15話「耳かき」
「今日泊まってくね」
金曜日の夜。夕食の席でくるみは唐突にそう言った。
「ちゃんとおばさんに連絡しなよ?」
「わかってる」
そう言うと、くるみはスマホを取り出して操作する。おそらく自分の母にメッセージを送っているのだろう。
「いいってさ」
「相変わらず連絡返すの早いよね、おばさん」
「よくスマホ触ってるからね。気づくの早いんでしょ」
スマホを置いて食事を再開するくるみ。
パジャマとか下着とかは何故かこの家に備えてあるし、連絡さえすれば他に準備するものもない。手軽なお泊まり会だった。
食事を終え風呂が沸くまでの間、二人でソファーに座ってテレビを見ていると、くるみが急に手を動かして、僕の頭をぐいっと引っ張る。
最初は抵抗したのだが、これ抵抗すると首の筋肉やっちゃいそうだと判断して、大人しくくるみの引っ張る力に身をまかせる。
存外軽い勢いで倒れた僕の頭はくるみの膝に乗っかった。
「……くるみ?」
後頭部が制服のスカートと生足を枕にしているのがよくわかる。
急な密着に多少ドキドキしつつも、なんとか平静を装う。
くるみはそれを見てにっと笑い……手元にあった学校の鞄の中から何故か耳かきを出してきた。
「え?」
「耳かきするから横向いて?」
「なんで? いやだけど?」
「なんで!?」
「いやまぁ……ねぇ?」
別にくるみがわざと僕の鼓膜を突き破るとは思ってない。
でも、誰にだってうっかりはある。
特にくるみは結構抜けているので、他の人よりもうっかりの可能性が高い。
……端的に言うと、くるみに耳かきされるの怖い。
「もしかして、わたしの耳かきの腕疑ってる?」
「……誤解を恐れずに言うなら、割と怖いよね」
「なんだ、そんなこと。ふっ、安心して。家で樹を練習台にしてきたから大丈夫」
「樹君……いいやつだったよ」
「わたしの弟を勝手に殺すな。わたしを殺人鬼にするな」
「むしろ生きてるの? 鼓膜は無事? 出血は? 聴覚は残ってる?」
「綾人がわたしをどう思ってるのかはよーくわかった。でも安心して。樹は無事」
「鼓膜も?」
「無事」
「出血も?」
「ない」
「こ、声を。無事だと言うなら、せめて声を聞かせてくれ……」
「誘拐犯と電話してるんじゃないんだから……」
だって……ねぇ?
「ともかく、本当に大丈夫。わたしこう見えて意外と器用だから。信じて」
「……わかったよ。一回だけだからね?」
くるみにそう言われると弱い。
僕は大人しくテレビの方――くるみのお腹を後ろにする向きに体勢を変える。
くるみが手で僕の頭の位置を微調整して……ついに、耳かきが僕の耳の中に入ってきた。
「……つまんない。耳かすないし」
「自分でしてるからね……」
「ちぇっ」
「舌打ちされることかな……?」
「まぁいいや。じゃあ軽くマッサージ」
耳かきが抜かれる感じがして、少ししてから指で僕の耳が押される。
ぐい、ぐい、ぐい、ぐい……
……意外と気持ちいいぞ?
と、そんな気持ちが表に出ていたのか、くるみはくすっ、と笑う。
「気持ちいいでしょ? お母さんがお父さんをオトした秘伝の耳マッサージ。これを受けたお父さんは気持ちよさのあまり変な気分になって、お母さんを押し倒して……」
「そんな話聞きたくなかったよ!!」
「ははっ、冗談冗談。じゃあ、逆やるから反対になって?」
「いや、別に……」
「なって?」
「……わかったよ」
くるみの圧に負けて、僕は体を起こして……少し躊躇う。
いや、このまま体の向きだけ変えたら……
「何? ほら、はやくー」
「わかった、わかったから引っ張らないで」
ぐいぐいと引っ張ってくるくるみに負けて、僕は頭をくるみの膝に乗せる。
ええい、ままよ!
さっきよりも強い匂いが鼻に入ってきて、どうも落ち着かない。
目の前にある制服のシャツのボタンでも数えて気を紛らわせよう……
「どう? 気持ちいい?」
「あ、うん。気持ちいいよ」
「ならよかった」
くるみはそう言うとマッサージを続ける。
……やばい、テレビの音がいい感じのBGMになってて眠くなってきた。
でもこのまま寝るのは……
と、そこまで考えたところで、僕の意識はゆっくりと沈んでいった。
◆ ◇ ◆
「綾人?」
不意に太腿に感じる重さが増えて、わたしは思わずそう彼の名前を呼ぶ。
しかしそれに返事はなく、代わりに聞こえてきたのは、すぅすぅという息の音だけ。
……寝てる。
わたしは体を捻ってソファーの背もたれにかかっていた膝掛けをとると、それを綾人の上にかける。
足までは届かなかったが、お腹さえ冷やさなければ大丈夫だろう。もう6月だし。
綾人の体勢の問題で横顔しか見えないのが残念だが、まぁそれは仕方がない。
わたしはスマホのカメラを起動して、パシャ、と一枚写真を撮る。
綾人は起きてる時は恥ずかしがってなかなか写真を撮らせてくれないので、寝てる時はチャンスだ。いつも綾人の家に泊まる時に、綾人の方が早く寝たり遅く起きたりした時には、一枚撮ることにしている。
だって……綾人の写真欲しいし。
写真の出来栄えに満足したわたしは、スマホを置いて綾人の横顔を観察する。
……綾人はわりと中性的な顔をしているし、色も白いのでこうして見ると少し女の子にも見える。けど、決して男らしくないというわけでもなく、ちゃんとかっこよくもある。
人によっては頼りなさそうって言うけど、そんなことはない。
少し長い綾人の前髪を触ると、くすぐったそうに身を捩らせた。
起こしてしまったかとヒヤヒヤしたが、起きてはいないようだ。
「いつもありがと」
その横顔を見ていると、自然とそんな言葉が漏れる。
いつもわがままに付き合ってくれる、自慢の幼馴染。ノリもいいし、最高。
わたしは我慢できなくなって、顔を綾人の髪に近づける。
いつもの綾人の匂い。
手が自然と動き、綾人の後頭部を撫でる。
「……離さないから」
綾人の幼馴染は、わたしだけ。綾人は誰にも渡さない。絶対に離れたくない、離したくない。
そのためにも……
「はやく、わたしと……」
どうしたらいいのだろう?
どうしたら綾人はわたしを食べてくれる?
まぁ、わたしがいくら誘っても何もしてこないのは綾人らしいといえば綾人らしいし、その誠実さも綾人の良さだと思ってるのだけど、それにしても本当に綾人が男なのか心配になる。
……決してわたしの顔は悪くないはずだ。綾人もたまにかわいいと言ってくれるし。
体つきは……正直自信はない。今も太腿を枕にしている綾人の顔を見るのになんの障害もない程度には胸がないし、腰のくびれはあると思うけど、それだけ。
髪質には気をつけている。綾人はショート派らしい(中学の時に男子でそういう話をしているのを聞いた)ので髪は好みになるように伸ばしていない。綾人の部屋にある漫画のヒロインの髪も参考にしたので間違いはないはず。
となると……あとはどうしたらいいのだろう。
「綾人……」
安らかな寝顔を見ると少しムカついてくる。
わたしがこんなに悩んでるのに、すやすや気持ちよさそうに寝やがって。誰のせいで悩んでると思ってるんだ。
わたしの悩みなんて九割以上が綾人のせいなのに!
ツンツン、と頬をつつく。
髪を触って、耳に触れる。
そのまま首筋に手を伸ばして、つつ、と指を這わせる。
もっと触ってみたい。でも恥ずかしい。
触られたい。でも恥ずかしい。
だから、綾人から来て欲しい。
綾人からきてくれたら恥ずかしくても大丈夫だから。
「こーんなにアピールしてもきてくれないんだもんなぁ。馬鹿」
馬鹿、と言う割には柔らかい声なのは自覚している。
それがなんだか恥ずかしくなって、わたしは照れ隠しも含めて綾人の髪を撫でた。