母の行方と聖母の優しい気遣い
あれからさらに時間が経ち、突然押しかけて来た姉もあれ以来姿を見せることはなかった。再び、平和な日々が続いたのだ。私はというと、その間にハイハイを物にし、遂に高速ハイハイの領域に達していた。
「姫様! 流石でございます!! もうあちらまで行かれたのですか」
編み物をしていた手を緩め、私を褒めるシシリー。私は調子に乗って勢いよく転がりながら進むという芸当も見せると、興奮したように手を叩くシシリー。
「姫様は天才でございますねぇ」
ふふっ、そうだろうそうだろう。ここ数日頑張ったからね。シシリー、もっと褒めて!!シシリーのお膝までハイハイで行き、コロンと膝の上に仰向けで転げる。すると、可愛さのキャパが超えたのか、私のことを抱きしめるシシリー。どうだ、このプロ技、超絶可愛い赤ん坊だろう?
「本当に姫様は可愛らしくて天才ですわ」
知ってる。でも、精神年齢のことを考えたら赤面ものの私がこんなことするのはシシリーだけだからね!本当だよ。だから、今だけは私で癒されていいんだよ。
平和が続くここ数日、気づいたことはシシリーの目の下のクマだった。あの事件以来、シシリーが私から一層離れようとしなくなり、これらのことから聖母が私のせいで時間外労働をしていることは容易に想像ができた。にこーっと笑顔を作り、シシリーの顔をそっと撫でる。最初は高揚させていたシシリーだったが、不意にその顔に暗い影を落とした。
「…ユリア様も姫様にお会いしたいでしょうに…」
ユリア…久しぶりに聞く名前に反応が遅れたが、思い浮かぶのは優しさと気品に溢れた2つの水色の瞳を持つ女性のこと。私をこの世に産んでくれた母親の名だ。え、母親は大丈夫なの!? 無事!? なんか逃げ出すのを手伝った人達三等親まで処刑とか言われてたよね!?!? 両腕を動かすが、シシリーはそれ以上何も言ってくれなかった。…くそぉ…!せっかく母親の話がでたのに!!
「さぁ、お休みのお時間ですわ」
トントンとリズムよく叩く彼女に私は抵抗できずに、瞼が下がっていった。そして、すぅっと寝息を立てて寝る…と思った。だが、不意に聞こえてきた声に私は目を開けた。
『身体能力ハイハイに高速が付与。よって、神々の道標に特典である自由意志を獲得』
来た!?しかし、ハイハイのちょっと速く極めただけなのに、大層な言い方をする声だ。しかし、これで何かしらできるようになった範囲は広い事だろう。シシリーは私がいつものように即寝落ちしたと思い、編み物を再開している。つまり、今がチャンス。私はコロンとシシリーに背を向け目を閉じた。さて、新たに獲得したのは攻撃できる能力か…それとも母親のことを何か知れるような能力なのか…
『偉くて優秀な僕ちゃんは、何でも知ってるし、何でも教えてあげられるよ』
ハッと目を開ける。あまり動かない程度に周囲を見渡す。明らかに今まで直接頭に響いてきた声とは違い、耳を通して聞こえたものだ。
『そりゃ、自由意志を獲得したからね。今までの意思のないものとは違うよ』
くすくすと笑う声。姿はなく、聞こえてくるのは声だけ。聞けば、自由意志は取得したものの実体は獲得していないので、まだ体はないのだそう。ふーん。体がないってのは不便そうだな…
『そう? でも、僕ちゃんは今のままで満足してるよ。それより、母親のことが知りたいんでしょ』
彼の言葉に私が頷くと、突然グンッと体が引っ張られる感覚がした。
――――――――――
そして、体が浮く感覚がし恐る恐る目を開けると、そこには私のより何倍も広い別の部屋の光景が広がっていた。私はこの見覚えのある状況にハッとした。私は今、夢渡りをしているのだ。
『夢渡り。夢に入ることで自分の意識と他者の体を繋げることができる能力。いうなれば、偵察向きな能力かな。発動条件に悩んでいたみたいだけど、僕ちゃんに言ってくれたらいつでも発動できるよ』
なるほど…本当に便利になったものだ。となると、今回私が意識を繋げた相手は……いた…母親だ。ベットの周りには彼女を元気づけるように数人がいた。そのベッドの上には座っている母親がおり、見ない間に少しやつれていた。
「ユリア様…姫様はご無事ですわ。ですから、安心してお食事を取られて…」
「無事? 今回は運が良かっただけだわ。今後、あの子が無事だという保証はないとあなたも知っているでしょう。この王宮に安全なところなんてない…だから私は逃げたのよ!! あの人からもこの王宮からも…あの子にとって危険でしかないことを知っていたから!! あの人の恩恵なんていらなかったわ…私はただ…あの子と普通の家庭で一緒にいたかっただけなのよ…」
目を真っ赤にして涙を浮かべる母。どうやら、あの騒動のことを知ってしまったようだ。あまりの取り乱しように、周りもどう声をかければよいか分からないでいるよう。ふむ、母親は父親によってここに幽閉されているのだろうか。
『そうそう。ずっとここに閉じ込められてたら、おかしくもなっちゃうよね。でも、逆に言えばここにいれば安全ちゃ安全。ここを監視しているのは腕の立つ門番だし、流石にここにいる王妃を殺そうとは誰も思わないから』
一つしかない小さな窓の外を見れば、ここと同じつくりの建物がもう一つ。そこには丁度料理を運ぶ女中の姿が見えた。頭を過るのは、私がここに連れてこられた日に不倫がバレた王妃のこと。
『ご名答。想像した通り、ここは終末の塔…王にとって用のない女がくる塔だ。ここに来たら、他所の国の名のある貴族に嫁ぎに出されるか、このまま死ぬかの2択しかない運命にある』
…なにそれ…自分の妻だった人を他所にやるってこと?最悪…。
『仕方ないよ。そもそもこの国の妃は敗戦国から来た人質みたいなものだし。だから、妃同士の蹴落としあいは絶えない。自分の子供を王にすれば自分は安泰だからね』
胸がムカムカする様な話に私は顔をしかめた。まぁ、自分以外の後継者を処刑するような父親だから、仕方がないと言えばそうか。私はとうとう泣き出してしまった母の元へと降りる。
「私の愛しいヴィ。できればあなたには、あなたの生を望む祝福をあげたかった…あの子の生はあまりにも危ういのに…」
…自分の今の状況も危ういというのに、この美しい母親は私の心配ばかりだ。こんな優しい人の涙を見ていると心が締め付けられるように痛くなる。私は彼女の膝にそっと手を置いた。触ったら私の姿が見えないかな…そう淡い期待を込めながら。すると、
「………エルヴィーナ…?」
伏せていた母親の水色の瞳が私へと向けられたではないか。私はにこっと笑った。周りは私の姿が見えていないようで、呆気に取られた顔で母の顔を見る。
「あぁ…ヴィ…! 会いたかった…私の愛しい子…」
母が私を抱きしめ、一瞬だけ止まった涙を再びポロポロと零し始めた。私も会いたかったよとばかりに喃語で返す。
「ユ…ユリア様…? 姫様はここにはおりませんが…」
周りの動揺が伝わり、中には泣きそうな人もいる。私はそろそろ母親が頭がおかしくなったと思われる前に退散しようと、彼女の頬をそっと撫でた。名残惜しいが仕方がない…。私はにこっと笑顔を向け、母の指をそっと握った。
「ユリア様! お気を確か…に…」
母の肩を揺らす女中がハッとして、母の腕の中にいる私のことを見た…気がした。だが、彼女が何か言う前に、私の意識はスッと落ちたのだった。
――――――――――
私がゆっくりと目を開けると、シシリーが鼻歌を歌いながら編み物を完成させているところだった。
『ちなみに言っておくけど、僕ちゃんは別に何もしてないからね。夢渡りは似た魔力の持ち主には見えてしまうこともあるんだよ。父親に気づかれてたでしょ』
聞いてもいないのに、自分からネタバラシをしてしまっている一人称僕ちゃん。名前がないと不便だなと思いつつ、それなら何故母親以外の人も最後私が見えたんだかと思わず笑ってしまう。笑ってしまったからか、彼は拗ねたようにフンと鼻を鳴らし、その後呼んでも答えなくなってしまった。私は彼にありがとうとお礼を言うと、そろそろお腹が空いてきたため大きく背伸びをした。すると、シシリーが私が目を覚ましたことに気づき、笑顔で駆け寄ってきた。
「姫様、見てくださいませ。まだ季節は早いですが、今の姫様の体の大きさに合うお洋服を作ってみました。これをお母様に贈り物として差し上げれば、今の姫様の成長ぶりが分かられるはず。…これで少しは…ユリア様も元気を取り戻してくださるでしょうか?」
なんと、季節外れの毛糸にはシシリーの気遣いが込められていたのだ。私は元気よく声を出した。大丈夫だよシシリー。きっと母親も喜んでくれるよ。ありがとう!
「…ふふっ。ありがとうございます姫様。私ったら、まるで姫様が言葉を理解されているように思えてしまっていけませんわね。大きい独り言も大概にしなければ」
独り言じゃないよ…そう言ってもそれがシシリーに届くわけもなく…私は少し落ち込んでしまう。だが、それは扉の向こう側からの慌ただしい音で忘れ去ってしまった。
「シ、シシリー殿!! 姫様はご健在ですか!!」
それは母親の部屋にいた女中たちだということは言うまでもなかった。