飛花
『芹沢を、斬る』
ハッとするようなその一言は、冷水を頭から掛けられたかのように、目が醒めるものであった。
『土方さん、そりゃあ正気か』
原田が静かに訊ねた。しかし原田も、事の次第をある程度察しているのだろう。土方が正気で言っていることは、分かっての発言であることは、問わずとも皆理解していた。
『隊の法を紊す者は斬る。隊の名を涜す者も斬る。隊に反する者は局中法度を前に、誰であろうと謀反人だ』
『怖いことを言うねえ』
胡座をかき、床に立てた槍に体重を預けた格好で、原田がにやついている。その声音から、彼が既に腹を括っていることが土方には分かった。
『そこまでしなくても良いんじゃないか』
永倉が口を挟むと、隣の藤堂もそれに同意した。彼は身体の前で合わせた両足の爪先を持って、身体を揺らし、駄々をこねるような素振りをする。少し戸惑っている様子。
『確かに最近は目に余る行為が目立つけどさぁ。ここまで一緒にやってきたし……今までみたいにさ、これからもあいつのツテが使えるかも知んねえじゃん?』
そう切り出したは良いものの、言葉尻は頼りなさげに小さくなった。
『土方さん。俺がもう一度注意してみますから、もう少し待ってくれませんか』
永倉が、控えめに問うた。
『何度言っても聞かねえから、今こんな事になってんだろう』
『局中法度は、筆頭局長にまで適応するのですか?』
『施行した時に再三言った。誰であろうと、この鉄の掟には従ってもらう。破れば、例え近藤さんだろうが副長の俺だろうが、腹を斬らねばならない』
永倉は近藤の次に心根の優しい男だ。冷静な思考力を持つ故に、間違った判断は下さないが、今度ばかりは同門の芹沢を手にかけることに躊躇があるようだ。一方藤堂は、仲間意識が強く、友情に脆い性格。裏切られたとなれば話は違うが、仮にもまだ仲間を騙し打つのに抵抗を覚えている。
二人のこの美点とも取れる弱点が、いつか仇にならないことを願うばかりである。
『俺は斬りますよ』
藤堂が、背後を振り返った。
『総司……』
『あの人はもう、新選組の道を拓く人じゃない。新選組の未来を塞ぐ人だよ』
部屋の隅で寝転がる沖田が、淡々と言う。
その台詞は、痛いほど核心を突いたのだろう、永倉も藤堂も顔を顰めて畳に視線を落とした。
『新選組を束ねる法は、富岳よりも重い。心に刻め』
『お前らはよく考えておけ』と俯く二人に言い残し、土方はその場を去った。
藤堂は暫し考えた後、土方と山南に直接話をしに来た。永倉が納得した今、粛清の件は恙無く進められることになった。
「それでだが……」
座敷には、近藤一派が集っていた。屯所で話すには、情報が漏れる危険性が高過ぎる為、土方達は常に場所を変えて会を開いた。今回も外に飲みに出るふりをして、闇夜に紛れ、密かに落ち合ったのは京の某所。
「まず新見を殺す」
土方が言った。続けて山南が口を開く。
こういった類の話をする際この副長達は鬼と仏ではなく、地獄への門の両脇を固める二体の鬼だ。
「彼には切腹していただきましょう」
蝋燭の火が緩やかに揺れた。ぼんやりと映る影が、重なり合い、混ざり合い、障子の上で蠢いている。
「どうやって」
原田が嬉しそうに訊いた。隣の斎藤が、その様子に密かに溜息を零して、原田に絡まれている。
「彼も芹沢にくっついて散々乱暴狼藉を働いています。それらを列挙し、局中法度違反として切腹を申し付けるつもりですが、芹沢という隠れ蓑があり、奴自体がこれまで様々な画策を企ててきた、食えない輩です。追い込むには、あともう一押しできる何かが必要でしょう」
「なるほど」
「そこで、彼単体での悪行をでっち上げます」
山南が笑った。皆その表情を見て、ぞくりと肝を冷やした。
「具体的には……」
山南が仔細を説明し、土方が時折飛んでくる質問に答えて補足する。その間も、近藤は目を瞑り、腕組みをして静座しているだけであった。
「で、肝心のあいつはどうするんだ」
山南が答えようとした時、皆同時に視線を周囲に走らせ、刀を手に取った。
「……誰か来る」
しん、と静まる空間に、外気が緩やかに流れ込んでくる。
スパン、と襖が開いて、現れたのは。
「爽葉?」
一様に驚く皆の間を真っ直ぐに進み、近藤、土方、山南の前まで行くと、彼は開口一番。
「お梅は、僕がやる」
と、言った。
「殺れんのかよ」
藤堂が爽葉を見る目は、鋭かった。
真意を探っているのか、彼女を殺す覚悟を見定めようとしているのか。爽葉の朧な表情をじっと見つめ、渇いた声を縁に、本懐を隠す無表情の綻びを見逃しはしまいとしている。
「やる」
近藤は今日の密会が始まって初めて、固く閉じていた目を開いた。そして、それ以上何も言おうとしない彼を、じっと見る。
沈黙という名の、水面下の意識の語り合い。
「いいだろう」
そう言って、近藤は辛そうに微笑んだ。まるで自分自身が斬られたかのように。
「ありがとうございます」
爽葉は近藤にぺこりと頭を下げ、そのまま帰って行ってしまった。雑に閉められた障子を、斎藤が無言で閉めた。
「嵐のようだったな」
永倉の呟きに、藤堂がけらけら笑った。
「さて。一番覚悟してる奴が先陣切ってああ言ってるが」
土方も薄らと笑っている。皆も同じ気持ちのようだ。彼は続ける。
「あいつにだけ、言わせっぱなしにゃあさせねえよなあ?」
その日は、朝からひどく湿気た風が吹き、暗雲が立ち込めていた。夕立が去った後の都はいつもよりも少し静かで、残暑の気配を拭いきった、身体の芯まで冷やす空気が、低いところを漂っていた。
「おのれ……謀ったな」
祇園新地の貸座敷、山の緒。
たった今、新見錦の切腹の命が、下されたばかりであった。
彼は暫く、近藤から告げられた言葉の意味を、上手く咀嚼できていないようであった。
「てめえの士道が何処にあるのか。俺は随分と前から甚だ疑問だった」
ぎりり、と歯を噛み締める音。
「言い掛かりだ……っ」
土方を睥睨し、新見は歪んだ唇から暴言の代わりに駁説を捻り出す。
「私の何が、士道に反しているのかね」
勿論、突如切腹を突きつけられ、唯唯諾々《いいだくだく》と素直に腹を斬る男ではない。
言葉が力んでいる。焦燥と忿怒がそうさせている。
「つい先日のご自分の行動を振り返られたら如何ですか。それとも、今までの貴方が加担した数々の乱暴狼藉を、此処で一から列挙せねばわかりませんか」
山南が静かに言い放つ。
新見は数日前、越前藩士から二十両もの金を借りていた。加えて、四条木屋町の旅籠で、水戸浪人の吉成常郎という者に狼藉を働いたばかりである。実のところこれは、山南の策略の一つであった。
「……芹沢先生が黙っちゃいないぞ」
「どうですかね」
山南が甘く笑いかける。まるで死へと導く、神の使いの微笑みだ。
「そもそも……っ、以前のことが切腹の一つの理由になるならばっ、私は芹沢先生の命に従っていただけなのですよ!」
「では、ご自分の意思ではなかったと」
「そうだ!」
「だ、そうですよ。芹沢さん」
はっと青褪めた時には、もう遅い。
「下手な芝居だな、新見よ」
山南の術中に嵌った新見は、片脚を罠に引っ掛けた鳥に同じ。その先には、居場所と命の墓場があるのみである。計略に長けた彼も、山南の前には今や、指先で弾かれる算盤の駒の一つであった。
全てを理解した新見は、額に血管を浮かせ、息を浅く速くして、近藤達三人を睨む。ぎりぎりで保っていた彼の理性が、弾け飛ぶ音がした。
「貴様ら、何をしているか、理解しているのか? ……芹沢先生ッ!」
きっと隣室の芹沢に顔を向ける。それは恨みの念があるのか、半ば縋る気持ちもあってか、酷く歪んでいた。
「千羽屋での女沙汰を収めたのは誰か、お忘れですか? ……佐伯の一件も! 鹿之嶋屋や善屋での金策も! 貴方の尻拭いをしてきたのは誰だとお思いですか?」
「お前が勝手にしてきたことだろう?」
芹沢は酒を飲んでいた。自分の器に酒を並々注いでは、すぐにそれを空にした。酒器を持つ右手は、苛立ちに震えていた。
「私に死ねと言うのですか?」
「……」
「芹沢先生! 貴方も馬鹿ではないでしょう!? ……次に死ぬのは、貴方ですよ」
「儂は馬鹿ではない。そして、お前の発言を許してやれる阿呆でもない」
「先生!」
芹沢は酒を飲み下し、やっと此方を見ると、
「新見、腹を詰めろ」
淡々とそう言った。
新見は絶句し、喉から嗄れた声すら出ないようであった。
以前より自らの悪行が原因で、新見は新選組内での降格を重ね、元は局長と並んでいた地位も既に平隊士とほぼ同格にまで落ちた。副長からの降格の際に生まれた、未だ埋まらぬ芹沢との軋轢が、今回火に油を注ぐ結果となったようだ。
「気は済んだか?」
新見は視線を土方に移した。
「士道を論ずる前に、てめえは何をするにも不覚悟だった。それが理由だ」
勝ちを確信した土方の言い放った言葉は、少なからず新見の心を揺さぶった。山南と土方に追い詰められ、正に四面楚歌の状態である。瞼の奥で、彼の細い瞳が一瞬ふらついた。
「これがお前らのやり方か」
突然、新見が大声を出した。
そして、徐に衿を開き、布一枚になった。
「先生も、私を蜥蜴の尻尾か何かに思っているのでしょう。残念なことだ。私を失くせば、貴方は新選組で孤立する」
大小の刀を置き脇差を手に取ると、柄を乱暴に外した。手近な布を巻き付け、一気に最後の着衣を肌脱ぎして腹を出した。
「介錯は私が」
山南が立ち上がった。
「お前の介錯など要らん」
それを、新見が怒鳴るように制止した。
「芹沢先生、あんたは馬鹿だよ。大馬鹿者だ」
割れた笑い声をあげ、新見は刀を抜き払う。
最後まで芹沢に諫言しなかったのは、彼の意地だ。山南の介錯を不要としたのは、彼の矜持であろう。
両手を添えた脇差。その刃を腹に当て、眼前の男を見据える。
「近藤」
新見の一挙一動を真正面から見る近藤を、嘲笑う。薄く、冷たく、しかし実に人間味のある眼だった。
「俺の死がお前らの破滅への道への始まりだ。後悔するがいい」
皮肉屋らしい腹詰めだった。
彼は最期まで、介錯を呼ばなかった。
切腹は、一人で上手く行くことの方が少ない。大抵は剣術に長けた介錯人が付き、その首を斬り落とさねば、最悪の場合翌日まで瀕死の状態でもがき苦しみ続けることになる。案の定新見も、腹を一文字に斬り、縦にもう一度斬ろうと、刃を突き立てたところで体力が尽きてしまった。
腹から臓物がまろび出た。口からは血と飯の混ざった涎が出た。四肢が痙攣しはじめ、流れ出た血が畳に染み込んでいった。
暫くは一同、静かに見届けていたものの、これ以上は苦しむだけと判断した山南が、「御免」と首を皮一枚残して切り落とした。
身体ががくりと傾き、床に転がった頭はころりと回って、芹沢の方を向いて止まった。奥歯さえ見えてしまいそうになるほど、強く歯を食いしばり、血走った目は眼窩から落ちてしまいそうなほどであった。
土方が無言で絶命を確認した。
文久三年九月十日、新見錦、切腹にて死す。
気付けば外は、轟々と降る雨に、軒が軋むほどであった。




