誰何
亡骸には必ず傷が二つあった。太い血管が通る箇所に一つ、急所に傷が一つ。双方的確な位置で、急所の傷で即死のようであった。どの遺体も喉笛は切られておらず、土方達はこの手順を取る理由を、何かしらの情報を引き出すためのものと踏んでいる。
どれを取っても見事な一太刀で。眉間のど真ん中、顳顬を左から右へ一直線、肩から真っ直ぐ真下へ貫かれている、などという、実に器用な傷痕のもあった。土方も、同心や徒目付に混ざって骸の検分をしたが、思わず「綺麗な殺しだな」と呟いてしまったほどである。
その業は単に下手人の技量故なのか、それとも、せめてもの救いか。そんな考えが何故か頭にふと浮かんだ土方は、すぐにその馬鹿げた考えを振るい捨てた。
「それもそうだな。ま、当分は、下手人を捕まえる事が先決だ。引き続き頼むぞ」
「承知」
一礼した山崎が出て行こうと立ち上がり、襖に手を掛けた。が、ふと逡巡し、土方を振り返る。布に隠れた面差しに、僅かな心配の翳を映し、
「狙われているのは長州出身の、名のある者ばかり。しかし、気は抜かないでくださいね」
と諫言した。
「わかってるさ」
「……ほんま、分かってんのかいな」
眉根を寄せる山崎は、シッシッと手を振る土方に呆れた様子で部屋を去って行った。
京都に来て早一月。土方達の名も有名になりつつある。それ故に、身を案じてくれているのだろう。
襖が閉まるのを目の端で掠め見てから、土方は再度筆を取る。書き物を進めつつ、雲行きの怪しいこの事件をどうにかしなくては、と思案するのであった。
しかし土方達の思いとは裏腹に、辻斬りの情報は得られないどころか、積み重なる事件に不可解な点が増え、捜索はますます難航するばかりであった。
「総司!」
立ち止まった沖田のもとに駆け寄ってきたのは、人懐っこい笑顔を浮かべた青年だ。名を、藤堂平助。他の隊士に比べて線が細く、女のように綺麗な顔立ちの彼は、大柄な男達の中にいると幼く見られがちだが、沖田とは年が近く、剣の腕もずば抜けて良い隊士だ。
「なあ暇だろ。甘味処に行かないか?」
「甘味! 行きましょう!」
甘いものに目がない沖田は、彼の誘いに一も二もなく返事をした。すぐさま自室から、銭の入った巾着を掴んで来ると、足取り軽く藤堂と共に村の甘味処へと向かう。
沖田と藤堂が所属する、壬生浪士組は、設立されたばかりの治安維持組織である。
幕府の弱体化と黒船来航を背景に、世は公武合体*と、鎖国攘夷の最中にあった。
天皇の居所であり、政治の中心である京都は、諸藩から尊王攘夷*・倒幕運動の過激派志士が集まり、治安が悪化していた。退廃化阻止の為に動いた京都所司代*や町奉行*も、大して役には立たなかった。そこで、江戸幕府第十四代征夷大将軍の徳川家茂公上洛に合わせ、不逞浪士や倒幕志士を取り締まり、将軍警護するという名目の下、新たに結成された剣客の組織こそ、この壬生浪士組である。
江戸での募集に応じた浪士、総勢二百三十余名の中に沖田達もいた。江戸市中にあった、天然理心流剣術の道場である試衛館に出入りしていた仲間と共に、京で一旗あげようと参加したのだ。
寒さの厳しい二月の末、将軍に先立ち、約半月かけて京に到着した一行に早速災難が降りかかった。江戸へ帰還の危機だ。旅の本当の目的は、将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にあったのだ。幕府の呼びかけで集めた浪士たちを密かに反幕府活動に転じさせようという計画だったようで、計画を献策した清河八郎の本意を知った近藤は脱退を希望し、結局試衛館の仲間達と、それに賛同した芹沢鴨率いる水戸一派と共に京に残留することとなった。
一時はどうなることかと思ったが、今でもこうしてなんとか活動を続けている。彼等が住まうのは壬生村。京に上って間もないが、日々町の見回りを行うので、沖田も藤堂もすっかりこの土地に慣れていた。
二人は店に着くと、紺に白字で井島屋と染め抜かれた暖簾をくぐる。行きつけの甘味処だ。特に、みたらし団子が絶品である。
「いらっしゃい。総司君じゃないですかい」
皺の多い目尻を下げ、にこにこと柔和な笑顔を浮かべる老人が、ひょっこり顔を出した。二人の姿を見つけると、嬉しそうに声を掛けてくれる。何度も通ったお陰か、この甘味処の主人である彼とは、すっかり顔見知りの仲だ。
壬生浪士を揶揄して『壬生狼』と恐れる者もいる中、今では随分と仲良くしてくれている。
「平助君も。ゆっくりしていってなぁ」
注文を取った彼はそう言うと、店の奥へと消えて行った。
「楽しみですね」
「毎回思うけど、あれだけ頼んでよく太らないよな」
「何言ってるの、甘味は俺の剣の素だからね。突きの素早さは羊羹のお陰。打撃の重さは団子の力さ」
「嘘言え」
藤堂は頬杖をついて、呆れたように目の前の沖田を眺めた。彼は品書きを目を爛々と輝かせながらまだ眺めている。薄い茶色の総髪が嬉しそうに弾む。
「単純に好きなだけだろ」
甘味が運ばれて来ると、待ってましたとばかりに、沖田はだらしなく相好を崩した。壬生浪士組きっての剣客が、甘味一つで形無しである。
「ちょっと! お前の所為で、皿が机に乗り切らないんだけど!」
騒ぐ藤堂を他所に、沖田はもう目の前の団子に夢中だ。藤堂の声は恐らく耳に入ってなどいない。貪り食い始めた沖田に、
「そう言えば、辻斬りの下手人を見たんだって?」
と藤堂は周りを伺ってから、こそっと訊ねた。沖田は団子で膨らんだ口をもごもごと動かしながら、肯く。
「いいなあ! ずるいぜ総司、俺も一戦してみてぇなあ。どうだった? 強かった? どんな太刀筋だった?」
藤堂が、子供さながらジタバタと足をばたつかせるので、皿の載った机が不安定に揺れた。沖田は団子を飲み込んで、ぴ、と指を立てた。口の端にみたらしが付いている。
「あくまでも、俺が推測するに、ですよ。ただの怪しい奴かもしれませんし。しかし、ありゃ我流の剣ですね、完全に。戦場でがむしゃらに鍛えた叩き上げの剣だ」
「どれくらい強い」
「まだ何とも言えないけど、俺達と互角にやり合える程度かもしれない」
「へえ……」
藤堂は目を丸くする。
「下手人の可能性は大きいんじゃないか?」
「ああいう殺り方の人斬りには、なかなか興味が湧きますしね。一度聴取しても損はないでしょう」
「ああ、あれな」
藤堂は死体の回収を手伝った時のことを思い出した。
花街の片隅で死んでいた男は、見事足の腱が斬られていた。致命傷は心臓への一突き。腱は的確な場所を必要なだけ抉られているし、心臓は寸分の狂いなく突かれていて、誰が見ても下手人が相当な手練れだと判った。
一緒に回収に行った土方は、死体を見ながら気色の悪い笑みを浮かべていたが、確かにあの鮮やかな業には感嘆するものがあった。隊士の幾人かは、随分と綺麗に斬られた骸よりも、煙草を咥えながらその骸を嬉しそうに眺める土方に、肝を冷やしていたに違いない。
藤堂も腕に覚えのある剣士。下手人に会ってみたいものだと思っていたが、沖田に先を越されたのは実に残念である。
「おじさん、追加ー」
「はいよ」
「まだ食べんの」
沖田のその言葉に、思惑に耽っていた藤堂は目を剥いた。
二人帰る頃には既に陽が傾いていた。冬の冷たさを感じるものの、京は春めいた気候になってきている。七輪で暖められた部屋から出たばかりでも、風が吹くと流石に寒く、藤堂は小袖の袷をきつく閉めた。道の側を流れる細い川は、赤みがかかった色の紫に染められた、流れる靉靆を映し、瑞々しい音を奏でている。
「たらふく食べれましたね」
「思い出しただけで胸焼けが……」
上機嫌の沖田に対して、隣を歩く藤堂は頰をげっそりとさせる。
「そうかなぁ。平助も」
沖田の声がふつりと途切れた。不審に思った藤堂が、「どうした」と訝った。藤堂の声が全く聞こえていない様子の沖田。藤堂が顔を覗き込むと、瞳孔が開ききっている。その視線を辿った藤堂も、すっと深沈たる空気を纏う。薄茶の双眸は、道の向こう側から歩いて来る少年に釘付けであったからである。
あの少年だ──。
そう確信した瞬間、沖田の周囲からは全ての音が消えた。木枯らしが鳴らす木々のざわめきも、鳥の囀りも、川のせせらぎも、ひとつ残らず、全て。
空を朱に染めていた陽が、音もなく沈んだ。通りは、瞬く間に薄暗さを纏う通りへ変貌し、店の提灯には次々と明かりが灯っていく。
ぶわり。沖田から漂う空気が一変した。それを肌で感じ取った藤堂は、「おい」と沖田の肩を咄嗟に掴む。
「やっと、会えた」
嬉々とした呟きに、藤堂は戸惑った。口許には冷笑を湛えているというのに、瞳は熱を持った刃の如く鋭い。遠くの少年だけを捉えて、離さない。
沖田は足早に歩みを進めた。突如、少年が足を止め、急に進行方向を変えて路地を曲がった。
「気付かれたか」
沖田は駆け出した。
「ちょっ、おい! 総司!」
訳も分からぬうちに置いて行かれた平助は束の間立ち尽くし、彼の背中に向かって叫ぶ。しかし直ぐに、沖田に加勢しようと彼もまた地面を蹴った。
「もしかして、総司が言ってたのって、これ?」
「予想以上に小さい」という言葉を飲み込んで、藤堂は沖田と対峙する少年を見た。小兵*だとしょっちゅう揶揄われている藤堂よりも、優に頭一つ分は小さい。そしてその異様な外見に、思わず藤堂は彼を無遠慮に凝視した。
細い一本道。素早く少年の退路を二人で断つ。
小柄な体躯の子供一人に対し、こちらは浪士組きっての隊長二人だ。余裕だろうとたかを括っていたところ、飛んできた手裏剣を、藤堂はすんでのところで身体を捻って躱した。
「え、ちょ! お、わっ。吃驚すんじゃん!」
藤堂は目を瞠る。
「平助、ちゃんと避けてくださいね!」
「いや何これ! 聞いてないんだけど!」
騒いでいる間にも、次々と飛んでくる幾つもの手裏剣を、沖田と藤堂は華麗な手捌きで弾いてゆく。少年が狙う位置は確かに的確だが、弾くに難はない。十字の鉄の刃が、顔すれすれを通過して行く。かと思えば、次の一手で藤堂は袴の裾を破かれ、「げえ」と嫌そうに顔を顰めた。
「久方ぶり、ですね」
無表情の少年に向かって、沖田はにこりと微笑んだ。不気味な包帯が、風に靡かれて残すのは白い残滓。
「突然で悪いんだけど、屯所に来て貰いましょうか。うちの副長様が生捕をご所望なんでね」
少年は沈黙を貫いていた。返事の代わりとばかりに、両足が開かれ、身体の重心が下がった。砂利と擦れる音が、やけに大きく響く。沖田はそれを見て、軽く目を伏せた。
其れが、少年の答えである。
「捕まえちゃおうぜっ」
藤堂が両手を前に出し、捕まえる素振りをして笑う。途端、身を翻した少年が、藤堂に向かって駆け出した。
ふざけた表情から一変。す、と目を細めた藤堂の纏う気が、冴え渡った殺気に変貌した。
振り下ろした藤堂の刀の刃が届かない距離で、少年が急に後方に飛び退る。藤堂の刀は空を切った。
驚いたことに、少年は身軽にもすぐ側に生えていた木に飛び移る。しかし、すぐさま追いついた二人の刀が、彼の腕と太腿を深く斬った。枯葉の上に赤い斑が散る。
少年は小さく呻吟しつつも、木の枝にぶら下がると、勢いをつけて二人の刃の背を蹴り飛ばした。そして瞬く間に屋根まで登りきり、姿を消してしまった。
「あいつは猿か」
あまりのすばしっこさに唖然とする藤堂の横で、困り顔の沖田は頭を掻く。
「また捕らえ損ねちゃいました。土方さんに怒られそー」
軽い口調の割に、鋭い視線が少年の消えた方へと向けられていた。
事が急展開を迎えたのは、それからすぐのことであった。
子の刻を過ぎたあたりだろうか。土方は屯所の外廊下を歩いていた。仕事がひと段落つき、そろそろ遅めの就寝に就こうとしていた時だ。ふと、気配を察知した土方は立ち止まり、深い暗闇をじっと静かに睥睨した。それから間もなく、ゆっくりと裏戸が開かれ、何か大きなものを背負っ男が入ってくる。土方は何事かと首を傾げた。
「土方さん」
この男、名を山崎烝と言う。非常に有能なので、土方が諸士調役・監察方を掛け持ちさせた、浪士組きっての切れ者である。黒い布から覗く瞳が、闇の中でも笑っていると分かる。
「なんだ、その拾いもんは」
山崎が背負っているのは子供だろうか。随分と小柄な体躯は、山崎の背にすっかり隠れており、色白の細腕だけが力なく山崎の背中から垂れ下がっていた。
「怪我をしているらしく、手当をしようと思いまして」
「だったら俺の部屋使え。一番近い」
土方は部屋の襖を開け、山崎を招き入れた。行灯に火をつけ、押入れから布団を引っ張り出して敷く。しゃがんだ山崎が、背中から下ろした子供をゆっくりとその上に横たえた。ゆらりと仄灯りに照らされた、血飛沫に汚れた着物。まだ元服前の少年に見える。しかし、少年の顔を見て、土方はがらりと顔付きを変えた。
「こいつ」
土方が思わずそう洩らせば、手際良く手当をしながら、山崎が口角を吊り上げて笑った。
身体中に真新しい傷があるようで、布団には少年の血で見る間に大きな染みができた。布団の白を侵食しながら、その赤黒い痕は円を描いてじわりじわりと広がっている。
「本当に変な野郎だな」
壁に寄りかかって腕を組み、土方は横たわる少年を眺めた。懐から煙草を取り出し、火を付けた。
今日は煙草を終いにたつもりだったというのに。
薄い灰白色の煙が、輪を描くようにして昇るのを、ぼんやりと土方は眺めた。煙は天井まで達すると、形を変え、四散した。
「四条河原で回収しました」
先程、甘味処から帰ってきた沖田と藤堂から、改めて報告を受けてたばかりであった。勿論、辻斬りの件である。彼らから聞いた話を思い返しながら、少年の容姿と照らし合わせる。幼顔に小柄な身体、藍色の髪、目元を覆う白い布、腰にはおんぼろの脇差が一本のみ。
「土方さんが喜びそうな土産でしょう?」
いつの間にか手当を終えた山崎が、くつくつと咽喉を鳴らして笑うのを、土方は眉間に皺を寄せて、また煙草を喫った。
「報告通り、右腕と太腿に深い傷があります。この少年で間違いないようですね」
「……面倒事が増えたな」
そう吐き捨てる土方に対し、山崎はにやにやとした気色の悪い笑みを深めるばかり。
「気になっていたんじゃないですか。普段の事件の処理より、よっぽど楽しそうですよ」
「んなわけねぇよ」
ぶっきらぼうに言い放った土方を見上げ、山崎は、「図星」と、推察をまるで事実かのように告げる。普段なら気付かない程の言い澱みも、この男の前では悪足掻きに等しい。観察眼に長けた男ほど、厄介なものはないということを、土方は既に承知していた。
楽しそうにしている山崎を見て、観念したように煙が混じった溜息を吐き、土方はひらひらと手を振った。
「こいつを隣の部屋に寝かしとけ」
「はいはい。と、いう事は俺に監視しとけと」
「察しが良いじゃねえか」
土方は肯く。
「鬼の土方さんは人使いが荒いねぇ」
山崎は首を竦める素振りをしてから、ひょいっと片手で軽々と少年をおぶさり、部屋を出て行った。土方は、新たな厄介ごとに再度溜息を零す。
「俺の休息はいつ来るのかね」
煙草の火種が、じりり、と燃えた。
公武合体… 江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする政治運動
尊皇…天皇を敬うこと
攘夷… 外国人排斥運動
京都所司代…江戸幕府の役職の一つで、京都の治安維持の任務にあたった部署のこと
町奉行… 領内の町方の行政・司法を担当する役職
小兵…小柄