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誠眼の彼女 -Seigan no Kanojo-  作者: 南雲 燦
壱の幕
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瞋恚

「でも、生憎僕はそんな出来た人間じゃないんだ。お前とは真逆で、私心ばかりさ。日本がどうなろうが、世界がどう動こうが、僕にとっては至極どうでもいいことなんだよ」


 見てみろよ、と爽葉が周囲を見渡した。坂本も、彼につられて視線を向ける。

 祭り気分の市民と、賑わう道。遠くから響く歓声。


「この中に、国をうれう人間が幾ら居ると思う。国の行く末など所詮他人事。皆目の前の享楽に溺れ、幸せに浸り、流されるがままに生きている。お前やうちの局長みたいな、自ら国の剣になろうとする者はほんの一握りさ。そのほまれ高き思惟しいを大切にして欲しい」


 でも僕は違う。と、爽葉は言う。


「その他大勢の一人なんだよ。目の前の享楽にしか、興味がないんだ。欲深い僕は我儘にも、浪士組の皆と一緒にいたいと思っている。僕が組織に属し、剣を握るのは、ただそれだけの理由だ」

「その先に、死が待っちょってもながか?」

「ああ。でも、僕は強い。彼等もしかり。易々と死ぬつもりはないさ。お前だってそうだろう? 死が我が身を飲み込もうと口を開けていても、お前みたいな奴は、その喉元に手を伸ばしたくてしょうがないはずさ。……おじさん、これ、ごちそーさん」


 ぱんぱん、と手の平を叩いて、爽葉は立ち上がる。


「もう行くが?」

「仕事に戻らないと」

「もっと話してみたかったのう」


 しょんぼりと、坂本は肩を落とす。

 爽葉は下がり切った彼の肩に手を置いて、にやっと笑った。


「菓子くれるなら、また話してやらんこともないぞ」

「ほんまか?」

「僕等は友達なんだろう? 武士に二言はないよ。じゃあな、おじさん」


 爽葉は口笛を吹きながら、ふらりと人混みに紛れていった。


「げに惜しい男じゃ。味方に欲しいぜよ」


 その独り言に、背を向けていた隣の席の男がくるりと振り返った。名を、沢村惣之丞と言う。彼は坂本と脱藩し、行動を共にしていた。


「ざんじ、わしに気付いちょった。おまんの死角で、ずっと脇差を当てられちょったき、気が気じゃなかったぜよ。聡い男や、侮れん」


 額に浮いた汗を拭う沢村を笑って、坂本は首を捻った。無精髭を指で撫でると、じょりじょりと不規則な音がした。


「それにしても、あれほどまでの素養を、どこで培うたのやろう」

「浪士組で、やなかが?」

「いんや……。浪士組には最近加わったのやろう? 焼き付け刃にしちゃあ、考えさ纏まり過ぎちょる」


 妙な疑念、興味、警戒心と脆い友情。それを掻き立てるように、夏の風がざわめいていた。






 松崎や佐伯の粛清の件と、三日目に起こった、京都小結の揚ヶ霞が同僚に殺害された出来事を、些細な事件として勘定した浪士組にとっては、相撲興行は何事もなく、無事に終わりを迎えようとしていた。

 興行は連日盛況。行儀も殊の外良いと評判も良く、松平容保公と浪士組の調整役、会津藩公用方の広沢ひろさわ富次郎とみじろう殿にお褒めに預かったこともあり、一同満足感に浸っていた。

 そしてこのまま、何事もなく幕を下ろすことができる、はずであった。


「火事だ!」


 突然、爽葉の耳朶を打った言葉は、焦りの滲む、悲鳴だった。


 五日間行う相撲興行も遂に最終日。この日だけは祇園ではなく、浪士組の滞留する壬生村で礼相撲が行われた。そして大成功を納めた興行を祝って、小野川部屋と浪士組で、夜通し酒宴が行われていた。

 暢気に屋根上で涼んでいた爽葉は、その言葉に跳ね起きた。何と言っているかは判然としなかったものの、遠く離れた場所の、誰かの慌てた声だ。この時爽葉は、四半里(約一キロ)ほど離れた場所の声を聞き取っていたことになる。


「おチビー、これ飲みますー?」


 ひょこ、と窓から顔を覗かせた沖田が、爽葉の険しい表情に、疑問を投げる。彼の後ろから酒宴に盛り上がる声が聞こえてきた。


「なんかあったみたいだ。ちょっと様子見に行ってくる。抜けるって言っといて」

「えっ、ちょっ……」

「多分二条城の方だ! よろしくな!」


 そう言い残し、爽葉は瓦屋根伝いに声の聞こえた方へと走る。悲鳴や叫び声はますます大きくなり、これは只事ではないと、爽葉は速度を上げた。屋根の端から飛び降り、着地するや否や、夜の帳を下ろした道の真ん中を走り抜ける。深夜だと言うのに、道の端にたくさんの人の気配があった。


「壬生浪士組隊士だ! 状況の分かる者はいないか!」

「浪士組のお方、芹沢殿が喧嘩しはってるようどす」

「喧嘩ぁ? それにしちゃ大事のようだが……。すぐ向かおう。奴は何処にいる」

「御所近くです」


 此処から京都御所までの距離は半里ニキロを超えるが、爽葉の俊足では、それほど時間のかからない距離であった。

 風が、煤煙と木材が焦げる匂いを運んで来た。走る爽葉の鼻先を掠め、流れていく。


「火事か?」


 近づくにつれ、焦げ臭い匂いが辺りに充満し、悲鳴入り混じる混乱が、状況を更に悪化させていた。爽葉が火元である葭屋町一条下ル所に着いた頃には、所司代の火消し役も駆けつけ、街は騒然となっていた。町の火の見櫓の早鐘が、急いた速度で打ち鳴らされる。


「小童じゃねえか」


 芹沢が、絲屋いとやの大和屋の屋根の上に立ち、酒をあおっていた。火の粉舞う風に着物をはためかせ、堂々たる様で、下界を見下ろしている。


「芹沢……。これは何の騒ぎだ」

「お前もやるか? 良い憂さ晴らしになるぞ」


 藁束や板切れに火をつけ、火薬を投げ込んで、大和屋の土蔵を七つほど燃やしたが、近所の木造家屋の方に火の手は回るばかりで、号砲のような音を立てて、周りの建物が崩れ落ち始める。


「夏真っ盛りに巨大火鉢ってのは、少し季節外れなんじゃないか」

「夏に辛い鍋を食うのと同じことよ」


 ぽりぽり、と爽葉は頭を掻く。現場にいながら彼を止めなかったとあらば、後で鬼の説教が待っていることは間違いなしだ。


「芹沢ぁ、何でこーなった」

「活動資金の提供を断ったからだ。大和屋の主人庄兵衛は、利益の独占の為に生糸を買い占め、庶民の生活を苦しめる悪行を働くに飽き足らず、尊王攘夷派の天誅組に多額の軍資金を提供したと聞く」

「ははあ、なるほど。そりゃ天下の芹沢様がお怒りになる訳だ」


 爽葉が独りごちる。


「とりあえず、火消し役にお仕事させてあげようよ」


 消火にあたろうとする火消しを、新見達が刀を振りまわして脅している。浪士組が怖くて彼等は火元にすら近寄ることができない。その姿を芹沢は愉快そうに眺め、呵々《かか》とばかりに大声で笑っていた。


「助けてください!」


 突然、燃える家屋の轟音の中、悲痛な叫びが響いた。月番大名の火消しに縋り付き、少年が涙を流して訴えている。


「まだ九つの弟が中に取り残されているんです! お願いです、助けて!」


 聞き覚えのある声だ、爽葉が少年に駆け寄り、襟首を掴んで引き寄せた。突然引っ張られ、彼は尻餅をつく。眼前には、白い布を靡かせた爽葉の、感情の読めぬ整った顔面があった。そして彼の衣服の襟首に一瞬顔を埋めたかと思えば、爽葉はすぐにその少年の名を言い当てた。


「中にいるのは政虎だけか?」

「うん、多分……。爽葉兄ちゃん!?」


 爽葉が、政虎の兄から離れた。火消し役から水桶を奪うと、入っていた水を頭から被り、轟々と燃え盛る火の中へ突っ込んでゆく。

 火消し役や野次馬から制止の声が上がるも、彼の姿は火の海に呑まれて、その影すらも掻き消えた。


「政虎!」


 爽葉は、濡れた布を口許に当てながら、政虎の匂いを探す。やはり木材の焼ける匂いが強く、嗅覚に頼るのは困難のようだ。

 火の手が回るのが早く、家自体が崩れ落ちるまでそう長くは掛からないであろう。早く抜け出さねば、助けに入った爽葉も焼かれてしまう。


「政虎! 何処だ! いたら返事しろ!」

「爽葉、兄ちゃん!」


 咳き込みながら必死に張り上げた、小さな叫びを、爽葉の聡い耳は拾い上げた。


「そこか!」


 服や髪が焼けるのも、身体に火の粉が降りかかるのもお構いなしに、爽葉は倒れた柱や崩れた引き戸を乗り越え、最短の道を無理矢理作って、少年の元に駆け寄った。


「政虎! 無事か?」


 政虎の元へ辿り着くと、この自分が被っていた羽織で彼の身体を包み込む。


「うん」


 気丈ぶっているが、政虎の声は涙声に震えている。


「よし、良い子だ。強いじゃないか。羽織に水を含ませてある。これを口と鼻に当てていろ」


 政虎は大きく頷いた。爽葉は政虎を抱え込む。

 その時、一際ひときわ大きな爆発音が轟いた。政虎、わっと声を上げて縮こまる。その身体を羽織ごと抱き締めるように、爽葉が彼を庇う。


「爽葉兄ちゃん……? 大丈夫?」


 爽葉の噛み締めた歯の奥から、痛みに耐えるようなうめき声が洩れた気がして、政虎は自分を覆う、目の前の襟元に問い掛けた。

 答えの代わりに、布越しに爽葉がぎゅっと力を込め、抱き締められた政虎は彼の体温を更に近くに感じた。

 それは爽葉が身を呈して、政虎を火の粉と熱の波濤はとうから守ってくれているだけなのだろうか。痛みに耐える為に、力んだのだろうか。今、彼は政虎の為に、身を犠牲にしているのではなかろうか。

 政虎は、煤煙でかすむ目をこじ開けた。目の前には、周囲に火の手が回っているとは思えぬ、優しい微笑みを浮かべた爽葉の姿。轟々と燃え盛る炎はまるで、爽葉が朱の羽衣を纏っているかのように映った。

 天女のようだった──。

 彼は、その時の爽葉の姿を、このように説明したという。


「大丈夫。大丈夫だ、政虎」


 ジッ、と痛そうな音を立てて火の粉が彼の顳顬を焼いた。既に黒く焦げていた目元の包帯が、その瞬間焼け落ちた。全てが赤く染まった空間に、澄んだ青の瞳があらわになる。


「綺麗な、青……」


 否、ただの青ではない。炎に照らされたそれは、壬生浪士組の御旗みはたの色であった。


「浅葱色だ」


 彼は、壬生浪士組の武士たる魂を、その身に宿していたのか。

 この傷がついた時既に、彼は浪士組となる運命だったのだろうかと、そう、思わざるを得ない。その鮮烈な色は、政虎の脳裏に強く焼き付いた。


「掴まって、いろ」


 もう此処では呼吸するのが苦しく、息を吸い込めば咳が出る。煤混じりの熱波が、容赦なく咽喉のどを焼いた。爽葉が全速力で駆ける。降り掛かる火の粉を刀で薙ぎ払いながら、半ば強引に炭と化した木材を蹴散らして脱出を図った。玄関らしき跡が見えた。


「爽葉兄ちゃん、出口だ!」


 希望の光が見えたと思いきや、ミシ、と上から危うげな音が鳴り、屋根の亀裂を呼んだ。一抹の焦燥が過り、咄嗟に下した判断が、爽葉を突き動かす。爽葉の腕が緩み、政虎を投げるようにして押し出した。業火が入口を塞ぐのと、政虎が道に転がり出たのは同時だった。


「政虎!」

「に、兄、ちゃん…」


 ごほごほと激しく咳き込んだ政虎の元に駆け寄った、兄の一虎かずとらは地面に手をついて咽せる弟の肩を抱いた。


「爽葉兄ちゃん!」


 ひりつく咽喉の痛みを我慢して、背後を振り返れば、火の粉を散らせながら吹き荒れる大紅蓮が、入り口諸共建物を飲み込んでいた。


「あ、あ……」


 絶望の闇に食われ、二人はただ茫然とした。


「旦那! 何をなさるつもりで!?」


 ただ立ち尽くすしかなかった兄弟の目の前を、黒い袴が駆け抜けた。


「土方さん!?」


 彼は水の入った桶に羽織を突っ込み、水をたっぷり吸わせると、凄まじい勢いで燃え立つ建物に、躊躇なく飛び込んだ。

 固唾を飲んで見守る大勢の観衆の中、ものの十数秒で、赤々とした炎の中に、揺れる黒い火影ほかげが現れた。

 わあああっ! と特別大きな歓声が、街にひしめき合った。

 土方は、自分の腕の中で少々ぐったりとした、煤塗れの少年を見下ろした。彼は新鮮な空気を吸い込んで、激しく咳き込む。


「トシか……助かった。流石に、本気で死ぬかと思った」

「もう少しで、チビ助の丸焼きの完成だったんだがな」

「ちょっと嬉しそうに言うのやめろ」


 土方が泣きじゃくる兄弟の前に爽葉を下ろしてやると、二人は揃って爽葉に飛びつく。「おー、よしよし」と言って、兄弟の頭を撫でる爽葉の横顔は、少年を抜けきらぬ青年の顔をしていた。


「土方さんもありがとうございます」


 何度も頭を下げる兄弟に、彼は左手をひらひらとさせて、礼を断る。


「元はと言えば、うちの芹沢さんが起こした事件だ。しかもお前らを助けたのはこいつだろう」

「じゃあ」


 土方の左手が、握られる。土方は、手を掴んでいる彼を見下ろした。全身は真っ黒、服は所々焼け焦げ、穴が空いて酷い有様だ。青い瞳が、煙の所為で潤んでいる。


「じゃあ、僕から。助けてくれて、ありがとう」


 煤だらけの表情が、何故かとても眩しく映る。土方は、嬉しそうに微笑む爽葉の頭を雑に撫でて、腰を伸ばした。睨み合うは、屋根上の酒に酔った男。


「自分の墓を掘った気分は、如何かな。現、筆頭局長さんよ」


 その格好は、虎と獅子が牙を剥き、威嚇し合う様を思わせるものであった。


 


 挿話『残火』

https://kakuyomu.jp/works/16816927862501120284/episodes/16816927862501142985

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