフロート)が鎮座していた。彼女は何となく空に手を伸ばしながら、最近感じ始めた"僅かな違和感"についてぼんやりと思考を巡らせていた。


不意に強い秋の吹き下ろしが彼女の後方へと抜け去る。先程干し終えたばかりの真白の大きなテーブルクロスは無事だろうか。飛ばされてはいないだろうかとつい気になってしまい、無理な体勢で振り返るべく大きくその身を捩る。

(……いけない!)

回転の軸にしていた左手が滑り、そこから底の無い陥穽へと引き込まれる様に、彼女は雲の少ない天空を仰いだまま大の字で落ちていった。

(──私、死ぬんだ…)

仄かな浮遊感が彼女の本能に対してそう悟らせて間も無く、少女は落下点に置いてあった木箱の群れに背中から深く沈み込んでいった。


旅の男レルゼアが無意識に顔を上げると、狭隘な空の隙間にその光景が垣間見えた。手頃な宿を探しながら散策してたが、土地勘の無いまま当て処無く歩いていたら、入り組んだ生活圏へと入ってしまったため、辺りを見渡せる少し小高そうな場所を目指して浅い坂道を昇っている途中だった。ほんの一瞬、人型の影が垂直に消えたのを目で追うと、直後に木片の砕ける甲高い音と鈍い衝撃音が響く。普段なら無用なトラブルを避けるため、そのまま姿を眩ますか、念のため一見してから去るか悩むところだったが、この時は疲れていて、頭を使う事無く自然と先の音の源に足が動き始めていた。そうして距離にしてたった数十歩、落下点に一番に駆け付ける事となった。


せめて干し草か何か、柔らかい物でも詰まっていれば衝撃が和らいだかもしれない。ただ悲しい事に木箱は殆どが空っぽだった。落差は大人の背丈にして10人以上、割れた箱の支柱が少女の胸の辺りを背中から深く刺し貫いており、即座に助からないと判断出来る。ぐったりとした彼女の身体から染み出た赤黒い滲みは、粗い石畳の隙間をまるで迷路のようにゆっくりと侵食していった。この裏路地には幸か不幸か自身の他に人がおらず、そのため犠牲は彼女だけで済んだようだ。ただ全身を強く打ったこの少女は、未だ微かに胸を上下させていた。

(──あれだけ深く肺を刺し貫かれて…呼吸をしている?)

念のため屈み込んで鼻や口元に軽く手を当ててみると、ほんの僅かだが得も言われぬ不快な痛みが彼を襲う。記憶に新しいその痛みは、彼に強い焦りを想起させた。

(──この子は死なない、このまま此処に置いおいては不味い)

先の轟音から、既に猥雑な野次馬の気配が背中に届き始めている。レルゼアは不意に覚悟を決め、外套を半分外してから彼女を一気に背負い上げ、再び外套を羽織って全て覆い隠すと、強く歯を食い縛って駆け出していった。板切れからこの娘が引き剥がされた時のごぷっという耳障りで小さな呻き声は、暫くの間彼の耳の奥にじっとりとこびり付いて離れる事はなかった。


少女がふと目を覚ましたのは、何処ぞと知れぬ安宿のベッドの上だった。身体中、特に胸の中心がまだ強く痛んでいたが、先程の大怪我の大半は緩やかに治癒しかけていた。ざっくりと裂けた鳩尾辺りの衣服の奥に酷く濡れた出血の跡が見て取れるくらいで、傷は悉く塞がってきているようにも見える。布団などは一切掛けられておらず、肌を大きく露出させていたため、少女は破れた胸元の辺りを無意識に両腕で覆いながら上体を起こした。


気が付けば、隣には椅子に座った男が無言で窓の外を眺めている。そのまま話しかけるべく口を開こうと試みるが、まだ肺に空気が行き渡らず、そうした動きに気付いた彼は遮るように話し掛けてきた。

「目が、覚めたか」

男は存外優しい声音でそう告げたが、次に続くのは少し強い語気を孕んだ彼女への詰問だった。

「──人に触れ、おかしな痛みを感じ始めたのは何時頃からだ?」

リテュエッタは円らな瞳を大きく見開き、少しの間言葉を失う。朧気になりつつある転落の事ではなく、先日から少しずつ気になりだしていた違和感への指摘。その事に酷く困惑していた。


どう答えたものだろう。僅かな沈黙と共に男の顔色を(つぶさ)に観察してみる。恐らく自身より2回り程──実際には2倍程に歳を重ねている男の表情はあまりに平坦で、感情を読み取る事が出来ない。艶の無い藍鉄の髪は両目の上端に掛かるくらいで乱雑に揃えられ、血色の薄い顔色が不健康さを雄弁に物語っている。ただ落ち着いて能く見てみると、先の言葉は威圧や嚇しといった類ではなく、彼自身が何かに急き立てられて発せられたようにも感じられた。

「貴方は……誰?」

喉を使うと想像以上に胸の奥がチリチリと痛み、胃液を丸ごと戻しそうになるが、一先ず質問に質問を重ねて様子を見る。

「あ、ああ……性急に過ぎた。私の名はレルゼア。少し遠く、東にあるイヴナードという騎士国の者だ」

強く訝しんだ誰何(すいか)を投げたら、また当初の優しい声色、寧ろ最初より随分と弱気に思えるくらいに戻っている。イヴナード、遠い騎士国からとなると比較的長旅のようだが、衣服は小綺麗なままで、留め具などの装飾(オーナメント)もよく見れば緻密な細工が鏤められていた。きっと少し位が高い男性なのだろう、彼女はそう悟ったが、実際かの国の術士に能くある風貌というだけだった。


慇懃ながら覇気のない自己紹介を聞き、少女は少しだけ警戒感を解く。

「……そういえば私、あの見晴らし塔から落ちちゃったんですよね」

「そうだな」

彼女に取っては非常に大事な確認だったのだが、男は興味なさげに肯定しただけだった。

「貴方が治してくれたの?凄く酷い怪我だった気がするのに……」

あまりの素っ気ない返事に、続く語尾は自然と窄んでしまった。

「…それに答える前に、先にこちらの質問、先程の問いに答えてくれないだろうか」

術士の男は真剣な眼差しで彼女を見詰め、静かに返答を待っていた。

「……3日くらい前、かな…そういう事に気付いたのって。何だか誰かに触れるとちょっと痛いというか、気持ち悪い感じというか。でも何で分かっちゃったんですか?まだ誰にも話した事ないのに……」

彼は自身の中の嫌な予感と合致した事に大きく溜め息を吐き、また顎に縦拳を当ててながら苦々しい面持ちで告げた。

「──その痛みや不快感は、君の方だけではない。程度の差はあれ、触れられた側も同じように感じる。まだ軽い違和感程度だったから、周囲から取り沙汰されなかっただけかもしれない」


ふと茜色に染まり掛けた窓の外が視界に入り、彼女は出し抜けに思い出す。

「あ!そういえばあれからどのくらい経ったんでしょうか。私、もう帰りたい…そろそろお仕事に戻らないと」

仕事とは酒場(パブ)の給仕の事だった。窓の外は既に夕暮れの書き入れ時を告げている。先の洗濯物も取り込んでいない。通常なら即死するような大怪我をしていたというのに、今の自身の具合によってそうした事がすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。男は少し気後れしながら、殆ど独白に近かった前半の問いに答える。

「丸1日と少しくらい、だろうか。──出血が酷かったから、匿うのには苦労した」

予想外の彼の言葉に、黒髪の少女は先程よりも更に大きく瞳を見開いて仰天する。後半部分の付け足しは彼女の認識を素通りしてしまっていた。

「そんな……大変っ!!お姉ちゃんが心配しちゃう!早く帰らないと…!!」

彼女は急いでベッドから降りようとするも、身体中の軋みと込み上げる吐き気に負けて、大きく蹌踉めき体勢を崩していた。急いでその両肩を支えた術士は、そこで初めて憐憫とも言える僅かな表情を見せ、眉を顰める。

「無茶をするな。自由に動けるようになるには、まだ少し時間が掛かるだろう。……せめてその間、私の話を聞いてくれないか」

耄碌し始めた宿の主人には通常の5倍ほど掴ませてある。死にかけを連れ込んだのが伝わったとしても、しばらくは何も言ってこないだろう。彼は改めてリテュエッタをベッドに腰掛けさせると、淡々と"彼女が最近感じ始めた違和感"について語り出した。


彼の説明によると、詰まるところ"竜髄症"という奇病を発症したのだという。何十年間にたった数名くらいの、治る見込みのない難病。余りに奇っ怪なそれは、一部で古代竜の呪いと言い伝えられてきた。最初は"他の生物"との接触による不快感や苦痛、吐き気などを感じてしまう様になる。それは程度の差はあれ、接触した側についても。症状が軽いうちは衣服越しかどうかに関わらず物理的な接触に限られるが、症状が悪化すれば接近するだけで、更に進行すれば、多少離れていても言葉を交わすなど"心が通う"行為をしただけで、周囲に苦痛を撒き散らす存在になってしまうのだという。同時にその苦痛は、次第に耐え難きものへと変貌していく。仮に発症後、たった一人きりで生きて行けたとしても、その病は次第に内臓をも蝕んでいき、長くとも数年、短ければ1年程で命を落とす事となる。


但しこの難病については、1つ大きな、ともすれば利点とも言える変質を伴う事で知られていた。それは"外傷に対して滅法強くなる"事。異なる言い方をすれば、罹患した時点で"不死身になった"と言っても差し支えない。先の転落事故のように、喩え一時的に致命傷を受けたとしても、徐々に回復してしまうし、そもそも傷付けること自体が難しくなっていく。ただ末期に酷い外傷を受けると回復が行き渡らず、言葉通り"死ぬまで"その外傷の痛苦に苛まれ続けてしまう。他にも餓えや渇き、毒といった類にも耐性が付き、数か月程度は飲まず食わずでも問題なくなるのだと言う。食事については、全く摂らない方が寧ろ内臓に負担をかけず延命出来るといった説すらある。


捉え様によっては、"生ける屍"と言っても過言では無い。死にたくても、死ねない。そうした竜の様な強靱さと、それを無理矢理人の器に押し込めたような不安定さから、その病は騎士国イヴナードに於いて概ね竜髄症と呼ばれていた。他の地域では、痛み憑き、呪痣(じゅし)、隔絶痕といった様々な呼ばれ方をされているのだという。発症の原因は不明で、領主や英雄などの支配層に於ける罹患が比較的多く、外傷に強いという利点だけを以てして、束の間の暴君になった者もあるらしい。


彼女は当惑し──まるで自分の事と思えないように、静かにそれを聞いていた。

「……教えてくれてありがとう、って言えば良いのかな。今でも全然信じられないんですけど…この傷の治り具合からして、本当の事、なんですよね?」

自らの(はだ)けた胸の中央、両手で隠した奥の、本来ならまだ癒えきらぬ筈の傷口を改めて直視する。

「もしその竜髄症っていう病気に罹ってなかったら、きっと私、あの時もう死んでて……何て言うのかな、寧ろ良かったって事なのかな。はは」

無理に明るく努めようとするのが透けて見え、乾いた笑いが差し込まれた。彼はそれを全く気に留めず淡々と応じる。

「先の質問、私が何か処置したかどうかについては、ここに運び込んで安静に寝かせていたというだけで、実のところ何もしてはいない」

「でもやっぱり…ありがとうございます」

今度は彼女生来の、自然で柔和な微笑みを浮かべ、改めて自身を連れ去った男に定型の礼を述べる。

「私、このまま帰っちゃったら駄目……ですよね?」

彼女はぽつりと呟くが、レルゼアは少しだけ間を置いて、一つ一つ慎重に言葉を選定しながら、その尤もな問いに答えた。

「恐らく…(いや)、間違いなく、何れ君は周囲に恐怖を与える存在になるだろう。あんな転落をしても平気な顔で戻ってきて、然も"近付くと祟られて"しまう。相手とどれほど親くとも、寧ろ親しければ親しい程、文字通りその人に強い苦痛を与えてしまう事になるだろう。それでも良いなら、帰るべきだが」

男は一通り、彼女が考えないようにしているであろう事実の端を淡々と切り揃えて言い渡した。

(──だからこそ、突発的に連れ去ってしまったのだが)

そうして最後に続く自戒の念だけは、心根に留めておく。


「そう、ですよね…そうなると、私、これからどうすれば良いのかな……」

それは傍らの男に向けた弱々しい問いとも、単なる独白とも取れた。彼の方としても棚上げしていた難題であり、彼女に何か妙案を示す事は出来なかった。

「より悪化するまでは、普段通り過ごすのも1つの手かもしれない。ただその場合、次第に別れを切り出すのが難くなり、機を逸すれば逸する程、拗れる可能性は高くなるだろう」

彼は実際そうした事例を目の当たりにしており、その事についても酷く悔悟していた。

「君が寝ている間、君がこれからどうすべきかを私としても考えていた。ただ結論は出ていない。──済まない」

最後に形式だけの謝罪を添える。そうしてそのまま顎に縦拳を当てて黙り込んでしまった。重い沈黙が頭を擡げる。


リテュエッタは不意に、漸く、自らの置かれた境遇がするりと心に入ってきて、少しだけ泣きそうになっていた。でもまだそれは上辺だけ、完全に受け入れる事やこれからを想像する事など、到底出来なかった。もし今の状況を全て心に受け容れてしまったのなら、きっと自暴自棄になって理性の方が先に死んでしまっていただろう。

「でも…どうしてそんなに詳しいんです?レルゼア様って、ひょっとしてお医者様なのでしょうか」

高貴そうな格好の事もあって、彼女は遅まきながら少し謹んだ言葉遣いに改めようとする。

(いや)、レルゼアで良い。医術師でも、況してや薬師ですらない。ただ以前、そういう者と関わっていただけだ」

彼はそう言って珍しくほんの少し言葉尻を濁した。"そういう者"とは医術師や薬師の事を指すのでは無い。実際には竜髄症の罹患者そのものの事で、(かつ)ての家族であり、歳の離れた妹の事だった。


自由闊達に見えるものの、線が細く柔らかい印象のリテュエッタと、凜として背筋が通り、聖騎士然としていた妹ラピスとでは、似ても似付かない。眼前の少女は濡羽色の長い黒髪で、妹の方は淡い栗色、そして妹の方は邪魔にならないよう肩口で軽く切り揃え、後ろで束ねていた。また片や雪のような白い肌と、片や日に焼けた浅い小麦色の肌。顔の細部は霞掛かって来ているものの、かの妹の瞳は何時も活力ある輝きに満ち溢れていた。ただ兄妹と言っても実際歳はかなり離れていたため、最後に見た妹とこの少女は、恐らく同じ位の齢かもしれない。


そして"力と誓い"が全ての故国では、竜髄症は蛇蝎の如く疎まれていた。この交易都市では公権力に捕らえられるといった事は決して無い筈だが、それでもこれから先、この少女が受けるであろう受難は、容易に想像が付く。まさか自身が人生で2度も竜髄症を患う者と関わる事になり、更に最初に得た知識と経験が次に役立つ事になろうとは思いも寄らなかった。そうして少しずつ丁寧に封じていた記憶の糸を手繰り寄せていたら、半ば無意識のうち、懺悔と同じように、妹ラピスの事情を滔々と眼前の少女に明かしてしまっていた。


或る時不意に、妹の罹患を知ってしまった事。当時の妹は同じくらいの年齢で、故国では忌むべき病として、その存在すら隠匿され続けていた事。妹は自身がそうと認められず、懇願され、彼が一度は"その手に掛けてしまった"事。ただ殺める事は出来ず、死なせきれず、彼共々捕まってしまった事。竜髄症に対するイヴナードの対処は度を越えて厳しく、罹患者本人だけでなく彼や両親、事情を知る者などが全て捕縛、幽閉されていた事。彼が漸く日の目を見たのはたった数か月前、彼女が斃れてから数年程経ってからだった。


そしてその熱りを冷ますまで、"家族の死に対する追悼"という名目で今は国外放逐されている。形式上は幾つか細かい任務が与えられているが、それは当面の間イヴナードの地を踏ませないという故国の主張でしかなかった。彼にとって、故国から一旦距離を置いて冷静になるのは、一縷の救いでもあったが、奇しくもそれはもう一人の竜髄症患者、この少女との出会いによって今正に崩れ去っていた。

「──君が悪いのではない。悪いのは運命神……リヴァエラだったろうか。私はあの女神から憎まれているようだ」

騎士として、力と誓いが全ての故国では、フレア=グレイスの七柱はあまり深く信奉されてこなかったが、そんな性に合わない諧謔を口にしてみる。

「それは……レルゼアさんだけじゃないです」

彼女は力なくそう微笑んだ後、深い決意と諦観を秘め、目の前の術士に強く嘆願した。

「……どうか私を、一緒に遠くに連れて行ってください。峠を越えて───せめて隣街くらいでもいいんです。どうか、お願いします」

彼女は深々と(こうべ)を垂れる。


レルゼアは"またやってしまった"と、自身の思考の癖と迂闊さを酷く悔恨していた。もう何処にも居られない、そんな風に取り乱す事を想像していたし、それにどう対処したものかと窃かに考えていた。この少女を何処ぞに、誰に押し付けるべきか。そう思い倦ねる時、無意識に自身をその選択肢から外してしまっていた。今まで幾度となくそうした過ちで痛い目に遭い、毎回反省しながら、それでも繰り返し続けてきた自らの愚鈍な癖に、改めて臍を噛む。

(そのまま自身に跳ね返ってくる、ただ当たり前の事だ──)

素直に考えれば手近にいる親切そうな男、先ずレルゼア自身を頼ってみるのが最善ではある。それに竜髄症の事にも詳しい。彼は決して自分の事を親切な輩と考えてはいなかったが、この状況だけ見れば、彼女の判断は至極真っ当なものだった。


「今更で悪いが、私が奴隷商で、君を色々と誑し込んでいるだけかもしれない。傷も派手に見せかけ、私が処置しただけかもしれない」

努めて冷静に取って付けたような詭弁で応じてみるが、生物的な死と社会的な死の両方を突きつけられた彼女の前では、圧倒的に無力だった。

「──私を誑し込もうとしている人が、今更そんな変な事言わないですよね。それに…」

彼女は再び思いきってまた彼の方に倒れ込んでみる。レルゼアは咄嗟に彼女の両肩を掴んで支える事になったが、その眉根には一瞬だけ苦悶の色が浮かぶ。彼女はそれでもう十分、とばかりに身体を起こして距離を取った。

「それに、さっきも今も。触れた時のこれ……これがその竜髄症って病気の何よりの証なんですよね?」

狼狽が許容値を振り切ってしまったレルゼアは、白旗寸前で最後の抵抗を試みる。

「…こちらには何もメリットがない。私は、慈善家ではないんだ」

「魔物に出遭ってしまった時、囮にして逃げるとか、色々。何なら、本当にそのまま奴隷商に売り払っていただいても構わないです」

(ひた)向きさを通り越して意固地とも言えるその宣言を前に、彼は内心悲嘆に暮れて大きく息を吐いた。

(──人攫いになど、なりたくはなかったのだが…)

かといって今更捨て置く事など、出来そうにない。"災禍の種"。イヴナードでは誰かがそんな風に揶揄していた意味が改めてほんの少しだけ分かったような気がした。仮に竜髄症のことを隠して誰かに売り払ったところで、人知れず強い恨みを買うだけ。彼女はその可愛らしい見た目は別にして、傷物なんて単純な話では無い面倒事を内に抱えてしまっている。慰み者にすらならない。あの場で少女のそれに気付き連れ去ってしまった時から、ほんの少しでも絆されてしまった時から、この行く末は決まってしまっていた事だったのかもしれない。

(──やはり、運命神リヴァエラを恨むしかないのだろうか)

当面の意思も目的も持たずにいた放浪の鉱石術士は、彼女の(ささ)やかな願いを聞き入れる外無かった。


翌朝の早い時間帯、表通りにある彼女の勤めていた酒場(パブ)から少し離れた農耕神オウレル神殿の裏手には、彼等2人と、黄金色をした長い髪の少女が佇んでいた。未だ人通りも少なく、ここなら大きな樹木も数本植えられており、いざという時素早く身を隠し易い。リテュエッタは目深にフードを被ったまま辺りを忙しなく窺っている。彼女は最も親しかった給仕仲間のクリスタを通じ、姉に別れを告げておきたいと願い出てきた。本来ならそれすら避けておきたかったのだが、彼女がどうしてもと譲らないから、何とかその給仕仲間とやらを1人で見つけ出し、単独でここまで誘き寄せた所だった。


リテュエッタより少し若い位の給仕仲間は、彼女が一瞬だけ顔を見せると、それまでの不機嫌そう表情を一気に綻ばせる。

「いきなり変な男に口説かれて、強引に物陰に連れ込まれちゃったのかと思ってた…もうこのこの、ホント心配してたんだよ!昨日一昨日と、一体何処行ってたの?」

そう興奮気味に捲し立て、無意識にスカートの裾を掴んでパタパタとはためかせながら燥いでおり、その奥からは純白のパニエが微かに見え隠れしてしまっていた。そうして改めて2人の事を矯めつ眇めつ思案し始めると、やがて隣に立つ謎の男に対して上目遣いで目配せした後、唐突に尋ねて来る。

「その珍妙で如何わしい雰囲気から察するに……急に好きな人が出来ちゃって、今から駆け落ちしようと思ってるから!あと宜しく!──とかで良い、のかな?」

術士の男が彼女から受けた第一印象は、機微に富んで洞察力があり、穎敏といったところだったが、実際にはそんな事などなかった。リテュエッタはフードの下で柔らかく苦笑し、顔を隠す必要の無いレルゼアは敢えて憮然とした表情を見せつけながら首を横に大きく振っておく。黒髪の少女の真意は未だ掴みきれていないものの、彼としてはクリスタからの指摘と正反対の心境で、彼女の事は飽くまで"大きな荷物"としか考えていない。少なくとも今はそう考えると心に決めており、彼女の名すらこちらから聞かないように心掛けている。もし万が一情を持ってしまう事になれば、これから先、お互い辛くなってしまうのは明白だった。


そうした込み入った事情など当の給仕仲間が知る由もなく、リテュエッタは苦笑を浮かべたままで、彼女の頭の中で出来上がりつつある物語をそっと軌道修正する。

「いっその事、そう言っておいた方が心配も掛けなさそうなんだけど……ごめんね、私からお姉ちゃんに嘘は吐けないの」

その言葉の端にはほんの少しだけ、彼女の秘めたる想いの丈があったのだが、その場の誰もが汲み取る事は出来ず、打ち捨てられていった。リテュエッタは口元に両手を添え、昨日考えた筋書きを思い出しながら、辿々しく説明する。

「──少し前にね、"神様"に選ばれちゃったの。だからもう…この街には居られなくなっちゃって。もうお姉ちゃんや皆の所にも帰れそうになくて…本当にごめんなさい」

そう言ってただ只管頭を下げる。神様の下りは、丁度昨日聞いた彼の皮肉をそのまま借用したものだった。瀟洒な給仕仲間はそう聞くと、細い指で長く艶やかな髪を梳きながら、途端に仏頂面になって託つ。

「そっか…リティーってばそんなに信心深かったっけ。今まで"色々とあった"みたいだし、寧ろそういう胡散臭いのは苦手なタイプって思い込んでたかも。その神様っての?残酷よね、フレア=グレイス…ってやつ?私、そいつの事ちょっと嫌いになっちゃいそう」

軽々しくそう言って退けると、ころころと往来していた姦しい面差しは読み取れなくなり、それだけで何だか一回りも二回りも大人びて見えた。

「どう…なのかな。実は私にも詳しい事が善く分からなくって。でも…運命って言うのなら、そうそう、リヴァエラ様、だっけかな、多分…」

下手に掘り下げてしまったため、これ以上は間が持たないとばかりに隣に立つ術士に視線で助け船を求めると、

「──それはね、絶対に違うよ」

クリスタは冷静に、且つきっぱりと断言する。

「私って、実はリヴァエラ様の事は元々好きじゃないけど。それだけは違うって、何となく分かっちゃう。運命とか笑っちゃうよ。きっとそんなの、物好きな神様の手管じゃない。リティーのは多分ね、貴方が自分で選んだ道なの。だから、きっとそう。その…ううん、何でもない」

やがて彼女の蒼玉(サファイア)にも似た双眸がレルゼアを射抜き、改めてリテュエッタの方へと微笑みながら向き直る。

「……そういえばその隣のおじさん、それがまさかその"神様"ってやつ、じゃないよね?」

問い掛けの意図が汲み取れない2人がしばらく押し黙っていると、ただの冗談だったようで、クリスタは蕩々と続けた。

「じゃあさ、ミレ姉の方には私から適当に言い包めておくから。安心して?大好きだよリティー。出来たらで良いけど、いつかまた戻ってきてくれると嬉しいな。だって私達、大切な親友なんだし」

彼女は気が付けばずっと口元に添えたままになっていたリテュエッタの両手をぎゅっと掴み、歳相応の無邪気さでぱっと相好を崩す。リテュエッタはその時、何故だか竜髄症の痛みや不快さが一切感じ取れない事を不思議に感じていた。


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