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誠眼の彼女 -Seigan no Kanojo-  作者: 南雲 燦
壱の幕
18/58

起首

 尚も眉間に皺を寄せたままの土方の様子を見て、「やだわぁ」と彼女は土方の胸元を、指先で可愛らしくつついた。


「覚えてあらへんの? うちは、いち、や」

「おいち……? あぁ、長田屋の」


 記憶を手繰るように引っ張り出した土方に、彼女は嬉しそうに飛びついた。その弾みで、完全に爽葉の手は振り払われ、行き場を失う。いつもは堂々と文句を付ける筈なのに、今は苛立ちよりも寂しさや不安が募って、爽葉は無言で俯いた。どうすればいいのか分からなかった。

 土方はこういうことに馴れているようで、彼女の振り撒く愛想を物ともせず、彼女から身体を離す。それも、爽葉にするような行為ではなく、女に対する扱いそのもので。爽葉の胸に巣喰ったやり場のない気持ちが加速する。爽葉は足のつま先で、足元の土をぐりぐりと抉った。


「なあ、これから時間あらへん? 美味しいお店知っとるんよ?」


 彼女が土方の着流しの襟元を軽く握れば。爽葉は包帯の下で、目つきを険を孕ませ、鋭利なものへと変えた。

 彼女がその甘ったるい香を土方の着流しに擦り付けるように寄り添えば。爽葉の掌が自然と拳を作った。


「その怖い子は土方はんの知り合いなん? ちょっと不気味やわぁ」

「おいち、俺は用があるんだ。失礼するぜ」


 身を遠ざける土方にしつこく言い寄る彼女は、袖にされても尚諦めの悪いことに攻撃の照準を爽葉へと向けた。


「そない気持ちの悪い子と歩くより、うちと歩く方がええんとちゃいます? 土方はんの見栄えも悪くなるだけやで」

「はあ?」

「目の病なのか知らへんけど、感染ると困るんや。浪士組の方々に迷惑かける前に、琵琶法師にでもなったらええ」


 もう耐えきれないとばかりに、爽葉はぐいと顔を持ち上げて悪態を吐こうと口を開いた。その時、肩を押され、ぐらんと地面が揺れた。体勢を立て直すこともままならず、過ぎる恐怖を押し殺して口を一文字に結ぶ。

 斬り合い時でも、殺気だった輩と対峙した時でも、ましてや危険人物と接触した時でもない。こんな場面で攻撃されるなどなかったから、油断していたのだ。

 これから落ちる場所に石がなきゃ良いな、と最早そんなことを呑気に考えている間にも、身体は傾ぐ。その時、ピンッと痛いほどの緊張が走った。紛れもない、彼の発するものだ。


「てめえ、何しやがる」


 それは低く這うような、恐ろしい声。そして、爽葉は一気に彼の香りに包まれた。地面に引っ張られていただけの身体は、その勢いに逆らい、強い力で抱き込まれていた。土方も焦ってくれたのだろうか、爽葉の肩を掴む力の加減が出来ていない。でも、その少しの肩の痛さが、何故か自分は嬉しかったみたいだと、爽葉ははたと気付いた。


「な、なんで……」


 土方に拒絶された事実が受け入れられないのか、おいちの声は震えている。


「なぁ、その子なんて放って……」

「失せろ」


 それはとても静かで、そして何人たりとも抗うことはできぬ命令。おいちは、目の前の鬼の形相をした男の逆鱗に触れたことを悟る。おいちを突き飛ばす勢いでその身を離し、青年を支えに走った土方の睥睨に、一歩たりとも動けなくなった。今まで向けられてきた視線とは明らかに異なる、凍てついた視線。背筋に悪寒すら走り、彼女は図らずも戦慄いた。


「お前に用はない。去れっつってんだろが」


 一度、恐怖にすくんだその足を引けば、彼女は一目散に走り去って行った。

 ちっ、と土方が吐き捨てたのは、いつもよりも苛立ちを含んだ舌打ち。


「トシ……ありがとう」


 爽葉は彼に抱き締められたまま、顔を胸に埋めて礼を言った。


「お前も、ちったぁ警戒しとけ。俺がいなかったら頭打ってたぜ」

「うるさい。殺気がない攻撃は苦手なんだ」

「んだよ、助けてもらっといてその言い草は」


 土方は彼に回していた手を離し、懐手する。そして、いつものように爽葉の頭を叩こうとして、彼を見下ろして気付いた。埋めた顔はまだ上げず、彼の手はめいいっぱい伸ばされて、未だ土方にしがみついている。くす、と聞こえないほど柔らかな微笑をもらし、土方の大きな掌は彼の頭に優しく乗せられた。


「しょうがねえな。団子、食わせてやるよ」


 うん、と大人しく頷いた爽葉を見て、また土方はまた微笑を零すのであった。






 その頃。山南は一人で散歩をしていた。京都の街中を流れる川沿いの道を、ゆったりとした歩調で歩く。人で溢れる街並みから一本外れたその道は、時の流れも緩やかだ。

 山南は歩いては暫し止まり、ぼんやりと草花を愛で、鳥の囀りを聞いた。しかし、いつもの穏やかな表情の顔に反して、眉は少し下がり気味。脳内を巡る思索が、彼の表情をそんな風に変えているのだ。細い線で丁寧に描いたような、綺麗で柔和な顔立ちは憂いを帯びて、儚くも思える。

 彼の下駄が道端の石を蹴った。その石ころは、軽い音を立てて転がり、池に落ちる。その行方を目で追って、視線が行き着いた揺れる水面に何か赤い影が横切った。つ、と顔を上げると、対岸を駆けて行く女の姿。髪や着物の裾が乱れるのも気にせず、必死に足を動かしている。その時、数人の男達がわらわらと彼女を追いかけるように、曲がり角から姿を現した。喚き散らす彼等を少し振り返り、顔から血の気を引かせてひた走る彼女。

 気付いた時には、山南の姿は既に其処に居なかった。対岸へと渡れる橋は遠すぎると判断した途端、着流しが濡れるのも構わず川をジャバジャバと渡った。驚く彼女など気に留めず、山南は彼女の腕を引っ張って自分の背中に隠すように庇い立った。

 追いついた男達は、背の高い山南の圧に、一瞬たじろぐも、きつく睨みを利かせる。


「てめえ、どこのもんだ。そいつを渡して貰おう」

「怯えているではありませんか。嫌がる女性を無理矢理捕まえるなど、得心が行きませんね」


 両袖に手を入れ、にこりと穏やかに微笑む姿に逆上し、彼等は鯉口を切ろうと手を刀に添えた。それに反して、更に山南の表情は柔くなる。

 女は彼の背後で自分の赤い着物の袖を掴み、不安げに瞳を揺らした。


「おや、刀を抜くのですか。ご自身の力量を踏まえて再考した方が、身の為ですよ」

「おのれ……」


 余裕の表情を浮かべる山南に一人が斬りかかった。ぐえっ、と潰れた蛙のような呻き声をあげて、呆気なくその男は地に潰れ伏した。

 それを見下すのは、優しい表情のままの山南。両手は未だ袖の中だ。


「だから忠告して差し上げたのに。今ならまだ、見逃してあげますよ」


 目が細くなり、茶色の長髪を揺らして首を少し傾げるその姿は綺麗でありながらも、背筋が凍るような寒気を這い上がらせた。脆く儚げな印象とは異なり、彼の圧力は巨漢をも凌ぎそうな程。それに負けじと立ち上がろうとした男は、足先だけであしらわれて、また潰れる。


「行きなさい」


 山南の一睨みを見た三人は、ひっ、と情けない声だけ残して逃げていった。その背中を見送って、山南はゆるりと振り返る。


「ありがとうございました」


 赤い着物の女は、深々と山南に向かってお辞儀する。顔を上げた彼女の顔を見て、山南は小さく息を飲んだ。可愛らしい顔で、ふっくらとした唇が特徴的な女性だった。走った後だからか、少し頬が火照っている。


「あぁ、お着物も濡らしてしもうて……。何かお礼を……」


 あたふたと、持っていた紺色の風呂敷の中を探る彼女に、いえ、と山南は首を横に振った。


「何もいりませんよ」


 でも、と片手を風呂敷に突っ込んだまま困り顔をする彼女に、山南は優しく微笑みかけた。さすがは浪士組の仏と言わしめるだけあって、そのにこやかな笑みは穏やかで心解ほぐれる柔さ。


「男として当然のことをしたまで。貴女がお気になさることではありません」


 彼をぽかんとした表情で見上げていた彼女は、更に頬を染めると、またしても深く腰を折った。


「うちは明里あけさと、言います。お助け頂いたこのご恩、忘れません。……あの、お名前を伺っても?」

「山南敬介です」


 敬介様、と小さく口にしてにこりと笑い、彼女は元来た道に体を向けた。彼女の黒髪に挿す、朱色の簪がシャラリと光を反射し、散りばめる。淑やかな、気品溢れる女性だ。顔だけを山南へと向け、大人びた雰囲気からは想像もつかない程あどけない笑顔を送られる。


「ほんまにありがとうございました。ほな。また、何処かで」


 会釈を最後に、下駄を鳴らしながら彼女は姿を消した。彼女の姿が完全に見えなくなるまで見送って、山南は口許を緩める。美しい女子だ。しかし、男共に追われていたことや、彼女の醸す色艶のある空気には町娘と推測するには違和感を否めない。しかし、山南が幾らお節介な男だとしても、会ったばかりの彼女にしてやれることは何も無かった。

 山南もくるりと彼女の去った方に背を向けて、再び歩き出す。風が濡れた着物の裾を冷やし、歩くたび脚に纏わりつくが、彼は全く気にしていなかった。それどころか、濡れた裾がやけに暖かいと思えるほどであった。道を歩いても、目に入ってくるのは、彼女の印象を与える朱色のものばかり。それは子供の風車だったり、池の鯉だったり。先程までの憂鬱が晴れたかのように、彼はすっかり上機嫌であった。新たな出会いに、喜びを感じて。






 時が流れるのは早いもので、もう神無月。壬生浪士組もあれよあれよと言う間に幾分か大所帯の組織になった。しかし、隊内の雰囲気は意外にも落ち着いていて、今までと特に変わりはない。

 この頃にはすっかり、爽葉は巡察が大好きになっていた。街に出られるからという単純な理由からである。しかも、集団で歩くので心配も少なく、好奇心の魔物にとっては至上の楽しみの一つなのだ。「巡察、巡察」と唄うように連呼して、浮かれながら井戸の側に立ち、首筋を伝う汗を流している。彼の隣には、彼同様汗で長髪を濡らした沖田が袴の合わせを剥いで、その鍛え抜かれた上半身を外気に晒していた。

 桶を持って頭から水を被ると、その色素の薄い茶の髪は水気を孕み、艶を増す。大きな筋肉で固められた白く張りのある肌の上を、すーっと水滴が流れていった。


「二試合目のあの小手、良い角度だったね」

「うん、あれは僕も思った。でもなぁ、七回目の試合の、上段からの斬り込みはあんまり上手くいかなかったな」

「まあ欲を言えばって程度ですけど。あと寸分踏み込んで打つべきだね。俺も五試合目で踏み込みが足りずに失速した突きがあったし、直さないと」

「うう……。やっぱり気付いてたか。体重が乗らないと一気に威力が落ちるもんな」


 沖田と爽葉は休憩の片手間、試合に関する会話をぽんぽんと何気なく交わす。目の見えない爽葉の手伝いを、すかさずこなす沖田の所作も板についてきた。

 稽古へ向かう間、試合の合間の休憩時間、終わった後の水浴びの最中、二人はいつも楽しそうに剣術のことを語り合っている。密かに他の隊士達から戦馬鹿呼ばわりされていても、文句は言えまい。実際、そうなのだから。

 しかし、そんなことが噂されていると気付かれれば、沖田の稽古でのしごきが何割り増しかにもなることは確実なので、当人達には誰も言うはずがないのであった。


「んー、握りが甘いのかな」

「いやぁ、おチビの攻撃の仕方を考えると今ので丁度いいですよ。あれは体の捻りじゃない?」

「重心位置の問題かも。もう少し溜めを作ったら効果的か」

「確かに。それか、最初の踏切を若干遅らせるか……」


 基本的に誰も、二人の会話に口を挟まない。挟むとすれば。


「爽葉、総司。丁度良い。来い」


 芹沢ぐらい。高圧的な口ぶりで二人を呼びつけ、有無さえ言わせずに彼は背を向けて去って行く。


「なんだ、あれ」

「なんでしょうね」


 二人でこそこそ言い合いながらも、仕方なく彼の大きな背中を追った。彼の行った先には、以前出会ったことのある奴が待っていた。彼は、確か。


「新見」


 芹沢といつも行動を共にする、芹沢の右腕的存在を担う男だ。爽葉にとって、正直彼はどうでもいい存在、興味の湧かない対象だった。彼は随分と偉そうな口ぶりで、仕事だから付いて来いとだけ言って芹沢の元へと戻っていく。そのまま芹沢をはじめとした数人の水戸一派に続いて、爽葉と沖田が付いていくという変な組み合わせで屯所を後にし、街を歩いた。

 沖田や斎藤は爽葉同様、彼のお気に入りだ。しかし、面倒なことに巻き込まれるのは御免だと、沖田は堂々と愚痴を零している。通りの曲がり角に来た時、隊の行進が止まり、ぼけっとしていた爽葉の襟首を、沖田が咄嗟に掴んで止めた。


「この向こうに蔵が見えると思うが、あそこに武器を秘密裏に保管しているという情報が入った」


 ってな訳で、と芹沢は折り畳んだ鉄扇の先で、屋敷の奥に佇む背の高い蔵を指す。


「行ってこい。斎藤は残れ。あとは武器の回収と長州の輩の捕縛だ」


 ちょっと楽しそう、と爽葉は沖田と他二人と共に、蔵の方へと歩みを進めた。芹沢と新見は外に残るようだ。


「なんか、使いっ走りさせられてますけど。……どうする?」

「やりませんってのはもう無理だろうな。各々客を装うのが一番早いかな」

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