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誠眼の彼女 -Seigan no Kanojo-  作者: 南雲 燦
壱の幕
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瞋恚 -Shini-




「愛って難しいんだな」

「いやや、爽葉はん。色気付いたん?」

「んな訳!」


 お梅にくすくすと笑われて、爽葉は胃もたれでもしているような表情をした。


「気持ち悪いこと言うなよ。ただでさえ腹と腰の痛みは限界近いのに、頭痛まで悪化する。*行水ぎょうずいなんかじゃ、この炎天下の中の稽古は地獄だ」

「お稽古も朝から晩まで激しい運動やさかい、そらしんどいなあ」

「ああ。何もしたくない、昼廻りさえも嫌だ……」


 溶けた餅のように畳にへばりつく、しどけない格好の爽葉に、お梅は団扇で風を送ってやる。


「おきばりやす。そういうたら、鍋墨なべずみを飲むと早く終わるいう迷信があるんやて」

「末恐ろしいな。誰だ、そんな出鱈目でたらめを吹聴した輩は」

「島原の遊女の間じゃあ、有名な話らしいで。糸里はんが言うとったさかい」

「やる人いるの?」

「おるらしいで」

「げっ。正気かよ」


 爽葉の顔色が一層、蒼白さを増した。


「しかも最近、月役の時に貧血気味になるんだ。相撲興行の準備で皆忙しいし、仕事が多いってのに」

「うーん、糸里はんと吉栄はんに、何か和らげる方法はあらへんか聞いとくさかい。相撲興行、成功させられるとええなぁ」


 ぐへへ、と爽葉が途端にやつくものだから、お梅は微笑ましさ半分、可笑しさ半分、そして少々の吃驚びっくりで、どうしたのか問う。


「いや。よく考えたらさ、僕はこの国で唯一相撲を見た女になるんだぜ。凄くないか?」


 女は、相撲興行の観戦を許されていない。爽葉が浮かれるのも無理のないことだ。


「ほんまやな。後でうちに話して聞かしてや」

「うん、勿論! そうだ、昨日壬生寺の放生池ですっぽん釣ったんだぁ。当日に鍋にして売ろうと思ってな。その試作」


 ぱっと起き上がった彼女は、悪戯っ子の面持ちだ。お梅は彼のこの表情が至極好きであった。ふんわり曲線を描く頬に、畳の模様が付いている。


「それ、いいん?」

「駄目に決まってるだろう」


 堂々とそう言ってのける爽葉に、お梅は鈴音に似た笑い声を洩らした。


「永倉はすっぽんの生き血まで啜ってたぜ。まるで*野衾のぶすまだ。お陰で精力ついちまって島原行こうとするわ、大変だった。面白いから源さんにも飲ませたんだがな……あっ、こうしちゃいられない、もう準備しなくちゃ」

「あら、行く時間なん? 体調は万全ちゃうんやさかい、気ぃつけてや」

「うん。ありがとう、大丈夫。ちょっと景気付けに死番しばんでも引き受けてくるよ」


 死番とは、見廻り中に危険な場所へ一番に飛び込む役目のことだ。この役目は当番制で、順に回ってくる。仮病を使って当番から外れようとする輩もいて、爽葉はそれを狙って担当を奪おうという魂胆だ。

 度胸をつける目的もあって、設けられたこの制度は実に効果的面で、朝起きてから覚悟が決まっているので、実際に飛び込む時も臆することなく踏み込めるようになる。流石、例の副長が、導入しただけはある、叩き上げ制度だ。


 重い身体に鞭打って、腰に手を当て爽葉はお梅の部屋を後にした。のろのろと外廊下を歩いていると、丁度外から帰って来た芹沢と出交でくわす。


「よっ、破壊の猛者」

「なんだ」


 重苦しい重圧と忌々しげに吐き捨てられた返事は棘がある。何やらこの話は彼を刺激するようだと、爽葉は包帯の下で目を細めた。

「五月蝿い」と、普段なら余裕ある太々《ふてぶて》しい笑いで爽葉の言葉を一蹴するはずが、今日は明らかに気が立っている。


「らしくないじゃないか。いつも通り、鼻で笑ってみせろよ」


 じろりと、炯眼が爽葉を見下ろす。


「鉄扇で打とうとしたら、仕返しすっからな」

「儂ぁ、今虫の居所が悪いんだ。お望み通り鉄扇で打たれたくなきゃ、即刻儂の前から失せろ」

「へえへえ」


 ぺこぺこと三文芝居のお辞儀をして、彼の横を通り過ぎかけてた爽葉は、ぴたりと動きを止めた。


「芹沢、お前また人を殴ったな」

「小童には関係のねえことだ」

「お前は、……何にそんなに怯えているんだ」


 芹沢が怒りに呑まれた。それを爽葉は肌で感じた。それは、冬籠を終え、腹を空かせてねぐらから這い出てきた熊を思わせた。狂気に似た獰猛な彼の気迫が、濁流と成って、爽葉を喰い殺す勢いだ。急に周囲から空気を奪われて息苦しい錯覚に陥るが、唇にぐっと力を入れ対峙した。そういや、出会った時からこうだ。変わらない。


「儂が怯えているだと?」

「そうだ」

「戯言を」

「誤魔化すな」

「てめぇの妄言で耳が腐るわ」

「おい。……逃げるな、芹沢」

「逃げるな、だと?」


 芹沢はハッと横を向いて鼻で笑うが、さして的外れではないようで彼の目は少しも笑っていない。もう少し押せば彼の瞋恚しんいの戸は開かれ、もう少し刺激すれば檻から解き放たれた暴力が爽葉を殴るだろう。


「構って欲しさの癇癪なんて、何度も重ねればもう誰も相手にしなくなるぞ。まるで玩具を強請せびる子供のようだ」

「儂の怒りを、子供の我儘と同じと申すか」

「ああ」


 土足で踏み込まれて募る苛立ちと、本懐を突かれた不快感は想像に難くない。爽葉には、芹沢の感情が手に取る様に分かった。赫怒かくどで色をした彼は、どんな風にその面を顔を歪めているのだろう。


「……っ離せ。痛い」


 首が締まった。呼吸が乱れる。


「こういう、気分次第で驕傲きょうごうになる性格タチも直しておいた方が良いよ。早死にするぜ」

「童。これ以上つまらん口を利けば、喉を潰す」


 言葉とは裏腹に、はなから離す気が微塵も見受けられぬその手に力が籠り、爪が爽葉の首の皮にめり込んだ。生温かい液体が、首筋を伝うのが分かった。思わず、己の首を絞める手首を掴む。


「お前は僕と良く似ている」

「ほう……? 認めてはやらねえ。が、話くれえは聞いてやる」


 にわかに芹沢の口調の角が取れ、力が緩む。気管にやっと空気が通り、爽葉はごほごほと咳込んで、布下から彼を睨んだ。


 爽葉自身も、自分の弱い部分と過去から逃げ続けて生きている。積み上げてきた不甲斐無い戦歴を振り返るのが怖くて、蓋を開けたとしても今更一人で受け止め切れる自信がなく、恐怖に心は折れ、萎縮し、惨めにも背中を見せて逃げているのだ。そんな自分に嫌気が差しても尚、罪深き遁逃とんちょうを繰り返す。心の内で自己嫌悪はおりとなって堆積し、良心の呵責が自我を蝕む。時には呼吸すら満足に出来ず、夜中に汗塗れで目覚めるのだ。


「僕も人を信じることが苦手だ。未だ無自覚に一人で戦ってしまうし、一度染み付いた習慣というものは恐ろしくて、中々どうして、仲間を信じて戦うことは難しい」


 近藤さんの『信じている』は怖い。無条件な信頼は、今まで与えられてこなかった者にとっては恐怖であり、残酷な代物だ。彼の科白せりふは紛う事なき本物で、混じり気のない優しさを贈ってくれている。

 自分も応えようとするも、時折信じられなくなってしまうのだ。人は皆対価を要求してくるものだと、建前なのではないかと、本能に住みついた事務的な理性が、明確な信頼の根拠を求めてくるからだ。


「でも僕はそんな自分と決別したい。……いや、するんだ、絶対に。近藤さんがこんな僕を信じると言ってくれた。あの人の言葉を僕は、信じてみたいんだ」

「なんの力も持たぬ奴の言葉を、のう」

「っほんっとに懲りない男だな。お前は」


 溜息にも似た笑いを零し、爽葉は腰に差した脇差にそっと触れる。これからこの刃を突き立てるのは、彼等の誠の正義の下でありたい。


「人間は、成長を拒めばゆくゆく自壊する。幾ら才能があっても、力があっても、ね。成長しない人間に未来はない。不安から逃げ、弱い部分から目を背けているだけじゃ何も変わらないよ。……お前は、そろそろ素直になれ」

「素直? そんなものが何の為になる。今更胸の内を明かしたところで誰も信じまい」

「今更今更って、聞き飽きたよ。それを続けてるからだろう、この意気地無し」


 芹沢は弱いのだ。暴力と暴言で化粧を施した彼の本質は、怖がりで強がりな我儘な男。


「浪士組一の力を持つのは儂だ。幕府をも動かすこの儂が、お前等を信じる必要など何処にあると言うのだ。黙って付いてくれば、道は開いてやる。それに何の文句がある」


 それが自分の本質に根差してしまっている分、厄介だ。今の爽葉には分かる。信じることの大切さが。彼等の存在がどんなに心強いか、どんなに爽葉を成長させてくれるか知ったから。迷った時も、立ち止まった時も、また歩み出す力をくれる。


「歯止めが効かねぇんだろ? 芹沢」


 今やもう、彼の猜疑心さいぎしんが生み出した繊翳せんえいは我が身さえ脅かす巨大な冥闇に転じ、最早彼の未来を晦冥の中に引き摺り込んでしまう厄介なものに成り果てた。圧倒的統率力という芹沢の魅力も、霞んでゆくばかりだ。しかし、爽葉は彼をどうしても放って置けない。どうしてか、彼の言葉はぐさぐさと刺さるのだ。


「お前なんぞに、儂の心が分かってたまるか」

「……忠告はしたぞ、芹沢」


 爽葉の肩を押し退け、去っていく背中は侘しい。もう自身でも整理を着けられず、半ば自棄やけで衝動にその身を任せているようにも思えた。






「どうしたの、その跡」

「跡?」

「首んとこだ」

「あぁ、芹沢に絞められた」

「は?」

「ちょっと、おチビどゆこと? 説明して」


 沖田が怒気を含む素っ頓狂な声を上げ、土方が目を険しくした。彼等の口をついて出るのが爽葉への小言でも、芹沢への苦言にしても、どうせ聞いても良い事はないと、爽葉は両耳を手で塞いだ。にも関わらず、強引に両手が剥がされ、顎を上に向かされる。


「ったく、傷が絶えんな。ん? お前……」

「な、なに」

「香でも付けてんのか」


 爽葉は、行水の間だけ香を忍ばせていた。勿論、お梅の入れ知恵だ。


「いや? 服の香り? かな」


 文久三年八月七日。

 相撲興行一日目。

 蒼穹が薄く柔な雲を抱き、人でごった返す祇園北林の盛況ぶりが良く映えていた。今日から一週間、爽葉達浪士組は相撲興行の警備に当たる。警備開始時には爽葉や沖田を筆頭に、何かやらかしそうな問題児を集めた土方は、五日間は行儀良く礼儀正しく、出来る限り揉め事は避けて過ごすよう口を酸っぱくして言い含めた。


「取り込み中悪いがトシ、これ確認してくれ」


 笑い混じりの近藤の声にびくりと肩を揺らし、爽葉は土方の傍から飛び退いた。

 興行中の浪士組の服装とした木綿の黒羽織と白袴を着た二人は真剣な表情で資料を覗き込んで、何やら話し込む。仕事は警備だけではない。客を呼び込んだり土産物を売ったりと、活動資金調達も欠かなさい。局長副長達は大変そうだ。


「それにしても呑気なもんだなぁ、芹沢さんは」


 平助が見遣った先には、警備と言うより客の様な風情の筆頭局長、芹沢鴨の姿。


「ちょっと俺が言ってくる」

「総司?」

「我慢ならねぇんだろうな。近藤さんが頑張って取次いだこの行事をぶち壊されちゃ堪んねえから」


 原田が心配そうな素振りで沖田の背中を見遣る。


「芹沢さん。貴方も手伝ってくださいよ」

「なんだ沖田か。お前も一杯どうだ」

「仕事中だってのに、飲みませんよ」

「つまらん野郎だな」


 沖田の苦言など聞こえていない素振りで、澄まし顔の芹沢はくい、と杯を煽る。不満を滲ませる沖田に、芹沢は口を付けた酒にこっそりと含み笑いを忍ばせた。


「時に沖田。松崎を知ってるか」

「隊士ですよね? 確か四番隊所属の。彼がどうしました」


 砂利を足裏で踏む、耳障りな音が鳴った。人のはしゃぐ声が遠い。芹沢の厚ぼったい唇が、妖しく歪んだのは一瞬だった。


「あやつ、逆心を抱いているようだぞ」

「逆心? なぜそれを」

「奴がこの儂に献言してきたのよ」


 近藤が邪魔なら殺しましょう、と。


「今、なんて」

「やはりこの儂が浪士組の局長に相応しいという事か」


 そう哄笑して芹沢は立ち上がり、新見等を引き連れ、去って行く。佐々木を殺した疑いのある佐伯も一緒だ。


「近藤さんを、殺す?」


 強く合わされた歯が鳴る。沖田の双眸が炯々と危うげに光った。沖田にとって、近藤よりも大切なものなどこの世に存在しなかった。その命を脅かす者が居ると聞けば、平静ではいられる筈がない。


「どしたの? 総司」

「いーや。おチビ、次の配置換えの前に首の手当てしておこう?」

「別にこの程度……」

「だめ」


 芹沢に背を向け、沖田は爽葉の腕を引っ張る。少し急いた歩調と、昂る感情を無理矢理押さえ込んだような声に、違和感が残る。


「大丈夫か?」

「何が?」

「いや」


 爽葉はそっと舌に乗った言葉と共に息を吸い、嚥下してその口を噤んだ。

 話してくれるまで待とう。そう考えたのを後悔することになるとは、この時まだ爽葉は知らなかった。



 行水…生理

 野衾…人や動物の血を吸う妖怪

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