朋友
土方には兄がいた。盲目の兄だ。土方家はお大尽と呼ばれる多摩の豪農で、その十人兄弟の長男がその兄だった。生まれつき盲目だった為家督は継げなかったが、そのことについて悔やんだり惜しく思たりする人ではなく、家督を次男からその子供へと継がせる為の中継ぎまで買って出るという優しい気性。末っ子で、暴れん坊として巷でちょっとばかし有名だった土方のことも、とても可愛がってくれていた。周りの人は土方を腫れ物のように怖がっていたが、彼にはただの世話のやける弟だったようだ。加えて言えば、彼は豪快な気性も併せ持っていて、目が自由だったなら決して畳の上では死なないと常々豪語していた程だ。
しかし、彼は既に畳から離れているようだ、と土方は目の前の小さな彼に視線を送った。匂いを存分に嗅ぎ終えた彼は、壁に手を這わし、ゆっくりと歩いて形状を確認している。土方は少し気になって、その背中に声をかけた。
「此処の匂いってのは、どんなだ」
爽葉は両腕を広げて幅を測るように歩きながら、んー、と唸って、ゆったりと口を開く。少し肌寒い空気の中、舞い込む光が埃の断片を煌めかせ、暖かく爽葉の身体を照らしては、穏やかに包み込むその様は、捉えどころが無い。ぽん、と文字を一つ生み出しそうな形を描いた淡い梅色の唇が、柔らかく横に引っ張られた。
「西日を浴びて痩けた木の香り、だな。空気には少し湿気があって、滑らかな艶がある」
爽葉の感性は難い。よく分からないが、面白い、と土方は口角を上げた。
「他とは違うのか」
「全然違う」
爽葉は嬉しそうに、そして楽しそうに話す。畳を踏む足が小さく踊る。
「屯所の東側は、朝日を浴びた爽やかで柔らかい香りがするんだ。中側の部屋は少し重い。風も来にくいから、ちょっと香りが鈍いし。でも不思議とそんなに苦しい匂いじゃないんだ。人が住んでる部屋は、もっと分かりやすいぞ」
「へえ」と、相槌を打って話の続きを催促し、土方は目を細めた。着崩した黒い着流しの合わされた襟元からは否応無しに色気が漂い、仄暗いの廊下では、昼間を思わせない艶やかさを纏う。
「そこに住まう人の空気が留まるからな。匂いだけじゃない、畳の擦り減り具合だとか、片付きようとか、そういうところにも性格が出るものだ」
爽葉が徐に動きを止めて振り返れば、そこに、彼を感じた。
きっと聞く気のない素振りで誤魔化しているんだろうが、残念だったな、トシ。僕は盲目だ。
「息遣いとか、鼓動とか。何かしらを発している。居るだけで空間に余波を生み、僕にその存在を主張してくれる。……結局、生きているものが良いってことさ」
だから、モノが怖い。怖いのに、その気持ちを見なかったことにして奥にしまいこんで、蓋をして、生きているものから、またモノを生み出していくのだ。矛盾した僕は。
「人も、そうやって嗅ぎ分けてるのか」
「うん。所作の音とかで、聴き分けたりもするけど。人によって所作に癖があるからな。体重で床が鳴る音とか、視線の角度とかも、意外と分かりやすいんだ」
「俺は?」
眉をぴくりとさせて、爽葉が聞き返せば、土方は笑いの混じった揶揄いの声で再度言う。
「俺の匂いは、どんなだ」
絶対に、彼は意地悪な笑みを口許に湛えて、その瞳をニヤつかせているのだろう。腹立たしいことだ。
土方の匂いは、独特だった。
纏うものと内から吐き出されるものが異なっていて、不可解な程に歪で、混沌として複雑で、驚く程難解。でも。
その先は口が裂けても言いたくないし、言ったところで己の矜持が許さなかったので、爽葉はふいっと彼から顔を背けた。無言でまた廊下の形状を探り始めれば、不機嫌な様子で彼が、「おい」と声を上げる。
「うるさいなぁ」
爽葉は彼同様ご機嫌斜めになって振り返った。
「加齢臭だよ!」
「んな訳ねえだろが!」
爽葉の絶叫が屯所に響き渡った。
鼠。という一言の小さな呟きを拾って、彼はにっこりと目尻を緩め、笑って頷いた。
「山崎烝だ。よろしく」
もう陽がすっかり沈んで、ひゅるひゅると耳元で音を立てて吹く、冷たい風が自然と体を縮こまらせる宵。爽葉は屯所の屋根の上で、空を仰いでいた。そこにやって来たのが、山崎であった。爽葉が身動ぎした拍子に、瓦の上をカラカラと砂利が転がっては砕けて割れて、落ちて行った。彼は爽葉から少し間隔を空けて腰を下ろし、懐から取り出した小さな包みから握り飯を取り出して、食べ始める。梅干しの香りと、無言の時間が流れていた。その沈黙を先に破ったのは、山崎の方であった。
「……俺が、怖いか」
山崎は穏やかに、そして極めて軽く尋ねる。
「怖い」
爽葉が素直に答えれば、そうか、と笑いの混じった返答。ただそれだけ。
山崎の気配はとても薄く、ほぼ無と言っても過言ではない。足音も、作り出す空気の流れさえも、淡く小さい。だから、爽葉が山崎を捉える十分な要素が足りないのだ。きっと、本当に敏腕なのだろう。彼を例えるならば、無駄なく研ぎ澄まされた名刀。鞘や鍔、柄巻さえ無い、洗練された刀剣を思わせる。でも、心のうちでは山崎への興味が沸々と湧いていて、爽葉は二人の間を埋めていた空間をぐっと詰めて、座り直した。
「怖いけど、怖がりたくない」
大真面目にそう付け足した少年の意図を図りかねて、山崎は怪訝な表情で隣に来た爽葉の顔を、じっと見つめた。
よろしくな烝、と明後日の方向とまではいかないが、やや見当違いな方向にニカリと明朗な笑顔を向ける爽葉の頭を、山崎はがっちりと両手で掴んで自分の方に向けさせる。
「こっちだ」
意外にも明るい山崎の笑い声を聞いて、益々興味の湧いた爽葉は、更に身体を近付ける。身を引こうとした山崎の服を掴んで、香りを嗅いだ。びっくりしていた山崎も、ぎこちない仕草ではありながら、爽葉を好きにさせたまま、握り飯をぱくつく。
土方同様、山崎も表面から放つ空気と内から湧く空気がちぐはぐで、面白いものであった。しかし、土方とはまた別で、別だけどとてもいい匂いだ。沖田とも少し似ていて、斎藤とはちょっと違う。爽葉の琴線に触れる、魅惑的香り。
「チビ。どうして、ここに来た?」
「此処に来る前、よくこうしてたから。癖は抜けないもんだな。て言うか、皆んなチビチビって馬鹿にしてっ。すぐに成長してやるんだから」
京に来てから、爽葉は夜間に街中を歩いたり、屋根の上を走ったりして構造を覚え、宿を転々としては、屢々《しばしば》人斬りを続けていた。眠れない夜も多かった。どうしても寝付けない夜は、こうして屋根の上に登って、涼しい風にあたりながら月光浴をすれば気分が幾分和らいだ。夜の空気は良い。混じり気が無く、澄んでいて、冷たくて。すうっ、と吸い込むと肺の奥にまで届く冷気が、気持ちを沈めてくれるのだ。屋根上に月と二人きり。誰にも気を遣わなくていい、誰にも邪魔されない、僕だけの、夜を独り占めできる特等席だ。
「烝は?」
「俺も」
最後の一口を口に入れて、山崎は口をもぐもぐと動かしながら、上半身を倒して寝転がって、雲が無く月が目立つ空を緩々と見上げた。瓦同士が立てたカチャン、という音を聞いたのか、爽葉も山崎を真似て寝転がる。
「仕事終わりとかに、時々酒持ってな」
「今度誘え」
いいぜ、と笑う山崎に、やった、と爽葉は素直に喜んでいる。
「ここでの生活は慣れたか」
「慣れてきたよ。烝は見ていただろう?」
「ああ、そうだけどさ。本人がどう思うかが大事だろ? まあ、随分馴染んだように見えたが」
「楽しい。……びっくりするぐらい。何もかも初めてなんだ。新鮮で、刺激的で、面白い毎日だ」
山崎は隣の爽葉を盗み見た。幹部に目の創について話すことがあると言うから、山崎も同席した。同席とは言っても、側から見守る程度だったが、爽葉の瞼に走った創は目にした。流石に痛々しいものを見せられたものだ。目玉も、ただその変わった青色なだけではない。失明したのだから傷も入っていて、焦点もずれるのだ。瞳で物を追随することは可能なようだが、動きはぎこちない。
「そうか、そりゃ良かった。俺これから仕事なんだ、また会おうぜ、チビ?」
だらだらと言葉を交わしたのは四半刻*にも及ばなかったが、事の他良い時間を過ごすことができたと、山崎は満足していた。だからチビはやめろ、という反論も聞かず、山崎は大きな掌で、くしゃりと爽葉の髪を撫でてから、徐に屋根からその身を落とした。空は揺らがず、物音ひとつ聞こえないところは流石だ。
「おいチビ助! 何処ほっつき歩いてる! 出て来い!」
突如発せられた聞き慣れた怒声に、露骨に嫌な表情を浮かべて、爽葉も軽々と空の中に身を投げた。すた、と綺麗に着地を決めたのは良かったが、降り立った場所が悪かった。土方の眼前、腕を伸ばして届く距離。
「ったく、何してんだ。来い」
それだけ言って、彼は爽葉の腕を掴んで引っ張って行く。
「お前細っこいな。もっと食って太刀も使えるようになれ。力つけねえとここぞっつー時に負けるぞ」
「僕強いもん」
「あ? 総司に勝ってから言え」
「三十一勝三十八敗八引き分け、だ」
「負けてんじゃねえか」
勝手に腕を掴んでおいて土方はぶつくさ文句を言っているが、爽葉はすぐに、さり気ない彼の行動に気付く。外に転落しないよう壁側に爽葉を回させたり、歩行の邪魔にならない斜め前を歩いてくれたり。不貞腐れた発言でもかましてやろうとした尖った口は、結局大人しく噤まれた。
奥の奥へと廊下が入り組んで、爽葉は頭の中に起した屯所の見取り図を回転させた。三歩先斜め前左、床の小さな木の節の痕は足の親指大の大きさで、幾分か凹んでいる。十歩と半で、曲がり角。そこから空気がほんわりと軽くなって、三十二歩でやや小ぶりな窓。さらり、と爽葉の指先を木枠の描く弧の上に滑らせて、更に七歩程で彼の香がそよぐ風に混じるのだ。
開けるぞ、と襖を開けてから土方は言って、爽葉を連れて入室した。太陽の香でも焚いたかのような、空気が流れる、近藤の自室。山南も居るようだ。脇差を抜き、懐刀を取り出して、それらを身体の右側に置いて礼儀正しく座った爽葉を見て、近藤はその大きな口で鷹揚に笑った。
「変に畏るな、爽葉」
首を傾げた彼の仕草に、近藤はまた柔らかく笑む。無骨で引き締まった顔も、笑顔になると途端に人の良さげな柔和な顔つきになる。
「明日。爽葉、君を巡察に加わらせようと思っている」
ほ、と間抜け面をした爽葉の顔に、満面の笑みが広がるのに時間は要らなかった。それを見て土方が即座に、最後まで聞け、と爽葉を叱る。
「そろそろ隊士として、仕事もこなしてみたいだろう?」
そう微笑む近藤に、先程の畏まりようは何処へやら、爽葉はひとっ飛びで彼に抱きついた。やった、やったと無垢な華を咲かせて喜ぶ彼の姿に、山南は目尻を緩めて、腕組みをする隣の固い表情の彼をつついた。んだよ、と片目の視線だけを向けてくる彼に、「良かったですね」と耳打ちすれば、「うるせえ」の一言を放って、直ぐにだんまり。素直じゃないな、と山南は苦笑した。
「これぐらいで、はしゃぐんじゃねぇ」
土方は、近藤が受け止めていた爽葉の襟首を掴んで、元の位置に無理矢理引き戻す。
「永倉が担当する夜の巡察に加われ」
初めて聞く名前を爽葉は復唱して、誰、と続けた。
「話したことねえのか?」
永倉の説明をしようとして口を開いてから、土方はどう説明すればいいのか戸惑う。彼に容姿を伝えても意味は無く、彼の醸す雰囲気を伝えればいいとは分かるものの説明など出来ように無い。ましては彼の香りなど、さっぱりだ。無意識に手持ち無沙汰な手が懐を探り、気付けば煙草を取り出していた。
「新八君は、そうですね……。我武者羅で豪快。よく左之君や平助とはしゃいでいますが、何かとしっかり者で仲間思いの優しい人ですよ」
山南が、助け舟とばかりに永倉の特徴を説明し始めるが、爽葉の表情は微妙なままで、分かっていないようだ。
「まあ、いい。どうせ分かることだ」
そう投げやりに言って早々に説明を放棄した土方は、煙草を燻せて紫煙を登らせる。面倒になったな、と爽葉は察した。仕事をくれとは今まで散々言ってきたが。
「巡察って、何するんだ」
爽葉は、素朴な疑問をそのまま投げかける。
「不逞浪士の取り締まりと市中警備だ」
「京都所司代と京都町奉行だけでは治安の悪化が防げないと言うことで、京都守護職、会津藩主の松平容保公から直々に任命されたんですよ」
心なしか普段より音程の高い声が弾んでいるので、彼等にとってよっぽど誇らしいことなのだろう。以前も、将軍護衛の任とかなんとか言っていた筈だ。確かに将軍は凄いやと、爽葉のやる気に拍車がかかった。
「勤務割に沿って、十人程度の小隊で市中を見回るんだ。不逞浪士がいないか、捕縛の対象はいるか、とかね」
「お前みたいな奴がいたら、しょっぴけばいい。怪しい奴は基本捕縛しろ」
土方の皮肉に、爽葉は頬を膨らます。
「そのうち夜回りや死番も任されるでしょうけど、当分は昼回りで市中警備に集中してもらえれば大丈夫ですよ」
「よし、任せとけっ」
やる気満々で立ち上がり、胸を張ってそう言う爽葉を見上げて、大丈夫か、と土方は訝しんだのだった。