盛夏
「ちょっと、皆えらく僕の鼻に頼るじゃないか」
「いいじゃない、ほら早く早く」
「んー。これ、なんか覚えが……。あ、あのあいつだ。ええっと」
名前を思い出せずに頭を抱える爽葉を、横から永倉が応援する。
「ほら、芹沢に胡麻擂りしてる……」
「佐伯か」
「そう!」
すっきりとした表情で、ぽん、と手を打った爽葉は、直ぐに口を噤むこととなった。
斎藤が目配せをし、永倉達も黙る。
闇が揺れた。ハッと爽葉と沖田の面相に同じ表情が巡り、緊張が走る。
「貴様」
沖田の噛み締めた歯が歪な音を立てて鳴った。ぬらりと黒無地の衣を纏った男が側の竹藪から現れる。彼が揺らした藪からは、不特定多数の残り香を感じた。佐々木を手にかけた相手は、どうやら佐伯だけではなかったようだ。
「岡田以蔵。……何故、お前がここに」
「ハジメ?」
斎藤が、すっと前に出た。岡田の相手をするつもりなのか。
「俺は争いに来たのではない」
「出鱈目を」
「たまたま通りかかっただけだ」
彼の凄みのある眼が、獲物でも探るように横にずれた。血の痕跡を舐めるように見ている。野生の獣は僅かに漂う香りに導かれるようにして、塒を離れて、大通りにまで顔を出したというのか。
「到底信じられないね」
不毛な会話だ。斎藤が永倉に目配せした。
「ここは俺に任せろ。下手人がまだ近くにいないか、探してくれ」
「わかった」
すぐに二人は刃を交えた。火花散り、放たれた殺気が苛烈にぶつかる。息を飲むほど凄まじい怒涛の戦いが、場を圧した。下手に介入すれば、何かを乱してしまいそうだ。
戦う二人を横目に、爽葉達は残党を追うべく朱雀通りを手分けして探した。
「どこにもいない……」
「こっちも」
「とりあえず戻ろう」
朱雀千本通りに戻れば、斎藤と岡田の戦いは終わっていた。
「どうだった」
「もういない。岡田以蔵は?」
斎藤の袴の裾が五寸ほど綺麗に切れて、足首が覗いている。切れた端の解れた黒の糸を見遣って、沖田が訊ねた。
「奴も去った。どうやら本当に顔をのぞかせただけらしい。ただ、佐伯との関わりがある可能性は十分にある」
「この奥は、長州藩邸のある河原町だからな……。長州と絡みのある岡田が彷徨いていても、不思議じゃねえ」
目下の問題は片付いてしまった。永倉は佐々木の骸を見て、またひとつ溜息。
「どうしてまた脱走なんか。所帯持ちゃいい話じゃねえのか。女の方、舌噛み切ってるぜ。肝っ玉の座った娘だな」
「彼の事です。所帯を持つだけでは解決出来ない事情があったんじゃ?」
「また監察方が出張って、何か掴んでくれるのを待つか」
爽葉は佐々木の傍に片膝をついて、骸にそっと手を這わした。敏感な嗅覚では、そんなに時間の経っていない死体からでも、腐敗臭を嗅ぎ取ってしまうことに、今は少しだけ嫌気が差す。二人分の夥しい血液が掌にこびり付く。捻じ曲がった腕と溢れた臓器、そして。
「なんで微笑んでるんだ? 訳がわからない」
想い人と死ねたから満足だって言うのか?
二人で暮らす未来を描けて幸せだったって思ってでもいたのか?
自身の全てを投げ打って命を散らそうとも、凝固した血で固められた表情は何と呑気な面なのだろう。それ程までの価値が愛とやらにはあると云うのか。心の何処かに伽藍とした空間ができた違和感が、涙腺を刺激する前に、その感情を説明できない事への腹立ちへと忽ち変換されてしまう。ただ、愛嬌たっぷりの柔らかい彼の笑顔が、二度と自分に向けられることがない事は、少しばかり残念であった。
情けとばかりに瞼をそっと閉じてやる。
嗚呼。ごめんね愛次郎。
僕は未だ愛を表現する手段を知らなくて、骸をこんな冷たい目で弔うことしか出来ない。
嗚呼。ありがとう愛次郎。
君の命を以ってして、僕は愛を識る。




