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誠眼の彼女 -Seigan no Kanojo-  作者: 南雲 燦
壱の幕
35/58

空蝉

 相手の小柄な男は見事な身軽さで、すんでのところで正面衝突を避け、ひらりと三歩ほど離れて着地する。しかし、久坂が彼に視線を合わせたその刹那、弾かれたように彼は久坂から距離を取った。猫の威嚇と似通った動きだ。二人の周りをさんざめく風が、心の奥底、忘れかけられた場所に積もっていた、複雑な感情を綯交ないまぜにするように吹いて行った。


「え?」


 男物の着物に身を包んでいるが、その容姿は久坂の遠い過去の記憶を呼び起こさせた。それは淡く、甘く、幾分か刺激的で、心臓を抉るようにして残った切ない思い出。見紛う筈がない。男物の小袖に身を包んでいるが、その人は紛れもない、彼の初恋の相手。もう何年その名を呼んでいなかったのだろうか。久々に口にした名は、少し掠れていた。


「爽葉……?」


 手に持つ提灯が照らし出した、暗がりに浮かぶ深い藍の髪。華奢な体躯に似合わぬ男勝りの口調。名花めいかでありながら閨秀けいしゅうだった彼女は、その白雪のような肢体を男の振りで未だ掩蔽えんぺいしているのか。彼女はおどおどと後退するも、久坂が逃す訳がない。苦い顔をして、久坂は彼の取った距離をその長い脚で一気に縮め、慎重に口を開いた。


「びっくりした。久し、ぶりだな」

「……ああ。本当に」

「その、良かった、君が無事のようで。京に居たのか」

「まあ」


 彼女は歯切れ悪く言い淀む。昔と異なる態度を取る彼女に、久坂の胸は哀しさで占領された。もう、あの頃の様に笑ってはくれないのだろうか。


「創痕は薄くなっていないようだな」


 そう言われて、爽葉はハッとして目に触れる。布を付けて来るのを忘れた。しかし、不幸中の幸いか、都合は良い。白布を巻いた浪士組隊士は巷ではもうある程度知られているが、今は隊士だと分かる物は一切身につけていない。逆に、恐らく久坂は爽葉が普段布を付けている事を知らない。


「まだ痛むか?」

「昔よりマシだ」


 体温が近くなる。頬に、温い掌が包み込む様に添えられる。目の前に立つ、八尺を超える大柄な男は、あの頃と変わらぬ眼差しで爽葉を貫く。居た堪れない。


「じゃ、じゃあな」

「待って」


 久坂が爽葉の手を掴んで引き留めた。分厚くて大きく、剣だこ塗れな手も変わらない。いや、あの頃よりもますます逞しくなっている。


「離してくれ」

「嫌だ。もう少し話さないか」

「話すことなんてない」

「なんで突然消えちまったんだ。探したんだぞ!今まで、もしかしたらもうこの世には居ないんじゃないかなんて思いながら、ずっと探していたんだ。ずっと、ずっとだぞ!」

「すまない……」


 滲み出る憂色ゆうしょくが肌を引っ掻く。哀しみが爽葉の心臓を刺す。温かい掌が焼いた鉄の如く熱を持ち、心の核に焼印をつけるかのように押し付けられ、執拗に炙る。彼が悪い訳ではない。でも彼が引き金となって蘇る記憶は最悪だ。胃に残った酒を吐き出したい気分である。


「何があったんだよ」

「別に」

「爽葉……。今すぐにとは言わないから、俺達のところに戻ってきてくれないか。またあの時みたいに一緒に過ごそう」

「それは、無理だ」

「なんで」


 やめてくれと叫びそうになる。彼の左目からの力強い視線が、爽葉をその場に縫い付けた。


「もしかして、まだ博徒ばくとの用心棒なんぞしてるのか」

「とうの昔にやめたよ。知ってたんだ?もしかして、玄機げんきの奴……」

「兄さんは知らなかったよ。俺だけだ、誰にも言ってない。でも良かった。なあ、爽葉。そうしたら、やっぱりうちへおいで」

「無理だ」


 意図してはいないが、彼を酷く傷付けている事実が、苦しかった。


「お願いだ」


 懇願か。哀願か。爽葉の顔が歪む。でも一方では、久坂が何故ここまで自分に執着するのか、全く分からなかった。彼は若い時から優秀な男で、きっと今もその才能を花咲かせているのだろう。こんな浪人一人に乞うような男ではない。そう、あってはならない。


「ごめん。……無理なんだよ」


 爽葉はその手を我武者羅に振って振り解き、背を向けて駆け出した。その情け無い格好は、まるで過去から目を背けている自分そのものではないかと、笑えてくる。追い駆けて来る名を呼ぶ声を聞かないよう耳を塞ぎ、爽葉はひたすらに走った。ひどく滑稽な姿は、浪士組の皆に見せられるものではない。


「嗚呼、無様だ……」


 過去とは、永遠に絡みつく呪縛である。





 永倉と斎藤が腹をよじって笑っている。声も出ないようだ。隣では藤堂と原田、沖田が時に涙さえ見せながら、川に浸かりながら大笑いしている。


「俺……もう駄目、腹痛え……」


 そう息も絶え絶えに言って、藤堂が指差す方に視線をやった土方は、堪え切れずに吹き出した。抑えきれない声が指の狭間から溢れ出る。


「野生の熊が人里に下りて来てやがる」

「なんの秘儀ですか、ほんと……苦しい」


 袴を膝上まで折込み、袖をたくし上げた勇ましい出立ちで、爽葉が川の中原に顔を水面に近づけて立っている。暫しその姿勢で何かを探るように停止していたかと思えば、大きく振りかぶった右手が水面を叩いた。パァン!という破裂音と共に水飛沫が空を舞う。同時に何かが横っ飛びに滑空したかと思えば、川岸の側にいた山南の手元に大きな鮭が飛び込んできた。


「うわっ」

「大漁じゃあああっ!山南、その鮭逃すなよ!」

「今日の夕餉には困らなそうですね」


 けらけら笑いながら沖田が土方の頭から川の水をかける。彼の総髪が毛先まで一気に水気を纏った。


「てめえ」


 毎度この流れが十八番になりつつあるなと危惧しながらも、土方は帯から*腰差しの根付ねつけを外し、岸辺に放る。沖田が派手な水音を立てて川に腰から落ちた。


 良く晴れ渡った日である。待ちに待った、川狩りの日だ。京相撲の勇川力蔵が土方達二十余名を桂川の川遊びに招待してくれたのだ。


「おや、皆さん楽しんでくだはってるみたいですね」

「え、ええ」


 年甲斐もなく川遊びに興じていたと思われた。勇川の表情からそう察した土方は、眉間をひくつかせながら律儀に礼を述べた。


「気持ち良ーっ!」


 藤堂が一掬いの水をくうにばら撒いた。晴朗な空の色を混ぜた透き通る雫が、笑顔の隊士達の上に降り注いだ。こういった遊びは、人を幼心へと還らせる。近藤は斎藤や永倉を川の中に突き落としてげらげらと笑っている。向こうでは芹沢が例の如く酒を飲みながら、釣りに興じていた。


「おい、小袖なんぞ着て暑くねえのか。纏わり付いて邪魔だろう」

「いや、別に僕はいいんだ」

「おチビも脱いじゃいましょうよ!」

「おい引っ張るな!」


 体当たりの小競り合いをしていて分かったが、皆衣はとっくのとうに脱ぎ捨て、上裸かふんどし一丁の格好のようだ。その中でずぶ濡れになっても頑なに衣を脱がない爽葉はさぞ浮いている事だろう。隠し通せるだろうという甘い考えと、日に日に増す暑さに背中を押されて、川遊びという誘惑に勝てなかったことを少々悔やむ。


「稽古後の水浴びも、お前いっつも脱がねえよな」

「いいだろ。個人の自由だ」


 川の中を逃げ惑うが、すぐに永倉の太い腕に捕まえられた。


「ちょ、待て。本当に待って」

「待たねえよ」

「なぁーにぃ?そんな嫌な顔されたら、逆に唆られるよね」

「恥ずかしいも何もねえだろ?引っ剥がしてやるよ」

「き、傷!ほら背中にもあって恥ずかしいんだ」

「そんな話初耳なんですけど?大丈夫、皆身体は傷だらけですよ。それに傷は勲章ですから。ね?」


 意地の悪い野郎共だ。


「あ、ほら、僕その、身体もおっきくないから、それも恥ずかしいんだ!」

「今更だろー?」

「俺等の仲だぜ?そろそろ気を許してくれても良いんだぞ」


 もっと上手い言い訳を考えておくんだったと後悔。しかし、思わぬ救世主が現れた。衣を剥ぎ取ろうとする魔の手から爽葉を救い出したのは、こういう悪戯に真っ先に加担しそうな男だった。


「お前等、昼食だぞ。近藤さんが呼んでる」

「すす……じゃなかった、春隆ぁ」

「京相撲の方々が握り飯の差し入れをしてくれた。準備の人手が足りないから手伝ってくれだとよ」


 その言葉を聞いた藤堂達は爽葉を抑え付けていた手を残念そうに離し、昼飯にありつくべく我先にと川を上がって行く。


「チビ。お前も行くぞ」

「あ、ああ」


 随分と都合の良い頃合いに、見計ったように割って入ってくれた山崎に、内心感謝する。


「ほら、おチビ」


 大小異なる石が無造作に転がり、滑りやすい苔や思わぬ段差のある川は、盲目でなくとも転びやすい。爽葉の両側から沖田と山崎が手を繋いで、川を渡ってくれる。


「おチビ軽いから、二人で持ち上げられちゃうね」


 二人が爽葉の手を握る片腕を上げれば、ぶらん、と爽葉は物干し竿に引っ掛けられた洗濯物のように宙吊りの状態になる。


「遊んでる?」

「もちろんっ」


 揶揄い癖の治らぬ彼等だが、こうやって最後にはちゃんと優しくしてくれるところが殊更厄介だ。

 岸辺の傾斜に腰を下ろし、握り飯を食べる。穏やかな気候の中、温かな風が濡れた肌を撫でた。爽葉がくしゃみをする。


「着てろ」


 ふわり、土方の香りが爽葉を包んだ。否応なしに安心させられるこの香りは、いつまで経っても変に惹かれてしまう。


「濡れるぞ」

「構わん」

「……ありがと」


 この前から助けられてばかりだ、と爽葉は頭からかけられた羽織と濡れた衣服の間に、少しでも羽織が濡れるのを緩和させようと、手拭いを数枚挟む。


「朝から随分遊んだね」

「飯食った途端眠くなってきた」

「太陽の光も気持ち良いし、このまま昼寝したいですね」


 爽葉も、そっと見えぬその目を閉じた。穏やかな天気、ゆるゆるとした会話、心地良い倦怠感と、寝るか寝ないかの狭間の微睡み。睡魔に身を委ねれば、次第に身体がふわふわと軽やかになる感覚に陥る。


「なんか、言い争ってません?あれ」

「んー?」


 沖田の声に耳を敧ててみれば、確かに諍いの声がする。しかし、誰一人動かない。皆川狩りを楽しんだせいか、疲れているのだ。


「どうせ芹沢さんだろ」


 原田が欠伸をしながらそう言う。


「またかよー。飽きねえな」


 藤堂も組んだ腕を枕にして目を瞑っている。起き上がる様子は毛頭なく、視線もやらない。


「ちっ。あいついつまで駄々っ子やってる気だ。チビ助より餓鬼だぜ」

「引き合いに僕を出さないでくれる?」


 土方の呆れ声と小さな舌打ちも、爽葉の斜め上から降ってくる。が、そう言う彼も動かないようである。本来ならば真っ先に仲裁へと向かいそうな近藤は、とうに夢の中だ。

 爽葉は、心を許せる友に囲まれて、気の安らぐ時を過ごせる幸甚こうじんを噛み締めた。これから、何度となくこの贅沢な感覚を味わっていきたい。数ヶ月前までは想像すらできなかった感情が、いつの間にか爽葉の心の中に芽吹き、育って、言い表せぬ充実感と僅かな高揚感と共に確かに華咲いていた。抜け殻のように生きる事に絶望した時もあった。現身うつしみを捨てたいと腹に刃を当てた事もあった。それでも尚、今まで生きてきた自分の英断を褒めてやりたい。そう自画自賛して、たおやかな朗笑を零した。


「しあわせ、だ……」


 そしてゆっくりと、意識を眠りの中に預けるのであった。




 腰差し…煙草入れ

 空蝉… セミの抜け殻を指す、夏の季語。古語の現人うつしおみが訛り、転じて現世のこと。

***あとがき***


こんにちは、作者です!

最近は暑いですね〜。私は蝉がだいっっっきらいなので、死んだ蝉の転がる夏の道は地獄です 笑笑


空蝉うつせみ』が終わりましたね。蝉は大嫌いでも、この章は、多方面からこの題名に繋がる意味を持った場面だったので、気に入っています。


爽葉と久坂の関係も、見えてき始めました!これからどう彼が絡んでくるのか、楽しみにしていてください!

そろそろ、長州だけでなく、薩摩や土佐側のキャラクターも少しずつ顔を出してくる頃です❤︎


これからも、『誠眼の彼女』をよろしくお願いします!

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