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推理紀行〜キッスの香り〜

作者: 目賀見勝利

           目賀見勝利の推理紀行『キッスの香り』

           〜推理小説「キッスの香り」に寄せて〜



小説に登場する高麗こま神社のある日高市は県立奥武蔵自然公園の南端に位置する埼玉県の都市である。高麗神社は外秩父連山南端の日和田山の麓に位置する。この日和田山から尾根伝いに外秩父連山を北上すると顔振峠こうぶりとうげというところに至る。義経と弁慶が藤原秀衡のいる平泉に向かうとき、ここの見晴らしが良いので、景色を見るため、顔を左右に振りながら歩いたところからこの名が付いたらしい。(現在は木々に隠れて、見晴らしは悪い。)


奈良時代の武蔵国が出来る以前の時代、紀元前1世紀に建国された朝鮮半島の高句麗こうくり国の人々が、西暦668年に唐と新羅の連合軍との戦争に敗れ、大和朝廷を頼って来日しています。西暦716年に関東一円の高句麗人を集めて、武蔵の国のこの地方に高麗郡がおかれました。そのリーダーが、高麗神社の祭神『高麗王若光こまのこきしじゃっこう』である。この別名・玄武若光は高句麗が滅ぶ前から日本に住んでいた人であるらしい。高麗神社は出世の神様として、明治以来、多くの政治家、作家、企業人、最高裁長官、検事総長、芸能人などが参拝している。出世の神様とされる由来は過去の政治家が参拝後、総理大臣になった人が数人いるところによるらしい(浜口雄幸、若槻礼次郎、鳩山一郎など)。


鎌倉時代には源氏の親類(頼朝とは異母兄弟の牛若(義経)、乙若の兄である今若で知られる源全成の孫娘)と27代高麗豊純の婚姻関係がある。この時点では北条政権の時代になっており、もはや源氏は北条家を好しとしていなかった可能性がある。また、義経の母である常盤御前は宮中に仕えていた女性であり、今若も朝廷に近い存在であったと考えられる。渡来当初から大和朝廷の庇護を受けていた高麗家にとって、義経の系列である人物と婚姻を結んだということは、何らかの形で義経に繋がっていた可能性が大きい。


ところで、鎌倉幕府発足の1192年頃、23代高麗麗純こまれいじゅんの息子で顕学房慶弁けいべんという人がいます。

慶弁は1211年に大般若心経600巻を書き写した人らしい。父親の麗純は紀伊熊野の大峯山で千日回峰行の修行を達成した人である。源義経に出てくる武蔵坊弁慶も『腰越状こしごえじょう』を書き上げた知識人と考えられる。義経記によると、弁慶は紀伊田辺のお寺で生まれたとされている。麗純は大峯修行の関係で紀伊田辺を含む紀伊半島のお寺とは、関係が深いと考えられる。特に、弁慶が武蔵坊を標榜している点を考えると、この慶弁が紀伊田辺で生まれ、若き頃に弁慶として牛若丸の教師か友人で有った可能性も考えられる。また、慶弁は1194年に九州福岡県の三橋町にあるお寺にも姿をあらわしている。義経記によると、弁慶は平泉に逃げる途中で死亡したことになっているが、じつは、義経、弁慶とも生き長らえていたのではないだろうかと謂われている。弁慶の残した有名な『腰越状』下書きと慶弁の書き写した『大般若心経』の筆跡鑑定をするのも面白いのではないかと思われる。


頼朝が義経の命を狙ったのは、義経人気が部下や民衆にあり、幕府の実権が頼朝から義経に移るのを危惧したためとされている。歴史の経緯から推理するに、頼朝の後見人であった北条一族が鎌倉幕府の実権を掌握する意志が見え隠れする。平家に勝利したころには頼朝が北条一族の操り人形化していた可能性もある。平家によって伊豆に流された幼少の時から頼朝自身、北条家あっての存在であった。

一方、頼朝とは異母兄弟の義経は京都の鞍馬山で育っており北条家の息が懸かっていない。紀伊熊野の熊野水軍や天皇家が後見として存在しており、北条一族にとっては、政権奪取には義経が邪魔物として存在した。

おまけに、平家との壇の浦合戦で安徳天皇の命を救い、どこかに庇護していたとすれば、鎌倉幕府の頼朝後見役である北条一族にとって面白いはずがない。

都から遠く離れた北条一族にとって、義経追討は武家政権を維持するための最重要事項であった。

一方、朝廷にとって、義経は武家政権から天皇家に政権を取り戻す道具であり、なんとしても護らなければならない人物であった。


ちなみに、推理小説『キッスの香り』に出てくる、赤坂見附と紀尾井町の間にある弁慶橋であるが、江戸時代は神田の紺屋町あたりにあったらしい。明治22年に廃橋にともない、紀伊和歌山藩徳川家麹町屋敷(現在は赤坂プリンスホテルの敷地)の門前のこの地に移されている。やはり、紀伊田辺との関係から、識者か縁故者の運動によって、最適地のこの場所に移したのであろうか。


唐突ではあるが、この縁故者が明治天皇の側近としたらいかがであろうか?

じつは、明治天皇は壇ノ浦で滅亡した平家ゆかりの人物との噂がある。

建礼門院徳子(平清盛の娘)の子である安徳天皇が壇ノ浦で死亡せず、京都に戻り、腰越以降の義経と弁慶に守られていたとすると?頼朝と北条一族は後白河法皇の政権奪回の動きを牽制する意味もあって、義経追討を発布したのであろうか?

明治以降に政治家などが高麗神社参りをした理由も明治天皇の側近が平家ゆかりの人物であり、慶弁以降の高麗家が安徳天皇の子孫との交流を続けていたとしたら?そして、高麗家も安徳天皇庇護に協力していたとしたらいかがであろうか?


以前、推理小説『豊後の火石』を書くために九州大分県へ取材旅行に行く途中、山口県下関市の赤間神宮(建礼門院や安徳天皇が祀られている)に参詣した。この神社の境内には、三種の神器の一つである八咫鏡やたのかがみが岡山県で発見され、赤間神宮に奉納された旨の事が書かれた石碑が建っていた。この八咫鏡は10代崇神天皇の時代に製作されたレプリカと云われていて、本物は伊勢神宮に祀られている。安徳天皇と共に檀の浦の海中に沈んだはずの三種の神器の一つが何故に岡山県で発見されたのであろうか?巷間に風聞として伝えられているように、安徳天皇と建礼門院は生きていたのであろうか?と思わせる石碑であった。


      2009年7月12日  修正追加記  目賀見勝利 



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