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誠眼の彼女 -Seigan no Kanojo-  作者: 南雲 燦
弍の幕
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玉髄

「土方……歳三!」


 久坂はハッとした表情かおをして、腕を乱暴に振り解いた。

 それからは瞬く間の出来事だった。

 土方も相手が久坂と気付くと、爽葉を強引に奪い返し、刀に手を掛ける。久坂も鞘に手を携え、逃げ道を確保できる位置にまで素早く後退した。狭い空間で振るった土方の袖と石灯籠がザッと擦れる。


「てめえ、うちの隊士に何の用だ」


 土方の問いかけを無視して、久坂は爽葉を見つめ、


「爽葉、また会おう」


 とそれだけ残すと、久坂は跳躍で塀を軽々と飛び越えて姿を消した。


「大丈夫か」


 肩に回した腕を解くも、ぽろりと落ちた一粒の涙に気付いた土方は、その苦しそうな顔隠すように、再びそっと爽葉を胸に抱いた。

 とっ、とっ、とっ。荒波立った海が凪を迎えるように、ゆっくりと、乱れた心拍が落ち着き始める。

 気付けば爽葉は、掌にじっとりと汗をかいていた。緊張していたのか。そう気付くと同時にどっと疲労感が押し寄せた。


一先ひとまず帰るぞ」

「……うん」


 煙草の香りが漂ってきた。その渋い香りを胸いっぱいに吸い込んで、爽葉は土方の後を追うのだった。


「原田」

「なんだ?」


 皆に続いて屯所へ入って行こうとする原田を、土方が呼び止めた。原田は振り返って土方の表情を見ると、静かな笑みを浮かべた。


「この十番隊隊長、原田左之助。副長様のご命令とあらば、何でも承りますよ」

「茶化すな」


 ふふっと、原田は軽く声を洩らしてから、


「で、誰を斬る?」


 と訊ねた。


「お前はまた楽しそうに」

「やだな、そんなこたぁないですぜ。虫も殺せぬ優しき心に封をして、割り切ってるのさ」

「どうだかな」


 二人の会話は、冗談を言っているとは思えぬほどひどく淡々としていた。


「早速本題に入るが、遊郭に長州の者がいた」

「ほう」

「久坂玄瑞。お前も知っているな」


 ぎらりと原田の目付きが変わった。


長州幹部そんなやつがまだ、京に残っているのか」

「いや、全員ではないだろう。現に、桂は京から出たことが確認されている」

「まだ何かしでかすつもりか?」

「さあな。だが動きは警戒して然るべきだ。その上、久坂やつは爽葉に接触を図った」

「……は」


 思案顔だった原田が、ぽかん、と口を開ける。


「爽葉を捕まえて、何か話そうとしたようだ。武田から事情を聞いたが、爽葉という名の武士が新選組に居るだろうか、と訊ねたようだ」

「そ、んな。爽葉が裏切り者って可能性もあるのか? いや、でも……あいつが入隊する前に散々経歴を調べたよな。何も出てこなかった、そうだよな?」

「ああ。まあ白昼堂々、武田を介して会おうとするなんざ、突発的な行動としか思えんが、改めて調べることにはなるだろうな。兎角、近々何かしらの事件が起こる可能性があると見てしまっていいだろう」

「となると、情報を巣に持って帰られる前に、鼠の駆除が必要ってわけか」


 伝えるべきことを伝えた土方は、庭の方に回る。混み合った脳内の考えが、冴えた風に冷やされて整理されていくようだった。

 未だ長州藩士が京都に残っている。それも、反幕運動の中心人物として活発な活動を続ける久坂玄瑞、京を逃れた長州の核、桂小五郎も京の様子に目を開かせているはず……今は一刻も早く情報を掴まなければ。


 人の気配がして、思案に耽っていた土方は足を止めた。庭に一人、佇んでいる青年がいた。松の幹の側、空を見上げ、嫋々《じょうじょう》たる星屑の光と戯れている。

 爽葉だ。

 素月そげつに照らされた彼は純白に染め上げられていた。

 見とれた土方は、暫時そこに立ち尽くした。

 牡丹の花のように、彼の凛とした立姿に心が揺れるのを感じた。透き通る輪郭、朧な表情に肌が粟立つ。彼は今にも、降り注ぐ光のなかに溶けていってしまいそうである。ふと、昔自分が書いた歌を思い出した。


 白牡丹 月夜月夜に 染てほし


 土方が声に出した彼の名が、白の着物の裾を小さく引っ張った。彼はこちらを振り返らず、じっと何かを視つめている。


「トシ」


 爽葉の姿が、水溜りに模糊もことして映り込んでいた。


「この着物、似合っているか?」


 唐突に、爽葉が訊ねた。


「ああ」

「そっか」


 爽葉が、口許だけで微笑んで、空を仰ぐ。僅かに喜びの色を帯びながら、どこか物哀しい。

 一方、土方の胸に蟠踞ばんきょする熱は、なかなか引いてはいかない。


「この色がどんな風に見える? トシの言葉で聴かせて欲しいんだ」


 鼓膜に触れる囁き声は、無感情と哀愁が絡み合う徒浪。彼の思いはどんな色模様であろう。


「白牡丹の花弁に……」


 爽葉は土方の声を、静かに聴いていた。

 どこか感情というものを忌み嫌いながらも、彼は一途に生命の吐息を辿り、人の情動というものを糸を紡ぐように丁寧に手繰り寄せる。その矛盾と葛藤に苦悩する姿は、人間の泥臭い部分をそのまま投影したかのようであった。


「砂糖を溶かしたような金の……」


 土方は詩を書くのが好きだった。浪人という身分にしては珍しく、感覚的な美を大切にする文化人的側面も持ち合わせている。だが、生涯こうやって声に出すことはしまい、そう思っていた。こんなにも土方の感性に共鳴し、傍で一緒になって紡いでは、心地よいと素直に褒めてくれる者に出会うとは考えてもみなかった。


「トシ」

「いや、何も言わないでいい」


 土方に遮られた爽葉は、それを悪い方に受け取ったのだろう、少し表情を曇らせた。

 それから、爽葉の唇がもごもごと居心地悪そうに動き、ちらちらっと土方の様子を伺う素振りをみせる。


「お前はまだ葛藤しているんだろう。自分の心にけじめをつけろ。俺達に話すのはそれからだ」

「……わかった」


 白く細い背中が視界から消えた。だ消えぬ不思議な暗香あんこうが、強い拍動の余韻が、土方の胸に残っている。


「ありがとう」


 土方に向けたのは、鮮やかな笑顔だった。でもそれは今にも泣きそうで、苦しそうで、どこか苛立ちと困惑が紛れ込んだ複雑な笑顔だった。その精一杯の笑顔は、土方の胸に燻る熱を、煽り燃やす。





 骨が破砕する音がはっきりと響いた。血柱があがる。せるような血の香りの中、そこには幾つもの死体が転がっていた。生き残っているのはただ一人。鉄の長槍を手にしたその男こそ、槍を待たせば右に出る者のいない、新選組きっての荒武者あらむしゃ、原田左之助である。


「あー……きもちぃー……」


 掌の腹から手首、そして腕へと伝う鮮血を舌で舐め取って、原田は蕩けるような甘い表情を浮かべた。血脂に濡れた頬は僅かに紅潮し、大人びた目尻が艶を纏っている。華やぎのある美青年のそれは、なまぐさい光景の中、背徳的で美しく映る。


「君が戦いに出ると悪役にしか見えないよ」


 刀身から血糊を払い落とす原田に、陰から姿を現した井上が呆れた口調でそう言った。死体処理役として駆け付けた、新選組幹部、井上源三郎である。梢を揺らす乾いた風が、井上のきちりと折り目のついた袴を揺らす。思慮深さが滲む目元が、言葉とは裏腹に原田の行動を笑っていた。


「爽葉も嬉しそうに首を持って来るんじゃない。犬っころじゃないんだから、何でもかんでも拾ってはいけないよ」


 いつの間にか死体の傍にしゃがみこんでいた爽葉が、持っていた頭部から即座に手を離し、口笛を吹きながら別の死体を回収しに向かう。初めから何も持っていなかった、とでも言いたげな素振りだ。


 昨日ーのこと。新選組屯所、前川邸の門前で、原田は楠小十郎を殺した。逃げる彼の総身を背後から四度、ばっさり斬りつけた。

 楠は十七歳になったばかりの若者だった。色白で目がぱっちりとしした、整った顔立ちの美男子で、新選組の男達に比べれば弱々しい印象の男だったが、柔和な性格だったからか、谷周平と共によく可愛がられていた。そんな彼が長州の間諜だと判明したのも、数月前のことだ。監視付きで泳がされていた楠だったが、遂に斬れという命が下された。


『なるほど?』


 土方に暗殺相手の名を聞かされた原田は、一瞬だけ顔を顰めた。


『必ず仕留めてくれ』


 土方が念を押した。


『そりゃあ良いけどよ、俺の槍今手元にねぇんだよ。明日の夕刻にゃ修理も終わってるだろうが』

『太刀ならあるだろう。手前の腰に差さってるもんとかな』

『刀の扱いなんて、もう忘れちまったぜ』


 そんな発言をしたということを彼は省みるべきである。彼は基本、何事も器用に熟す男であった。


「それにしても、自信がないって言ってた割には随分とお上品に斬るじゃないか」


 爽葉が皮肉気味に言った。並外れた膂力りょりょくを持つ原田が放つ一打は、人間を真横にすっぱりと割いてしまう。断面は、魚でも捌いたかのように滑らか。骨の間を綺麗に縫った神業で、とても怪力ばかりを自慢している姿からは想像のつかない、高度な技術が一撃一撃に詰め込まれている。


「左之助は槍術の達人だが、天然理心流の食客だったからね。剣も上手なんだよ」


 死体を片しながら井上が言う。


「読み書きや算術も、帳付けだって得意ですからね」

「げ、本当かよ……気持ち悪いほど器用だな」

「その目は何だ、その目はよぉ」


 元は伊予いよ松山藩に仕えた武家奉公人であった原田の能は、槍だけではなかった。藩校の助教に仕えたこともある彼は、皆から随分と定評がある。試衛館の門人になったのは遅い方だと聞いたが、彼等からの信頼も厚い。それは、浪士組の殿しんがりを任されていることにも現れている。今回の新しい隊編成においても、爽葉の受け持つ十一番隊は控えの予備隊であった。要するに、実質的に新選組の殿しんがりを務めているのはこの原田が束ねる隊である。


「やっぱ、槍の方が手に馴染むな」


 原田の持つ二尺三寸七分*の刀、江府住興友こうふじゅうおきともは、近藤の愛刀、虎徹を鍛造したことでも知られる、興友おきともという刀工とうこうの作品である。その使い込み具合を見れば、日本刀を持っても彼が並外れた戦闘能力を有し、常に最前線に立ってきたことは一目瞭然であろう。


「こちらも終わりましたよ」


 飛び散った血を丁寧に拭いながら、三人に近付いてくるのは、はやし信太郎しんたろう。脇差を握り、何かを肩に背負っている。まだ朝日も昇らない暗がりで、彼はそれを地面に放った。


「お見事」


 爽葉がにやりと笑った。それは荒木田左馬之介の骸であった。髪結い中であったのだろう、まげが変な形に曲がっている。背後から刺したのか、彼は前方にのけぞった形で硬直していた。

 爽葉達が長州の間者として疑いをかけていたのは、楠小十郎、御倉伊勢武、荒木田左馬之介。そして、彼等と同時期に入隊してきた松永主計、松井竜次郎、越後三郎の計六名だ。彼等は事の挽回を図る長州藩士、そしてこれに組する攘夷浪士らと定期的に連絡を取り合っていた。


「こちらも」


 振り返ると、斎藤が御倉の死体を前に、刀を鞘に戻していた。


「さ、陽が登る前に片すよ」


 井上が手を叩く素振りをする。

 遺体をそれぞれ棺桶に入れて、屋敷の中へと運び入れた。通夜が行われたのはその日の夕時であった。副長らの画策により、芹沢一派殺害の下手人の罪を被せられた御倉や荒木田の棺桶に花を手向ける者は少なかった。、淡々と行われた簡易的な通夜は、裏切り者達の魂を弔うに十分なものであった。


「おチビ、血の匂いがする」


 隣に佇んだ沖田が、爽葉に耳打ちした。


「ちっ。洗い落とせてなかったか」


 爽葉が今が月経の時期であった。己の血の匂いと、斬った者の血の匂いの判別がつかず、血を落としきれていなかったようだ。


「気を付けなよ。血の匂いに敏感なのは俺だけじゃないんだから」

「うん」


 すぐに洗い落とそう。そう思い、爽葉は井戸で体を軽く拭き、蓬色の風呂敷を抱えて屯所を出た。中には月役時に必要なものが一式入っている。


「面倒だな」


 面倒な体だ。男だったら、こんな面倒なことと向き合わずに済む上に、勉学や剣術に励むことが許され、堂々と帯刀し、刀を振るう力も相手を蹴散らす肉体も手に入ったかもしれない。ないものねだりとは分かっているが、爽葉はどうしてもそう考えてしまうのだった。


「爽葉はん、湯あみでおすね」

「ああ、すまんな」

「さ、お上がりなんし」


 遊郭の風呂は広くて、綺麗だった。人目を忍び、井戸の水浴びだけで凌いていた時期もある爽葉にとっては、豪勢過ぎて少し気が引けてしまうくらいだ。


「ゆっくりしていっておくんなんし」

花君はなぎみ太夫、世話になる」

「そないな礼はいりんせん」


 こっそり内風呂に入ると、爽葉は腰から外した刀を置き、優しく肩から衣を落とした。


「ほんに、女子でありんすねぇ」


 男物の着物から現れたのは、透き通る白い肢体。柔らかな曲線で描かれた美しく、靭やかで、筋肉室な身体だった。肌が明るい色だからだろうか、引き締まった身体中に走る無数の刀傷が目立つ。


「湯にも浸かりなんし」

「いいのか?」


 花君太夫はにっこりと微笑みながら頷くと、爽葉の肩をそっと押して、洗い場へと連れて行く。


「月役の時は身体を温めなんし。身体が繊細になる時期でありんす。もうすぐ明里が海蘿ふのりとうどん粉を溶いた湯を運んでいんすにえ、それで髪を洗いなんし」

「かたじけない。恩に着る」

「お梅からの終いの願いでありんすか ら。『うちのお転婆娘を頼むわぁ』と」

「そうか……」




 二尺三寸七分……約七十一.八㌢

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