朋友
土方は指先で煙管の羅宇を挟み、口から紫煙を吐き出す。それは実に寛雅な所作であった。
「てめえはてめえの仕事をしたまでだ」
爽葉は思わず緩んだ口許を引き締めようとした。ギリ、と奥歯が擦れた音をたてる。
畜生──。
わざとらしく膨らませた頰は萎み、への字を描いていた口角が自然と上を向いていくのが、自分でも分かった。
「得体の知れねえ野郎を、屯所内で野放しにするほど馬鹿じゃねえさ。山崎にお前を見張らせていた。ま、目の事情を話したところで、疑いは晴れていなかった訳だが、」
それでも爽葉のにやけ面は変わらない。
「……なあ」
黙っていた爽葉が突然、土方が喋るのを遮って静かに声を洩らしたので、土方は視線だけを彼に向けた。
二重の瞳は隠れているが、綺麗な顎の線、大きめの口と艶やかで赤い唇、ふっくらとした緩い曲線の頰。男にしては随分愛らしい顔付きである。女のように可愛い顔をしていると、浪士組内で噂になるのも致し方ない。
「……れないか?」
「ん?」
いつも五月蝿い爽葉がだんまりとして、やっと口を開いたかと思えば、ぽつりぽつりと小さな声で呟くものだから、土方は不審がって片眉を上げる。
「触れさせて、くれないか」
その言葉に、土方は思わず目を見開いて爽葉を見下ろす。
「触れる?」
「うん」
土方の脳裏に、在りし日の兄の行動が過った。忙しない日々に、めっきり思い出さなくなっていた、故郷多摩の記憶。
土方より二十三も歳上で、兄弟の中で一番上の兄だった為次郎も、病気を患って目が見えなくなってしまった。土方は彼の身の回りの世話をよくしていた。奉公を辞めて転がり込んだ、姉ノブの嫁ぎ先の日野郷総の名主、佐藤彦五郎の屋敷に、彼と共に居候していた為だ。
為次郎も、出会った人の顔やら身体やらを触って、外見を把握することがあった。相手について知りたい時、より多くの情報を得るのに有効な手段のようである。
「いいぜ」
「いいのか……?」
自分で頼んでおいて驚く爽葉の反応に、土方は思わず苦笑を洩らした。
「ほら」
煙草の灰を灰吹へ落とすと、土方は爽葉の方に向き直った。
う、と何故か緊張しながら、爽葉の小さな手がゆっくりと慎重に、土方の袷へと伸ばされる。
白く細い指先が、とん、と黒い着流しに控えめに触れた。そこから流れるように、胡座をかいた膝を辿る。そして、筋肉質な太腿の上を滑って腰へと向かう。二人の間に降りる沈黙は、至極穏やかであった。
爽葉はごくりと唾を飲み込んだ。
少し触れただけで分かる。未だ手合わせをしたことはないが、この男、確実に強い。
外見を把握する為だとは言え、輪郭をなぞりながら頭の片隅でそう考えてしまうのは、剣士の性である。
ゆっくり、腹から胸へと手を滑らせる。がっしりとした胴回り、分厚い胸板、張りのある筋肉。天からの恵みと努力の結晶だ。
「ちっ。良い体格しやがって。こんなん狡いぞ」
「お前の細っこい身体に比べたら、誰もがでけえよ」
男らしく逞しい胸筋は固く割れ、肩はがっちりと盛り上がっている。着流しの襟元から覗く肌に触れた瞬間、土方から爽葉の指が離れた。それをさせまいと、縮こまった爽葉の手を掴んで、土方は己の胸元に再び導く。
「まだ、だろ」
「ひっ、久し振りなんだ、人をこうやって触るの。仕方ないだろ!」
「……へぇ。久し振りの相手が俺ねぇ」
「笑うな!」
意を決した爽葉は膝立ちの前傾姿勢になって、掌を土方の太い首へと伸ばす。そして、腕へと滑らかに沿わせた。無駄な脂肪が一切無く、隆々として太い。手はゴツゴツとして、骨張っていて、大きい。体中を縦横無尽に走る幾多の傷痕は、いつどこで付けたものなのだろうか。
爽葉は吸い寄せられるかのように、土方の目の前まで近寄った。吐息が触れ合う。相手の温度が、伝わってしまう距離。
「目と口、閉じて」
暖まった両掌で、土方の頬を優しく包みこむ。綺麗な顔の輪郭を縁取ってから、親指で薄い唇を縫い、よく通った鼻筋を撫でる。長い睫毛、切れ長の、閉じられた瞳の上、少し狭い額。整った端正な顔立ちに反して、その眉はキリリとしてやや強情なようだ。
土方の息が、優しく爽葉の手首に当たった。近い。
「トシの髪は、黒か」
抱き込むように、両手を後頭部へと回す。ふわりと、煙草の香りがする。
長い髪は艶やかで指通りが良い。頭の後ろで結ばれ、腰へと流れていた。
「ああ」
その返答に、満足げに爽葉は笑った。
彼の雰囲気には、何をも塗り潰す黒がよく似合った。深く甘い黒の色味は、強く鋭く刺々しくてどこか危うげで、他の何の色にも染まらないのに、他の様々な色が混ざり合うことで出来ている。良い色だ。心が落ち着く、そんな色だ。
「瞳の色は」
「黒」
火鉢の燈と行燈の淡い光が、一つになった影を畳に幾重にも重ねていた。
爽葉の頭の中で、土方歳三という男の姿が徐々に構築されてゆく。細部まで丁寧に思い描き出し、その上から鴉の如く艶やかな黒を塗って、ついでに想像上の彼の憎たらしい笑いをのせた。
「おい、何を笑ってやがる」
土方の不機嫌な声が耳に届く。爽葉の頭の中の幻影も、一緒になって眉を顰めて不機嫌な表情をする。勿論のこと、爽葉の想像上での話だ。
「トシの偏屈な笑顔も想像してみたら、面白かった」
「てめえ、人で遊ぶんじゃねえ」
土方は嫌そうに、ちっと舌打ちを鳴らす。それでも、触れる爽葉の手を払ったりはしなかった。二巡三巡と、何度も彼の輪郭を行き交えば、より鮮明な姿が浮き上がる。濡れた色気、幽冥なる趣深さ、鮮やかなほどの力強さ。触れる度、彼の新しい一面が見えてくる。
何者かが近付いてくる足音がした。音と振動を拾って、爽葉はハッと焦りを滲ませる。土方との距離は、僅かな隙間のみ。土方の肩を押すようにして、爽葉は素早く身を起こした。
「おーい、夕餉の準備出来たって……へぶっ!」
次の瞬間には、廊下に押し倒された藤堂とその彼を潰す襖、更にその上には爽葉、という構図が出来上がっていた。
「爽葉、苦しい……」
爽葉は藤堂の腹を踏んで立ち上がり、上から飛び降りると、苦しむ本人などお構い無しに、
「じゃあな!」
と廊下を駆けていく。
「お前等、襖を壊すんじゃねえよ! 平助、てめえは逃げるなよ。おいチビ助! 着替えろっつってんだろ!」
「ひでえ! 俺二人を呼びに来ただけなんだけど!」
廊下に潰れたままの姿勢で嘆く藤堂の視界から、爽葉は脱兎の如く、あっという間に姿を消したのであった。
「ほんま、向こうは賑やかですなぁ」
トクトク、と女の酌で、赤い漆塗りの椀に白濁の酒が注がれた。波紋の広がるその水面は、よく晴れた夜空の月を落とし込む。甘い芳香を放つ細かな漣が、月姿を打ち消した。男は勢い良く酒を飲み干す。
片端を釣り上げた口許は、如何にも面白がっている様子であった。一癖ありそうな厚めの唇が暗闇の中で濡れ、目尻に数本の皺を寄せる。眇められたその眼光はひどく鋭く、男の質がありありと滲み出ていた。
そしてまた男が無言で二杯目を要求すれば、彼に寄り添う女は静かに酒を継ぎ足すのだった。
「なんでも、新しい隊士が入隊したやらなんとか。腕の立つお方らしいやないですか」
くすりと小さな艶笑いの添えた女の言葉に、男は鷹揚に頷いて、また酒を豪快に呷った。
「そらぁ見てみねぇとな。楽しませてくれる輩だといいが」
小馬鹿にしたような色合いを深め、男は手に持った鈍い色の扇子を扇ぐ。熱を帯びた空気が、ゆらりと動く。
隣の女は豊麗な仕草で、目尻を緩め、
「まぁた、そんなこと言いはるんですから」
と微笑んだ。
窓から降り注ぐ光が酒の匂いと混じり、彼等の着物を執拗に濡らしていた。