飛花
「女子がやったことだ。許してやったらどうだ」
「……」
「武士道の精神だ、芹沢さん。武士たる者、慈悲深くあれと」
「農民上がりの薬種商風情が。何が武士道だ」
表情は変化せずとも、土方の顳顬が僅かにひくついた。
「ぶっ殺す」
隣の耳のいい爽葉にも、聞こえるか聞こえないか程度の小さな声で、そう彼が言うものだから。思わず、くすっと吹き出してしまった爽葉は、急いで咳払いし、取り繕う羽目になる。
「あー……。そうだぞ、芹沢。年若い女子の失態なんだ。広い心で許そうぜ」
「新八が可哀想です」
沖田もすかさず助け舟を出す。
お気に入りの爽葉と沖田の勧めのお陰か、芹沢は暫し考え込んで、ぽんと手を打つ。
「では、首を刎ねるのはやめてやる」
女二人がほっと、息を吐いたのも束の間。
「小寅お鹿両人が剃髪し、詫びを入れることで今回は許そう」
さあーっと彼女達の顔から、血の気が引いた。
爽葉は箸を止めた。命に比べれば、坊主など安いものだ。同様に、土方、沖田、平山も、これで手を打つことができたと考えていた。永倉だけが、震える二人を心配そうに見ている。
「さあ。そうと決まれば、早速剃髪だ」
ここでやっと、正気に戻ったのだろうか。小寅が「堪忍してください!」と芹沢に泣きついた。無論、彼がそれを許すはずがない。
「髪はわちきの商売道具でありんす! 髪がなくなっては商売ができんせん!」
「決まったことだ」
「そんな無体な……」
「お前が悪いのだ。儂は譲歩したぞ」
ぼろぼろと小寅が涙を流す。その横で、「堪忍してください。お願いします。お願いします……」と懇願していたお鹿も、永倉に向かって「助けて」と悲痛な声で訴えかける。永倉は俯いた。この場において、自分にはもう何もできない事を、悟ったのだろう。
「煩い! もう決まったこったろうが! それとも何か。首を刎ねられたかったか!」
「きゃあああ!」
お鹿と小寅の抵抗が癪に触ったのか、芹沢は立ち上がって、小寅の髪を乱暴に掴んだ。怒りの形相で、彼は鯉口を切る。鈍く光る刀身が、鞘からその姿を現していく。二人はもう動けずにいる。
「望み通り斬ってやらぁ!」
風が起った。爽葉の隣の気配が消える。
「俺がやる」
バッと前に出た土方は、芹沢の抜き払われようとする刀の鵐目を押し返し、己の脇差を素早く抜く。
一瞬の出来事であった。
「……あっ……」
土方が芹沢の手を退け、小寅の頭をそっと押さえたかと思いきや、スパッという、小気味良い音がした。はらはらと、数本の髪が舞う。たくさんの簪と笄がその場に散らばった。
静寂が、その場を包む。土方は、感情の読めない、冷徹とも取れる眼差しで、女達の背中を見下ろしている。
「良い出来だ」
芹沢が酒を嘗めた。
土方の機転のお陰で、なんとか一番良い形でこの場を収めることができた。爽葉は胸中で溜息を吐いた。この人はやはり、こんな生き方をしてしまうのだ、と。
茫然とした表情の小寅は、何が起こったのか、分かっていないようであった。紙の上に置かれた自分の髪の束を見て、わなわなと唇を震わせる。
「……お……鬼っ!」
唇を噛み締め、彼女はキッと土方を見上げた。
「人でなし……っ」
人でなし? ……違う。
こんなに優しい人など、他にいないだろう? そうだろう?
「わちきから生きる術を奪いんすかえ!」
この女は、何を吠いている。
この男はいつも、皆を守る為に鬼になるんじゃないか。
「貴方は、血の通わぬ人でなしでありんす!」
小寅がそう言い終えないうちに、爽葉が飛び出した。突き飛ばされた小寅が転がる。
「爽葉!?」
永倉の、焦燥混じりの声。
床に雪崩れ込んだ小寅の上に跨り、胸倉を締め上げる。小寅よりも小さな身体だが、力は爽葉の方が上手く扱える。素手だとしても、彼女の命を奪うことすら、造作もないだろう。
「ちょ、何してんの!」
驚いた沖田が手を延ばすも、その手は見計らったかのように、爽葉に振り払われた。
爽葉の手が、尚もきつく、打掛の襟を絞めた。芹沢はその様子を、嬉しそうに眺めている。
「爽葉」
彼の声が聴こえた。
それでも制御のきかぬ感情が、身の内でのたうち回っている。爽葉自身、抑えられない衝動に、内心動揺していた。そして珍しく、獅子の如く荒ぶる感情を、奥に仕舞い込む術を見失っている。
「爽葉。もういい」
「……ゔゔぅ」
沖田がそっと背後に近付き、低く唸る爽葉の脇の下に手を入れて持ち上げ、小寅の上から退かす。
「どうしたの、おチビ」
「……なんでも、ない」
「では、お鹿殿の方は、拙者が」
永倉の心情を察してか、平山が脇差でお鹿の髪を同様に切り落とした。脇差を仕舞った土方が、永倉の肩に手を置き、「すまんな」と言った。永倉は首を振る。
永倉は何も言わなかったが、誰もが皆、永倉がお鹿を気に入っていたことに気付いていた。それが、恋慕に近しいものだったということも。土方は、その彼女を巻き込む結果になってしまったことを、謝っているのだろう。永倉は自分の無力感に、ただただ、臍を噛む思いをしていた。
一方芹沢は、忠兵衛に連れられ、座敷から出て行く彼女達の背中を満足げに眺めながら、
「さあ、酒を飲もう」
と大盃の酒を呷るのだった。
芹沢さん──。
永倉は、じっと、陽気に唄う芹沢を見ていた。
こりゃあ武士のやることと違うですぜ、芹沢さん──。
暫く酒と肴を堪能すると、芹沢は突然ふらっと立ち上がり、「飽きた」と平山を従えて、吉田屋を出て行ってしまった。
踊り、舞い、唄う、さも楽しげな酒宴のなか、緩やかに張ってた緊張の糸が、ふつりと切れた音がした。
「これで、どうにか」
結局永倉は、馴染みであったお鹿を身請けし、親許へ引き取らせた。
「小寅はいるか」
吉田屋を出る際、爽葉が店の奥に訪ねて来た。まさや仲居、遊女達が、涙を流すお鹿と小寅を慰めていた。
「何の用ですか」
「小寅殿に謝りたい」
「この後に及んで何を」
肩を怒らせる仲居を止めたのは、小寅だった。
「すまなかった。冷静さを欠いた」
小寅を押し倒した無礼を、素直に詫びる爽葉に、小寅は腫れた目を少しだけ緩めて、
「わちきの方こそ。土方はんは、わちきの為に、動いてくれたんでありんすよね」
と痛々しい笑みを作る。
「今は辛いと思うが……」
そう言い淀み、爽葉が奥歯を噛むように微笑んだ。仄かなやるせなさと、ふと漂う哀愁。なんて、寂しく、苦しげな表情なのだろう。
小寅は眦から伝う涙を拭い、爽葉の顔をまじまじと見た。
「命さえあれば、髪はまた伸びる」
それは小寅に言い聞かせているようにも、己に語っているようにも思えた。
「またその綺麗な髪が結えるようになったら、これを使ってくれ」
爽葉はごそごそと袖を探ると、小さな櫛を取り出した。
「何せ、仕事で来たものだから、詫びるものも、十分な銭も持っていなくてな。偶々持っていたものなんだが……これで勘弁してくれ」
綺麗な櫛であった。一目でそれが、相当上等な品だと分かった小寅は、驚いて櫛と爽葉を交互に見た。
この簪は、長らく仕舞っていた荷物の底から、最近になって引っ張り出してきたものだ。過去を引っ掻き回す人物達が、なんの因果か、爽葉の周囲に現れるようになった。立て続けにそんなことが起きるものだから、爽葉にしては珍しく、櫛なんぞを持ち出して、昔を回視した。大して思い出したくもない、かつての記憶を。
それを突然の招集で、袖に入れっぱなしにしたまま持ってきてしまっていたのだ。小さな頃に貰った櫛だが、過去との縁を断ち切るには良い機会かもしれないと、爽葉は思ったのだ。
「こないな上等な櫛……」
「いいんだ。僕が持っていても仕方ないしな。それに、芹沢の横暴はそれ以上だ」
先程の乱暴狼藉を思い出して、爽葉は横を向き、のっぺりとした苦笑いを零した。毎度毎度こんな事を起こされていては、こちらの身が持たないと言うものだ。
「要らなかったら、売って生活費の足しにしろ」と言う爽葉に、小寅は慌てて礼を言って櫛を受け取った。
「じゃあな。達者で」
去って行く爽葉の背を、小寅は櫛を胸に抱いて見送る。
自分と同じほどの背丈。遠ざかる背中は、華奢であるのに、強く逞しい。
「あの子は女子なんざんす」
「え?」
小寅は、隣に立った深雪大夫を見上げた。彼女はすらりとした、丈のある女性であった。背を少し屈めて、そう耳打ちした彼女は、驚く小寅に笑いかける。
「貴女も、実家に帰るでござりんしょう? 秘密の手土産でありんす。迷惑料と思えば、爽葉はんも許してくれんす」
「爽葉はんが、女子……?」
「そう。いつも戦場で命張るあの子は、髪を失うことなんて、些細なことでありんす。でもきっと、女子として髪を失う辛さも理解できるんでありんしょう」
前を向いて生きなんし。深雪太夫が言う。
小寅のがらんとした胸のなかにゆっくりと、爽葉と深雪太夫の言葉が注がれ、静かに降りてゆくのであった。
「おチビ! 何処に行ってたんですか、もう。さっきも驚きましたよ。らしくない」
「ごめん」
爽葉の肩に腕を乗せ、沖田はにまにまと依然気色の悪い笑みを浮かべている。
「おら、てめぇら。帰るぞ」
土方が振り返った。爽葉の頭に、ぽんぽん、と掌がのった。それは、誰よりも暖かい掌であった。
──ありがとな。
そう言われている気がして、爽葉は少し、気分が良くなった。
「土方さん」
永倉の呼びかけに、土方は片眉を持ち上げて応える。
「あのことだが……」
「漸く決心がついたか」
「ああ」
彼等が話しているのは、恐らく。
芹沢鴨、粛清──。
副長助勤には話が通っているようだと、聞き耳を立てながら、可能性の一つとして考えていた推察が、愈々《いよいよ》現実味を帯びてきたなと、爽葉は頭の片隅でそう、考えるのであった。
野鴨は大海を知らずして、その湖畔に沈むのであろう。
惜しいことではあるが、大荒れの海に乗りだす覚悟を決めたならば、それも運命と受け入れねばならない。永倉の気配を探る。珍しく揺れていた気配はなりを潜め、彼らしい心を決めた強い波動だけが、爽葉の肌に痛いほどの痺れを残した。
「君、もしかして、吉田屋の小寅さん?」
「はい。そうですけど……。何処かでお会いしはりました?」
「いえ、髪が短いからそうかと思って。有名ですよ、あの新選組の芹沢鴨に真っ向から反抗した芸妓がいると」
「お叱りを受けてまいましたけど」
茶菓子を置き盆を抱えた小寅は、今はさよと名を改め、紺屋*の御内儀*になっていた。
「断髪させられたと聞いたけれど、伸びたようだね」
「お陰様で」
あの一件の後、小寅は裕福な町人であった主人に請出され、幸せに暮らしていた。芹沢鴨との事件の噂は瞬く間に広がって、こうして時折労いの言葉を掛けてくる人もいた。
「それ……」
男が釘付けになった視線を辿り、何を注視しているのか気付いた小寅は、頭に手をやり俯き加減に微笑んだ。
「この櫛どすか?」
深い艶を放つ鼈甲の櫛。いつまでも、小寅に勇気と元気をくれる大切な宝物。触れる度、これをくれたあの剣士を思い出す。高潔な意志を宿す、美しい武士を。不器用な優しさは愛らしく、強く生きる姿は尊敬に値する、あの女性を。
「これを、どこで……?」
「あるお方から頂きました」
「あるお方? どんな人か、教えてくださいませんか?」
瑞々しい透明感のある、飴色の鼈甲から視線を外し、小寅は目の前の男を見た。今は座しているが、相当上背がありそうな男前だ。きりりとした濃い顔つきには、隠せきれない必死さが滲み出ていた。
「お願いします」
「爽葉さんという方です」
「……爽葉、さん……」
男の、唾を飲む音が聞こえた。
「はい。とても素敵なお侍様どす」
「その人とは、どこで……お会いしたのでしょうか?」
どうしてだろうか。小寅には、目の前の彼が、今にも泣き出しそうに映った。唇を噛み締め、頬はぎゅっと緊張して、拳は震えるのを堪えている。
小寅が渋ったのを察したのだろう、彼は小寅ににじり寄り、頭を下げた。驚いた小寅は腰を浮かす。
「お侍様、やめとぉくれやす」
「迷惑をかけないと約束します。お願いします。教えてください」
この時小寅は、あまりにも必死な彼が、どうしても爽葉を傷つける人間には、思えなかった。
「どうして、爽葉さんの居場所を知りたいのどすか?」
深いことを聞きはしまい。しかし、彼女の為を思うならば、聞かずにはいられない。
男は顔を上げ、じっと小寅を見つめた。彼の右目は軽斜視であった。片方しか視線が合わないというのに、貫かれるような衝撃が走る。真剣な、眼差しであった。
「後生ですから、教えてくださいませんか……」
唄でも歌えば、誰もが聞き惚れてしまいそうな美声で、心から絞り出す懇願に、小寅はどしても抗えなかった。
「彼は」
自然と開いた口。これほどまで、彼女を大切に想うならば、出逢えば良い。それが、彼女の一助になってくれたら、どんなにいいだろう。
「新選組にいます」
過去と今を結ぶ糸。
それを紡ぐ歯車が、再び回りはじめた。
紺屋…染物屋
御内儀…妻




