苦艱
ははっ、と洩らす笑い声も、少々から元気。爽葉は哀を漂わせる沖田をちらと見る。きっと彼は人を殺す覚悟をしていた。そりゃあ京随一の剣客集団で隊長を務めると決まった時、いや、近藤について行くと決めた時から、覚悟はしていたのだろう。しかし、沖田に必要な覚悟は別のものだったようだ。
「でも、この慰めは、本当に総司を慰められる言葉とは思えないな」
沖田は思う。言葉は何も要らない。只、何も言わずに話を聞いてくれるだけでいい。頷いてくれるだけで、充分だ。
「近藤さんは怒っているというよりも、心配しているんだと思うよ。総司は強い。一番隊隊長で斬り込み隊長。これからうん百人と人を斬らせてしまうことになる。お前が大切過ぎた存在だからこそ、心配したんだよ。斬ることに慣れて快楽すら感じて、本物の外道に堕ちてしまわないか、ってね」
武士と外道は紙一重だ。少しでも踏み外せば、外れた道に一気に転落してしまう。容易く抜け出せぬそのぬかるみから爽葉を引き上げてくれたのは、この浪士組の皆だ。だから、爽葉は誓う。天がこの命に死を穿つまで、浪士組の為に生きようと。
「近藤さんに頑張ったなって、大変だったなって、俺は褒めてもらいたかっただけなんだ。初めて人を斬る感覚を味わったことのある近藤さんなら、拙い言葉でも俺の気持ちを理解してそれを汲んだ言葉を返してくれるなんて、勝手に思っていた」
「最初に剣を握る理由なんて、そんな単純なものだろ。僕なんて尚々尚々しょうもない。大体、初めて人斬った日にゃよっぽどの剣豪でも吐いたりするってのに。喜ぶなんぞ、優等生まであるぜ。あー、これ知ってるか?この前巡察で、田所がよ、腹から出た臓物見て、四つん這いになって下呂ってやがんの。あはは……」
鴉が鳴いた。必死に翼をはためかせて枝から飛び立つ。その一羽は、仲間の群に紛れて静かに列を成した。沖田はそれが小さな点線になるまで、ぼんやりと眺める。へにゃりとした笑いを引っ付けていた爽葉は、彼の様子に、大仰な仕草で振り上げていた両手を大人しく降ろした。
殺した奴の話なんて聞いたところで損しかない。沖田は初っ端から下手をこいた。普段、屍の切断面を見ては斬り込みの角度がどうの、臓物見ては汚いのどうの散々言ってる癖に。
「しょうがない。……ん」
沖田の膝上に、饅頭が二個置かれた。
嗚呼、なんて不器用なのか。痛いほどの優しさが、心の細部まで沁み入る。
「ありがとう、爽葉」
「礼はいらない。台所からかっぱらってきた饅頭だからな。じゃ、僕は巡察があるから」
ひらひらと手を振り去って行く小柄な背中が、今日はやけに大きく見えた。
「あー、疲れたよー。遊びたいよー。ねえねえ、それかおやつにしよう?カイカイもそう思うよね」
「あのー、カイカイってやめてくれません?爽葉さん。恥ずかしいのですが」
「とりあえずお前は口じゃなく手を動かせ」
呆れたように永倉が言い放ち、爽葉に追加の洗濯物を手渡した。爽葉はその重みに一瞬身体を持っていかれそうになる。永倉が、脱走を図るその肩を掴んで強制的に桶の前にしゃがませ、やれ、と圧をかければ、彼は不服そうにまた洗濯を始めた。
雲ひとつない晴れやかな空に、穏やかな風。こんな絶好の洗濯日和に洗濯の当番が回ってきた爽葉と永倉、そして島田は、大量の洗濯に追われていた。島田は、最近の隊士募集の際に入隊した、永倉の知人である。浪士組随一の大柄な体躯と怪力を持ち、とても真面目な性格。その勤勉さが買われ、山崎の下で諸士調役兼監察をこなしている。最近は、力さん、との愛称で呼ばれることも多くなった。
「早く洗っちゃってくださいよ。ほらほら、まだこんなにあるんですから」
丁度、沖田達が稽古終わりに汗と土で汚れた服を持って来た。彼は数枚の手拭いを爽葉の桶に落とした。そして汗を洗い流そうと、井戸の周りで他の隊士同様、諸肌を脱ぐ。
「くそ、笑いやがって。汚れに汚れた洗濯水攻撃!」
「うわっ、やめろ」
「爽葉、お疲れ。わあ、こんなに沢山……大変でしょ?」
「愛次郎ーっ!」
からかってくる沖田と打って変わって、柔らかなその声で労ってくれるのは、佐々木愛次郎だ。同じ頃に入隊した、言わば同期。柔らかな物腰と穏やかな性格、優しい人柄に加えて女のような甘い顔立ちで、爽葉同様皆から可愛がられている。しかし、剣の腕は頗る良く、これからに期待がかかる見込みある剣士だ。爽葉とも時折試合をする仲で、実力は爽葉の方が上手とは言えど、なかなか面白い試合を繰り広げられる相手でもあった。
彼も汗を吸って重たくなった手拭いや稽古着を抱えて、他の隊士達と沖田の後から此方へとやって来た。彼等の蒸せ返る程の体温を感じて、この時間は沖田が稽古の担当だったということに合点がいく。彼の稽古はあの土方と並んで鬼のように厳しい。正直に言えば、沖田の難解な説明の稽古の方が隊士達にとっては厳しいのではないかと爽葉は思う。
「またこってり絞ってたのか」
沖田は稽古中に、身体で切れ!とよく隊士を叱るが、努力で上達した者達にとって天才肌の指導は難しいものだ。序の口、と口角を釣り上げた沖田を見て、佐々木達は稽古が終わったばかりにも関わらず、顔を引き攣らせた。
「本当は、素振り五百回、腕立て三百回、走り込み三百回を加えてやろうと思ってたんですけどね」
「鬼畜!」
爽葉はけらけらと笑って、その拍子に永倉の顔に泡を飛ばした。
「これ以上はもう、腕がもげますよ……」
冗談じゃないと冷や汗を滲ませながら、隊士達は火照った体に冷たい水を浴びて、とても気持ちが良さそうだ。皆、骨太の体に一切の無駄のない迫力ある筋肉がつき、強靭で精悍な筋骨を太陽光に晒している。浪士組は各地で我こそはと名乗る程の腕利きが集まっている剣客集団である。それに加え、日々激しい稽古を積んでいるのだ。そのことが一目で分かる肉体であった。水気が涼しそうに音を立てて弾け、流れ落ちて、肌が夏を予感させる太陽の光を照り返した。
「次の時間の巡察って、誰が担当だっけ?」
「源さんと平助くんが行くって支度してたよ」
「僕も行きたい!」
爽葉の溌剌とした声が嬉しそうに返事した。彼の握り締めた手拭いが、桶の中でいきのいい鯉のように暴れる。
「おチビは日が暮れるまで洗濯してな。そうやってちんたらしてたら、明日になるね」
「ふぎゃっ」
「代わりに俺が行くよ」
しゃがみこむ爽葉の頭を片手で、のしっと押さえつけて、沖田が意地悪に言った。彼の手から伝って来た水滴が、爽葉の髪の間を通過して首筋を濡らす。冷たっ、と声をあげた爽葉を背に、沖田は稽古終わりの疲れも見せず、鼻歌を歌いながら巡察に加わろうと去って行った。
「くっそぅ……」
べーっだ、と沖田の消えた方に向かって舌を出す爽葉に今日何度目かの呆れた視線を送ってから、永倉は新しい手拭いに手をつける。晴天をいいことに、ここぞとばかりに大量に出された洗濯物は大きな山を作っていて、洗っても洗っても一向に減る様子がない。
「手伝います」
愛次郎がにっこり笑顔をみせながら、素早く袖を襷掛けして永倉の隣にしゃがみこんだ。
「いいのか?」
「はい。暇ですし」
「なんてお前は優しいんだ!あんな腹黒性悪鬼畜野郎とは雲泥の差だなっ!」
「確かに」
永倉も、爽葉の遠慮のない罵詈雑言に肯定の意を露わにして頷いた。それを、心優しい佐々木は困ったようにまたふんわりと笑って、洗濯物を水に浸した。まだ夏本番ではないにしろ日差しは強く、首の後ろはじりじりと執拗に焦がされる。桶に張った水に手をつけて、既に温くなりつつある水の滑らかな感触を楽しむように、爽葉はぱちゃぱちゃと指を泳がせた。空の匂いを嗅ぎ、湿った初夏の予感を感じ取った彼は、背中をぐいと伸ばしてから体勢を変えてしゃがみ直した。
「新しく捕縛対象になった奴の話聞いたか?爽葉」
「捕縛?」
「爽葉さんはまだ知らないですよ。丁度爽葉が厠に行った時でしたから」
「そういやそうだったな」
覚えのない話題に首を傾げて詳細を催促する。
「捕縛すべき攘夷派の人物名が出されたんだよ。名前は桂小五郎」
「桂小五郎!?」
驚いて立ち上がった爽葉を、三人は目を丸くして見上げた。両手に持つ手拭いから、ぼたぼたと水が漏れ続ける。
「何突然どうした、知ってるのか?桂を」
「この前、大坂で会ったぞ」
「なんだと!?」
今度は永倉達が驚く番であった。息を整え、爽葉は腰を下ろした。
「総司も一緒だった。あいつ、只者じゃないと思ってたけど、そうか、僕達の感は外れてなかった訳ね」
「逃げ足のやたら早い男だ、捕まえるのに苦労しなきゃいいが。他にも、岡田以蔵、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿。他にもいるが、名の知れている奴だと、こんなもんかな」
「岡田以蔵も会ったな。……罪状は」
あの時戦っておけばよかった、と爽葉は内心舌打ちする。
「いずれも攘夷志士の中でも中心人物ばかりだ。とんでもねえ暗殺計画やら焼き討ち計画やら、色々と企てているらしい」
「なるほど、ね」
俯いている爽葉の口許には、皮肉めいた微笑の片鱗が浮かんだ。幾ら警察組織を作ろうと条例を出そうと、京は無法地帯。謀策が張り巡らされ、闇に紛れて相対する者の足許を掬おうと、幾多の罠が待ち構えている。実際、法と警備の間隙を縫って暗殺を繰り返してきた爽葉は、そんな奴等となんら変わりはしない。
「攘夷志士ねえ」
にひひ、と爽葉はおちゃらけてみせる。
「一人捕まえたら幾ら俸禄が貰えるんだろう。饅頭ありったけ買えるかな」
「ありったけどころじゃねえよ、饅頭も煎餅も大福も、もう食いたくねえってくらい買えるぜ」
「まじか、そいつら全員饅頭の金かぁ」
涎でも垂らしそうな、緩んだ面だ。永倉は思わずその顔を見て吹き出した。
「お前、食い物のことになるとほんっと……。ますます子供っぽくなるな。あ、すまん、泡付けちまった」
「え、おい」
爽葉の藍髪に泡が乗っている。気泡の寄せ集めのそれは、じわじわと端のほうから消えてゆく。
「岡田以蔵って奴、強そうだったな。佇まいが常人と全く違う。桂って奴は、もっと危険な匂いがしたよ」
「お前が匂うってんなら、それは本当に要注意人物なんだろうな。嗅覚の鋭さでお前に敵う奴は居ないからな」
「まあな。実際剣を抜いて対峙した訳じゃないから、力量は正確に掴めなかったけど。……ふふ」
「なに、笑ってんだ」
何も答えず、爽葉は桶を覗き込んだ。白濁した水に映り込んだ爽葉の顔が、横に縦にと歪んでいる。勿論、盲目の彼には何も見えてはいない。只、とぎ汁の香りと、水に冷やされた冷たい空気を肌の近くに感じるだけだ。
「糠だけに、ぬか喜び、ってな」
「お前、大丈夫か?死ぬほどしょうもねえ事言ってんぞ」
「渾身の冗談なんだけど」
「やり直しだ。切り返しも、その洗濯物もな」
「あともう一人、人相書きが貼られていましたよね?それもこれも、追って説明すると言われたので詳しく聞いてはいないですが」
「私も見ました。食堂前の廊下ですよね」
「人相書きって、僕見れないじゃないか。身元が分からないのか?」
「ああ。幕府の要人がそいつに命を狙われたらしい。他にも見廻組の何人かがやられたんだと。岡田以蔵と同等の技量の持ち主で、長州か土佐の者じゃねえかって話だが、身元は割れていない」
岡田以蔵と同等ならば、相当な遣り手だ。見廻組は浪士組よりも今のところ成果は低いとは言えど、彼らも浪士組同様、京の治安維持組織である。その隊士達を何人も討ち取ったとなると、手強いようだ。未だ水面下で動く改革派の中で、一人過激な行動に出ている事が、些か引っ掛かる点ではある。
永倉は、パンッと布を大きく広げてから、竿に引っかける。
「どんなやつだって、書いてあるんだ?」
「四角に近い輪郭をしていて、一重の鋭い目つきととんがった鼻が特徴的だったな。背は平均よりも高いくらいのようだ、斎藤程度かな」
「あと、顎に傷があるんですよ」
「顎に、傷……。どんな」
「こう、左側に斜めに入るような傷です」
「ほう」
爽葉は包帯の奥で、目を妖しく細めた。水気を含んで濃い青を浮かばせる袴に、米糠を擦り付けて、口を開く。
「そいつはぁ、魯漠って奴だよ」
「こいつのことも知ってるのか」
「本名は知らん。ただ知っているのは、そいつが」
生粋の人殺し。ってことだけさ。
***あとがき***
こんにちは。南雲燦です
『苦艱』が終わりました〜!
短い章でしたが、実は個人的に気に入っている章です ❤︎
土方&山南の参謀コンビが、ここではいい味出してくれました!キレ者二人、かっこいい……
沖田爽葉の仲がどんどん深まっているところに、魯漠と爽葉の関係もちらちらと垣間見えはじめましたね!
次の章もお楽しみください!
──他の作品について
『軍則第四条の罪人』が最終章に入りました!
騎士×王子の、逆ハーアクションファンタジーです。
よければ、覗いてみてください❤︎




