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第一話 底

 ――何時も、朝が来るのが恐ろしく思う。


 目覚めに恐れを抱いているのではない。只、当たり前のように目が覚めるか解らない日々へと、怯えを感じているだけなのだから。


 幸いにして、息の値が止まることも無く。今日もまた、己は朝日を拝むことが出来たのだった。



「……あぁ、ちゃんと生きている」



 誰に聴かせるでもなく、一つ零し。


 カーテンの隙間から差し込む光を浴びながら、安普請のベッドより起き上がった。


 きぃ、と。くたびれたパイプの音を鳴かせつつ、怠さの残る身体をしばき洗面へと向かう。


 壁に掛けられた時計へと不意に視線を向けると、時刻は既に七時を前にしたところか。


 こんなうらぶれた貧民街の一角であろうとも、等しく朝は訪れるのだ。



「食うモンは……何も、入って無いな」



 途中。冷蔵庫を覗いて見るが、当たり前のように中身はもぬけの殻である。


 そんな調子故、今日の朝飯も行きつけの店で詰め込むことになりそうだ。なんて。


 ――このスラムに移り住んでから、既に数か月が経過している。


 温室培養で培われたこの身には、初めこそ難も多く感じられたが――今や立派な、落ち武者風情の一員であった。


 兎角。この身は望んで、この地の底へと転落を遂げた末なのだ。自分でしたことに、文句は……まぁ、あまり言いたくない。


 溝と、反吐と、落伍者の饐えた薫り。負け犬共の吹き溜まりが、この押し遣られた成れの果てである。



「金はあんのに塵溜め暮らしたぁ、我ながら数奇なモンだな」



 濾過の甘い水道を捻りながら、やや不純物の混じった水で顔を洗う。


 行政の怠慢か、それともこのボロアパートの整備不良か。完全に綺麗とは言い難いインフラなれども、住めばなんちゃらで慣れたものだ。


 ちょくちょく電気が止まったりネットが繋がらなかったりと問題は様々だが、原始時代にくらべりゃマシとでも思っておこう。


 起きがけにスイッチを入れたラジオからは、知らないミュージシャンのポップスが流れる。まだまだ齢だとは思いたくないが、昨今のアイドル歌手など碌に見分けもつかないものだ。


 あとは何処ぞのバーガー屋に強盗が入っただとか、ブレーキ踏み違えの高級車が歩道でボーリングをかましたなんて、下らんニュースが降り注ぐ。


 金が無いなら働け、まともに運転できないなら乗るな――そう言ったところで当人は聞く耳持たぬだろうし、己もまたそんな輩に興味は無い。報道される下手人の名前すら、既に脳の片隅より抜け落ちていた。


 そうしている間に軽く身支度は済ませ、姿見の前に映った己は、一応なりともしゃっきりとした装いをしていると言えるだろう。


 糊のきいたシャツにプレスされたパンツ、上に羽織ったジャケットにも目立った汚れは付着していない。


 こんな貧民窟の住人にしては、随分以上に上等な恰好である自覚は当然存在しているが、この風体だけはどれだけ溝の底に身を浸して居ようとも変えるつもりは無かった。


 それは己――雅志(まさむね)にとっての一種の矜持であり、いっそ見栄にも似た在り方であった。


 いずれにせよ。出掛ける準備は済ませたとばかりに磨かれた反射する表面の革靴を履き、そのまま玄関より淀んだ空気の揺蕩う街へと繰り出すのである。


 己にとっての一日の始まりは、凡そこうした形で成り立っていた――。


        *


 業者必衰、今は昔。


 この都市が栄華を極め、そのまま凋落を辿り久しく――。


 今や、此処は何処にでもある様な過渡期を過ぎ去り、絶頂を過去のものとした成れの果て。


 開発競争の煽りを受けて、一過性の繁栄に踊らされた地方都市の残骸なのだ。


 発展に貢献した大手企業の大部分は既に撤退し、残された廃墟の様な街並みが辛うじて生命の灯を繋いでいる。


 ――しかしながら。


 蝕まれる端の腐肉に集うように。その死に体を漁るが如く。


 宛ら、腐乱に集う蛆にも等しく。地を這うことしか出来ない者たちは、汚臭漂うこの地の中で身を寄せ合っていたのであった。


 浮浪者、破落戸、兵隊崩れに売春婦。薬中か死体か区別のつかない肉塊が地べたへ転がる光景こそが、この世の地獄と言わんばかりの日常であろうか。


 行政の努力など、半ば放棄された街並み故。インフラもサービスも、最低限しか機能していない。


 舗装は捲れ、街灯は至る所が割られていよう。星の灯りも届かぬ夜の街路を照らすのは、いかがわしい店のネオンサインが主である。


 何時も通りに猥雑とした街路を雅志は独り歩いているが、寄って来るのは物乞い、浮浪児、立ちんぼばかり。


 辺りの住人と比べて格段に身形の良い己は歩く宝石箱に見えるらしく、嫌な香りを漂わせながらも、そんな招かれざる客ばかりが集りに来るのだ。


 ――但し、幸か不幸か。この身に触れようとする者は、只の一人も存在しない。


 乞食は足に縋りつかず、浮浪児も遠巻きに小銭を要求するくらい。身体が武器の立ちんぼ共も、しな垂れかかるどころか――決して、袖すら引くことは無い。


 それもその筈。以前、この街に来たばかりの頃。此処の通りで鴨にしようと集まって来た与太者を、纏めて再起不能に追い込んだシーンが人目を惹いた為であろう。


 凄惨な程に壮絶に。チンケなガキのアレみたいなナイフをチラつかせながら襲い掛かって来た破落戸共を、慈悲無き儘に圧し折った様は、此処らの住人からしても衝撃が過ぎるイベントであったのだろう。


 誰しもが、あれほどの結果を目の当たりにしてまで、得られるかどうかも解らぬリスクは払いたくないのだ。


 そんなこんなで、無駄に衣服を汚すことも無く。雅志は、目的地たるカフェへと辿り着いていたのであった。


 ――この吹き溜まりに建っているとは、到底思えぬ程に洗練された店構え。


 バラックに挟まる様に佇む、こじんまりとした二階建ての店舗は店主の住居も兼ねている。


 赤茶のレンガを積み上げた外観に、曇りの無い窓が嵌め込まれている。


 されど、この街にありながらも外壁には一つの落書きすらも施されてはいなかった。窓ガラスも当然一枚だって割られてはいない。


 つまり、この店もまた――己と同じように、何らかの形で周囲からは不干渉(アンタッチャブル)とされているのであった。


 孤立と孤独は、紙一重。


        *


『平凡な人生こそ、真の人生だ。実際、虚飾や特異から遠く離れた所のみ、真実があるのだから』――フェーデラー

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