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誠眼の彼女 -Seigan no Kanojo-  作者: 南雲 燦
弍の幕
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玉髄

 緩やかな拍子、陽気な笑い声。活気に溢れた島原遊郭で、酒を飲んでほろりと酔うのは新選組の面々。今日の宴は一段と華やかだ。

 新選組は朝廷からだけではなく、会津藩や将軍家からも報奨金として白銀はくぎんを賜っていた。松平容保公も孝明こうめい天皇から、感謝と信頼が綴られた直筆の御製ぎょせい*二首と宸翰しんかん*が贈られ、大層喜ばれているようだった。取次役の広沢殿から、容保公がその宸翰を、彼の小姓こしょう*である浅羽あさば忠之助ちゅうのすけに持たせていると聞いた。普段、周囲から『怖獅子おそろししと恐れられる彼の、少し可愛らしい一面が垣間見える。


 土方は目を閉じ、原酒を嘗めた。

 政変を皮切りに政局は大きく変わった。以前とは比べ物にならないほど、仕事も増えた。碌な休息もなく働いた後の酒は格段に旨いものである。

 丸窓の外に目を遣る。大きな満月が浮かぶ、穏やかな夜だ。甘い酒の薫りが秋の清風に混じって舞っていた。


「なにか良いことでもあったんでありんすか?」


 土方に酌をする芸妓が尋ねた。

 少し間を開け、土方は緩やかな仕草で芸妓に目を向けた。豪奢な打掛を着て、身体を鮮やかに着飾っている。


「そんな風に見えるのか。……何故笑う」


 くすりと嬌笑する彼女に頷かれて、土方は僅かに口角に力を入れた。


「堪忍え。こないな土方様は珍し思いまして」


 片眉をぴくりと上げて、土方は傾けかけた猪口をそのままに、芸妓へと目を向けた。彼女の瞳が艶めいて、己を見ている。


「大層上機嫌に見えはります」

「そうなのか」


 雨露滴る静かな景色。その趣きを打ち消す、爽葉の豪快な笑い声が耳をつんざく。

 爽葉は土方が選んだ白の着物を着ていた。黄色みがかった白は、落ち着いた上品な色だ。そこに、銀地の刺繡が肩から裾に向かって施されている。

 結局、爽葉の小袖は今着ているものと斎藤が選んだもの、長襦袢は山崎が選んだものになった。袴は沖田と近藤が見繕ったものに、帯は谷と井上とが決めたもの、羽織は藤堂と山南が選んだものだ。途中から合流した島田が足袋を選んで、合わせてみると、これが不思議なもので、思いの外しっくりくるのだ。

 降る雪を浴びたかのような滑らかな肌合いを包む白の生地は美しく、所々にあつらわれた梔子くちなし色の花模様と、見え隠れする紺の糸がまた洒落ている。袴を履いているので見えないが、川の流れのように入り乱れる柄は裾に向かうにつれて豪奢なり、裏地には紺を基調とした大胆な柄があしらわれている。竪結たてむすびされた博多織はかたおりの角帯は、渋みがかった青緑。首許にのぞく襦袢の柄は大胆だが、小袖の品の良さが際立つ粋な色味。武士には珍しい派手な衣裳だが、爽葉には良く似合っていた。そもそも常識破りのヤクザ者が多い新選組だ、悪目立ちはしない。


「これで終いだ!」

「こなくそっ」


 近藤は時折、新選組隊士を島原に連れて行く。規則正しい生活、厳しい稽古、変化する情勢。そんな種々の緊張が巡る日々の中で、命のやり取りをする土方達にとって、息抜きは不可欠であった。壬生村と田圃たんぼを隔てた朱雀野しゅじゃくのに位置する島原は、酒宴をするにうってつけだ。申請すれば泊まることもできたが、隊士達はべろべろに酔っ払っても、肩を貸し合って屯所へと戻った。それからまた酒を飲んで、崩れるように寝落ちる。そんな時間は確かに至福だった。


「任せろ、僕の出番だ!」

「出来るもんならやってみやがれ」

「おチビ、その細腕でどこまでで頑張れるかな」

「舐めやがって!」


 透き通るような碧玉へきぎょくは、今日も布に包まれていた。

 あの青に焦がれている。

 ふと、土方はそんなことに気が付いた。誘惑的な青に、鮮烈なる瞳に、心惹かれている。


「歳、今日はもう引き上げよう」


 酒を飲んでいない近藤が、場酔いでもしたのか、少し赤い頬で囁いてくる。

 土方は頷いて、芸妓に帰ることを伝えた。近藤が隊士達に声をかけている。「帰りたくない」と駄々をこねる声が聞こえる。


「もう帰ってしまうんでありんすか? まだはやうおざんす」


 名残惜しそうな声で、芸妓が言う。


「わっちと、もちっと*遊びんしょう」


 盃を置いて立ち上がった土方が、芸妓を見下ろす。それが随分と冷たい瞳だったのか、彼女はびくりと肩を震わせた。


「何か?」

「い、いえ……漣夏れんげ、上がり花*を」

「あい」


 賑わいを増す夜の遊廓。芸妓達は近藤土方を丁重に見送った。禿かむろ新造しんぞうが忙しなく酒や膳を運んでいる。


「きゃっ」

「……っと」


 廊下の角を、新造の娘が曲がって来た。出会い頭に芸妓とぶつかりそうになる。倒れかけた芸妓を、爽葉がすんでのところで手を掴んで支えた。


「お前は確か、うちの座敷に来てた、なんだっけ……いち、いち……」

一之いちのでありんす!」


 とぼけた爽葉の発言を遮るように、ぴしゃりとそう言った彼女は、爽葉と手を繋いだままの右手を見て、


「気安く触らないでおくんなんし!」


 と、手を振り払った。

 座敷にいた時とは態度が全く違うではないか。驚いた爽葉は目を丸くした。


「助けてやったのに」

「あんさんの助けなんて要りんせん! ……どうせ助けて貰うならあんさんじゃのうて、土方様が良かった」

「悪かったな、うちのクソ副長じゃなくて」


 一之の左人さし指の爪の先には、不自然なくぼみがあった。三味線をたくさん弾いた為にできる糸道だ。深雪大夫から聞いた話だが、芸妓は、一弦琴、琵琶、琴、笛に鼓、唄や和歌、そして舞、書道、花道などと幅広い芸事をたしなまなければならないらしい。披露するまでの技量に達する為に、どれほどの鍛錬を積まねばならないのであろうか。

 芸妓であろうと、武士と同じだ。鍛錬と研鑽を積み、凌ぎを削り、遊廓という戦場に出向くのだ。

 一之は天神と呼ばれる、太夫の次に格の高い遊女だ。別の名を梅の位。彼女は輪違屋お抱えの遊女で、最近は同じ輪違屋の大夫と競うように、露骨に土方にべったりと張り付くようになっていた。


「……悋気りんきか」

「り……、は?」

「お前さぁ、トシのどこが良いわけ」


 爽葉の言葉に、一之は目に見えて憤慨した。


「あんさん、土方はんに仕えてござりんしょう?」

「仕っ……聞き捨てならないな。僕はトシに仕えてなんかない。言うならば同志。あくまでも対等だよ」

「じゃあ。同じ新選組でおすものを、あん人の魅力が分からんのでありんすか」


 もう淑やかな芸妓を気取ることを辞めたのか、彼女は爪を弄りながら爽葉のことを鼻で笑った。


「とんだ鈍感男ざんすね」


 とんだ芸妓だ、と爽葉は身を引く。


「様子がいい*上に、金子もきちんと払う男らしいやまさん*。おまけにお酒も強はって、厄介な客からは寧ろ守ってくれる間夫まぶ*。ほんに、ぞっとしんす*」

「はあ……」


 生返事をする爽葉に、一之は呆れている。

 羽振りも良く、手当のお陰で金遣いも綺麗であった新選組を慕う者は増えていた。浪人あがりとは言え、今や京都最強の剣客集団とも囁かれる新選組の評判も右肩上がりだ。近頃は、花街の外で隊士と逢瀬を重ねる者もいる。


「それに比べて小兵で、下戸で、馬鹿騒ぎしていあんさんは……」


 一之は言葉を最後まで続けず、含みのある言い方をする。


「はいはい、そうですか」


 爽葉はげんなりとした表情を浮かべ、厠へと向かおうと一之に背を向けた。


「もしかして、あんさんも土方様のこと……気になってんでありんすか?」

「はあ?」


 あまりにも突飛な考えに、大きく声を張り上げて、勢い良く爽葉は振り返った。


「ふっざけんじゃねえ! 僕を男色にする気か!」

「いいじゃない。男色」


 腕を組んで、一之はにやにやと笑った。


「相手にはされないと思うけれど」

「お、お前、廓言葉は……」

「いるのよ。うちの禿にも、好きな人の話になると白けてみせる天邪鬼あまのじゃくがね」

「ふざけるな、そんなのと一緒にされてたまるか!」

「爽葉君もようやくこちら側に来る気になったのですね」

「わ! 武田っ! お前はどっからいて出てきた!」


 一之の意地の悪い視線と執拗な武田を振り払いながら、爽葉は肩をいからせて廊下を歩く。


「なんて奴だ! 助けてやったのに!」

「人助けは私欲でするものではないですよ」

「お前はいつまで付いてくるんだ! クソ! 地味に良いこと言うんじゃない!」


 びたん! と厠の扉を閉め、武田を物理的に追い出す。


「はあ」


 爽葉は嘆息を零す。乱れた呼吸はなかなか収まらなかった。ぐしゃりと髪を掴んで掻き乱す。動悸はまだ、ひとりでに跳ねている。一之の下らない一言に、揺れる自分がどうしても解せなかった。


「はーっ、苛々する。今日はしこたま飲んでやろう」


 呼吸を整えた爽葉が漸く廁から出ると、廊下が何やら騒がしくなっていた。武田の声も聞こえ、爽葉は「今度はなんだ」と溜息をつく。巻き込まれるのも嫌だったので、爽葉は壁に沿って身を隠し、耳だけをそばだてた。


「私は新選組六番隊隊長、武田観柳斎ぞ!」

「あ? なんだって?」

「誰だ?」

「だから! 新選組の! 武田! 観柳斎だ!」


 しょうもない言い争いだ。


「新選組ぃ? そりゃあ都合がいいねえ」

「なっ、貴様! 手を離せ!」


 派手な喧嘩には発展しなさそうだな、と判断した爽葉が、その場を後にしようとしたその時。


「何をしているんだ」


 それは、爽やかな風が吹いたようだった。


「義助さん!」


 爽葉はぴたり、と足を止めた。

 あの綺麗な声。青い空のような、あの凛とした響きは、紛うことなき彼のもの

 喧嘩相手は、長州藩士、久坂玄瑞——!


「おいおいおいおい、何をしてくれてんだ、武田あいつは!」


 爽葉の聡耳そうじに、聞き間違えなどは無い。武田に助手をするか否か、柄に手を添えて様子を窺う。


「新選組が!」

「新選組? ……貴殿は新選組の者なのか」

「ああ、そうだが?」


 久坂が訊ね、酔った武田は堂々と胸を張った。乱暴に掴まれた武田の胸倉は開き、皺だらけになっていた。

 政変以降、長州藩士は肩身が狭い。特に倒幕派ともなると、何時いつ新選組や見廻組に追い立てられるのか、常に気を巡らせているはず。こんなところで武田に絡むのは無策と言っても過言ではない。目立つような乱闘まねはしないだろうが、彼らの矜持きょうじ微酔びすいがそうさせるのであろう。


「貴殿に一つ、訊ねたい。新選組に、爽葉という者はいるか」

「……爽葉君の友人かね?」


 爽葉の顔に一瞬焦りが走る。が、武田を黙らせるために飛び出して行くわけにもいかない。衝動をぐっと堪え、その場に留まる。


「ああ。実は彼と話があってね。もしこの場に来ているのなら、内密に取り次ぎを頼みたい」

「何の話をするつもりかね!」

「必要ならば、これを取っておいて欲しい。悪いようにはしない」


 懐から取り出した何かを手に握らされた武田。彼のハッとした反応が、手に取るようにわかる。金だ、と武田の態度の変化を察して、爽葉は思う。気働きの効かぬ奴め、と爽葉は即時撤退を決意した。武田は


「爽葉君なら、ちょうどそこに……」

「げ」


 二人が振り返った先には、間抜けにも、抜き足差し足で逃げようとする爽葉がいた。


「あ、爽葉君」


 武田が名を言い終えるが早いか、爽葉はその場から遁走とんそうした。


「え? 爽葉……」


 呼び止めようとした武田の隣を、久坂が駆け抜けて行く。すばしこく逃げる爽葉。久坂も大柄ながら速い。すぐに上がる息と、もつれる足。飲みすぎた、と後悔するのはいつものことである。


「お願いだ、逃げないでくれよ、爽葉」


 久坂は店の裏手に逃げようとした寸前で、爽葉を捕まえた。


「爽葉! 俺だ、玄瑞だ」


 彼は久坂玄瑞改め、久坂義助であった。顔立ちを苦しそうに歪め、彼は慎重に言葉を紡ぐ。危険なことを承知だろうに、自分の名を彼はおおっぴろげに明かし、縋るように爽葉の腕を掴んでいる。


「わかって、いる」


 沈黙が流れた。苦い空気だ。鉛のように重く、胸の奥が詰まる。


「……離せ」


 久坂の太い腕を押しやって、爽葉は俯く。昔よりもがっしりとした腕は、爽葉の力ではぴくりとも動かなかった。並の剣客のものではない。


「俺はただ……もう一度君に会えたことが嬉しいだけなんだ」

「嘘を言え!」


 爽葉の舌鋒ぜっぽうが久坂の言葉を突き破った。


「お前は! 僕を嫌っているだろう? 何も言わずに出てきてしまったから……嫌わないはずがないだろう」

「爽葉が無事ならいいんだ。生きてさえいれば、それで良かったんだ」


 優しい声音に、俯いていた爽葉は更に久坂から逃れるように首を背けた。ただ、しっかりと掴まれた腕はどうすることもできず、繋がったまま。

 苦しい。爽葉は空いたもう片方の手で、胸の辺りをぎゅっと掴んだ。


「元気でやっているのかが心配で。だって君、不器用だったろう? 俺がいないと洗濯も料理もできなかったし」

「それはっ、昔の話だろ!」

「やっとこっち向いた」

「……っ」


 彼との記憶は胸を強く締めつける。


「そんな悲しい顔をしないでくれ。君を困らせたいわけじゃない」

「そんな表情かおなんてしてない!」


 久坂の大きな手のひらが、爽葉の後頭部に回る。「ごめんね」と言いながら優しく頬に触れる指先。顳顬の髪を払い、爽葉の目尻を拭って、名残惜しそうに離れて行く。

 懐かしい、指先。


「生きていてくれて、ありがとう」


 爽葉がまたしても言葉に詰まった時。


「何してやがる」


 久坂の腕を捻り上げる者がいた。





 御製… 天皇が詠まれた和歌

 宸翰…天子直筆の文書

 もちっと…もうちょっと

 上がり花…最後に出すお茶

 やまさん…武士

 間夫…いい男

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