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誠眼の彼女 -Seigan no Kanojo-  作者: 南雲 燦
壱の幕
46/58

壮途




大和行幸やまとぎょうこうだ。これしかない」

いささか、性急すぎじゃあないか」


 久坂の推し勧める策に、桂は疑問を呈した。


「内容としては私も賛同する。が、事を急いでも、良いことはないぞ」


 藩命により、五月に江戸から京都に上って、三ヶ月。桂は京都で、久坂玄瑞等と共に破約攘夷活動を行い、正藩合一による大政奉還および新国家建設を目指していた。

 長州藩は中央政界を牛耳る存在として、京で幅をきかせるようになったが、幕府とは対立を深めており、孤立感は強まっていた。この均衡は、いつ崩れても不思議ではない。


「今こそ、強く出るべきですよ、桂さん。天皇自らが指揮する武力による攘夷に、切り替えるべき時です」

「ふむ……」


 桂は顎に手を当て、考え込む。彼の美しい面貌に翳が差し、憂いを帯びた儚さを纏った。


「いいじゃねえか」


 入江が後押しする。


「攘夷祈願という名目で天皇を行幸させ、攘夷軍を結成することで異人を一掃するのです」

「俺も賛成です。桂さん、やりましょう」


 吉田のおねだりは、しょぼくれた仔犬のような眼差しだ。可愛げのある童顔、うずうずと動く厚めの唇。潤んだ瞳で見上げてくる彼に、桂は溜息を吐くしかなかった。

 久坂の頭脳とずば抜けた行動力は目を見張るものがあり、桂を攘夷派の主導者と称するならば、久坂は攘夷派の第一人者であった。吉田松蔭の「草莽崛起論そうもんくっきろん」の思想を受け継ぎ、求心力、発信力共に優れた俊傑だ。桂も彼と共に朝廷を尊攘化をするなど、多くの活動を共にしてきたが、彼の並外れた才能には驚かされることが多かった。


「相分かった。玄瑞、君の功績は素晴らしい。今回も、君なりにやり切ってくれ」

「はい」


 久坂は、名を玄瑞から義助よしすけへと改めていたが、皆揃って玄瑞と呼ぶことをやめなかった。面倒だったからである。


「よし。稔麿、早速動こう」

「決まったら行動が早いですねえ、久坂さん」


 高杉、吉田、入江と共に久坂は《《松門の四天王》》と呼ばれ、中でも高杉と久坂は、塾生の中でも《《龍虎》》と呼ばれる双璧だ。吉田松蔭が二人を気に入り、競わせたのも納得である。

 彼等とは異なり、桂は所謂いわゆる、松下村塾の門下生ではなかったが、藩校明倫館で山鹿流兵学教授であった吉田松陰に兵学を学び、彼に「事をなすの才あり」と評された才人だ。その後も、吉田松陰に門人の礼をとり続け、松下村塾の門下生達とも交流を深めていったのだ。


 四人で京の街をそぞろ歩く。恐らく、後ろを守るように岡田が付いて来ている。

 桂も、神道無念流剣術の免許皆伝を得て、入門一年で江戸三大道場の一つ、練兵館の塾頭を務めるようになり、剣豪の名を天下に轟かせたこともある。岡田の気配を感じ取ることは、もう容易い。


「きゃあ、久坂様や」

「ねえ、桂様もおってはるわぁ」


 桂達が街を歩くと、道に面した窓が開き、女達が色めき立つ。長州藩士達は金払いが良く、比較的派手で、粋だ。中でも彼等は、目立つ容姿と教養を備えていた為に、注目されることが多かった。久坂は偉丈夫で凛々しい顔立ちの美男子であり、長身で声も良く、女に人気があった。桂も、その落ち着いた大人の佇まいと、端麗な容姿に惹かれる者が後をたたない。


「吉田様も可愛らしいわぁ。高杉様はいらっしゃらへんのね、残念やわ」

「君達、早く寝ないと折角の美しいお顔が疲れちゃうよ。早くおやすみ」


 吉田の可愛らしい外見と雰囲気は、女性の母性本能を掻き立てるらしく、社交的な性格も相まって、よく声を掛けられる。ひらひらと手を振り、調子の良いことを言う吉田の横腹を肘でつつき、入江がただでさえ鋭い眼を更に剣呑なものにした。


「てめえ、何うわついてんだ」

「いたっ、痛いですよぉ。入江さん、ほんと暴力的ですから! だから持てないんですよ!」

「あぁ? 持てることになんざ興味ねえよ。俺にはひとり、良いおもちゃがいりゃいいからな」

「え、なんですかそれ。純情とも狂気とも取れるその発言」


 吉田が顔をげんなりとさせる。それを桂が笑って、入江はやや微妙な感情を面に滲ませた。


「九一は本当に、良くも悪くも一途だよね」

「さっきの意味合いは、悪い方に傾いている気がするけど」

「あん? なんだよ優等生」


 久坂が苦笑いをすると、入江も食ってかかる。


「さ、劣等生君。お前も長州藩邸に行くよ」

「は? 今からかよ」

「善は急げってね」

「おいおい、俺ぁ帰って酒でも飲んで寝させてもらうぜ。今日は朝から働き詰めなんだ」

「問答無用です。行きますよ、入江さん」


 暴れる入江を抑える二人に、にこやかな笑顔で桂は帰宅を告げる。


「えぇー、桂さんは来ないんですか」

「三人いれば良いだろう」


 桂は、膨れる吉田の頭を優しく撫でる。柔らかな細い髪が、嬉しそうに揺れた。


「分かりましたぁ……。じゃあ、また明日」

「何であいつは良くて俺は駄目なんだよ! 離せこの野郎!」


 暴れる入江を三人と別れ、桂は一人で、いや、正確には護衛と二人で夜道を歩いた。


「腹が減ったな。……以蔵、今日はもう良い。ありがとう」

「ですが」

「酒は飲むが、呑まれはせんよ。大丈夫」


 居酒致し候、との文句を掲げた店先から漂う、美味そうな匂いにつられ、桂は赤提灯を提げた酒屋の暖簾をくぐる。店の端の方の席に座り、ふぐ汁と清酒を注文した。亭主は注文を取りながら、視線を合わせない桂の服装をちらと見て、店の奥へと引っ込んでいった。


 数日以内、早ければ明日明後日にでも、久坂達の言葉通り、朝廷によって大和行幸が発表されるだろう。桂には、不安要素が一つあった。それは、孝明天皇の御心、であった。

 酒と肴が出された。あつものが咽喉を下り、空洞だった胃袋をじんわりと満たした。

 孝明天皇は激しい攘夷論者だと有名だが、桂が見るに、彼は少々情緒不安的な、ただの外国との通商嫌いであるように映った。彼は外国と親交自体は受け入れざるを得ないと、承知しているのではなかろうか。日米修好通商条約が締結された際も、彼は猛烈に批判し、己の意見を変えずに反論を捲し立てた。温室育ちにも関わらず、なかなかやるな、とその時は桂も感心したものである。

 そんな彼が、もし久坂と意見を異にすれば、桂達が描く未来に途端に靄が掛かる。慎重に事を進めるべきだと、もう少し強く言えば良かったか、と苦虫を噛み潰したような表情で、また酒を嘗めた。

 その時、突然現れた誰かが、桂の隣にどかりと座った。


「おっちゃんー、日本酒一本追加で!」


 静かに目を白黒させる桂の目の前で、彼は悠々と伸びをしている。


「いやあ、飲み過ぎた、飲み過ぎた。お兄さん、相席させてくれ。酒豪達から逃げて来たんだ」

「え? いや……」

「一緒に来た奴らが酒強すぎてさ……」


 そう話しながらも、追加で注文した日本酒が、ことり、と桂の目の前に置かれた。火照った柔らかな白肌、酒で緩んだ、ぽてりと愛らしい唇、瞳を覆うは白妙の長布。これほど接近したのは、初めてである。


「……狂犬」


 すぐに視線を周囲に走らせる桂の前で、片足だけ胡座をかいた彼は、ぱたぱたとあわせを摘んで扇ぐ。そして、鼻唄を歌いながら、右手で暢気に自分の猪口に酒を注いだ。甘い香が、桂の鼻腔をくすぐった。どうやら、彼等は店の奥の席で飲んでいるようだ。

 桂は思わず、傍に置いた刀の、合金の鍔に手を添えた。黒塗りの愛刀、備前長船清光びぜんおさふねきよみつが、ぬらりと鈍色を放つ。


「……だいじょうぶ」


 その鵐目しとどめを、そっと押し返すは、無言の牽制。

 骨が抜けたように蕩けた仕草で、にへらと笑う小さな男は、机の下で左手を伸ばして、桂の抜刀を抑えていた。触れてはいない。が、しかし、二人だけの空間で、一瞬彼の気が、破砕しそうなほど張り詰めた。


「だいじょうぶだよ、おにーさん」


 頬を机に付け、冷たい、と心地良さげに眼を細めた彼の視線と、それを見下ろす桂の視線が絡まる。


「ここで諍いを起こすのは部が悪いぞ。僕の連れは、四人だ、しかも全員相当の手練。例え僕を斬れたとしても、到底逃げられまい」


 弛む口許から覗く、綺麗に揃った白い歯が、暗に桂の名を呼んでいる気がした。恐らく彼には、身元は割れている気がする。店内には席が少し離れているとは言えど、浪士組の腕利きが五人。一人は、酒が入っているとは言えど、侮れない。


「僕も武器はここに一本だけさ」


 ぽんぽん、と彼は柔な生地の懐を叩く。


「酔っ払いの手元にこんなちっぽけな刃じゃ、お兄さんとやるには心許なさ過ぎるよ。だから、一時休戦にしよう」


 桂も無闇矢鱈に刀を抜く男ではない。乗った、とばかりに、猪口を大人しく差し出した。


「よく、俺の正体がわかったね」


 桂は、彼が酒を継ぎ足した猪口を受け取った。手が、ちょん、と当たる。この細く小さな手に怯んだのかと、僅かに顔を綻ばせた。桂の微笑みは、其処らの女人よりもよっぽど綺麗で、婀娜やかなものである。


「簡単だよぉ」


 とんとん、と彼は鼻先を叩いて、また腕からだらんと力を抜いて、机に放った。笑顔の絶えない様子に、下戸なのだろうか、と酒好きの桂は遠慮なく酒を呷る。


「僕は人より鼻が利くんだ。お前の匂いはもう覚えてるよ」

「へえ。興味深い」


 桂は頬杖をついた。さらりと、長く麗しい黒髪が、肩から流れ落ちる。涼しげな旋律が、奏でられた。


「大坂で会った時に、覚えたのかい」

「そうだよ。お兄さんはなかなか唆る匂いがする」

「そりゃ嬉しいね」


 桂が静かに笑うと、花が咲いたように場が華やいだ。


「どんな匂いなんだ?」

「淑やかで、繊細な、咲いたばかりの桜のような、長年生きた松のような、なんとも言えない上品な匂いだ」

「松は好きだよ」

「なら良かった。静かな爽やかさを保ちつつも、甘すぎず、それらを包む優しい大人の香りだ。僕が香道をするなら、こんな薫りを焚きたいと思うね」

「匂いに敏感な狂犬わんこのお墨付きなら、よっぽど俺は良い匂いらしい」


 この時爽葉は同時に、浪士組に潜り込んでいる間者の楠と会っていたのが、桂だと確信した。


「狂犬ちゃん、君は面白いね。その頭の中、どうなっているのか、覗いてみたいものだ」

「なんなのかな。最近やたら、僕の思考を知りたがる人に会う」


 爽葉は、苦々しい顔をする。


「諦めた方がいい。君は魅力的な人間だ。自然と人を惹きつける才を持っている」

「変人ばかりに絡まれる才能なんて、格別欲しくはなかったんだがな」

「そうか? 事をなすのは、その人間の魅力だ。俺はその才能が羨ましい。俺にはない才能だ」

「厄介な事も多いぞ。この前も、能天気で変わった土佐男に声を掛けられた。結構話は面白かったから、友達とぎ? とやらになったが。……お兄さんとおじさんは正反対の性格に見えたけど、意外にも相性が良いかもしれない」


 ふむ、と爽葉は大袈裟に考える素振りをする。桂が説明を求めると、爽葉は坂本と交わした話を桂に語って聞かせた。酒のお陰で、舌の回りの遅い語り口はまるで、歌謡でも口遊くちずさむかのようなゆったりとした調べ。


「変わり者だな」

「だろう?」

「肝の座った男だ。お前の言うように、興味が湧いた」


 机に膝をつき、桂は顎に手を当てた。爽葉を眺める。しゅっと細くい体つきは、筋肉がしっかり付いているも、少し丸みがある。


「だが、彼の言うように、お前にも敵ながら興味がある」

「ふうん。どこが……っ何をする!」


 爽葉は、驚きに猪口から酒を溢した。桂に腕を掴まれ、引き寄せられたからだ。秀麗さに覆われていた肉体は、確かに武術に優れた男のものであった。机上に引っ張り出された状態で、爽葉がキッと桂を睨んだ。とは言っても、顔をつきを変えただけである。


「君は何故、刀を握る」

「な……」

「君は、女人だというのに」

「離せっ」


 爽葉は力ずくで桂の手を振り解く。


「まるで生娘きむすめのような反応だな」


 何事もなかったかのように摘みに箸を伸ばす桂に、爽葉は反論しかけた口を、ぐ、と噤んだ。


「おや、反論はしないのかい?」


 ちら、と片目が開き、爽葉を窺う。爽葉は深い溜息をついて、座敷にまた深く腰を掛け直した。ひらひらと手を振り、警戒の威嚇をめる。


「お前が、確信の口調で言うからだろうが。ふざけやがって。……酒が不味くならあ」

「へえ、流石に聡いね」

「馬鹿にしてんのか」

「寧ろ逆だよ、狂犬ちゃん」


 その言い方やめろ、とぶつくさ文句を垂れる爽葉を、にこやかに笑う桂。彼の持ち前の慧眼は、時事の先見だけに留まらないのであった。桂の纏う根岸色の着物が、熱気の篭る店内で、涼風に吹かれた風鈴の如く揺れる。


「女だてらに武士の道をゆくとは、気にならないわけがない。今時男勝りな女人も稀有だが、君のような人はまたといない。おまけに、察しも読みも良いときた」


 ひらり、と桂の前髪が浮く。


「行儀が悪いよ」

「お前が蒔いた種だろう」


 爽葉の握る箸が、桂の眼球目掛けて突き出されていた。その先端を、桂の箸が器用に摘んでいる。


「僕が女だってこと、言いふらしたら承知しないぞ。お前の目ん玉、その眼窩からくり抜いてやる」

「狂犬の名に相応しく、荒っぽいね」

「じゃあ、約束しろ。死んでも口を噤むと」

「残念ながら、君との約束を守る義理は、私にはない」


 目を伏せ、落ち着き払った様子で答える桂に、ちっ、と爽葉が舌打ちする。細い箸先が、拮抗する力に震えた。

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