表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誠眼の彼女 -Seigan no Kanojo-  作者: 南雲 燦
弍の幕
57/58

玉髄

 月に数回決まった日に、昼前に廓に来て待っていれば、花君太夫が郭の内風呂に入れてくれた。彼女とお梅は、芸妓時代の同僚なのだという。訃報を受ける数ヶ月前、お梅が突然彼女の元を訪ね、爽葉のことを頼むと言い残していったらしい。それが、お梅が己の足で島原遊郭を訪れた最初で最後の日だったというから驚きだ。


「太夫、湯を持って参りんした」


 石榴口ざくろぐちを潜って、金盥かなだらいを持った女が現れた。花君太夫が信頼を置く芸姑の一人で、明里という天神だった。明里は花君太夫から話を聞くと、一も二もなくこころよい返事をくれたようであった。

 この風呂の時間を設けられるのは太夫という最高位の花君のお陰であるが、彼女は何しろ忙しい。仕事があると言って花君太夫が風呂を立ち去ってからは、明里という女性が、爽葉が盲目であることを配慮しながら、入浴の手助けをしてくれた。


「お前は怖くないのか。僕は女だが、新選組の武士だぞ」


 そう明里に訊ねると、彼女はほんわりと笑って、


「ほんに、怖くはござりんせん」


 と言った。

 湯に入った爽葉は風呂の縁に首を当てる形で、金盥の中に頭を入れ、明里に解き櫛で髪をほぐしながら洗ってもらった。彼女の位も低くはなかろろうに、髪を洗う役まで進んで買ってでてくれた上に、甲斐甲斐しく爽葉の世話を焼いれくれる。しかし、そんな彼女は少し楽しそうな様子であった。


「芸姑というのは下積みで度胸も鍛えるのか?」

「確かに、そこらの女子よりも肝は座りんしょう」

「ふうん。……今すぐにここでお前を斬ることもできるんだぞ」


 爽葉が、風呂の床、手の届くところに置いた刀に手をばすふりをするも、


「わっちには、爽葉殿がお風呂好きのお侍様にしか見えんせん。可愛いお侍様、少し右を向いておくんなんし」


 と言われるだけ。爽葉が素直に右を向くと、明里が耳の後ろを優しくごしごしと洗う。その心地よさに、腹をくすぐられた猫のように爽葉は唸った。


「それにわっちは、新選組には素敵な殿方ばかりがいらっしゃることを存じ上げているんでありんす」

「へえ……素敵な殿方って、誰のことだ?」


 突然振り返った爽葉の勢いに、湯がざばん、と波打つ。


「新選組に想い人でもいるのか? なあ、明里」

「いえっ、別に想い人などでは! 一度助けてもらったことがあるだけで、好いているとかそういうのでは、決して」

「ふうん」


 にんまりと笑った爽葉は、裸体であることなど忘れたように、思い切り風呂の縁から身を乗り出すと、明里ににじり寄る。のけぞった拍子に、明里は尻餅をついた。


「なあ、明里殿。僕にその話を聞かせてくれないかい?」


 ぬめったて顔に張り付いた髪を乱雑にかきあげ、爽葉がにやつく。鎖骨に溜まった湯が一筋の道を描き、豊満な胸の間を流れて行った。


「女同士の話じゃないか」

「が、柄にもないこと、言わないでおくんなんし」

「やだなぁ。女にも裸の付き合いってのがあるだろう?」

「あ、ありんせんっ」


 断固喋らないっと言った様子の明里に、ぷくっと頬を膨らませると爽葉は湯に沈み、また仰向けに盥に頭を突っ込んだ。明里は難を逃れたとばかりにまた、爽葉の髪を梳かし始める。


「明里のような、意外に男勝りな品の良い女が惚れるとなると、山南か永倉、谷の次男坊あたりだろうな」


 明里はもう下手なことは言わぬと口を噤む。それを気にせず、爽葉は一人で滔々と語っている。


「それにしても、新選組の男に惚れるなんて、運が悪いな。どれもこれも、死に急ぎ野郎ばかりだ」


 ちゃぷちゃぷ、と遊ぶ爽葉の足が、水面に小さな円を作り出しては壊していく。


「明里、お前の気持ちが何か判って、それが抑えられないものならば、早く伝えた方がいい」

「……なぜでありんすか」

「明日の命すら知らず。刀を握るものの命など儚いものよ。後悔したくないのなら、言いたいことはそいつが死ぬ前に言っておけ。そいつもその方が嬉しいだろうよ、人によっては冥土の土産にするぜ」

「そ、そないなこと……」

「あるんだよ」


 水で流し終わった髪は、藍建てで染めた絹のよう。艷やかで神秘的な美しさを放っていた。


「君のためでもあり、そいつのためでもある。……ま、全て君が決めることだ。もう口出しはしないよ!」


 そう明るく言うと、爽葉は湯に全身を沈め、大きく伸びをした。


「んーっ。それにしてもここの湯あみは極上だ。この湯に浸かると何もかも忘れられる気がする。今日の当直とかな」

「ふふ、不思議なお侍様でありんすね」

「そうかな?」


 明里は爽葉に身体を拭く布を渡し、髪の水気を軽く拭き取り、香油を染み込ませた唐櫛で髪を解いてくれた。


「爽葉殿、御簾紙みすがみ*は足りていますか?」

「あー……それは時々こっそり買いに行って……」

「ちゃんと買えているんかえ? 切らしてはおっせんか?」

「ああ。えっと……」

「そんなことだろうと思いんした。これ、わっちの御簾紙とお馬*でありんす。持っていっておくんなんし」

「えっ。いいのか……あ、金は渡す!」

「今回はいりんせん」


 首をふる明里に、懐から取り出した銭を手に、爽葉は首を傾げる。


「次からはわっちから買っておくんなんし。あんさんの分も買っておきんす。他にも、入り用で買いづらい物があれば、わっちが用意しんす」

「いいのか!」

「あい」

「助かるよ! 明里、大好きだ!」

「……あい」


 明里は照れくさそうに、爽葉の抱擁を受け止めた。


「で、想い人は誰なんだ? 永倉か? 万太郎か?」

「それはっ、答えんせんっ」




 その頃、壬生寺では原田左之助と、自分が話題になっていることなど露ほどにも知らない谷万太郎が槍稽古を行っていた。彼等は、槍に関しては新選組で一二を争う剣士である。

 実は、この二人、試衛館で原田が近藤に出会うより前からの仲であった。原田が脱藩後、最初に学んだのは種田流たねだりゅうの槍術であり、大坂で備中松山藩の浪人だった万太郎に師事していたのだ。そして、免許皆伝を受けたのち、江戸に出ると天然理心流の道場、試衛館に出入りして剣術修行をするようになる。ちなみに、島田魁も、万太郎に槍術の指南を受けていたことがある。勿論、免許皆伝を得ている。

 武術単体で言えば、藩主・板倉勝浄の近習をも務めていた兄三十郎の方が、万太郎よりも腕前は良かったが、彼が天才気質であることや自由奔放な性格故に指南役には向いていないということもあって、師範代は万太郎が請け負っていた。


「最近、大坂の方はどうよ」

「そうですね。ぼちぼちってところです」


 三十郎、万太郎は、新選組に所属しながらも、大坂の南堀江町に道場を構えたままだった。それは、大坂にいる尊攘派の不逞浪士の動向を調べる為である。いうなれば、大坂の屯所。これは、大坂の情報も逐一把握したい新選組にとって、大きな役割を担っていた。


「原田さん、また腕上げました?」

「実戦が増えてきてるからかな」

「お前も、別の流派の剣術を習ってみたらどうだ。結構使えるぜ」

「そうですね……」


 三兄弟の父は、藩の旗奉行で百二十石取り、直心流剣術の師範だ。嫡男である三十郎は、父から習った直心流剣術の他、種田流槍術、神明流剣術、新陰流剣術など様々な武芸を修めている。


「ま、土方さんがお前の練った戦術を褒めていたし、指揮する側に回るってのも悪くなさそうだな」

「確かにそうですね。私もそう思いますよ」


 ものを考える時、万太郎は鷹のように鋭い目をする。一見深く熟考しているようでも、原田がちょっかいを出してもしっかり避ける。しっかり者で堅い考えの持ち主かと思えば、意外にも柔軟性があって、広い目の持ち主だ。兄の英邁えいまいな武術の資質に隠れがちだが、最近は土方が万太郎を気にかけているのが良く分かる。土方は、柔軟で先進的な思考を持つ者が嫌いではないだからだ。


「くっ……」


 万太郎が歯を食いしばって、原田の槍をすんでのところで跳ね返した。原田の打撃は、骨にまでずしんとくる重いものだ。それをまともに食らえば、そこから弾き返すには、相当の技術と体躯が必要になってくる。


「本当に、とんでもない馬鹿力ですねっ!」

「借りにもお前の直属の隊長だぞ、もっと誉め称えたらどうだ!」

「いつも散々褒めて差し上げてますでしょう!」

「足りん! もっと褒めろ!」

「あんたは子供ですか!」


 と、まあこれもいつも通り、こんな調子だ。

 思う存分稽古をした後、二人は軽く水浴びをして境内の階段に腰を下ろした。


「そういや、奴らも遂に壊滅したそうだな」


 肌脱ぎした肩に濡らした手拭いを引っ掛けた原田が、思い出したかのようにそう言った。


「天誅組ですか」

「ああ」

吉村よしむら虎太郎とらたろうが大坂で討たれましたからね」


 太陽が最も高く上がり、空が晴れていても、涼しい風が吹くようになった。突然唐来した秋に訪れだ。

 天誅組は、新選組と相対する尊皇攘夷派の武装集団だ。大和国五條代官所に打ち入って挙兵した。公卿中山忠光を主将に志士達で構成されていたが、結成直後に八月十八日の政変が起こり、皇軍御先鋒の大義名分を失って、朝廷と幕府から逆賊として討伐を受ける側に立たされてしまった。解散か抗戦かを選ばざるを得なくなるも、彼等は徹底抗戦を続け、挙兵から僅か四十日という短い期間ではあったが、遂に最後の最後の一人である総裁がたおれて、約百人いた組は壊滅。その旗を降ろすこととなった。彼等の境遇と生き様には、考えさせられるものがある。


「壮絶だったようですね」


 天誅組討伐に動員された兵力は約一万人。百人規模の、武装すら貧弱だった集団に端から勝ち目はなかった。若者が多かったようだ。血路を開く為に決死隊を組んで、数十人が派手に散っていったという話も聞く。


「中山忠光はどうなったんだ?」

「逃げ延びたようですよ」

「どっかで殺されるだろうな」

「そう思います」


 新選組もまだ六十人程度の少組織だ。それが一万の敵兵に囲まれる……。


「考えたくもねえや」

「何がですか」

「いや……。奴らの無私の思想ってのにはついていけねえと思ってさ」

「『一心公平無私』ってやつですか?」

「そうそう、それそれ。俺にゃ理解できねえ」


 自分の心もなく戦うのは、彼等が若かったからだろうか。それとも、信じたものの為、私を殺したのだろうか。


「あー、辛気臭え。やめだやめ、こんな話はもう勘弁だぜ」

「自分から話し始めたんじゃないですか」


 そう言う万太郎も真昼からこの手の話を深堀りするのも嫌だったようで、原田がぺらぺらと話す他愛のない話題に、朗らかな笑顔を返した。


「よう、左之助、万太郎」

「爽葉」


 頭を濡らし、肩に手ぬぐいを引っ掛けた姿の爽葉が寺に顔を出した。風呂でも入ってきたのか、稽古でもしていたのか、頬は少し紅潮し、上機嫌なのも見て取れた。


「槍の特訓か?」

「爽葉。君も槍をやってみるか?」

「万太郎、おチビちゃんが槍を持ったら、刺すところか槍の重みで倒れちまうよ」

「左之助お前ぇ」


 爽葉が原田目掛けて突進する。笑いながらそれを受け止めた原田は、軽々と爽葉を寺の廊下に転がした。


「そういや万太郎、最近どこかで女を助けた覚えはあるか? 若い芸姑だ」

「芸姑? いや、無いが」

「そうか……万太郎ではないか」

「何をぶつぶつ言ってるんだ?」


 原田が怪訝そうに爽葉を覗き込む。


「なんでもない、じゃあな! 俺は暁に巡察があるんだ」

「新隊長殿、頑張ってください」


 原田とは違って優しい万太郎に、


「万太郎ぅ!」


 と一方的に軽い抱擁を交わし、「じゃ!」と爽葉は軽快な足取りで屯所へと戻って行った。


「私達も戻りましょう」

「そうだな」

「そういや、お前にも良い刀鍛冶を紹介してやる。俺も斎藤から紹介してもらったんだが、なかなか腕が良くてな」

「そういえば、槍を預けていましたよね」

「いい具合だぜ。今度行ってみろ」

「そうします」


 青かった葉が、ゆっくり秋色に変わっていっていた。照葉が菊日和の空に映えて、美しい。


「それともう一つ、万太郎」


 先に立ち上がっていた原田が、万太郎を振り返る。漢らしい面に、やんちゃな青年のような笑顔を浮かべて彼は笑った。


「お前の槍は強い。頭も切れるし、太刀だって二流とは呼ばせん。策を練るのもいいが、俺の隊の一員であることを誇れよ」


 万太郎は顔が熱るのを感じた。


「……はい」


 じんわりと色づく、紅葉のように。


 それからすぐ、神無月かんなづきに入った。

 近藤は容保公の命で、新選組の代表として、祇園一力楼にて開かれた公武合体会合に出席。薩州、土州、芸州、細川、会津国政周旋掛などが集う中、国事に関する意見を述べた。そして、その数日後、新選組に幕府からある一報が届く。それは、新選組に禄位ろくい*を与える、というしらせであった。





 御簾紙… 経血を押さえる和紙

 お馬… ふんどし

 禄位… 身分

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ