プロローグ(吉良樹の悪夢)
人を切る感触というのは嫌に残る。
俺、吉良 樹が初めて人を切ったのは、2年前、小5の時。
それまでは料理で動物や魚を捌くことはあった。だが、生身のしかも実の姉を斬るというのは、感触も心情もまるで違った。
今でも目を瞑るとあの時の光景が悪夢の様に蘇ってくる。
暑さの厳しい夏休みのある日。
一族が年に一度、一箇所に集まり、近況報告やら今年のお勤めについての話し合いをする時だった。
自然な流れで子どもたちは全員、「遊んで来い」と外に出され、従兄弟たちとプライベートビーチで泳ぎの練習をする事になった。
俺は姉貴たちと夕飯の足しにしようと素潜りをしていた。
「あれ? 琉と新は?」
俺の一番上の姉、優樹が真っ先に気がついた。
その場にいた全員に緊張が走り、俺は海の中を探し、姉貴達は浜辺を探し回った。
「あの岬の先には、絶対行くなよ」
従兄弟の中で一番年が上のあき兄が、泳ぐ前に言った約束事だ。
あそこは良くないモノが人を誘い、海へ引きずり込もうとする。
まだまだ善悪の区別も未熟な俺達、特に小学生組は、惑わされやすく、これまで何人も犠牲者が出た不吉な場所。
ここにいる全員が、親からも耳にタコができるほど聞かされた事なのにそれを破ったのは他でもない御神 琉だった。
「樹! お姉ちゃんの脚を切りなさい!」
海へ引きずり込まれようとしている姉を今までに無いほど、必死に引き止め、半ベソかいたオレの目を見て姉貴は、何かを決意をした様にそう叫んだ。
「そんなこと! できる訳ねぇだろ!」
俺は脊髄反射で叫び返した。一向に引き込む力は緩まず、絶望と緊迫しかないなかで、次第に姉貴は懇願する表情へ変わり、真っ直ぐ俺を見た。
「樹。やりなさい」
やけに冷静な声でハッキリとした口調だった。
俺は姉貴の足に絡みついた無数の人間の手のような物を見つめた。
そうだ。切らなきゃ。連れて行かれる。
本能が囁いた。
俺はもはや無意識に、生まれたとき右足に入れられた特殊な刺青へ利き手を伸ばしていた。
そこに触れれば、彫られた柄の山刀が姿をあらわした。
そしてオレは、無数の手と姉の足との間、ちょうど膝下位の場所へ山刀を振り下ろした。
「モラッタモラッタモラッタモラッタ」
無数の腕たちは姉貴の切り落とされた膝から下の脚を奪い合うように海へ引いていった。
「ありがとう、樹」
脂汗をかきながらも、精一杯笑顔を作って姉貴は意識を飛ばした。
俺は姉貴の最後の一言が、頭の中で永遠にリピートされ続け、フリーズしていた。
滴る血が、どんどん真っ青になる姉貴の顔が、オレの頭にこびり付いて離れない。
何より、姉貴を助けるためとはいえ、自分がしたことへの矛盾に今も悩まされている。
心優しい姉貴は、あんな状況を作った従兄弟を許しているが、俺は1ミリも許せずに囚われている。
「樹。聞いてるか。樹!」
呆然と煮立つ鍋を眺めていた俺を岸家の現当主、俺たちの爺さんが、現実に引き戻してくれる。
「!? すいません。……昨日の夢見が悪くて」
俺は慌てて、言い訳をしながらガスを止め、鍋を火から外した。
「そんならいいが……。食器洗いが終わったら、琉たちを呼びに行ってくれや。後は任せたぞ」
「はい。」
当主の爺さんは、言い終わるといつもの様に外へ出かけていった。
俺は、軽く見送ると言われたとおりに食器洗いを始め、琉の部屋へ向かうのだった。