苦艱
「失念していたが、将軍家茂侯が江戸に戻る事が決まったじゃないか……」
またか、と土方は苦悶の表情を浮かべる近藤を横目で捉えた。彼はその正義故、結論を下す事に二の足を踏んでいるのだ。
「今為すべきは京に残り、京都守護職のもと治安を守ることだって、この前話したじゃねえか」
将軍の警護をする目的で結成された浪士組は、京都に留まる意味を失ってしまった。しかし、この治安の悪化した京をこのままにしておくのも些か問題であるし、何より浪士組を更に大きい組織と考えていた。今更江戸に戻ったところで、他にしたい事もやれる事もない。先の三人会議でも、再三話し合ったばかりである。優柔不断な近藤に引き換え、土方の決意は堅かった。軌道に乗りつつある浪士組という船をこんな所で座礁させてなるものかと、山南と共に正論を切り崩しなし崩し、説得してゆく必要がある。
「かっちゃん。俺はお前を頭に据え置いて、この浪士組を大きくしていきたいんだ。この機会しかないと思わねえか?」
「やりましょう、近藤さん。貴方の志の下にこんなにも多くの者達が集ったのです。ここで止める事こそ最も期待を裏切ることになると思いませんか」
山南の助け舟もあり、近藤は目を閉じ、眉根を寄せながらも、ううむと頷いた。
「嘆願書を書きましょう」
「嘆願書か」
「そうです。京に残りたいという主旨の嘆願書をしたため、松平候に提出するのです。私が手伝います」
ありだな、と土方は揺蕩う灰褐色の煙を通して、庭の緑を見た。夏も近い。まだ青いそれは背筋を伸ばして天に手を伸ばしている。
嘆願書が認められれば、京滞在の許可まで一気に漕ぎつけられる。何より新たに後ろ盾も得られ、今より幾分かマシな体制を整えられるかもしれない。
「よし分かった。そうしよう」
「分かってくれて良かったぜ。決定だ。嘆願書は早めに仕上げてくれ」
もうこの話が蒸し返されることはないだろう。ここからは山南が嘆願書を書き上げるところまで一気に持っていってくれる。
「……暑くなってきたな」
夏も、もうすぐそこだ。
「や、やめてくれ。助けて」
情け無い格好で、爽葉が後退りした。畳に落ちた影は、彼の制止の声を歯牙にもかけず、徐々にその距離を詰める。
「ちょ、待った。それだけは」
「嫌や。いつもお風呂を使わせてあげているのは誰や?うちや。*月役の時、*湯文字も*蹴出も持ってきてあげているのは誰や?それもうちや」
「はい、姉さんには逆らえません」
「ええ子やなあ。そないなええ子はこれ、着てくれはるよな?」
「も、勿論です」
屈した爽葉は、いやに恭しくお梅から簪を受け取った。彼女は以前言ったように本当に爽葉が男として生活出来るよう、献身的に支えてくれていた。彼女は芹沢と妾になり、家族ごっこを楽しんでいるのだ。爽葉に打掛を着せてくるお梅の香がふわりと鼻を掠めた。以前より清楚な馨香だ。こっちの方が良い。
「ほらぁ、爽葉はんもやっぱり女子なんやねぇ。可愛ええわぁ。よぅ、*うつってはるよ」
彼女は時折爽葉に女の真似事をさせて楽しんでいる。最初は紅や髪飾りだけだったが、段々と拍車が掛かって、遂に今日は着物ときた。今までは為されるが儘だった爽葉も、流石にたじろいでいる。
「この簪が合うやろなぁ。ほら、うちの見立て通り」
「いや全くわからん」
鏡の中に、見知らぬ女が映り込んでいる。爽葉の顔は、化粧を少し施すだけで見違えるほど大人びた。言動が子どもじみている所為で普段認識することはあまりないが、彼は端正な顔立ちをしていた。愛らしさが先行するものの、口を噤んでいれば麗人に早変わりする彼は、男の格好をしているのが惜しいほどだ。
「きっと土方はんも、この姿見たらますます可愛がってしまうやろなあ」
「御用改めの時にでも悪用されそうだ」
悪知恵を働かせて含み笑いをする土方を想像して、ぶるりと身を震わせた。
「なあ、その包帯、取ってもらうことはできへん?」
「いいよ」
爽葉は何の抵抗もなく、するりと結び目を解いた。目の形を浮き彫りにさせていた布は輪を描いて落下し、その下から大きく縁取る瞼と長い睫毛が姿を現した。瞼が一度ぎゅっと揺れ動き、透き通る青がお梅を意識ごと飲み込んだ。それは見たこともない透明度と輝き。どんなに晴れ渡った空の色を詰め込んでも、どんなに清涼な海の水をかき集めても、これほどまでに美しい色は生み出せまい。それに反して、瞼に走る刃の爪痕は痛々しい。その一線は瞳孔と虹彩をも貫いている。お梅は言葉を失った。
「あ……」
「気遣いの言葉は要らんぞ。トシなんて創を一瞥するなり、一丁前に洒落っ気のある勲章なんぞ拵えてんのな、って。あいつ、頭の螺子外れてやがる」
眉目よい容貌と極彩色の着物、異様な色彩の瞳。調和のとれたそれらを引き裂く傷痕と剣士の覇気を纏う肉体。絶妙な均衡を保って、其処に新しい美を設えていた。
「おうおう、今日も仲良くやっとるな。お梅にもその碧眼を見せてやったのか」
芹沢が部屋に入ってきた。酒の匂いがする。部屋はお梅の香で満たされていたのに、台無しだ。
「昼間っから酒とは良い御身分だな」
「小童にはわからんよ。儂がどれだけこの浪士組に貢献していると思っておる」
「そんなの知るか」
じとりとした視線で爽葉を嘗め回した芹沢は、顎に手を当て、酒に濡れ濃い赤に染まる唇を爽葉の耳に近づけた。
「……ほお。奴の生意気な性分が骨の髄まで染み込んできたようだな」
どかりと彼が部屋の奥に腰を据えると、すぐにお梅が側に寄り添い、徳利を両手で持ち上げる。とととっ、と円かな音と共に、お猪口の湖にさざ波を立てた。
「忘れたか。儂は局長ぞ」
「近藤さんもだぞ」
「あやつは農民出身。儂は武士の出。同じ局長でも重みが違かろう」
「何の話だ」
爽葉が鼻を鳴らした。女の姿で堂々と着物の裾をからげるので、お梅が慌てている。当の本人はお構いなしに、ずいと芹沢に迫る。
「このご時世、武士とは身分のことを示すんじゃない。武士とは、志を掲げて剣を握る者のことだ。命を賭して挑む心意気と出生は関係ない。……お前も頭では理解しているんだろう?近藤さんと並んで局長をしているんだから」
今度は芹沢が鼻で笑う番であった。
「小童ごときに、武士とは何たるやを説かれるとはな」
「すまんね、武士になりたてほやほやの分際で」
爽葉の口調は、そんなことはつゆほどにも思ってない者のそれである。
「ああもう、脱ぐのが早ない?」
「こんなの着てられるか。女ってのは大変だな、こんなじゃらじゃらとしたのを毎日付けて生活してるなんて」
「女は素敵な生き物やで。楽しいことがぎょうさん増えるんよ。こない可愛ええのに、勿体無い。損してはる」
いそいそと化粧を落とし、袴に着替える爽葉を尻目に、お梅は溜息をついた。
「美男子で通る、中性的な面で良かったな。女誑しの土方と原田さえ気付かんとは」
愉快愉快、と芹沢は酒を満足そうに嘗めた。
「じゃ、僕は行くよ。お梅、ありがとう」
「ええんよ。お腹は冷やさんようにな」
「うん」
爽葉は、彼女から貰った湯文字や蹴出が一式入った蓬色の風呂敷をちょいと掲げて、部屋を出て行った。
「芹沢はんとの子供ができたみたいやなぁ」
「あんなじゃじゃ馬娘なんぞお断りだ。儂とお前の子ならもっと淑やかに育っておる」
あら、と彼女が目尻を下げれば艶が出る。口許の黒子が誘惑していた。芹沢は紅の乗った唇に、強引に自分のそれを重ねる。お梅はゆっくりと瞼を閉じ、愛に溺れた。爽葉も、恋の一つでもすれば良い。剣にばかり夢中になっていないで、他にも楽しみを見つければ良い。化粧を施した上に紅を塗り、髪を結って簪を差し、着物を重ね着して、香を炊けば良い。
「うちは手のかかる子がええな」
「変わり者だな」
「そんなん、とっくのとうに知ってはるやろ」
芹沢とお梅の姿が一つの濃い影となった。
腰に差した刀が重かった。こんな事今までにない。夕暮れ時だからか、いつも相手している子供達はもう境内に居ない。ひとつの影が朱色に照らし出された地面にだらだらと伸びている。沖田はまた一つ、肺の底から深い息を吐き出した。先刻、近藤から怒られてしまった。歳上ばかりが集った組織で一番隊の隊長何ぞの大それた役職を担っているが、彼も未だ思春期の青年である。
連れて行けない。上洛する将軍護衛の話が持ち上がった当時、近藤に沖田はそう言われてしまった。剣の腕は良かったし、尊敬している近藤さんに着いて行かない訳がないと、半ば押しかけのように着いて来たが、実は今まで人は斬っても殺したことはなかった。それが醤油屋への御用改めを皮切りに、つい先日の相撲取りとの喧嘩の際にも、人を殺した。仲間が殴り殺されそうになっているところに割り込み、庇うように一太刀浴びせた。男は呆気なく事切れた。人はこんなにも簡単に死ぬのか、と思った程度であった。敵を倒した歓喜と、人の命を奪った焦燥、一人前の武士へと一歩進むことができた興奮と、己の手が遂に血に染まった動揺が織り混ざる。虚無感に近いこの不明瞭なやる瀬なさを何処に持って行けばいいのか、沖田は知らなかった。
「ねえ近藤さん!聞いてください!相手を殺りましたよ。俺ももう立派な武士の仲間入りですね!」
「総司、それは喜ぶべきことじゃない」
はしゃいで報告したものの、ぴしゃりと跳ね返されてしまった。振り返った彼の顔つきは鋭く、すぐに怒っていると分かった。何も言い返せず、一瞬立ち尽くした沖田はすぐに踵を返し、此処、壬生寺まで早足に出て来てしまったのだ。水気の多い緩い空気は、彼の気持ちを助長するかのように絡み付いてくる。
「はぁ」
「なんだその湿気た溜息は」
沖田の視界に小さな影が入り込んだ。顔を上げると、片手に饅頭を三つも抱えた少年が、怪訝そうに此方を見ている。欲張りな持ち方はとても彼らしい。
「どうしたんだ」
「いやぁ……」
二人で鐘楼の階段に腰掛け、ぽつりぽつりと沖田は話し始めた。一度打ち明けてしまえば、舌を重くしていた羞恥も失せ、堰を切ったように感情をぶちまけた。一通り聞き終えると、階下で体を捻るようにして沖田の方を向いていた爽葉は、むう、と頬を膨らませる。
「こんなお子ちゃまに試合で散々負けてるとか、僕の恥だからやめてくれない?」
「この話聞いて開口一番それなの?励ましてるつもり?」
沖田は苦笑いを浮かべる。
「大坂に行っている間少しだけ様子がおかしいと思っていたけど、そういうことだったのか」
「なんか、凄く呆気なくて、戸惑ってる。……のかもしれない。俺の腕なら当然なんだけどさ」
「さり気なく自慢を挟むな。まあ、わかるよ、一瞬なんだよな。呼吸と脈が消えて、瞳から色が無くなれば動かなくなって、肌が冷たく固くなって。それを見届けることもなく、次に迫り来る敵をまた斬るんだ」
沖田は、斜め下で頬杖をつく爽葉を見る。彼も、彼なりに思うところがあるのかもしれない。
「僕が初めて人を殺したのは七つの時。その時はまだ目が見えていて、あの光景は脳裏にこびりついているよ。嗚呼、こうやって人は命を落とすんだなって」
「七つ?少し早すぎない?」
「剣じゃなくて素手だったんだけどね」
「え、素手?」
「殺されかけたから殺した。死に物狂いだったから、どうやったのか全然記憶にない」
爽葉は、その場に落ちていた軽い石ころを投げて遊んでいる。零す言葉も、同様にして適当だ。何故殺されかけたのか、問うてしまっていいのか、沖田は逡巡する。それを察したのか、彼は内容にそぐわぬお気楽な笑い声をあげた。
「押し込みに襲われたんだ。僕は何とか生き残ったけれど、両親が殺された」
「そう、なのか……」
彼は想像以上に波瀾万丈な人生を送って来たのだ。この時代、特別あり得ない話ではないが、きっとそれは、思い出すのも苦しい過去だろう。彼は自ら心の傷を抉ってでも、沖田を励まそうとしてくれているのだ。
「僕は慣れてしまっていた。幾度斬っても、幾人殺しても、感覚が麻痺していて何も感じなかった。でも、それじゃいけないんだ。僕らは人の命を奪う重みを感じながら、人を斬って生きていかなきゃいけない。それが武士の運命なんだろうな」
「俺が殺した人の話を聞いた時、胸が締め付けられるように苦しかった」
「でもあの時、総司が助けなければ、仲間が一人死んでいた。僕が総司の立場でも同じ選択をしていた筈だ」
「やっと、慰めらしい台詞を聞けたね」
*月役…女の子の期間のこと
*湯文字、蹴出…月役の際、必要になる布当て
*うつって…似合って




