飛花
新見が詰腹を切ってからというもの、芹沢の酒量は目に見えて増えた。平山や平間も芹沢に言って聞かせるよう、お梅に何度も頼むほどだ。
「芹沢はん。見て? もう黄色になりかけとる葉があるんね」
屯所の隣の壬生寺で、芹沢とお梅は野がけ*を楽しんでいた。まだ碧い景色を眺め、久方ぶりの長閑やかな時間に、お梅は幸せを感じていた。
芹沢も機嫌が良いようだ。お梅の言葉に、口の端を持ち上げて笑っている。
彼はまた、景色から目を逸らさず無言で酒器を差し出した。その漆塗の椀に、白濁の酒を注ぐ。誰に言われようとも、芹沢が注げと言うならば、お梅はそうすることをやめなかった。どうしてか、彼の心は静かであるように思えるからだ。まるで、嵐の訪れを待つ暗晦の瀛ように。
「お梅」
お梅は、自分の名を呼んだ男を見る。
彼の瞳に、はらはらと散る葉の姿が綺麗に映り込んでいる。
この男は、いつまでも子供のようだ。剣を振る時も、自分の意見を押し通す時も、愛を伝える時も、乱暴な手段しか知らないかのよう。気分が良いと溢れんばかりの褒美を与えてやるし、気に入らぬことがあれば容易く人を殺す。とても大人のやることではなかったが、その行為すら、お梅には愛おしく思えていた。
「溢れるぞ」
注いだ酒が、器を満たしていた。
「すんまへん」
はっとしたお梅は、慌てて銚子の傾きを戻した。
さわさわと葉が鳴っている。小さな猋が、妙な匂いを運んでくる。湿り気と冬の兆しと、嵐の予感とを。
「お梅、」
「いやです」
お梅は優しく、しかしきっぱりと断った。
「……そうか」
彼が口を開いたのはそれきりで、屯所に戻ろうと腰を上げるまで、何も語ろうとはしなかった。
お梅が産まれたのは京都西陣である。それから暫くは、島原のお茶屋で働いていた。数えで二十三になる頃、落籍され、太物問屋*である菱屋太兵衛の妾になった。お茶屋で働くことになったのは自然の成行であったが、菱屋の愛人として囲われたのも成行であった。流されるままに生きてきた、それがお梅の人生であった。
意思もなく、誇りもなく。唯唯諾々《いいだくだく》と首を縦に振るだけ。島原で育った所為か、町娘などとは比べ物にならないほど垢抜けた美人で、愛想を振り撒くことは得意だった。そんなお梅の前に、菱屋の客として突如現れた人物こそが芹沢である。
「やらい厄介な客が付いてもうた」
そう言って、菱屋は頭を抱えていた。粗暴で、酒癖女癖が悪く、おまけに金もない。彼にツケを払って貰わねばならないと言うのに、誰もが彼を怖がり、責任を押し付けあっていた。そんな中、借金の取り立て役として白羽の矢が立ったのがお梅であった。
「あの人でなしも、女にならば当たりが弱いだろう。お梅、私を助けると思って、代わりに行ってくれへんか?」
妾とは、正妻とは別に、養って愛する女のことである。早い話が、経済的援助を伴う公認の愛人のことだ。良い暮らしもできる上に、正妻としての役割もなく、愛されながら暮らしていける楽な肩書き、と思われるかもしれない。しかし実際は、屋敷での肩身は狭く、屋敷の女達からは良い顔をされないものである。はっきりと口にされることはないが、女は心の機微に敏感だ。当然お梅も、肌でそれを感じないわけがないのであった。
取り立て役は、お梅にとってある意味救いでもあった。菱屋の旦那は仕事熱心で、日中屋敷に居ないことが多い。女の園と化した屋敷から逃げる口実ができたことで、心の何処かで安堵していた自分がいたのは事実である。
お梅は何度も屯所に通い、芹沢に金を払うよう催促した。しかし、彼はお梅を門前払い。遣いに出た番頭が、逃げ帰ってきたのも納得できた。外出の時を見計らって会いに行けば、のらりくらりと返事を濁し、遂に膝を突き合わせて話ができるかと思えば、
「物好きな女め。そんなに此処が好きか」
と、昼間から浴びるように酒を飲みながら、こう言ってのけるのだ。
「好きで通おてるんちゃいます」
「ほう。可哀想にな」
「あんさんが借金払うてくれへんから、うちが何度も来る羽目になるんよ」
「では金を取ってみろ。俺は今」
芹沢が両手を広げてみせる。
「この通り、無防備だ」
「いけず*なお人やなあ。持ってへんのやろ? それくらい、分かっとります」
「つれねえな」
笑う芹沢は、何故かお梅の反抗的な態度が気にいったようであった。お梅もお梅で、芹沢相手に無駄に取り繕う必要もなく、何か新しい感覚に囚われ始めていたのは、確かだった。
「今日は帰ります」
「また来いよ」
「次は金子の準備を。よろしゅうお頼申します」
笑う芹沢に背を向け、新見に見送られて、お梅はこの日も屯所を去る。
「てめぇ、そろそろ芹沢と決着をつけろ」
かと思ったが、突然背後から声がかかった。
「あと、沖田にちょっかいかけるのは、やめてくれねえかな」
「あら。土方はん」
振り返ると、其処には凛々しい顔立ちの美男子がいた。
土方歳三。芹沢と同じ、壬生浪士組の武士であり、新見と同じ副長の座に座る男だ。
「あんたはんが芹沢はんを説得しとくれば、うちがここに来ることもなくなるかもしれまへんよ」
「そりゃあ無理だ。お前の手腕でどうにかするんだな」
「あら、冷たい人どすな」
可愛らしい沖田と違い、土方という男はどうも苦手だった。精悍な顔付きとは裏腹に、奸計を巡らせていそうな口振り。余裕な態度とは異なり、隙のない眼。その何もかもが、何処となく恐ろしい。
「このまんまでは一生来よることになってそうどす」
「早く手を打て」
その言葉に、にっこりとお梅は笑った。
「えんばんと*、もう打つ手はあらへんどす」
芹沢は、酒がなければ気さくな男だった。借金の話がなければ、お梅と談笑も楽しんだ。
一度は愛したはずの妾を狼の群れの中に送り込むような旦那よりも、今や彼と過ごす時間の方が大切なのだ。
屯所に足繁く通うようになっていた、ある日のこと。お梅は、酔った芹沢に部屋に連れ込まれ、無理矢理手篭めにされた。
それが嫌ではなかった自分に驚きつつも、考えれば考えるほど、すとんと腑に落ちるのだった。
今まで生きてきた中で誰ひとり、お梅をこんなにも強烈なまでの力で欲してくれる人はいなかった。それが一時的な情慾だとしても、少し乱暴な抱き方だったとしても。
それからだ。彼を想う気持ちに、歯止めが効かなくなったのは。彼に溺れていく自分を、止める手立てをお梅は失った。こうなってしまってはもう、どうすることも出来やしないのだ。
「雨が降りそうどすね。今宵は酒宴どっしゃろう?」
「ああ。帰りは遅くなる」
「糸里と吉栄も呼んで、待っとりますね」
彼は露悪的だった。己の欲望に従順で、感情に素直だった。子供に向ける優しい笑顔も、面白いことを笑う、ちょっぴり皮肉な口許も、お梅を求める餓狼のような眼も、全部好きになった。彼の新しい一面を知る度に、胸が喜びに満たされていくようだった。
遠くで雷鳴が轟いた。分厚い灰色雲が、此方に手を伸ばしている。
刀を錆びさせないよう、柄に被せる手拭いを芹沢に渡してやらねばと、お梅は雲を見てそう思案するのであった。
「どうにも煮え切らねえのなぁ、近藤さんよ」
最後にもう一度、芹沢粛清の段取りを確認する山南の横で、土方は近藤にそう言った。
「芹沢さんも俺等と同じ気持ちを抱いて、ここまできたと思うと……」
「かつてはそうだったかもしれない。だが、今や金と女を貪るだけの、ただの狼だ。ありゃあ武士なんかじゃねえ」
「だが」
「近藤さん。これは仕事だ」
俯き加減の近藤を、土方の鋭い視線が貫く。
「これは後の容保公からの信頼に関わってくる」
「……」
「やるのは俺たちだ。近藤さんは覚悟だけ決めてくれりゃいい。この汚ねえ過去ごと抱えて、俺等の大将になる覚悟をな」
近藤は優しすぎる男だった。その広い心に、いつも情と愛を持っていた。それは新選組の柱になる器に相応しいものだった。
但し、迷いを捨てる時がもう其処まで来ている。彼は決断しなければならない。
「源さん、左之」
井上と原田が頷き、土方に近寄った。
「手順は覚えたな」
「はい」と、井上。
藤堂は宴の手配で、永倉と松原、島田は伏見の泉屋での警備で、席を外している。
「あとは総司、てめえは宴に残れ」
「……は? 何を言ってるの、土方さん」
「芹沢が帰っても、残れと言ったんだ」
「どういうこと? 俺も加えてよ」
沖田が信じられない、とばかりに目を見開く。
「お前にゃ斬らせたくねえんだよ」
「なんで! 俺だって役に立ちたいんだよ? 俺を外す正当な理由があるわけ?」
怒気に震える声が、沖田の必死さを表していた。
「じゃあなんで爽葉は連れていくの。俺の方が剣の腕は良い」
「おいおい、僕が下手くそみたいに言わないでくれる」
部屋の隅で寝転ぶ爽葉が、頬杖をついたまま口を狭む。
「実践経験はこいつの方が上だ。それにお前は長いこと芹沢やお梅と居たこともあったろう。少なからず情も生まれる。永倉も計画からは外している」
「心配なのですよ。総司が小さな頃から見ているでしょう? 兄の気持ちになってしまうのを、わかってやってくれませんか」
山南が二人の間に割って入った。
彼等は皆、沖田を歳の離れた弟のように想っているのだ。それがもう、立派な新選組一の剣士として剣を握っていても、一番隊隊長として先陣を切ろうとも、ずっと変わらないのかもしれない。
「嫌だね。俺は行くよ。止めても無駄だから」
「総司……」
近藤が、苦しげに黙り込んだ。
「俺が斬る。斬らなきゃならない」
沖田の覚悟が滲む言葉が、ぽつりと落ちる。
「だから連れてってよ、土方さん」
土方は嘆息を零し、目を伏せて頷いた。
「では、総司と爽葉も。抜かりなくお願いしますよ」
山南が開いた八木邸の見取図に、皆の視線が落ちた。
酒宴は島原の角屋で行われた。八月十八日の政変への新選組出動に対して、会津候から手当が出ていた。その祝いと慰労会を兼ねた、大宴会である。
いつもの如く、平隊士達や、藤堂、左之助、爽葉は大いに盛り上がりを見せている一方、幹部の席は不気味なほど静かだった。雨樋から滴る雨垂れが、単調な拍子を刻んでいる。
「嵐山にいくそうで?」
土方が徳利を手に、芹沢に一礼。酒を注ぎつつ、そう訊いた。
「ああ。お梅が紅葉を観たいと言うからな」
「なるほど。もうすぐ綺麗に葉が色づく季節ですからね」
「新見の喪が明ける頃には、紅葉も見ものになっているだろう」
ちくりと棘のある言葉である。芹沢の嫌味だろうか。新見の切腹は土方達の企みだと、芹沢も察してはいるのだろう。
「そういえば、芹沢さん。会津藩邸に褒美を貰いに行かれませんか?」
「ん?」
「会津藩から褒美が出ているのです。政変での会津兵との件で、堂々たる芹沢さんの姿に感銘を受けた者が多くいるようですし」
「ほう?」
「その英姿に憧れて、近頃入隊を希望する者が増えているのですよ」
「それは良いことだ。だが、まだ新見の初七日が終わっていない。取りに行くのは別の者に任せるしかないようだな」
会津藩に行きたくないだけなのであろう。真意を見抜くも苛つく素振りは見せず、土方は笑顔を浮かべながら、酒をまた注いだ。
「褒美を貰えば、また芹沢先生のような武士目指したがる者も増えましょう」
「土方」
芹沢が遠くを見ながら、土方の名を呼んだ。
「てめえ、何を考えてやがる?」
「どういう意味でしょうか」
「何を考えているのかと聞いている」
「強いて言えば……隊士のこと、そしてこの組の存続、でしょうか」
ふん、と芹沢は鼻を鳴らし、酒を飲み下した。
剣士でなければ、汗が滲むほどの緊張感が漂っていた。何気ない会話の底には、冷たい本懐と見えない殺意が、横たわっている。
「では、私は一旦これで」
土方が席を離れる。
近藤と芹沢がまた、隣にいながらも互いに無言で酒を飲む。
「芹沢さん」
先に口を開いたのは近藤だった。
「お前、武士に必要なのは何か、知っているか」
しかし、近藤を遮り、先に喋り出したのは芹沢であった。質問の意図を計りかねて、近藤は漆塗りの酒器を傾ける手を止めた。
「仕える御方や仲間に対し、誠実であること、でしょうか」
生真面目に答えた近藤の答えを、芹沢が笑う。
「土方、お前はどうだ。武士に必要なものはなんだと思う」
野がけ… のどかな日に、野山に遊ぶこと
太物問屋… 呉服商。特に、綿織物や麻織物等を取り扱う問屋のこと
えんばんと…生憎
いけず…意地悪
***おしらせ***
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