月華が1周するとき
私の最初の脱走劇は、シシリーの激怒で幕を閉じた。私はもう二度と彼女を激怒させることだけはしない…そう誓った。だが、再度暇な日々が来ると、私の心はあの脱走劇へと思いを馳せてしまう。やっぱり外の世界は楽しかった…そう思いながら日々を過ごしていた頃だった。急な知らせが私の耳に入る…父親が戻ってきたのだ。
「姫様! お父様がお帰りになりますよ!」
珍しく足を弾ませるシシリーに私はニコッと笑いかけた。やっぱり、シシリーが笑っていると私まで嬉しくなる。
「きっと、姫様の月華のお祝いに合わせてご帰還されたのでしょうね」
「う!!」
笑みを浮かべるシシリーについ声を上げて反応を示すが、私の中で疑問が浮かぶ。月華のお祝いとはなんだ?
『知らないで返事してたの? 月華のお祝いは、ヴィの1歳のお祝いのことだよ。ちなみに、この世界は時華、日華、月華と呼ばれる花々に生活様式を合わせているんだよ。時華は夜明けに花を咲かせて24枚の花弁を落とす、日華は7本の茎が1日ごとに腐り落ちる、そして月華は12枚の花弁が咲き誇った時季節が一周するんだ』
なるほど、この世界では花が月日を示す手がかりとなるのか…ちゃんと覚えておかないと。
『それで王族の月華のお祝いはお披露目パーティって意味だから、それを迎えたら外に出させてくれるよ』
私はそれを聞いて、満面の笑みを浮かべた。シシリーたちと遊んで暮らすのも楽しいが、やはりたまには単体で動きたいのだ。ゴロンと横になりながら私はきゃっきゃと声を上げた。
「ふふっ。姫様ったらお父様に会えるのが楽しみのようですわね」
違うよ!外に出れるのが嬉しいんだよ!!私の反論も、耳では赤ん坊の意味の取れない泣き声として入ってくる。私は頬を膨らませた。私はいつになったらシシリーとお話ができるのだろうか…。自分の短い手や足を眺めて、諦めたように大の字になって目を閉じた。だが、私はなんとなく予感はしていた。もうすぐ私は何かができるようになり、そして同時に新たな能力または魔法が使えるようになるだろうと。
――――――――――
陛下とユリア第二王妃のご息女…第三王女の月華のお祝いの日が迫ってきた。城中の人々は、まだ姿を見せぬ姫君に想像と噂を膨らませながら、その準備を行っていた。一人の従者は本日も聞いたばかりの噂を口にする。
「生後まもない姫君についてだが、あの王の寵愛を一心に受けているらしい」
その証拠に、その赤ん坊を殺そうとした第四王妃は追放され、王自身その赤ん坊の部屋に足を運んでいるのだ…その従者はまるで怪談話のように青ざめた顔で囁いた。さらに噂では追放された第四王妃は気が触れたようになり、そのまま国を出たのだという…。
「恐ろしや…陛下にも何か呪いでもかけたのだろうか…」
「噂によると…あのアドラー様もその赤ん坊の呪いを受けてしまったというぞ。第一王子の陣営から離れたのもそのせいだと…」
「恐ろしや…陛下は他のご兄弟には全く関心がなかったというのに…何故その赤ん坊だけ…」
話始めた従者に合わせるように周りの者も自身が聞いた話を吹聴する。産まれた子は実は難産で亡くなっているのだ、いやまるで古にいたというエルフのように美しい容姿をしていると聞いたぞ、いやいや…俺は怪物のように恐ろしい力を持つと…
「…まったく下らんな」
暖炉の炎が静かに燃える執務室…この部屋の主は暖炉を背にしてそうベイン殿の報告を鼻で笑われた。
「ベイン。貴様の面白みもない報告はもういい。本日は珍しい客を相手しなくてはならないのでな」
陛下のそのお言葉で、私は後ろに組んでいる手を握り締めた。予定より早く戦場から帰還された陛下が私を呼んだ理由…なんとなく想像がついていたからだ。
「待たせて悪かったな。ラーミア」
ふと、この部屋に足を踏み入れた時のことを思い出した。椅子に腰かけ、足を組む陛下のその姿は…一瞬以前この部屋の持ち主だった男と見間違うほどだった。私は表情を固くする。逆光で陛下のお顔が黒く塗りつぶされ、表情こそ読めないが…それでも暗闇に抗う2つの緑色の光に私は心底恐怖した。王位も権力もすべて奪った陛下が、唯一父親から譲り受けたものはあの緑色だった。死んでもなお父親は…私の中に恐怖の対象として残り続けている…。この部屋に入った時から氷雪を飲み込んだような心地がしているが、反対に首筋から汗が流れるのが感じ取れた。陛下の緑色の瞳がこちらに向けられると、押しつぶされるような圧がかかる気がする。
「こうやって話すのも久しいことではないか。一体いくつの月華が廻ったのか…。俺が王となり、貴様が無様にも生き残ったあの時を覚えているか?」
私がゆっくりと頷くと、緑色の光が細まる。その仕草もまた父親のそれと同じだった。陛下が口を開き私の名を呼ぶ。私の本当の名を…
「ジファ・ロンベルグ・ファイン・ドゥラ・リック…貴様の名だ。俺と同じリックの貴名を与えられ、呪いをかけられた弟よ…貴様は俺に生かされているのだぞ。ただの死にぞこないの貴様に…俺以外の駒として動くことを許したか?」
さらにかかる圧に…私は膝を床につけることしかできなかった。震える唇を開き、頭を下げる。例の子を殺そうとした王妃に手を貸したことが、陛下の機嫌を損ねてしまったようだ。
「……申し訳ございません」
私はおそらくここで死ぬ…判断を間違えた私を陛下は容赦なく切り捨てるだろう…。だが、そうと分かっていても、思い浮かぶのは今日以降の仕事のことだった。ここに来る直前に指示を書いたものを置いてきたので、当分は私がいなくとも滞りなく進むだろう…。こんな時でも頭に浮かぶのはそれだけか…と己の人生を振り返り自嘲気味となる。ラーミア・ガラルティアの名を与えられても以前とあまり変わっていないではないか…相変わらず私は己のためには生きられず、血生臭い世界しか身を置けないのだ。
「俺が貴様に謝罪を求めると思うか?」
そう陛下が言うと、手元の剣に手を伸ばす動きが見られた。あぁ…終わりだ…そう目を瞑った瞬間…
「うー」
この場にふさわしくない赤子の声が聞こえた。どうやら陛下が動いたことにより、膝の上の赤子か起きたか…そう思ったが、どうやら彼女の眠りは深いようだった。彼女は小さな笑い声を上げながら再び寝息をたてた。
「…だが、幸運にも俺は今機嫌がいい。謝罪を受け入れよう」
ふっと圧が無くなり、私は全身の力が抜けるのが分かった。だが、体勢を崩すことなく、顔を上げる。陛下は今まで見た事のない顔で、赤子を見つめていた。
「先ほど、修道院が俺を訪ねにここへと来た。奴ら、これが癒しの魔法を使ったと知り、血相をかかえておったわ。どうしてもこれが欲しいと…そのためならばどんな手を使うとも言って脅してきたな」
陛下が笑いながら赤子の頬を撫でる。それでも赤子は起きる気配なく、呑気に口元から涎を零している。あの王妃の非ではない…この世で最も恐ろしい男が目の前にいるというのに…。男の顔からは笑みが消えていた。その顔を目にした瞬間、俺は思わず悲鳴を上げるのを押さえるために唇を噛み締めた。
「誰が渡すものか! これは俺のものだ。抱きたくもない女たちを抱き、産ませるのも吐き気がする子を産ませ、そして…これを手に入れた。あの女には感謝せねばな…まさか一番期待の薄い女からこんなものが産まれるとは…。渋る隣国から無理やり奪った甲斐があったというものだ…!!」
これ以上この部屋にいたくないという思いだけが心を占めていた。吐き気がし、胃から上がってくるものを押し戻すために唾を飲み込むが…あまり効果は期待できないようだ…。不意に赤子が口を動かし、何かを咀嚼するように何度も開けたり閉じたりしている。
「…その赤子をどうされるおつもりですか…?」
それが私の口から出た言葉だと知ったのは、緑色の瞳がこちらに向けられてからだった。何故許されていないのに自ら口を開いたのか…。夢を見る赤子のこの先の暗闇を…私が気にしたとでもいうのか…?
「一度は殺そうとしたこれの先が気になるのか? これが自分のように利用されて哀れにでも思ったか…それとも情が移ったか…?」
問いかける陛下の言葉に、私は何か返そうとするも言葉が出てこなかった。兄上の頬傷を治した後、まるで意図して行ったかのように微笑む赤子…あれを見て私は何を思ったのだろうか。陛下は困惑する私の様子を見て、まぁいい…と言葉を切った。
「貴様には今後、これを見張っていてもらう。これに近づく輩を殺し、そして傷がつかぬよう守れ。ヴィが魔法や能力を使う暇など与えないほどにな」
「……承知致しました…」
話は以上だとばかりに、陛下は赤子を愛で始める。私は無表情のベイン殿の横を通り過ぎ、扉へと手を伸ばした。どうやら胃の中のものは吐かずに済みそうだ…そう安堵する。だがこれが間違いだった。陛下は私を呼び止め、そういえば貴様の問いに答えていなかったな…と口を開く。
「これは、貴様がこの世で最も畏怖する者と同じ能力を持っている。まだ未熟で、能力の本来の力を引き出せてはおらんようだがな。これは王家の呪いそのものだ。だから俺はこれにリックの呪いを引き継いだ女の名を…ウルエの貴名を与えたのだ。ここまで言えば…俺がこれをどう使うのか、分からない貴様ではあるまい?」
陛下の言葉で、私の脳裏にはある光景が再現された。それは…13人の兄弟や叔母の血に染まった姿で……そしてそれを自分と共に見た陛下の顔だった。胃が今までにない勢いで逆流するのが分かった。
「…うえ…!」
私はドアノブを勢いよく回した。そして、扉も陛下への挨拶も忘れて部屋から飛び出し、一直線に自分の部屋へと走る。そして、近くにあった入れ物に胃の中のものをぶちまけた。
「あはははははははははははは!!!!」
遠くで陛下の高笑いが聞こえた気がし、私はまた入れ物に頭を突っ込む。彼の…レイの笑い声を聞いたのは、兄たちが一斉に目の前で死んだあの時以来だった。