Night Drive
少し肌寒い夜風にあたりつつ、静寂に包まれた夜の湊から街を眺める。きらびやかなネオンが彩るその街はある種巨大な一つの芸術作品ともいえるだろう。
「現代において、夜は街が眠る時間ではない。光を放ち、新たな姿に生まれ変わる時間なのだ。」
著名な建築学者の言葉が頭をよぎった。きっと彼はその光の粒一つ一つの内に行われる営みにはさして興味がなかったのだろう。ふと足元に目をやると──ともすればその深淵へと引きずり込まれてしまうような、深い、深い、黒を湛える海がそこにはあった。そこで初めて自分がいつの間にか波止場の縁にまで来ていたことに気付いた──
「遅いよ」
「……」
その言葉が自分に向けられていることに気付くには少し時間を要した。声の主である少女は屈託のない表情をしながら、少しだけ機嫌を損ねたような声色で、俺を咎める。俺は遅れたつもりは無いのだが。
早く乗りなよ、と少女はせかす。彼女の指さす方には恐らく彼女のものと思しき車が止まっている。特に断る理由があるわけでもなく、言われるままに俺は彼女の車に乗る。車に乗ると少し違和感を覚えるが、その正体が判明するまで時間は掛からない。
「マニュアル車、か」
「そう、マニュアル。かっこいいでしょ。皆は社会不適合車だって笑うんだけどね」
「なかなか言い得て妙じゃないか」
AIによる自動運転が主流となった今、そもそも手動運転自体が敬遠されている。事実、俺もマニュアル車なんてものは一部の物好きを除いて、てんで需要のないものだと考えている。そんな俺の思いをよそに彼女は手慣れた手つきで車を動かし始めた。
車は滑らかに速度を上げ、そのまま海沿いを走る。どうやら彼女はこの車が好きらしく、指を躍らせ、体を揺らし、楽しそうに運転している。ふと窓の外に目をやると海がまるで鏡のように街の光を映し出していた。闇の中で光の塊があちこちに散らばっている。海と街の境界線が溶け、一体となり、光のみが織りなす幻想的な空間を創り出す。一昔前には想像し得ない光景だ。
「ん、そういえばあったかい缶コーヒーが二本あるんだけどどっちがいい?」
「甘いのは苦手なんだ。ブラックはあるか?」
「ブラック、渋いね」
彼女はそう言って俺のほうにブラックコーヒーを放る。そもそも片方はコーヒーではなくカフェオレだったが、彼女は満足しているようだし、特に何も言わずに受け取った。
「で、どうしてこんな時間に?」
そう言いつつ彼女は窓を流れる街の光を目で追っている。その無邪気な表情から真意を読み取ることは叶わないが、恐らくこの質問も糾弾などではなく興味本位で聞いてみただけなのだろう。あるいは興味すらないのかもしれないが。
しかし、繰り返すようだが俺は遅れたわけではなく、彼女が勝手にそう言っているだけだ。
「身投げをしようか考えていたんだ」
ふと思いついて、軽い冗談のつもりでそう言った。
「そうなんだ」
「信じるのか?」
「さあね」
普通はもう少し詮索、まではいかずとも何らかの疑問を呈するものだと思うが、だからといって俺からそれについて彼女に言及することはやはり、ない。俺がそれを口に出したところで彼女の返答が変わるわけではないし、他人の言動にあれこれ言う、そういった行為自体不毛で不要なのだ。ところで、そもそも俺は「身投げ」などと適当なことを言ったが、自分でもなぜあの場所に居たかは分からない。ただ、なんとなく街から、あるいはもっと漠然と自分の周りを取り巻く何かから離れたい気がしたのだ。しかし、ひょっとすると、俺はあのまま本当に身投げをしていたのかもしれない。いや、それとも──。
「なんでもいいじゃん。今、貴方は私の車の助手席に座ってる。そして私が運転している。大事なのはそれだけだよ。」
彼女の言葉が無遠慮に俺の思考を遮った。
「私、夜のドライブが好きなんだ」
「唐突だな」
「話なんてどれも唐突なものなんだよ。日本昔話も、グリム童話も、シェイクスピアの悲劇だって、みんな唐突に今と違う時空を舞台にして始まるんだ」
彼女は口を尖らせた。詭弁だと思ったが、やはりそれも口には出さない。
「窓の外にあるのは点々と散らばる光だけで、他はみんな深い闇の中。当然、人の気配なんて感じられるはずもない。そんな中でよく見えるのは車の中と、そして隣の貴方だけ。まるで世界には私たち二人しかいないみたい──ね、ロマンチックでいいでしょ。」
ロマンチック、長らく口にも耳にもしなかった言葉に乾いた笑いが漏れた。再び外を眺めると、先ほどと変わらず光に彩られた街と、それを映し出す黒い水面があるのみだ。その情景の中には他に望めるものはなく、人の気配もない。確かに今この車内は外の世界から完全に隔離され、存在するのは俺と、この少女のみだ。車に備えてあるボタンやメーターを縁取る淡いライトによって車内はぼんやりと淡い青に包まれる。無論、彼女も例外ではなく、うっすらと淡く、青く、彩られている。そこで俺は初めて彼女の顔を見る。天真爛漫と表現すべきだろうあどけなさの残る、それでいて少し艶やかな顔立ちに、白く柔らかいきめ細かな肌。後ろで結ばれた髪の束は彼女が体を揺らすたびに、その感情と同期しているかのようにふわりと軽く跳ねている。さて、では、今の俺はどう映っているのだろうか。きっと──
「あれ、意外とこういう言い回しに弱かった?」
再び彼女の言葉が割り込んだ。俺の視線を気取ったのか、悪戯っぽく笑っている。
「いや──そうだな、君のその口ぶりに胸が高鳴って大変だ」
「嘘ばっかり」
得も言われぬ不思議な感覚だった。といっても彼女に対して何か想うところがあるわけではない。彼女がどうというよりも、この現状そのものが俺にこのような感覚を抱かせている、というべきだろうか。だとして、一体この情動は何なのだろう。答えの出ない思考を隅に置き、目を背ける。その先では雑然と光が散らばっていて、水面が変わりえしない街を映していた。
気づけば元の場所へと戻ってきていた。長かったような、短かったような、不思議な感覚だ。
「夜のドライブも悪くないな」
車から降り、ぽつりと純粋に感じたことを口に出す。
「きっとそう言ってくれると思っていたよ。こんどは運転もいかがかな?」
「それはまた難しい話だ」
きっと俺には彼女のようにこの車を乗りこなすことは叶わないだろう。
「でも、考えておく。」
「ところで、君は──」
しばらく特に何の感慨も沸かない街を見た後、彼女の方に振り向く──が、そこには彼女も、彼女の車もなかった。
再び街を眺めながら冷め切った缶コーヒーを飲み切り、振り返って歩き始めた。
ずっと前からこんな話を書きたいなと思い、書いたままにしている小説を完成させました。実はちょっとだけこの小説にはモチーフがあり、Ujico*という方のNight Driveという曲を聞いて作り始めました。厳密に言うと、(良くないですが)youtubeに無断転載されていた動画のサムネの女の子もモチーフにしています。Ujico*さんの曲は良い曲が多いので是非聞いてみてください。