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誠眼の彼女 -Seigan no Kanojo-  作者: 南雲 燦
壱の幕
12/58

朋友

 土方は指先で煙管キセル羅宇らうを挟み、口から紫煙を吐き出す。それは実に寛雅かんがな所作であった。


「てめえはてめえの仕事をしたまでだ」


 爽葉は思わず緩んだ口許を引き締めようとした。ギリ、と奥歯が擦れた音をたてる。

 畜生ちくしょう──。

 わざとらしく膨らませた頰はしぼみ、への字を描いていた口角が自然と上を向いていくのが、自分でも分かった。


「得体の知れねえ野郎を、屯所内で野放しにするほど馬鹿じゃねえさ。山崎にお前を見張らせていた。ま、目の事情を話したところで、疑いは晴れていなかった訳だが、」


 それでも爽葉のにやけ面は変わらない。


「……なあ」


 黙っていた爽葉が突然、土方が喋るのを遮って静かに声を洩らしたので、土方は視線だけを彼に向けた。

 二重の瞳は隠れているが、綺麗な顎の線、大きめの口と艶やかで赤い唇、ふっくらとした緩い曲線の頰。男にしては随分愛らしい顔付きである。女のように可愛い顔をしていると、浪士組内で噂になるのも致し方ない。


「……れないか?」

「ん?」


 いつも五月蝿うるさい爽葉がだんまりとして、やっと口を開いたかと思えば、ぽつりぽつりと小さな声で呟くものだから、土方は不審がって片眉を上げる。


「触れさせて、くれないか」


 その言葉に、土方は思わず目を見開いて爽葉を見下ろす。


「触れる?」

「うん」


 土方の脳裏に、りし日の兄の行動が過った。忙しない日々に、めっきり思い出さなくなっていた、故郷多摩(たま)の記憶。

 土方より二十三も歳上で、兄弟の中で一番上の兄だった為次郎ためじろうも、病気を患って目が見えなくなってしまった。土方は彼の身の回りの世話をよくしていた。奉公を辞めて転がり込んだ、姉ノブの嫁ぎ先の日野郷総の名主、佐藤さとう彦五郎ひこごろうの屋敷に、彼と共に居候していた為だ。

 為次郎も、出会った人の顔やら身体やらを触って、外見を把握することがあった。相手について知りたい時、より多くの情報を得るのに有効な手段のようである。


「いいぜ」

「いいのか……?」


 自分で頼んでおいて驚く爽葉の反応に、土方は思わず苦笑を洩らした。


「ほら」


 煙草の灰を灰吹はいふきへ落とすと、土方は爽葉の方に向き直った。

 う、と何故か緊張しながら、爽葉の小さな手がゆっくりと慎重に、土方のあわせへと伸ばされる。

 白く細い指先が、とん、と黒い着流しに控えめに触れた。そこから流れるように、胡座をかいた膝を辿る。そして、筋肉質な太腿の上を滑って腰へと向かう。二人の間に降りる沈黙は、至極穏やかであった。


 爽葉はごくりと唾を飲み込んだ。

 少し触れただけで分かる。未だ手合わせをしたことはないが、この男、確実に強い。

 外見を把握する為だとは言え、輪郭をなぞりながら頭の片隅でそう考えてしまうのは、剣士のさがである。

 ゆっくり、腹から胸へと手を滑らせる。がっしりとした胴回り、分厚い胸板、張りのある筋肉。天からの恵みと努力の結晶だ。


「ちっ。良い体格しやがって。こんなん狡いぞ」

「お前の細っこい身体に比べたら、誰もがでけえよ」


 男らしく逞しい胸筋は固く割れ、肩はがっちりと盛り上がっている。着流しの襟元から覗く肌に触れた瞬間、土方から爽葉の指が離れた。それをさせまいと、縮こまった爽葉の手を掴んで、土方は己の胸元に再び導く。


「まだ、だろ」

「ひっ、久し振りなんだ、人をこうやって触るの。仕方ないだろ!」

「……へぇ。久し振りの相手が俺ねぇ」

「笑うな!」


 意を決した爽葉は膝立ちの前傾姿勢になって、てのひらを土方の太い首へと伸ばす。そして、腕へと滑らかに沿わせた。無駄な脂肪が一切無く、隆々として太い。手はゴツゴツとして、骨張っていて、大きい。体中を縦横無尽に走る幾多の傷痕は、いつどこで付けたものなのだろうか。

 爽葉は吸い寄せられるかのように、土方の目の前まで近寄った。吐息が触れ合う。相手の温度が、伝わってしまう距離。


「目と口、閉じて」


 暖まった両掌で、土方の頬を優しく包みこむ。綺麗な顔の輪郭を縁取ってから、親指で薄い唇を縫い、よく通った鼻筋を撫でる。長い睫毛、切れ長の、閉じられた瞳の上、少し狭い額。整った端正な顔立ちに反して、その眉はキリリとしてやや強情なようだ。

 土方の息が、優しく爽葉の手首に当たった。近い。


「トシの髪は、黒か」


抱き込むように、両手を後頭部へと回す。ふわりと、煙草の香りがする。

長い髪は艶やかで指通りが良い。頭の後ろで結ばれ、腰へと流れていた。


「ああ」


 その返答に、満足げに爽葉は笑った。

 彼の雰囲気には、何をも塗り潰す黒がよく似合った。深く甘い黒の色味は、強く鋭く刺々しくてどこか危うげで、他の何の色にも染まらないのに、他の様々な色が混ざり合うことで出来ている。良い色だ。心が落ち着く、そんな色だ。


「瞳の色は」

「黒」


 火鉢の燈と行燈の淡い光が、一つになった影を畳に幾重いくえにも重ねていた。

 爽葉の頭の中で、土方歳三という男の姿が徐々に構築されてゆく。細部まで丁寧に思い描き出し、その上から鴉の如く艶やかな黒を塗って、ついでに想像上の彼の憎たらしい笑いをのせた。


「おい、何を笑ってやがる」


 土方の不機嫌な声が耳に届く。爽葉の頭の中の幻影も、一緒になって眉を顰めて不機嫌な表情かおをする。勿論のこと、爽葉の想像上での話だ。


「トシの偏屈な笑顔も想像してみたら、面白かった」

「てめえ、人で遊ぶんじゃねえ」


 土方は嫌そうに、ちっと舌打ちを鳴らす。それでも、触れる爽葉の手を払ったりはしなかった。二巡三巡と、何度も彼の輪郭を行き交えば、より鮮明な姿が浮き上がる。濡れた色気、幽冥ゆうめいなる趣深さ、鮮やかなほどの力強さ。触れる度、彼の新しい一面が見えてくる。


 何者かが近付いてくる足音がした。音と振動を拾って、爽葉はハッと焦りを滲ませる。土方との距離は、僅かな隙間のみ。土方の肩を押すようにして、爽葉は素早く身を起こした。


「おーい、夕餉の準備出来たって……へぶっ!」


 次の瞬間には、廊下に押し倒された藤堂とその彼を潰す襖、更にその上には爽葉、という構図が出来上がっていた。


「爽葉、苦しい……」


 爽葉は藤堂の腹を踏んで立ち上がり、上から飛び降りると、苦しむ本人などお構い無しに、


 「じゃあな!」


 と廊下を駆けていく。


「お前等、襖を壊すんじゃねえよ! 平助、てめえは逃げるなよ。おいチビ助! 着替えろっつってんだろ!」

「ひでえ! 俺二人を呼びに来ただけなんだけど!」


 廊下に潰れたままの姿勢で嘆く藤堂の視界から、爽葉は脱兎だっとの如く、あっという間に姿を消したのであった。






「ほんま、向こうは賑やかですなぁ」


 トクトク、と女の酌で、赤い漆塗りの椀に白濁の酒が注がれた。波紋の広がるその水面みなもは、よく晴れた夜空の月を落とし込む。甘い芳香を放つ細かなさざなみが、月姿を打ち消した。男は勢い良く酒を飲み干す。

 片端を釣り上げた口許は、如何にも面白がっている様子であった。一癖ありそうな厚めの唇が暗闇の中で濡れ、目尻に数本の皺を寄せる。眇められたその眼光はひどく鋭く、男のたちがありありと滲み出ていた。

 そしてまた男が無言で二杯目を要求すれば、彼に寄り添う女は静かに酒を継ぎ足すのだった。


「なんでも、新しい隊士が入隊したやらなんとか。腕の立つお方らしいやないですか」


 くすりと小さな艶笑いの添えた女の言葉に、男は鷹揚に頷いて、また酒を豪快にあおった。


「そらぁ見てみねぇとな。楽しませてくれる輩だといいが」


 小馬鹿にしたような色合いを深め、男は手に持った鈍い色の扇子を扇ぐ。熱を帯びた空気が、ゆらりと動く。

 隣の女は豊麗な仕草で、目尻を緩め、


「まぁた、そんなこと言いはるんですから」


 と微笑んだ。

 窓から降り注ぐ光が酒の匂いと混じり、彼等の着物を執拗に濡らしていた。




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