私を思ってくれている人たち
「姫様っ!」
ハッと目を覚ますと、目の前に目を吊り上げたシシリーの顔があった。周りを見れば、元の私の部屋に戻っている。…え、夢?私ラーミアの膝の上にいなかったっけ…?
「お昼寝はなしだと申したはずですわ。はい、もう一度」
シシリーが怖い顔をするので、寝起きだというのにもう気分はブルーだ。渋々、シシリーに言われるがまま私は床へ足を下ろす。…どうせ、すぐに倒れるに決まって……ん?
「い…いー!?」
私は思わず興奮からシシリーに視線を向ける。シシリーはハッと息をのんで、彼女は嬉しそうに手を叩いた。
「ひ…姫様がとうとうお立ちになられましたわ!!」
多少おぼつかないが…私の足の裏はしっかりと床につけられ、しかも下半身のブレもほとんどない。わ、私立ててるよ!?なんで!?
『能力値の譲渡で、ヴィの下半身の筋肉が発達したんだね。まさか能力値が譲渡できるなんて…彼、中々やるね』
やっぱり夢じゃなかったんだ!私は手を叩いて喜ぶ。思わず手を放してしまうが、二本足が体勢を崩すことなく私はさらに喜ぶ。奇行だなんて言って悪かったなラーミア、と私は彼に感謝の念を送る。すると、シシリーが私に大きく腕を広げた。
「次です。そのままこちらへ歩いてきてください」
…え?まさかまだ特訓は続くの…?私は浮かべていた笑みを消し、早くシシリーが飽きるように必死で祈った。その時だった…扉が大きく開かれて、アドラーが飛び込んできたのだ。
「シ、シシリー殿…! こちらへ…」
「アドア―!!」
久々のアドラーに私が歓喜の声を上げたが、アドラーは慌てたようにシシリーを外へと連れ出した。…なんなんだよ…私だけ仲間外れかよ…!私はむくれた。久々に遊んでもらえると思ったのに、言葉をかけるどころか私に視線すら向けなかったアドラー。…そう言えば、シシリーの笑顔も久々に見た気がする。……もしかしたら、いつまでも歩けない私に愛想をつかしたのかもしれない…。そう思うと、立てた嬉しさが落ち込みへと変わる。不意に、世界で一人だけになったような感覚に陥り、久しぶりに情緒が不安定になりそうになる。
『僕ちゃんのこと忘れないでよね』
だが、コントロールできなくなる前にユランがそう言ってくれる。私は涙を拭き、そうだったと頷く。私には心強い味方がいたではないか…!
『ヴィってば…大げさ。僕ちゃんはヴィの示し手なんでしょ? ヴィの明るい未来のために、僕ちゃんが導いてあげるから安心してよ』
「おー!」
これほどまでにユランが頼もしかったことはあるだろうか…!私の中からすっかり落ち込みはなくなり、私は立ち上がった。下半身の筋肉が発達したのだ、あと数日もしないうちに歩けるようになるだろう。そうなれば、シシリーも聖母に戻り、そしてアドラーとまた遊べるようになる。いや、もしかしたらシシリーたちが戻ってくる前に歩けるようになるかもしれない…そう思い、私が歩く練習をしようと足を踏み出そうとしたところで…
「うおっ!?」
コロンっと横転してしまった。だが、床に体が触れる前に、私を支える者がいた。…なんだ、シシリーもう戻ってきたの…
「一瞬目を離しただけで立ち上がり転ぶとは…お転婆な姫だ」
シシリーかと思ったが、私を支えたのは細長い男の腕だった。あれ?さっきぶりじゃん!あ、さっきは能力値くれてありがとね!もう完璧に言える彼の名を口にする。
「ラーミア!!」
だが、ラーミアは呼びかけにも反応せず、私をひょいっと抱きかかえた。そして、その足は扉の外へと向けられる。扉の外には何人もの部下と黒いフードの男たちがいる。黒いフードの一人が口を開く。
「…報告によれば、姫君は直立も不可能だと聞いていたのだが」
この黒いフードには見覚えがあった。……どこで見たんだっけ…?しかも、何故か私の発達を把握してるし、一緒にどこかに行くし…なにこれどういう状況?
「先ほど可能にされた。我々が何か手を加えたと思うなら、お得意の隠密に探らせてみたらどうだ?」
全く状況が理解できないので、先程から無言のユランに聞こうとする。だけどおかしいな…こういうとき、聞く前にユランが教えてくれるんだけど…。それに、こういう突発的な出来事に関しては、数日前から警告してくれていたはず…。
「まさか。我々は修道院。隠密なんて物騒なもの持ち合わせてはいない」
フフっと笑うフードに、私はどこで見たのか思い出す。中身は違うが、そのフードは大怪我したラーミアの手当てをしたフードと同じだった。ようやくスッキリし、私は彼らの会話に耳を傾けた。ユランが黙っているということは、もしかしたら私に命の危機があるのかもしれない…。でも、それならもっと早く教えてよ…ね、聞いてる?…ユランからの返事はなかった。
「…どうだかな。つい先日、兵士が城に入り込んだ密偵を捕らえたばかりだ」
え、そうなの!?最後に外に出たのが、王の庭園の時だったから全く知らなかったや。あ、もしかしてアドラーと会えなかったのもそれが原因…?ラーミアの言葉にフードの男が笑う。
「それが我々の隠密だと? 面白い御伽噺を申される。しかし証拠もなしにそのようなことを言われては…戦事が起きますぞ」
あぁそれが貴国の常套手段でしたっけ…そう嫌味を言うフード男に、私は顔をしかめる。私こいつ嫌い。特に嫌味を言う時に、前髪を触る仕草は嫌悪感しかなかった。証拠って…その密偵に聞けば分かることじゃん…そう思ったが、フード男は歪んだ笑みを浮かべる。
「それとも…その密偵が修道院の関与を口にしたとでも?」
あっ、これ密偵が口を割らないって分かってるやつ!!その証拠に無表情のラーミアの眉が少し動いた。ラーミアが何も言わないでいるのを見て、フード男は勝ち誇ったように言葉を続ける。
「我々修道院は、清き正しい行いで人々を導く組織。戦事で解決しようとする貴国と一緒にしないでもらおうか。貴国の姫君も…光栄に思われることだろう」
チラリとこちらを見る視線に、思わずラーミアにしがみついた。ラーミアを見た時の視線と違い、私を上から下まで品定めするような視線…。私は耐え切れずその視線から目を逸らす。この視線は絶対そうだ…ラーミア私を助けろ…こいつ…絶対ロリコンだ!!
「…おや? あまり接しておられないのに…やけに貴方様に懐いておいでだ」
ねっとりとした視線が背からひしひしと感じられ、私はさらにラーミアにしがみ付く。こっそりと見ると、フード男がこちらに手を伸ばしてくるではないか。ひぃっ!?私が超絶可愛い幼女だからって、お前にも可愛らしくするとは限らないんだからな!私に触ろうものなら、噛み傷ひとつは覚悟するんだね…!!私が伸ばされる指に噛みつこうと、出された手を凝視していると、
「新雪が朝日に照らされ、土から新たな命を育むかのような色…見る人を惹きつけて離さない秀麗な顔立ちは神々に与えられし祝福…噂に違わぬ姫君だ。これは良き聖なる君となろう…」
というお前に言われても嬉しくとも何ともない言葉を口にしながら、私に近づいてくるフード男。私は来るべき時に備え、大きく口を開ける。私がその指に噛みつくまで…あと三秒前…二…一…っ!?
「お前如きが手を触れるな」
パンっと手を払われる音がし、私が噛もうと思っていた手が向こう側へ飛んで行った。その衝撃で、フード男は二、三歩後ろへと下がる。痛そうに腫れあがった手を握り、こちらを睨む。いいぞラーミア!!私は彼に称賛の声を上げるが、ラーミアは構わずスタスタと歩き続けた。…そういえば…私たちはどこに行っているのだろうか…?ラーミアは従者によって開かれた目の前のドアを躊躇なく足を踏み入れた。
「…来られましたな」
父親と見知らぬおっさんたちが私たちを出迎えた。父親は豪華な椅子に偉そうに座っており、その脇には中年の姿もある。…シシリーとアドラーはどこだろう…?
「それでは始めましょうか」
何が何だか分からず、私は部屋の中央に座らせられる。私を下ろしたラーミアも私を置いて、父親の横へと付くし…何がどうなってんの??
「歩け」
父親がそう私に命令し、ようやくこれが私が歩く姿を見るための会なのだと知る。…え?私が歩く姿を見るためだけに集まったの?暇か?
「…歩かれませんな」
見知らぬおっさんが笑いながらそう言う。いや、あんた誰よ…。ラーミアは相変わらず無表情だし、中年もどこ見ているか分からないし、見知らぬおっさんは気持ち悪い笑い方しているし…それにシシリーやアドラーがいないことで私の中で不安が募る。…何これぇ…
「ヴィ、歩け」
父親の鋭い言葉にビクッと体が撥ねる。…え…でも…私まだ立てるようになったばっかりで…
「っ!?」
この拙い言葉でどこまで伝わるだろうかと考えていた時、冷気があたりを包むのを感じた。その瞬間…後ろから肌を刺すような冷気が襲い掛かってきた。冷気が顔に当たり、私は慌てて立ち上がった時、まるで道のように鋭い氷柱が両脇に生え揃う。…な…何じゃこりゃ…!?
『水魔法の応用だね。水魔法を出すのと同時に、冷気を発生させることにより氷柱をだすことができる。だけど、こんなに大量に…しかも意図的に整列させることは中々できるもんじゃないよ』
ユ、ユラァン!!ユランの登場に私は思わず泣きつく。これどういうこと、何が起きているの、私は何をしたらいいのさ!!不安と焦りから連続で質問をぶつける。しかし、いつもの通りユランは飄々とした調子で的確なことを教えてくれるだろう…そう思っていた。だが…
『…ヴィは何もしなくていい』
彼にしては珍しく歯切れの悪い言い方に、私は思わず彼に聞く。…どうかした?と。
『別に。ただ、ヴィはこのまま僕ちゃんの言うことに従っていればいいんだよ。…僕ちゃんはヴィのユランなんだから』
それだけ言うと、彼は何を聞いても反応してくれなくなった。…これは困った…唯一の頼みの綱すら失い、状況が悪化したことしか把握できていない。不意に後ろから再度襲い掛かる冷気に押され、私はヨタヨタと拙い足腰で歩き始めた。横を見れば鋭い氷柱…倒れでもしたら絶対大怪我ものだ。自他ともに認める超絶可愛いこの顔に傷でもついたらどうしてくれるんだ父親っ!!
「…あれで歩いておるのか?」
怒りの視線を父親に向けるも、彼は私の歩き方に不満があるようで中年に聞いている最中だった。悪かったな!これでも必死に歩いているんだよ!!だが、父親が怪訝そうな顔するのも無理はなく、一歩一歩歩くごとにおぼつかない足元に、私は必死で踏ん張った。だが、ふと足が止まる。…ユランが何もしなくていいと言ったことを思い出したからだ。これまで私を導いてくれたユランが何もしなくていいと言っているのに、それに抗うべきなのだろうか…?
「どうした?」
急に歩みを止めた私に父親を含め、周りが騒がしくなる。…このまま座り込んでしまおうか…?シシリーもアドラーもこの場にいないことから、私を庇ってくれる者はいない。歩くことを放棄したらどうなるか分からないが…ユランが言うのだから悪いことにはならないだろう。すると、今まで強張っていた全身の力が抜けていくのが分かった。…よし、ユランの言う通り、私は何もしない。そう決心し、私は腰を下ろそうと膝を曲げた。
――――――――――
諦め…伏せた瞳が再び挙げられた時、目の前の赤子はフッと笑みを零した。赤子のその姿を見た時、ハッと息を飲んだのは誰なのだろうか…。気づけば私は拳を握り締めていた。
「声もかけてあげないのかい? 随分と薄情だ」
私の肩越しにそう尋ねる声に、私は軽く目を瞑る。人は慣れとは言ったもので、幻影を目にしても再度あのように感情が荒ぶることはなかった。…私に何ができるというのか…そう声に出さずに言い返す。
「あの子に譲渡までしておいて、できるできないの問題かい? 本当に君は変わらないねぇ…昔から諦めの方が早かった」
この幻は何が言いたいのか…再び目を開けた時には、赤子は膝を曲げていた。赤子が一度でも歩くことを放棄すればこの賭けはヤコレフの勝ちだ。陛下を一瞥するが、そのお顔からはどのような感情も伺えなかった。
「レイの顔色ばかり窺って、君自身は何もしないのかい? この件に関してはレイは動かない。全て成るがままさ」
何を知ったような口を利く…そう思ったが、これは私が作り出した幻影なのだから仕方がない。深く息を吐く。陛下が流れに身を任せるのであれば自分がすることはない。そもそも何と声をかけろというのだ…
「彼女の名を呼ぶだけでいい。難しく考えなくていい。そうすれば、彼女は君に応えてくれるさ」
あまりにも通る声で兄はそう言った。思わず彼を見るが、そこに姿はなかった。名を…?姿の見えなくなったオルウェは声だけで、相変わらず私を諭すように言った。
「君が彼女の名を呼べば、彼女も君の名を呼ぶさ。あれだけ君が必死に教えたのだから」
目の前の赤子は項垂れ、その顔は見えない。このまま赤子の顔を見ることなく、あの柔らかな温かさをこの腕に閉じ込めることもなくなるのだろうか。そう思うと、益々惜しくなる。だが、赤子の名を呼ぶのは簡単なのに、唇は張り付いてしまったように動かない。ふと、肩に誰かが触れたような感覚がした。それは幻影と思えないほど、温かみを感じた。
「怖がる必要はないよ。彼女は絶対に応えてくれる。そして、君の願いを叶えてくれる者でもある。そう、私と約束したからね」
オルウェの含みのある言い方に引っかかったが、赤子が床に腰を下ろそうとしたため思わず声を張り上げた。
「エルヴィ―ナ姫っ!」
――――――――――
「エルヴィ―ナ姫っ!」
名を呼ばれ、私の身体には力が入る。…え、また立っちゃったんだけど……私また歩かなきゃいけないの?そう愚痴りながら顔を上げると、私を呼んだ彼の姿と…見覚えのある紫の髪色の少年が目に入った。…あれ?私…あの少年知っているぞ!?だが、その少年が誰だか思い出す前に、ラーミアが再度口を開いた。両手を大きく広げながら、彼は半ば投げやりの叫びを口にする。
「こちらへ!」
まるでペットを呼び戻すかのような呼びかけだ。だが、その時のラーミアが何故だか捨て犬みたいな顔をしており、まるで飼い主の方がペットに捨てられそうになっている構図に私は苦笑した。まぁ、私はペットなんかになってやるつもりもないけど…そんな顔されちゃぁ仕方がないなぁ…。私はがくがく震える足を引きずりながらラーミアの元へと進み始める。一歩進むたびに、ラーミアが驚いたように私を見るので、苦笑してしまう。どうした?また仕事のし過ぎで情緒がおかしくなったか?
「…本当に来るとは…」
せっかく足元まで来てあげたというのに、ラーミアは屈みもせずに突っ立ていった。私はその足をペチっと叩いた。お前が来いというから来てやったのに、褒めることすらしないのか。幼女の身体は疲れるんだぞ…その代わりと言ってはなんだけどシシリーのところまで抱っこで連れて行ってね。再度叩くとようやく我に返ったのか、ラーミアが腰を下ろす。
「ラーミア!」
不意を突き、私は彼の首に手を回した。もう私の歩くお披露目会はいいだろう。私はやり遂げたんだ…父親も見知らぬおっさんも満足したことだろう。ひとつ…私は大きな欠伸を零す。珍しく、目を閉じる私の髪をぎこちない手でラーミアが撫でた。
「…よくできました」
それこそ、本当にペットに言っているようだと私は苦笑し、達成感に満たされながらゆっくりと眠りへと落ちて行った。ふと、ラーミアの肩越しに、カーテンにより隠れていたシシリーとアドラーが泣いているのが見えたような気がした。あぁ…何かは分からないが、私はまたこの二人を心配させてしまったようだ。だが、彼らが相変わらず私を思っていてくれていることに、私は心から安堵するのだった。