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誠眼の彼女 -Seigan no Kanojo-  作者: 南雲 燦
壱の幕
31/58

空蝉 -Utsusemi-





「あかん」

「ちょっと待て。お前、これで許されると思ってんの?」


 木の棒をかなぐり捨て、逃走しようとした爽葉の肩を強く掴むのは、原田だ。最近始めたばかりの天然理心流の稽古の最中である。皆が朝稽古の間、爽葉は一人、暫しこの稽古に勤しんでいた。


「こ、これはちょっと。僕の太刀筋には合わないかなぁって……」


 頭を掻いて顔を背ける爽葉に原田は溜息を吐いた。そして、がし、と爽葉の肩を掴むと、彼はその筋肉を順々に確認していく。爽葉はくすぐったさに負けて、笑ってしまう。原田の手は肩から腹に降りてゆき、爽葉のくびれに両手を添えて、細!と驚いた。


「失敬な。僕だって腹筋くらい割れている。……縦線だけだけど」

「力は付けておけよ?多少失敗した斬り込みも力で押し込めたりするし、この程度の筋肉量じゃ鍔迫り合いした時も踏ん張りが効かねえぞ」


 今日はこれで素振りをしろ、と手渡されたのは太さが掌以上もある木の棒である。彼等はこれを一日に何千と振るらしい。彼等の中では細身寄りの斎藤や山南でさえ、軽々と素振りをこなしてしまうし、年嵩の源さんもまだまだ足りぬとばかりに、自ら回数を増やしている。きっと脳味噌が溶けているのだ、間違いない。


「重すぎる。こんなの振れないよ」

「チビちゃんも男だったら、これぐらいこなせ。せめて、同い年で身長も近い平助に迫るくらいにはなれ」

「いや、平助を目指すのって結構厳しい目標なんだが」


 藤堂は爽葉同様小兵と揶揄われているが、そもそも浪士組は図体の大きい者ばかりの集いなので、一般的に見れば標準より大きいと言える。五尺と五寸程度の身長に、骨格もしっかりしていて硬い筋肉のついた肢体は太い。爽葉の二倍はありそうである。それに対し、すらりと伸びた長い四肢を持つものの、女の平均を越した程度の身長の爽葉は、残念ながら圧倒的最下位だ。


「これに慣れておけば、木刀に振り回されることもない。握力も鍛えておけ。この前試合中に剣がすっぱ抜けていただろ?」

「ああ、……まあ」


 土方との試合で、手の内から竹刀が弾き飛ばされたのを思い出す。爽葉は苦い顔で額の汗を拭った。各剣術の流派でその名を知られた剣客が多く所属するこの浪士組に入隊してから、自ずと筋肉は付いた。これだけ周りに筋肉馬鹿がいるとそうなるのも必然だ。彼等の頸烈けいれつすぎるほどの体力に負けじと、また爽葉は木の棒を振り上げた。


「腕が棒のようだ。僕のものじゃないみたいに感覚がない」

「おチビー、頑張れー。もっと姿勢良く!余計な力が入っちゃってるよ」


 ぐす、といじけながらも、姿勢を正して素振りを続ける彼は、やはり素質を感じさせる動きをする。彼が浪士組の中でその他の剣士を押し除け、沖田達に並んで剣を振るうことが許されているのは、その類稀な才覚を存分に発揮しているからである。


「はい!ちゃんとやったよ」


 足をもつれさせながら、荒い呼吸で爽葉は道場の端に座る。


「偉いぞ、チビちゃん。次は左利きのつもりでもう一回!」

「へ?」

「いやだって、お前二刀流だろ?折角二刀流なんてできるんだったら、そっちも鍛えないとな」

「あ、ああ……」


 爽葉はガクリと項垂うなだれる。彼はこの時初めて二刀流の自分を恨んだのだった。

 磨き上げられた滑らかな木の床に、体重を預けた掌を付けた。床の板は、汗で湿る肌に冷たく吸い付く。隊士達が木刀を振り下ろしながら踏み込む衝撃と発声音で細かくたわみ、沖田や原田が飛ばすげきを控えめに木霊させ、それらが合わさってできた振動が指先の神経から伝わってきた。


「チビちゃん、休憩は終わりだぜ」

「先生、気が早くないでしょうか。僕はもう少し休んでいたいんですけれども」

「生憎俺はせっかちなんでね」


 原田が腕を引っ張れば、爽葉は座った状態のまま床の上を横滑りしていき、元居た位置まで引き戻されてしまった。仕方なしに、のそのそと立ち上がると、彼は徐に原田の腹筋に触れた。


「びっくりした。くすぐったいじゃねぇか。……なんだよ、俺の腰に興味があるって?え?」

「誰もそんなこと言ってないよ。いや、すごい筋肉」

「あったりめえだ。俺の肉体美は浪士組一だぜ」


 薄い衣の上から触っても、硬く盛り上がった筋肉の凹凸がはっきりと分かる。余計な肉は無く、鋼鉄のような精巧な肉体は、綺麗になめした皮を隙間なく張ったかのような理想的な出来上がり。胸から丹田にかけて連なるその立派な筋肉に触れて、爽葉は感嘆の吐息を洩らした。


「否定できないのがなんか嫌だな。確か、近藤さんやトシの筋肉も凄かった。永倉のも」


 生まれ持った筋肉の質の違いなのか骨格の違いなのか、原田をはじめ、がたいの良い奴等の肉体の完成度は一段と素晴らしい。筋肉の峰を辿っていた爽葉の手が、腹に流れる一筋の川に合流し、止まった。


「なんだこの傷は」

「切腹の痕だ」

「はぁ?」


 爽葉の隣で沖田が喉を転がして笑う。爽やかというよりもいといけない顔付きになる。


「俺の腹は金物の味を知ってんだぜ」

「何つー奴だ……。どういう経緯で切腹なんてことに?」

「脱藩して試衛館の食客になる前、伊予松山藩の中間ちゅうげんをしていたんだがな、藩の上士と口論になって、腹の切り方も知らぬ下司げすめ、って言われたから頭にきてよぉ、そいつの目の前で掻っ切ってやったんだよ」

「よく生きてたな」

()()()()()()の渾名の由来となった、左之助の自慢話ですよ」

「人間の豪快さは突き詰めるとこんな結果を招くのか」


 当の本人は自慢げに見せびらかしてくるが、爽葉は半ば飽きれ気味。国中探しても、喧嘩の売り文句を買った末に切腹してみせる輩など、彼以外いないだろう。


「無駄話は終いですよ。ほら、爽葉、続き」

「へーい」

「俺の武勇伝を無駄話扱いするなよ!」


 木の棒を振り上げる。肩甲骨が広がり、全身の筋肉が音を立てる。きゅっと腕の付け根が締まって上腕が僅かに緊張する。棒を振り下ろすにつれて少しずつ、前腕の筋肉が骨との溝を克明にした。しなやかな鞭を思わせる素振りは、途中で手首が冴えた動きをし、空を割き、打突へ。

 ああ、気持ちが良い。

 雑念は捨てて何も考えず、感覚を研ぎ澄ませ、ただ集中する。他の何にも変え難き快感。


「おい、振り上げの位置が下がってきてるぞ、背中を意識しろ。常に腹の下に力を入れておくんだ」


 原田の指導は意外にもわかりやすい。沖田の感覚的指導などよりよっぽど参考になる知識が盛り込まれている。往々にして、感覚派よりも理論派の方が指導が上手だ。爽葉もどちらかと言えば、本能型の剣士なので、一度ものにしてしまえば沖田のような自身の感覚と感性に頼ってしまうのだが、習い初めはそうもいかない。


「ご褒美が待ってますから、頑張って?おチビ」

「え、ご褒美!?痛!」

「これ、集中しなさいな」


 原田の竹刀が爽葉の丹田たんでんをつつく。


「ふふっ、くすぐったいって、左之助。ねえ、ご褒美って何」

「川遊びですよ。*晦日に、桂川で」

「あと数日待たなきゃじゃないか」

「そうですねえ。あ、でもきっと今日は飲めますよ」


 えっ!と途端彼の顔付きから曇りが消えた。ああ、あれか、と相槌を打った原田が爽葉の止まりかけた素振りを催促する。


「芹沢さんが水口藩に体よく宴会を要求したんだよ」

「水口……。この前左之助達が貰ってきたっていう証文の件ですね?」


 素振りを続ける爽葉の横で沖田と原田は話を続ける。除け者にされた爽葉の太刀筋は一層キレを増した。木刀が起こす旋風が不満げに唸る。


 先日のこと。芹沢に召集された、原田、永倉、井上、そして武田たけだ観柳斎かんりゅうさいの四人は八木邸の奥の間に座していた。曇天の空が冷気を町に落とし、与力窓から遠慮気味に覗く光が行灯あんどんの手助けをしていた夕暮れ。


「おめえら、水口藩公用人を取っ捕まえてこい」


 なんでも、水口藩公用方が会津藩公用方に浪士組の所業の悪さを訴えたらしい。それを聞きつけた芹沢は、黙っておれんと、早速原田達を水口藩邸に差し向けた。公用人の身柄引き渡しを求めたものの、彼等は驚いて平身低頭。怒る原田達に散々謝罪をし、詫び証文を書くことでその場を収めたのだ。


「その詫び証文を独断で書いちまったもんだから、これが水口藩主に知れたら大変だ―って慌てて返却を依頼してきたんだよ」


 笑えるぜ、と皮肉っぽく原田が口角を上げる。汗滴る男前には似合いの仕草である。


「藩主の耳に入れば、事と次第によりけり公用方の断罪は逃れられないですからね」

「それで、戸田とだ栄之助えいのすけって奴が返却の依頼に屯所に来たんだよ。あの阿呆な公用人の友人らしい。ほら、二条通りの直心影流のでかい道場を開いてる奴だ」

「露見を恐れて、こっそり依頼してきたってことですか」

「ああ。で、芹沢さんが、会議の場所を設けろ!そこでなら返却してやる!って突き返したら、後になって公用人から酒宴しゅえんの誘いが来たって粗筋あらすじだ」

「体のいい宴会の催促ですね」


 終わった!と爽葉が、へたぁ、と棒を杖のようにして粗い呼吸を整える。


「どこでやるんだ?」

角屋すみやだ」

「お。おチビ、初めての島原じゃない?」

「大人の街か!」


 沖田が途端にやにやしだす。原田も意地の悪い顔に様変わり、爽葉の肩に腕を乗せて顔を近付ける。

 島原とは京都の花街である。幕府公認ということもあり、江戸の吉原よりも開放的で、遊郭としての印象は薄らいでいるものの、やはり夜の街として本質は変わらない。


「おやおや坊や、可愛いねえ。今からでも遅くはねえぞ、男の遊びを学ばねえとな」

「今日はただの宴会ですけどね」

「でもこれで、爽葉が一丁前に女揚げる日も遠くはねえな」

「五月蠅い。遊郭行っても僕は遊ばない。助平な左之助と違ってな!」


 頬を膨らませながら、爽葉は木の棒を道場の隅に片付けた。

 朝稽古も終わりだ。気付けば道場に人はまばらで、他の隊士達は既に朝餉の為着替えて食堂に向かっている筈である。


 井戸から汲み上げた水を被り、手拭いで拭き取ってから、爽葉は一度部屋へと戻る。土方の気配はない。手早く着替えを済ませ、食堂へと向かう。食事は基本食堂で皆一緒に取るのが、浪士組の決まりだ。


「いただきまーす」


 目の前の膳から漂う食欲そそる匂いに耐えながら、近藤が最初の一口をつけるのを今か今かと待っていた爽葉は、周囲の箸を取る音を耳敏く聞き取ると、すぐさま白米を口に突っ込んだ。


「腹が減ったー」

「今食べてるじゃん」

「食べても空いているんだよ」


 藤堂のつっこみを意に介さず、次々とその胃袋に朝餉を詰め込んでいく。大柄な男達がこんなに肉体労働をしているというのに、やはり浪士組の食事も粗食であった。茶碗いっぱいに盛り付けられた白米と味噌汁、そして漬物。時折副菜が並べば万々歳。


「ふう」


 胃袋に飯が入り、空腹が和らいで落ち着いた爽葉は、一息ついた。近くから沢庵の匂いがする。絶対土方だ、と決めつけて、爽葉は梅干しを齧った。彼は沢庵が好物のようだ。いつも彼は、何種類か用意される漬物の中で最初に手を付けるのが絶対に沢庵なのだ。些細な癖を見抜くのは爽葉の得意技である。


「なあなあ。今日はトシも行くの?」

「あ?行かねぇよ。チビ助、くれぐれも厄介ごとは起こすんじゃねえぞ」

「一皮剥けるのに、お守りなんぞ居なくて寧ろ良いでしょう?」

「お前等、何かしでかしたら当分蔵に放り込んでやるからな」


 ふざける沖田にガンを飛ばして、土方は味噌汁を啜った。性格に相反し、外見には似合いの綺麗な所作である。しかし、土方の本当の心配は下戸げこの爽葉でなく芹沢だ。彼の酒癖の悪さによる乱暴狼藉は今に始まったことではないが、今日も気を張っておかねば、と彼は頭の片隅で考える。爽葉が白米片手に朝っぱらから、遊郭遊郭と土方の心配を他所に小躍りしている。


「へへ、初島原!」

「……阿呆」





「初!島原ーっ!」

「ちょ、恥ずかしいからやめて」


 沖田が爽葉の頭を後ろから抱え込むようにして口を押えた。周囲の通行人からじろじろと見られ、爽葉の隣に居た斎藤は微妙な表情を浮かべる。


 壬生の南に位置する島原遊郭は屯所から近い。周囲を堀で囲まれ、夜の暗がりとは無縁の、煌々とした灯りに照らされるくるわは雅やか。華やかで濃艶のうえんで、それでいて不埒な雰囲気が否応なしに漂う。

 本瓦葺と切妻屋根を乗せた重厚な大門をくぐると、柳のさらさらとしつこくない音が流れる。まるで、此処を訪れる*花心はなごごろを持った男の去り姿を形容したかような旋律。廓帰りの人々が名残惜しさにこの辺りで後ろを振り返ることから、()()()()と呼ばれていると永倉が教えてくれたが、爽葉の耳はそんな情緒を感じることができなった。


「そんなに楽しみか、小童にはちと大人の遊びは早すぎたか?」

「寄ってたかって揶揄うな。僕は立派な十九の大人だし、楽しみなのは酒が飲めるからに決まってるだろ」




 晦日…月末

 花心…浮気心

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