壮途 -Souto-
松平容保公との繋ぎ役である広沢に呼び出された近藤、そして土方と山南は、苦々しい顔で、高台に建つ城構えの京都守護職本陣を見上げた。無論、大和屋焼き討ちの一件についてである。沖田の報せ、山崎の報告により、駆けつけた近藤達の前で、大和屋は完全に焼け崩れ去った。その炎は翌日の昼まで消えることはなかった。
「広沢殿、確実にお怒りだ……」
「ちげえねえ」
「これに懲りて、そろそろ芹沢さんも恥を知ってくれると良いのですけれど」
「公然であんなに暴れられるんだ。恥も外聞もねえよ」
「はぁ、何と言われるのやら」
気乗りしない三人は、大方丈の角部屋「虎の間」にて、広沢を待った。彼はすぐにやって来た。にこにこと笑っているのが、逆に恐ろしい。
「なかなか派手なことをやってくれたね」
「弁明の余地もございません」
苦虫を噛み潰したような表情で、近藤は頭を畳に擦り付け、謝る。そんな様子を眺めて、依然彼は笑みを浮かべている。
「相撲興行はあれほど成功したというのに」
「面目ございません」
山南が後ろから口を狭んだ。
「しかし、あれはごく一部の隊士が引き起こしたことにございます。今後この様な事が起こらぬよう……」
「その一部の隊士とやらに、筆頭局長がいるのだろう?」
ああ、と山南は、額に手を当てたい気持ちになった。
「確かに、松平公は近藤に期待を抱いておられる。真面目一徹の律儀者だと、随分評価されておいでだ。だからこそ、同じ組織の同じ立場に、あのような沙汰を起こす者がいる、その事実がいけないのだ」
土方はその意図をすぐさま汲み取った。彼はつまり、暗にこう言いたいのだ。
──芹沢鴨を殺せ、と。
山南の方をちらと見ると、彼も土方の方を見ていた。目が合う。山南が頷く。土方は静かに息を吐き出し、目を伏せた。
近藤には悪いが、芹沢は今や浪士組のお荷物だ。今まで世話になったことも多い。何の後ろ盾もなかった浪士組がここまで漕ぎつけたのも、水戸の武家の出だった彼の力あってのことだ。隊士達の中にも、彼を慕う者は少なくないし、大和屋焼き討ちの件でも、市民の中に一定数、彼に感謝した者がいたのも事実である。
近藤の大きな肩越しに、広末と土方は視線を交わした。広末の几帳面そうな風貌が、俄かに歪み、含みのある表情になった。
土方はこの広末が嫌いではなかった。性格は全く違えども、一種の同族の匂いがするのだ。嫌悪よりも先に、馬の合う予感のする男であった。見た目に反して、意外にもさっぱりとした気持ちの良い気質が、そうさせるのかもしれない。
「これほどの大事を、見逃すわけにはいかぬ」
近藤の陰で、土方が目を細め、口の端を持ち上げた。
「芹沢をどうにかしろ」
どうにかしろとは、どんな策を使ってもいいんですかね?
土方が片眉を上げる。
構わぬ。
広末が頷く。
降格じゃあ足りねえよな。浪士組からの追放? それとも、首を御所望で?
土方がふっと笑って、視線だけ残して横を向く。
やり方は問わぬ。
広末が微笑を湛える。
「承知致しました」
土方と山南が恭しく頭を下げる。近藤はやや躊躇しながらも承諾し、辛そうな吐息を洩らすのだった。
部屋に戻った土方は、充満する酒の匂いに顔を顰めた。
「言っとくけど、まだ飲んでないぞ」
「何も言ってねえよ」
月光を浴びる藍の少年の背中に、土方はそう返した。彼は縁側で胡座をかいて座っている。その隣には、徳利が数本行儀良く並んでいた。彼は今、何を感じているのであろうか。夏の音でも、聴いているのだろうか。
土方は今しがた、広沢から芹沢の処遇について、当人達と話してきたばかりであった。真っ直ぐな近藤は、屯所に帰するや否や、芹沢本人に
「素行を何とかしてください」
と、そのままを伝えた。相変わらずの馬鹿正直者である。
芹沢も芹沢で、
「わしを、お前が何とかすればいいじゃねえかよ」
と、この始末。しょうもない応酬を見届けた土方は、いつも以上に疲れた様子で部屋へと戻ってきたのであった。
「だってよぉ、昨日飲み損ねたじゃないか、あの芹沢のせいで! 今日は皆で飲み直しに、島原に行こうって言ってるけど、まだ時間もあるし」
そう言ってにやつく爽葉は、手に持った二つのお猪口を持ち上げてみせた。
「ほら、お前もいるだろう?」
「気が利くじゃねえか」
上機嫌で酒を注ぐ爽葉の横に、羽織を脱いだ土方が腰を下ろす。
にやりと、珍しく二人揃って笑う。
「どうだった? 怒られたか?」
「まあ、そうだな。近藤さんは容保公の信頼も厚い。芹沢さんの悪評は既に会津の知るところだしな。さして予想の埒外なことを言われた訳ではなかったな」
「へえ。そろそろ芹沢の首もやばいってか」
「お前……」
「なんだ」
「いや」
聡明な男だ。土方は、酒器を呷りながら、隣の少年を見た。
知識もさることながら、目先が利く。こういった頭の良さは誰しもが持ち得る才能ではない。
「お前の察する通りだよ」
器の底に少しだけ残った濁酒が、土方の苦笑いを揺れる水面に淡く落とし込んでいる。
「結局、新見の降格で落ち着いたがな」
「おっ。芹沢はぎりぎり難を逃れたか」
「責任問題を切り出した途端、奴が新見に、腹を切れと言って、また一悶着。困ったもんだよ」
けらけらと、爽葉は吹けば飛ぶような笑いを零す。
──忠告してやったのにな。
合間に呟かれたそんな独り言を、土方は聞かなかったことにする。
「新見め、いい気味だ。芹沢の為にあんなに苦労してんのにさ。いやはや、堪んないねえ。……トシとしては、思ったような収穫が得られなかったのかな?」
んー?と、既に頬をほんのり赤くした爽葉が、土方を覗き込む。
「さてね」
お茶を濁す土方の返事に、にたぁと唇をめくる爽葉は、それ以上何も言及しなかった。その含みある面差しの額を指で弾くと、白い肌に赤い跡ができた。彼はそこを両手で押さえて、ぎゃあぎゃあ喚く。土方が相手にしてくれないと分かると、大人しくまた酒をちびりちびりと嚥下し始めた。
「それにしても、夏の夜に飲む冷酒は美味いなぁ」
「あまり飛ばしすぎるなよ。これから飲みに行くんだろう?」
「トシも行くんだぞ」
「俺? いや、俺は遠慮する」
「え、なんでさ。嫌だ。トシが行かなかったら僕も行かない」
「お前、ほんと……。そういうところがチビ助だよな」
「おい、どういうこった。今完全に馬鹿にしただろう」
不貞腐れた顔で噛み付いた爽葉は、突然遠くで破裂した爆音に、びくりと肩を跳ねさせ、咄嗟に胡座を解いて構えの姿勢をとった。見事なまでに俊敏な動きである。日々の鍛錬の成果であろうか。
「なっ、なんだ今の!」
脇差に手を添え、警戒心丸出しの爽葉を、呆気にとられた表情で見ていた土方は、口元からお猪口を離し、肩を揺らして笑った。
「くくく……あはははっ」
耐えきれず声を上げて笑う土方に、きょとん、と爽葉は首を傾げた。ゆっくりと柄から手を離す。
どんっとまた爆音が轟き、爽葉は慌てた声でまた叫ぶ。笑い続ける土方の袖を、彼が不安げに引っ張った。
「吃驚した……。な、なあ、これ大丈夫なのか? 戦か?」
ひとしきり笑った土方は、「はあ」と一息ついて、ビビりっぱなしの爽葉の肩に手を置く。
「チビ助。これは、花火だ」
そう言ってまた笑壺に入る。
「はな、び……?」
「ああ。この方角だと、鴨川辺りで打ち上げてんだろう。ここは特等席だな。花火がよく見える」
「祭りか?」
「元は慰霊や悪疫退散の意だが、まあ、単なる夕涼みの花添えみてえなもんだ。花火を眺めながら、涼み船で酒宴を開いたりもするぜ」
「それはほぼ祭りだな!」
土方は刻み煙草を火皿に詰め、火を付けた。隣を見遣れば、祭や酒宴といった単語に浮き足立つ爽葉が、締まりのない表情で酒を嘗めている。
「祭りが好きなら、お前は祇園祭が気に入りそうだな。もう終わっちまったが、京都の夏の風物詩らしい」
「祭りに、行ったことがないんだ」
藍の髪が、少しだけ淋しそうに俯くも、すぐにぱっと顔を持ち上げる。永遠なる夜の帳を下ろした瞼の裡に、花火の煌めきを探しているようだった。
煙を吐き出しながら、土方はゆっくりと爽葉から視線を外す。
「花火も、祇園祭も、来年またやるのか?」
「毎年あるぜ」
「来年は行きたいなぁ。みんなで行こうよ」
「そうだな」
「どっちもだぞ。絶対だぞ」
「……わかったよ」
口元に微笑を浮かべ、目を伏せて酒を呑んだ土方の心情を、爽葉は知らない。
夜空に一際大きな花が咲き誇った。
「わあっ」
驚いて落としたお猪口から流れた酒が床を濡らし、飛び上がった爽葉がそれに足を取られる。頭を抱えて転がったそこは、土方の膝の上だった。
のし、と大きな掌が、飛び退ろうとした爽葉の頭蓋を掴む。いつものように力を込められるか、放られるか、将又叩かれるか。何が飛んでくるのかと身構えた爽葉の耳が、ふわりと優しく覆われた。戸惑いの声が零れた。伏せた姿勢のまま、包帯の奥で、爽葉は目を見開く。
「一度耳を塞いで聞いてみろ。ゆっくり外せば、音にもすぐ慣れる」
咥え煙草をした土方が、くぐもった声で言う。
夜空を花が彩らぬ間は、淡い静寂が世界を包み込む。それは果てしなく甘美で、とても心地が良いものだった。
爽葉は、耳朶に触れる土方の手に、自分の手をそっと重ねた。皮の分厚い手だ。未だ若い肌に、逞しさ滲む骨格。剣のたこ、傷痕、浮き出た血管。剣を握り、血を滴らせるこの掌が、今だけ爽葉の為に動いてくれたことが、衝動的な感情となって、爽葉をそうさせた。
「硬い掌だ」
「文句か?」
土方の声が、更に低音に聞こえる。
「硬すぎて、僕の耳が鰹節みたいに削られそう」
「お望み通り、極薄に削り取ってやってもいいぜ」
「さては漬物に乗せて食うつもりだな」
「化け物みてえな扱いすんじゃねえよ」
煙管が煙を吐く細声が、傍らで空気を揺らした。
「半ば化け物みたいなもんだろう。鬼の副長さん」
遠くで上がる花火の音が、土方の手に当たり、柔らかくなって爽葉に届く。
「はっ。そうかもな」
耳を塞ぐ土方の手がゆっくりと緩み、離れていく。徐々に新鮮な空気と触れ合う。完全に離れた手を、爽葉は咄嗟に捕まえた。
「化け物っていうのは、その、心じゃなくてだな。……ええと、トシの馬鹿力と馬鹿体力と、馬鹿みたいに、上手い戦法と馬鹿みたいに、その、強い剣術のことでな……」
「それは、お前、つまりは俺が馬鹿だと言いてえのか?」
「ち、違うよっ」
生暖かくも気分の高揚する、夏の夜の温度と香り。そして、次々花咲く大きな音。空で弾ける火薬の音はもう、不思議と爽葉にとって怖い物ではなくなっていた。
爽葉は咳払いを一つして、すまし顔を取り繕う。
「兎に角、化け物の手を握って、人はこんなにも安心しないよって、話だ。しかも、ほら。こんなにもあたたかい」
土方は、自分の手を強く握る爽葉に隠れて、悪戯に笑う。
「花火の音、本当に怖くなくなったぞ。逆に、心地良い音に感じてきた。トシの手は、まじないの手だな。……なあ、きっと花火ってのは、美しいんだろ? 誰もが皆空を見上げるだなんて。それに、毎年打ち上げるほど人々に愛されているというのは、凄いことだ」
「綺麗だぜ。空を埋め尽くすほどでかくて、一瞬の眩さは、星をばら撒いたみてえに澄んだ光だ。菊型を成したそれが、視界いっぱいに一斉に花咲く」
「そりゃ凄いや、豪勢だ」
「だが、音だけ聴くってのも、案外いいものだな。光が散った後、やけに広くて寂しい暗空を見ないで済む」
隣の仏頂面の男は、きっと今、折角の美しい光景を見ていないに違いない。瞳を瞑って、一緒になって花火を感じているのだろうかと、爽葉は彼を見上げて、手を握りなおす。ふわりと舞う煙草の香り。彼が僅かに、指に力を入れた。その力を感じて、えもいわれえぬ感情が溶けだし、爽葉の心を満たしていく気がした。
「ん?」
廊下を歩いていた近藤は、月明かり洩れる部屋の前を通り過ぎてから、ゆっくりと数歩戻った。これから島原で酒宴だ。羽織を片腕に引っ掛け、外出の出立ちである。
近藤は目を細め、少し開いた障子から部屋をこっそり覗いた。忽ち、笑顔をその顔いっぱいに広げる。
「おや」
夜空に登った天満月が放つ、光の波濤が降り注ぐ部屋。縁側に脚を投げ出し、畳の上に横向きに横たわって、少し背を曲げるようにして眠る黒の着流し。その曲線の窪みに収まるように丸まり、心地良さげな寝息をたてる小さな背中。触れそうで触れない距離感が、珍しくもあり、彼等らしくもある。
「仲がいいことだ」
近藤は、音がたたぬようそっと障子を閉め、外で待つ皆のもとに向かうのであった。




