この恋は口に出せない 〜ポップコーン・キス 〜
この恋は口に出せない。出してはいけない。
口にした瞬間に、これまでの僕らが壊れてしまうから──
「映画、楽しみだね」
席に着き、お尻をソワソワさせながら僕がいうと、左隣の雅兄はポップコーンをもぐもぐやりながら、少し呆れたように、ぶっきらぼうに返す。
「子犬みてーにはしゃぐなよ、ピコ。なんか一緒にいて恥ずかしいわ」
「だって楽しみなんだもん。この映画、前から観たかったから」
「しかし呆れるほどガラガラだな」
雅兄につられて、僕もシネコンの中を見回した。確かにガラガラだ。僕ら二人の他にはカップルが一組、一番後ろのほうの席にいるだけだ。
「こんなに空いてるのに……なんであのひとたち、あんな後ろにいるんだろう?」
僕の疑問に雅兄は即答した。
「目的が映画観ることじゃないんじゃねーの?」
意味がわからなかった。
シネコンに、映画を観る意外の、どんな目的で来るひとがいるんだろう?
僕は聞いた。
「どんな目的?」
雅兄がポップコーンを数粒、噴いた。
「ばっ……! ピコ……おまえ、高一にもなって……それぐらいわかれ」
その顔が、ちょっと赤くなってた。
「あー……」
そういわれて、なんとなく察しがついた。
「なんていうか……イチャイチャするのが目的ってこと?」
察しがついたらドキドキしてきた。ちょっともう、後ろは見られない。
「おまえも兄貴となんかじゃなくて、彼女とこういう所でデートしろ」
「誘ってくれたの雅兄じゃん」
「まぁな……。俺も残念ながら彼女がいないゆえ、悲しいことに義弟なんかと二人で映画鑑賞ってわけだ」
「ほんとうはカノジョと来たかったの?」
「当たり前だろ! 何が悲しくて男二人でこんなガチガチの恋愛映画観ないといけねーんだよ」
「そっか……」
雅兄のことばが、ひそかに痛かった。
心の奥のほうに傷みたいな穴が空いて、そこからみっともない何かの汁が滲み出そうになった。
僕らが兄弟になって6年目になる。
それまではお互いに一人っ子だった。
お父さんが再婚相手を家に連れてきた時、その手に繋がれて、僕より一つ年上の、背の高い男の子がいた。
あの時はただ、ちょっと綺麗な顔した男の子だなぐらいにしか思ってなかった。
あの頃は僕も、ふつうに女の子しか恋の対象にしてなかった。
この6年の歳月に積み上がってきた、楽しいことや、腹立つことも、ぜんぶ含めてさまざまな出来事が、僕をこんなにしてしまった。
子供の頃は、単に仲のいい兄弟だった。名前が雅春と夏彦で、季節の名前が偶然お互いについていた。そのことが僕らの距離を近づけた第一歩になった。
お父さんとお義母さんは僕らを『春』『夏』と呼んだけど、僕ら二人はお互いを『雅兄』『ピコ』と呼び合うようになった。それは僕ら二人だけの呼び方だったから、僕ら二人を特別な関係にした。
血は繋がっていなくても、ほんとうのお兄ちゃんが出来たことに喜びすぎて、僕はちょっと彼を好きになりすぎた。そしてどんどんその想いは憧れに変わっていった。すぐ側にいるひとに憧れることがあるのだということを、僕は思い知るようになった。
そして今、僕は、雅兄のことを、こんなにも──
でもこの恋は口に出せない。出してはいけない。
口にした瞬間に、これまでの僕らが壊れてしまうから。
僕たちはちっとも似ていない。
そのことが、僕に激しく雅兄に触れてみたくさせる。
僕たちはちっとも似ていない。
そのことが、もしかしたら恋の対象として雅兄を見てもいいんじゃないかと、いけない妄想をさせる。
雅兄の髪はこんぶみたいに硬い。くせっ毛で、僕の猫みたいな柔らかくて細い髪とは全然違う。
唇は肉づきが良くて、薄い僕の唇は、見ているだけでそこに吸い込まれていきそうだ。
「おまえ、なんでポップコーン、買わなかったん?」
唐突に雅兄に隣からそう聞かれ、はっと我に返った。
「わ、わかるだろ? 僕、何かに集中したら他に何もできないってこと、雅兄、知ってるだろ?」
僕は弟の顔を作り、見とれていた唇から急いで目を離した。
「大体、なんで映画の時ってポップコーン買うの? 誰が始めたの?」
「知らんわ! でもなんかそう決まってるみたいなとこ、あんだろ」
「くだらない。みんながやってるから雅兄もやるんだね? 雅兄、くだらないなぁ」
「そんなこと言いながら、本当はおまえも食いたいんだろ?」
「うん!」
「ほれ。食えよ」
そう言って、雅兄が左手でポップコーンの入ったカップを、右隣の僕に差し出す。
右手にもポップコーンが盛られていた。それはこれから雅兄が自分の口に放り込むために、雅兄のてのひらの上に、直接盛られているものだ。
迷わず、僕は雅兄の右手のほうに顔を埋めた。
どうぶつが飼い主のてのひらから直接食べるように、雅兄のてのひらの上のポップコーンを、直接僕は貪った。鼻を彼の親指と何度も触れ合わせ、僕はポップコーンを貪った。僕の薄い唇が、雅兄のてのひらの上を、柔らかく、何度も往復して、なぞった。僕はポップコーンを貪った。雅兄のてのひらの上についたポップコーンを、そのカスも、塩っけも、ぜんぶ唇と舌で綺麗にしながら、貪った。幸せだった。ポップコーンを貪りながら、彼の少し固い手の感触を、僕は唇で味わった。
しまったと思った時にはとっくに遅かった。
「き、きたねー!」
雅兄からそんな罵声が飛んでくるのが当たり前だと思った。
僕の気持ちがバレてしまったと思った。明日から弟として見てもらえないと思った。
兄弟としての、二人の数々のあかるい思い出が、音を立てて崩れ落ちていくように、そう思った。
見ると、雅兄は、ぽかんとした顔をして、自分の右手を眺めている。そしてゆっくりと、その自分の右手を、僕の唇が這い回ったその手を、自分の口にもっていったのだった。
雅兄の、肉づきのいい唇から覗いた舌が、僕の舐めた彼のてのひらを、愛しそうに舐めるのが見えた。
それからのことはよく覚えてない。映画の内容もあまり頭に入ってこなかった。後ろのほうの席のカップルのことも気にならなくなった。
僕らは二人とも黙って、スクリーンをただ見つめてた。
映画の中で主人公とヒロインがキスをする場面で、雅兄の手が優しく僕の手の上に重なった。
この恋は口に出せない。出してはいけない。
口にした瞬間に、これまでの僕らが壊れてしまうから──
そう思い込んでいた心が、甘く溶けていった。