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誠眼の彼女 -Seigan no Kanojo-  作者: 南雲 燦
壱の幕
37/58

盛夏

「そろそろ武器料を調達しなければいけないな」


 楽な姿勢を崩さず、顔だけは真剣な表情で近藤が唸った。


「そうですね。金策を講じなければ資金も底をつきそうです」

鴻池こうのいけ善右衛門ぜんえもん殿に頼んでみては?」


 鴻池は今橋の両替商で、隊服を設える際に資金を借りた豪商である。近藤の頼みで土方と山南が出向いた際に金策に来た浪士を彼の頼みで討ち取った事があり、以来浪士組とは友好的な関係を続けている。


「うむ、それが良いな。明日にでも芹沢さんと一緒に出向いてみよう」


 近藤は、ますます大将らしい風格を漂わせるようになった。荒くれ者の多い烏合うごうの衆を纏めるのは難しいことだ。武勇と豪快さは抜きんでており、試衛館の皆を、実に見事なまでに口説き落とした、生粋の人誑ひとたらし。加えて、誰にでも愛嬌を振りまき、優しく素直な性格に、海のように深い懐。だからこそ、誰かに支配される訳でもなく自由な信念を持った彼等を、一つの志の下に纏め上げ、導くことができたのだ。


「降ろしてえ、頭に血が昇るー! 待って、冷たっ」

「どーだ、気持ち良いか? ええ?」


 土方は爽葉の左足首を掴んで逆さ吊りにし、煙草を咥えて両手を空けた彼は、原田に運ばせた桶から水を柄杓で掬っては、顔の上に容赦なく垂らして虐めている。上級者の遊びだ。


「うわっぷ、顔はやめろっ、息できなっ」

「嬉しそうだな」

「鬼! 拷問と同じじゃんこれ!」


 ごぼ、と溺れる音を挟みながら、爽葉は必死に解放を懇願する。


「土方さーん、狡いです。一人で楽しむなんて」

「やめろ! お前まで来るな!」

「つれないなぁ。私も混ぜてくださいよ」

「鬼畜二人は手に負えん!」


 最早雑音と同化した爽葉の悲鳴を聞きながら、山南は土方を見て口を開いた。


「土方君は良い意味で相変わらずというか。京に来てますます彼の才覚は現れるばかりですけれど、やはり彼は彼、というか」


 彼に聞かれたらきっと険しい顔をされるだろうと、小声で洩らした率直な山南の感想に、井上も賛同するように首肯した。荒くれ者で、お尋ね者。そんな彼の青年時代はもう十年も昔のものとなってしまったが、あの頃が無ければ彼の絶倫ぜつりんの剣も、人を刺し貫く、あの研ぎ澄まされた威圧感も、備わることはなかっただろう。


「申し訳ございませんでした土方様、何でも致しますって、言えよ。ほら」

「恐喝だっ!」

「ついでに沖田様も加えといて下さいね?」

「加えるかってんだコラ」

「おいチビ助、口の利き方がなってねぇな」

「なってないですねぇ。あ、追加の井戸水、此処に置いておきますね。人にものを頼む時は下手に出るんですよ? 下手に」

「ほんっとお前等! 性格腐って、ごぼっ……」

「え? 何だって?」


 爽葉解放の余地は、一片たりとも無いようである。


「……いや本当、変わってないね」

「武勇伝をわんさか持っているだけはありますね」


 山南は何を思い出したのか声を弾ませて、すっかり薄くなってしまった茶を、湯飲みに注ぎ足した。


「敬介君、君の血気盛んな武勇伝も、私は好きだよ」

「源さん、揶揄わないで下さい」


 恥ずかしそうに山南は口をすぼめ、肩を縮こまらせた。

 気性が穏やかで甘い風貌の山南も、志士らしく抱いた熱い野望やら叶えたい理想を、露骨に露わにしていた青い頃があった。今となれば少し恥ずかしい話だ。勿論、その闘志は燃え尽きた訳ではなく、轟々と火の粉を撒き散らすほどに哮り続けているが、それはもう、秘めたる想いである。


「私は比較的静かに生きてますよ。土方君の武勇伝など、其処らの石ころ並みにごろごろと転がってましたからね」

「ありゃあ規格外だ」


 彼は、山南が今までの出会った男の中で最も憧れる生き方をしていた。誇り高き生き様に惚れ込んだ。山南とは全く異なるその生き方は羨望の対象でありながら、自分には荊の道を踏みゆく勇気はないと諦めた。

 代わりに山南は、自分らしい生き様を模索し、己に恥じぬ生き方を選ぼうと常々考えてきた。時折立ち止まって振り返ってみれば、「私らしくていいよ」と笑える人生を歩んでいれば良いなと、思うのみである。


 壬生浪士組の土方と山南という両雄りょうりゅうは、近藤の傍を固める存在として昔から密かに互いを意識していた。時に私淑ししゅくし、時に一種の敵愾心てきがいしんを抱きながら、競い合うように己の才を練磨してきたのだった。

 彼等が舵を取る船は今まさしく荒れ狂う大海原へと漕ぎ出したばかり。

 けだし、辿り着くは誰知らぬ烟霞えんかに巻かれた摩天楼。






「総司、飯の時間だぜー」


 藤堂がひょこりと道場に顔を出し、隊士達にも聞こえるように声を掛けた。「了解」と頷いた沖田は、手を叩きつつ声を張り上げる。


「今から素振り百回終えた者から順次あがって良いものとする! ただし夕餉の時間に間に合わない者は五百回、素振りがなっていない者は二百回、食後に追加で素振りを行うこと!」


 爽やかに微笑む沖田の目は、一挙一動を見逃さぬ鋭さを孕んでいる。藤堂は、腕組みしながら道場の戸口に寄り掛かり、稽古の様子を眺めた。

 彼の稽古に遅れずについて行くのは、新米隊士にとって難しい関門であろう。疲れても型を崩すまいと木刀を振る懸命な背中に視線を順々に移して、前列左端の男に目を留めた。汗に濡れた藍色の髪が頬に沿って張り付いている。日々の朝稽古のお陰か、素振りが以前よりもしっかりとしてきて、冴えが増したように思える。


「終わったー。外行ってくる!」


 彼は、軽々と与えられた量の素振りを綺麗な所作でこなし、木刀を刀掛けに掛けて、悠々と道場を出て何処かへ行こうとする。そんな彼を藤堂は慌てて呼び止めた。


「爽葉、飯は?」

「遊んでくるー!」

「へ? だから、飯だって」


 答えになっていない答えを返されたと思った時には、彼の姿は既にない。


「おい!待てってば、爽葉!」


 今日が食当の藤堂は、逃げ去った爽葉を追いかけて行ったが、捕まえることはできないだろう。

 指南役を承っていた沖田はげきを飛ばし、姿勢の悪い隊士を注意しながら、二人が消えた戸口に視線を一瞬だけ投げやった。

 爽葉のすばしっこさは浪士組一だ。藤堂の運動神経をってしても、既に走り去った彼に追いつくことは不可能。持久力は平凡だが、瞬発力は無駄にある爽葉には逃げられると厄介である。

 またか、と沖田は溜息を吐きながら、彼もまた、木刀を元の位置に戻した。


「何してんだ。食堂に行くぞ」

「あ、土方さん」


 視線の先には紙を片手に食堂へと向かう彼の姿があった。夏の日差しと蒸すような暑さの中、見たくもない黒色なんぞを身に纏い、涼し気な表情で立っている。沖田は一瞬眉根を寄せてから、二度目の溜息を零して、口を開いた。


「おチビが」

「あいつ何やらかした」


 名前を聞いただけで、何をやらかしたと危惧されるのは、爽葉の日頃の行いの賜物だ。


「いえ、最近おチビが全然食べないじゃないですか。遂に逃げ出しましたよ。こんなに暑いから、食べなきゃ倒れるのに」

「そういや昼餉も、他人ひとの食いもんにまで手を出さなかったな」

「おかわりの声も、久しく聞いていませんね」


 少し心配そうに、沖田が眉尻を下げる。


「暑さでへばってんのか」

「多分」

「無理矢理食わせりゃいい」

「口に突っ込むんですか」

「それか甘酒でも強引に飲ませろ。ぶっ倒れられても面倒なだけだ」


 本当に面倒臭そうに土方は返しながら、手をひらひらとさせた。腕組みをして食堂へと向かう土方の後ろを、その顰めっ面を拝もうと、執拗に絡む沖田がついて行く。


「って言っても、土方さんのことだからなぁ」


 自らの体が土方の視界に入るよう、体勢をくるくると変えながら、楽しそうに伸びる語尾は沖田の心境そのものである。


「どうするんですか? 彼のお世話は土方さんがするんですよ? 体調とかも気にしてあげないとねぇ。一応一緒の部屋で寝起きしてる仲なんだし?」


 土方の癪に触るよう、わざとらしく揶揄うのは沖田の常套手段だ。


「てめえ、おちょくってんのか」

「あら御名答。俺はいつでも土方さんを揶揄いたいと思ってますよ?」

「糞餓鬼が。そのよく回る口を休ませたらどうだ」

「俺はもう二十一ですよ? とっくのとうに餓鬼は卒業してます。そんなこと言うなら本物の餓鬼に構ってきてあげたらどうです? 今頃近くの境内の裏山に独りぼっちですよ」


 何故分かる、と言いたげな表情を見て、沖田は得意気に口角を上げた。


「おチビのお気に入りの場所ですからね」

「なんで俺が行かなきゃなんねぇんだ。お前行ってこい」

「だから、言ってるじゃないですか。土方さんは飼い主でしょ? いいんですか、あんな子供野放図にしておいて。俺は稽古着から着替えないといけないし」


 ね?と言いくるめられて、土方は溜息を吐いた。


「……っち。様子見てくりゃいんだろ、見てくりゃ」


 あんの阿呆が!と、一度吐き捨てるように言い残して、元来た廊下をどしどしと戻って行くが、その背中には一切の迷いが無い。口ではああ言っていても実際は面倒見の良い、土方のことである。どうせ元より彼の様子を見に行こうか悩んでいたろうし、行かなかったとしても気を揉んでいた事だろう。

 沖田はそんな土方の大きな後ろ姿に背を向けて、汗ばんだ衣服を早く脱いでしまおうと、自室へと足を向けた。


 土方は、屯所近くの神社の境内裏へと足を運んだ。熱射の残した余韻と蒸し暑い空気がじんわりと肌に纏わりつき、すぐに汗ばんでくる。夕方のぬるい風が吹き、その生温い空気を心ばかり拭ってくれた。

 土方は一直線に境内を突っ切り、小さな裏山に足を踏み入れる。ぐるりと辺りを見渡し、彼の好みそうな場所を探した。比較的涼しい日陰で、さらさらと鳴る若葉や囀る虫の声が良く聴こえ、人の喧騒から出来る限り離れられる場所。


「おい、チビ助」


 草木に囲まれた斜面にぽつんと置かれた岩の上。変な姿勢で此方へと顔を向けた爽葉は、「んあ?」と気の抜けた返答をした。

 手に外した包帯を巻き付けて、角の目立つ不安定な岩の上で器用に胡座をかき、此方に背中を向けて座っている。蔓延る緑や縦横無尽に身体を伸ばした草が、規則性や統一感などとは無縁でありつつも、不思議と彼を守って生い茂っているように思えた。彼が自然と一体になっている、そんな風にも見える情景。町では異質に映える青も山紫水明さんしすいめいの中には自然と溶け込んで、太陽から放たれる光線は生い茂る瑞々しい葉を通過して角を削がれて薄く透けるしゃ変化へんげし、彼の上に降り注ぐ。


「僕の憩いの時間を邪魔しに来たのか?」


 脱力した字面を思い浮かべる程気の抜ける声音で、土方が来たことへの難色を示した。腹の立つことに、舌まで出した阿呆面なんぞこしらえている。


「なーにが憩いの時間だ。夕餉の時間だっつってんだろうが」


 ぽかり。土方の緩く握った拳骨が紺色の頭を叩いた。


「いらないもん。今は白飯よりも此処の空気が美味しいなあっ」


 彼の潤いを帯びた唇が、す、と森の吐き出す涼しい空気を人知れず吸い込んだ。肺いっぱいに空気を満たすと、自ずと静かな精神と野生的な心持を抱ける気がするのだ。神経を削って感覚を研ぎ澄まし、常に喧騒に晒される身体は正直度々辛くなる。束の間の休息を与えてやらねばと、町中の裏山で体力回復を図るのは、爽葉にとって、とても大切な行為であった。


「ほら帰るぞ。飯が冷える」

「うー。後で行くからー」


 いじけた口調には少しの不安と疲弊が混ざっていて、それを汲み取った土方は、仕方ないと深く息を吐いた。爽葉は今きっと梃子てこでも動かないつもりだ。癖のように煙草を探していた手に気付いて、麻の懐から引き抜くと、土方は袖手しょうしゅして、彼の座る岩に背中を預けた。


「トシこそ、何しに来たんだ」

「お守り」

「子供扱いすんな」

「暑さぐらいでへばってんじゃねえよ。こっから更に稽古も厳しくなるし巡察だって増えるんだ、体調管理も仕事のうちだぜ?」

「へばってなんかない。稽古にだってついていける」


 すぐさまそう噛み付いた爽葉を、白い歯を見せて土方がくしゃりと笑った。何故、ここで笑うのか。彼の意図を掴めなかった爽葉は、首を傾げる。


「生意気な餓鬼だ」


 彼の声は、心なしか軽やかだ。機嫌が良い彼の様子をいぶかりながら、爽葉は反論する。


「僕はもう餓鬼じゃないってば!」

「ほざけ。餓鬼は大抵そう言うんだよ」


 馬鹿にした物言いも普段と変わらないのに、どこか楽しそう。そんな違和感を、爽葉は気持ち悪いと言うかのように、眉根を寄せた。


「んだよ」

「お前トシか? 別人じゃないだろうな。暇なのに煙草吸わないし」


 ピキリと、土方の額に亀裂のような皺が一筋寄ったのにも気付かず、爽葉は、「頭でも打ったか」と追い討ちをかける。


「てめぇその台詞、二度目はねえだろ、二度目はよ」

「い、痛ぁい!」


 爽葉の頭に土方の強烈な手刀が入ったもので、爽葉は思わず悲鳴をあげた。静寂が乱され、近くの草陰から、数羽の鳥がバサバサとまばらな羽音を鳴らして、飛び立って行った。


「とりあえず帰るぞ。皆に迷惑かけんじゃねえ。そんなに此処に居たきゃ飯の後にまた来りゃいい。但し、門限だけは守れよ」

「迷惑なんてかけてない。僕は一人で休むって言ったんだ」


 土方は横目で爽葉を捉えた。さも当然といった言種いいぐさだ。


「何も分かっちゃいねぇな」

「何を?」

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