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誠眼の彼女 -Seigan no Kanojo-  作者: 南雲 燦
壱の幕
6/58

青眼 -Seigan-




「暇だなぁ」


 その呟きは、木張りの天井に呆気なく吸い込まれていった。

 少年爽葉は、仰向けになって寝転がっていた。足は投げ出され、両腕は頭の下で組まれて、なんとも脱力した格好だ。

 珍しい藍色の髪を、障子の隙間から差し込む太陽光のもとに晒し、細長い布を目の上に巻き付け、今日も幼い顔立ちにそぐわぬ、若干不気味な様相である。彼の着ている、冬の空の色に似た薄い青の袴は藤堂の古着だったが、それでも尚、裾が少し余っていた。

 暇だなぁ、と再度彼は溜息混じりにぼやく。


「暇暇うるせえんだよ! このチビ助」


 凄い勢いで飛んできた文鎮を、器用に片手で受け止めて、嬉々として爽葉は飛び起きた。満面の笑みが駄々洩れである。


「何、遊んでくれる気になったのか」

「お前ほど俺は暇じゃねえんだ。ちったぁ黙ってろ」


 幾つか並べられた薄いついたての狭間から向こう側には、土方がいつもの如く顰めっ面で机に向かっていた。

 溜まった仕事は、彼の机の上に積み重なった紙の山となり、硯の上で乾いた墨汁の波頭なみがしらが残した何層もの跡となり、彼の眉間の皺となっていた。

 そんなことをてんで知らない爽葉は、ついたての合間の細い隙間を、あの勢いで通過させたのか、とそんなことに気付いて、面相にやにやとたゆませていた。


「手伝おうか」


 むふっ、と笑いながらそう言う爽葉に、沸点が低くなっていた土方の青筋がひくついた。


「これ以上邪魔してみろ、叩っ斬るぞ」


 ドスの利いた低い声でそう脅しながらも、土方の手は忙しそうに紙に筆を走らせていた。その様子をじっと耳で観察してから、またつまらなそうに、爽葉はごろんと身体を横に倒した。


 入隊試験を経て、見事、壬生浪士組に入隊したは良いものの。負傷していたことと、辻斬りの下手人として捕らえられたということが尾を引いて、未だ実質的に入隊したとは言い難かった。今はこうして、監視も兼ねて、しきりで土方の自室を区切り、その端の方に居座る生活が続いている。沖田達が試合だ何だと爽葉を道場へ連れ出してくれることが、今や唯一の救いである。


「トシー。つまんないよー」


 無論、土方は同室を断固拒否していた。しかし、浪士組の資金はかつかつで、最近はまた隊士を募集をしたことで、部屋も足りない。何かと面倒見のいい歳に任せよう、と近藤に言われれば、折れるのは土方の方だ。懸念していた通り、爽葉の幼気な声が仕事に差し障る。


「ねえトシー。つまらないんだよー」

「誰がトシだ。いつからお前は俺をそんな気軽に呼ぶ身分になった」


 ジタバタと暴れる爽葉に、今度は足元に転がっていた筆を放るように投げつけた。しきりの向こうからアイテッ、と短い声が上がる。土方が肩越しに振り向くと、しきりの側でうつ伏せで頭を両手で摩る彼の姿があった。

 本当、素早いのか間抜けなのか、よく分からない男である。土方に気付いて顔を上げた爽葉に、ニヤリと含みのある笑みを向ければ、何かを察知した爽葉は、「え何」と懸念に顔を引き攣らせた。空気の読めない行動で、土方にしつこく嫌がらせをする割に、人の機微に聡いところがあった。本当に、よく分からない男だ。


「そんなに仕事が欲しいなら、くれてやるよ」


 土方の整った唇の端が持ち上がり、悪戯な笑みがちらりと掠めた。きりりと凛々しくも、雄々しい目元は笑っている。

 片手に持つ玉川形の煙管きせるが悠々と煙を吐いた。


「俺に茶持って来い」

「嫌だ」

「それぐらい働けよ。穀潰ごくつぶしの分際で」

「僕を穀潰しにしてるのはトシの所為じゃないか。無理なもんは無理!」


 爽葉は即座にそう叫ぶ。これは良いとばかりに、土方は寧ろ楽しげに薄ら笑う。


「それから肩揉みな」

「肩揉みついでに、そのまま首へし折ってもいいか」

「却下」


 口の減らない奴である。しかし爽葉は、こんな子供じみた性格とは裏腹に、剣のこととなると、実に人間味のない、ただの人殺しの人格にすり替わった。それは武士ではなく、ただのけだものだ。ここで、隊士として剣を振るうのであれば、その認識を、戦い方を、士道を、彼は改めねばならない。


「誰か遊んでくれないかなぁ」


 でもやはり、そうやってつまらなそうに遊び相手を欲する様子はただの餓鬼だ。否、間違えた、糞餓鬼である。実質土方よりも一回りも幼いのだから、さして間違ってはいない。

 暇を持て余した爽葉による被害が自分に降りかかるのも嫌なので、身代わりを連れてくるかと土方は思案し始める。駄々を捏ね始める前に、誰かに押し付けるのが手っ取り早い。

 そんな土方を他所に、爽葉はまた天井にぐるりと首を向けた。薄桃色の梅を想わせる唇が、ほぅ、とまどかな吐息を吐き出した。


「鼠は暇なのかなぁ。そんなにも天井裏って餌があるのかな」

「はあ? 何の話だ」


 それは素面で言っているのかと、土方は素早く爽葉の肢体の上に、視線を走らせた。彼は、未だぐでっと寝そべった、だらしのない格好。咄嗟に返した言葉に微塵も動揺は出なかったが、土方は密かに彼の観察眼に舌を巻いていた。

 この男は、山崎を嗅ぎつけた。その事実が、爽葉を見る目を鋭くさせる。密偵中の山崎は今まで、その気配を知る幹部以外の誰にも、気付かれたことはなかった。京随一の優秀な忍の術を持つ男だ。それを勘付く爽葉の気配察知能力は、最早もはや脅威にも近い。

 ちろり。土方は胸中で蛇蝎だかつのように舌舐めずりをした。爽葉は戦いにおいて阿呆あほうではない。戦力に取り込めるなら、これほど得なことはないはずだ。しかし、未だ危険性も拭いきれぬ、爆弾のような存在である。

 土方は、文字を書き連ねた数枚の書簡を丸め、懐に仕舞い込んだ。そして、床に小さな山を作っていた幾枚かの文の束を、爽葉に押しつけるように渡すと、黒の羽織を羽織る。


「それを山南さんとこ持って行って、出しておいてくれと頼んどけ」


 爽葉はばらばらと落ちてくる、大きさの異なる文の束を、腕を広げて受け止め、うえー、と嫌そうに顔を顰めた。

 土方は部屋を出ようとした足を止め、鴨居に片手をついて振り返り、その様子を見て鼻を鳴らす。


「俺はこっちの用があるんだ」


 そう言って書簡を懐中からちらりと見せると、去って行ってしまった。それでも爽葉は動かないでいる。そこに、遠くから土方の怒声が飛んで来て、爽葉は億劫そうに立ち上がり、山南を探しに廊下に足を踏み出した。

 山南は、思いの外早く見つかった。外廊下をウロウロしていた爽葉の鼻先を、仄かな甘い香りが通り過ぎたのだ。

 ……まんじゅう。

 匂いに誘われるように歩みを進めた爽葉に、穏やかな声がかかる。


「おや、何をしているんです」


 彼は縁側に座って、饅頭片手に茶を嗜んでいた。

 山南敬介。文武両道、小野派一刀流の免許皆伝や、柔術の名手でありながら、学識にも長けた浪士組の頭脳だ。江戸にいた頃、他流試合で近藤に敗れ、その腕前や人柄に感服し彼を慕い、門弟にまでなったらしい。そうやって、近藤の下に集った剣客達が、この壬生浪士組の隊長を務める男達だそう。この組織は、土方や沖田をはじめ試衛館しえいかんという道場の門人が多い。試衛館とは、近藤の実家の道場の名前だと、以前山南が教えてくれた。

 山南は土方と打って変わって、穏やかな気性の持ち主であった。物腰も柔らかで、爽葉にとって彼は、初めから印象がとても良い人物だ。声からも、優しい人と成りが伝わってくる。

 爽葉は山南の傍に近寄り、ん、と文の束を渡した。


「トシがこれよろしくって」


 爽葉の手から文が一枚抜かれたと思えば、笑いとも取れる溜息が聞こえた。


「あの人は……。また恋文ですか」

「こいぶみ?」


 首を傾げて投げ返した問いに、苦笑しながら山南は答える。


「愛する人に宛てた手紙のことですよ」


 それを聞いた瞬間、「ぬおお!」と爽葉は残りの束を全て、床に叩きつけた。額に深い皺を刻んで、土方に対する文句を湯水の如く垂れている。

 くすり、と優しい笑いを零して山南は床に散らばった文を集めた。爽葉が思い切り叩きつけたお陰で、皺が寄ってしまっている。

 実のところ山南は、彼の入隊を喜んでいた。未だふくれっ面で文句塗れの少年を見上げて、随分愉快な仲間が増えたものだ、と笑む。彼の幼さが功を奏して、皆の緊張がいい具合にほぐれたように思えた。山南達も上京して間もない。将軍護衛なんぞの大役を仰せつかり、肩に力が入ってしてしまうのも訳なかった。


「人に自分の恋文渡すな! しかも何枚あるんだ、ふざけた野郎め」

「全て、土方さんが貰ったものですよ」

「関係ない!」


 だがしかし、謎に包まれた少年だ。注意して見張っておけ、と幹部に対し、土方は箝口令かんこうれいを敷いていたが。確かに、正体がわからない今は、そうするのが妥当だと、山南も一も二もなく賛成した。

 吊し上げて吐かせようとした土方を、幼いから可哀想だと近藤や原田、藤堂が必死に止めて、当分は様子見るという結論で落ち着いた。

 く言う山南も、彼がどうしてもただの小さな子供にしか見えず、困っているところであった。

 考えに耽っていた山南は、じっと見つめられている気がして隣に立つ爽葉を見上げた。彼の目は白い布で覆われている。互いに無言なので、静寂が訪れた。庭の木にとまった小鳥の声が、やけに大きく響くように感じられた。風が舞い、二人の間を埋めるように、緩々と流れていった。


「饅頭、ですか?」


 恐る恐る尋ねた山南に、饅頭です、と生真面目に答えるものだから。


「何故笑う」


 どうぞ、と勧めながら、くすくすと小さな笑いが、袖で押さえた口許からどうしても洩れ出た。

 爽葉は山南の隣に座り、足をぶらつかせながら早速饅頭を頬張っている。もぐもぐと口を一生懸命動かして食べる姿は、小動物にも似ている。


「饅頭好きなのか」


 彼が問う。


「ええ、好きですよ」


 私は答える。


 そんな簡単な問答を幾度か繰り返した。

 山南はここの所の忙しさで忘れていた、穏やかで心地の良い時間が流れていくのを感じた。茶を啜る。案外、心地良いものだ。未だ饅頭を口いっぱいに頬張り続ける彼を見る。

 何故、人斬りをしていたのか。

 何故、髪色が藍の色なのか。

 何故、太刀を差さないのか。

 何処から来たのか。

 そして、最大の疑問は。


「美味いな、この餡子あんこ


 隣で饅頭に食らいつく彼は、盲目なのか、否か。幹部の間でも幾度か話題に上がり、議論も交わされた疑問だ。山南は隣の彼を盗み見る。

 所作は全く盲目を思わせないのに加え、巻かれた布も目が荒いので、視界は悪いものの、見ることは出来るはず。平隊士達はすっかり目が見えているものだと信じ込んでいるが、どうだか。

 誰がただしても、見せたくない傷があるんだ、の一点張り。これは怪しいぞ、と山南は目を細めた。こういった言葉を鵜呑みにしないのが、幹部と隊士の差だ。

 壬生浪士組の幹部は、近藤土方率いる試衛館一派と、芹沢鴨という男率いる水戸一派の、二つの派閥で構成されていて、どれも腕利きの浪士。流石に、聡い。確かに、傷を隠しているだけ、という可能性も否定できないのも事実であり、結局真相は未だ分からないまま。


「山南は、粒餡とこし餡、どっちが好きだ?」


 無邪気な声で呑気な質問を投げかけてくる目の前の爽葉という少年は、本当にただの子供だった。純粋そうで、血も見たこともなさそうな。まさか十九の人斬りとは、誰も思うまい。

 「粒餡ですかね」と微笑めば、「僕はこし餡だな」と屈託無く笑う。

 人斬りにしては、あまりにも無垢だ。その大きな口で饅頭に噛り付いたその時、彼がぴくり、と小さく肩を揺らした。


「爽葉!」


 快活な笑顔を満面に浮かべて、元気良く姿を現したのは藤堂だ。高い位置で結んだ髪が尻尾のように弾んでいる。彼は隣に山南の姿を見つけて、「あれ、山南さんも!」と嬉しそうに破顔した。

 若いながらも剣の腕が立ち、隊士を率いる面を持ちながら、裏表のないとても良い子である。


「平助君、どうしたのですか」


 湯呑みを持ちつつ尋ねる山南に、藤堂はにっこり笑って、爽葉を指差す。


「こいつ探してたんだ」


 そう言ったが早いか、藤堂は爽葉の手を取り、「じゃ!」と山南に手を振って、颯爽と駆け出して行く。

 急に引っ張られた爽葉は、食べかけの饅頭片手に、「おい!」と喚く。引っ張られながらも、餡子が落ちないかを心配している様子に、山南はひとり、笑壺に入った。彼のいる生活は、華がある。山南には、彼の入隊が吉兆にも思えるのだっただった。


「平助! どこに連れてく気だ! あ、餡子が、餡子が落ちる!」

呉服ごふく屋!」


 藤堂は楽しそうに返事をして、悲鳴に似た叫びを上げる爽葉をお構いなしに、あっという間に屯所を出た。

 嫌だ嫌だと駄々をこねる爽葉の背中を押して、呉服屋の暖簾を無理矢理くぐらせる。店内に入ってすぐ、微動だにしなくなった爽葉を置いて、嬉々として藤堂は袴を選び始めた。


「何がいい? どんな柄にする?」

「平助、此処ここは外か?」

「何言ってんだ。まあ、外? かな。店内っちゃ店内だけど」

「そうか」


 強制連行されて来た爽葉は、己を取り巻く久し振りの雰囲気に呑まれていた。人がいる。明るい日差しと、陽気な声があった。昼間に外出したのは何年振りか、と言う程、爽葉にとって、昼の街は久しぶりであった。夜の街はよく知っている。逆に、昼の京については無知と言ってもいい程、何も知らなかった。

 今までの爽葉はまるで、夜行性の猫かふくろうのよう。昼は宿などでじっと身を潜め、陽が没してから街に繰り出す日々を送っていた。

 そんなことは知らない藤堂。これがいいかも、と振り返った先には、ほうけた表情で、空気を胸いっぱいに吸い込む爽葉の姿があった。暖簾の狭間を抜け、店の中まで届く燦々とした陽の光を浴びて、気持ち良さげに目を細めている、気がした。


 ──君は、誰?


 込み上げてきた、自分でも理解のできない科白せりふを飲み込んで、藤堂は遠慮がちに爽葉の名を呼んだ。

 爽葉は淡い光の波濤はとうに包まれながら、緩慢な仕草で振り返る。


「なに」


 良かった。そこに居るのは、藤堂が知っている彼だ。

 内心ほっと胸を撫で下ろした藤堂は、両手に何着か袴を持つと、彼に近寄って、身体に当ててみては真剣な表情で唸った。


「うーん。これもいいけど、こっちも似合うな」

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