夏と故郷と追憶と
窓から見えるその景色は、紛れも無い夏であった。
梅雨の蒸し暑さや、アスファルトの照り返しなどとは、全く無縁の。
空は青く光り、蝉が高らかに鳴き。深緑の山から水田までを、風がかすかな音と共に駆けてゆく。
例えるなら、『田舎の夏』と言われて、多くの人が思い描くような。
とにかくそこにあったは、紛れも無い、夏そのものであった。
〜夏と故郷と追憶と〜
東京の私の家から、最寄りの駅で電車に乗って、鈍行に揺られること2時間強。そこから、また別の、少し古びた鈍行に揺られて45分。そして、やっと辿り着いた駅から、くたびれたボンネットバスで、30分。
360度に広がる、見慣れた懐かしい景色の中に降り立った頃には、太陽はもう私の頭の真上から大きな麦藁帽子を照らしていた。
バスを降りると、まず私は、急に視覚を刺激した眩しさに、眼を覆った。乱反射する光が、ゆらゆらと揺れながらきらめいている。薄目を開けて見た、山裾ギリギリまで広がった水田には、丁度水が張られている時期だった。
私には、眩しすぎる天からの照明が照らし出すその風景は、2年前と、全く変わっていないように思えた。
ゆっくりと、大きく、深呼吸する。やわらかくて透明感のある空気が、身体の芯まで、頭の奥まで、両手足の指の先まで、通り抜けていくような気がした。
ひとしきり辺りを見渡し、少しだけ思い出に浸ってから、私は、舗装のされていない農道を歩き出した。歩き出すと、また違った想いが湧き上がってくるから、不思議なものだ。
そうだった。学校の帰りには、私はいつもこの風景を眺めていたのだ。それは、ときに夕焼けに染められ、ときに雪化粧に覆われていたかもしれないが、私は、紛れも無い、この風景に抱かれながら、家路についていたのだ。
2年前までは・・・・・・いや、おそらく、私がこの村を去ってからもずっと、この風景は、私の心を包んでくれていたのだ。
いままで気付いていなかったその雄大さに、ほんの少し触れた気がして、私は、少し身震いした。
そして、懐かしい日々の自分に足取りを重ね合わせながら・・・・・・私は、通い慣れた家路を、辿っていった。
私の実家は、バス停から炎天下の農道を少し歩いて、ゆるい坂になった涼しい緑のトンネルを、視点がほんの少しだけ上がるくらい登ったところにある。入口らしい入口はなにも無くて、途中でトンネルが左右2本に分かれているところを右に入っていくと、いつの間にか緑のトンネルがまた夏の青空に変わり、少々レトロな、茅葺きの屋根が現れるのだ。
私の足取りは、家に近づいていくにつれて、だんだんと早まっていた。そして、見慣れたその屋根を眼にした瞬間、私は、突然全速力で走り出した。
両足が、鍵のついていない玄関に掛けられた『竹田』の表札の前と、風呂釜の脇を、飛ぶように駆け抜ける。そして、飛び石を1つ飛ばしで渡り、昔は牛小屋だったと聞かされた物置の裏手へと回り・・・・・・。
あっという間に、我が家の畑へとやって来ていた。
そして、そのトウモロコシの植えてある一画に、腰の曲がった人影を見つけるやいなや、私はそれに向かって大声で叫んだ。
「おばーぁちゃーん!」
すると間もなく、規則的に並んだトウモロコシの列の端から、背の低い、ほっかむりをした祖母が、ひょこっ、という具合に頭を覗かせた。
私の姿を見て、祖母も、栃木訛りの独特のイントネーションで叫んだ。
「マキィ!よーぐ来たねぇ、待ってたよぉ!!」
私は、並んだ畝の間を縫うようにして、祖母に駆け寄った。足元に、トウモロコシが何本か入ったザルが置いてあった。たくさんの黄色い粒が、夏の日差しの下でキラキラと輝いていた。祖母は、よくここの野菜達を東京まで送ってくれるのだ。祖母の愛情がこもった野菜は、スーパーに並んでいるものより、抜群においしく感じられるのだった。
私は、自分よりも頭一つ分背の低い祖母に思い切り抱きついてから、近くに置いてあったリヤカーに荷物を放り込んだ。
「私も手伝う!」
「いいよ、ずぅーっと電車乗ってきてんだから、疲れてんべよ?」
「いいからいいから!」
そうして私は、帰って早々、帰郷の挨拶も後回しにして、陽が傾くまで、祖母の畑仕事を手伝った。
ただ、要領をすっかり忘れてしまっていた私は、だいぶ祖母に迷惑をかけてしまったに違いない。それでも、祖母は笑いながら・・・・・・私のことを『手伝って』くれたのであった。
「へぇー、じゃぁ、大変だったんべよ。東京の方からずっと座りっ放しじゃよお。」
「んーん、本読んでたら、すぐだったよ?向こうの図書館で借りたの。」
「あー、ほーか、あんた本さ読むの好きだったからねぇー。」
「うん。あっちゅー間だったよ?」
すっかり陽も暮れて、祖母が注いでくれた麦茶をすすっている頃には、私の口調もだんだんと栃木訛りに戻ってきていた。2年間の都会の生活の中で封印されていたと思っていた発音が、こうもすぐに戻ってくるとは。慣れとは恐ろしい、と、私は思った。
「ほいで?友達には、あっちから電話したんかい?」
台所で野菜を洗いながら会話をしていた祖母が、エプロンで手を拭きながら、居間へと戻ってきた。『いま、トウモロコシ茹でてっかんね。』と言って、祖母は、今は火の入っていない掘りごたつに腰を降ろした。
「うん・・・・・・?」
実は私はそのとき、自分が帰るということを、祖母以外には知らせていなかった。友人達にも、学校の先生達にも、である。
別段、こっそりと帰って皆を驚かしてやろう、とか、事前にあまり知られたくない明確な理由があったわけではない。ただ、私の中で、なにか、引っ掛かっている物があった、とでも言えばいいのだろうか。直接会って確かめたいことがあった、というか、なんというか。
「ううん、まだなんだ。着いてから、電話でもしようかなと思ってたんだけど。」
私は、『もう、夜も遅いかんね。』ともっともらしいことを言って、その場を誤魔化した。祖母は、へぇ、と一言だけ呟くと、ふと気付いて、台所へ、トウモロコシの茹で具合を見に行った。
床のきしみが少しずつ遠くなるのを聞きながら、私は、色褪せた畳の上に身を投げ出した。ひんやりとしていて、気持ちが良かった。しばらく起き上がりたくないな、と思った。
そして、そのまま寝返りをうって、完全に大の字になって天井を見上げた。電球の傘も、タンスの上にしまってある煉炭の火鉢も、天井のシミも、なにもかもが、変わっていないように思えた。強いて言えば、壁に掛かった時計が、新しくなっているようだったが。
「・・・・・・・・・。」
私はそんな、変わらぬ天井を見上げながら・・・・・・自分がこの家を去ることになった頃のことを、思い出していた。たった2年の間でも、慣れ親しんだ場所を離れて、全く違った環境での生活に馴染んでしまうと、その記憶は、なにか、霧がかかったように、ところどころがぼやけて見えるのだった。畑仕事はどうやるんだったかとか。学校の帰りにはどんなことを考えながら歩いていたんだとか。休みの日にはどこでなにをして遊んでいたんだっけとか。そういう、他愛も無いけど大切なはずの記憶が、いまいちはっきりと思い出せない。
「・・・・・・はぁ。」
そして、その変わらぬ天井の風景の下でも、一番気に掛かっていることは、どうしても思い出せないのであった。人間どうして、こう一生懸命に思い出そうとすることに限って、なかなか思い出せないものなのだろうか。
左右に何度も寝返りをうち、何度か柱に頭をぶつけそうになっているうちに、祖母が、すっかり良い色に茹で上がったトウモロコシを持ってきてくれた。私は、一旦ややこしいことを考えるのを止めて、一番小さいのを手に取って、かじりついた。
「今年は、よーく獲れたからね。後で、東京の方さ送っとくから、3人で食べなね。」
「うん、有り難う。わぁ、甘くておいしい。やっぱり、おばぁちゃんのトウモロコシが世界一だ。」
『まぁたこの子は。』と、祖母は、嬉しそうに笑った。
その後で、私は更にもう1本トウモロコシをたいらげてから、風呂を沸かした。やはり要領を忘れてしまっていて、何度も煙にむせて涙を流したが、しかし、今度は祖母の手を借りずに、1人で仕事をやり遂げたのだった。
そして、自ら沸かした湯船の心地よい浮遊感の中で、また、思い出したい、思い出せない、というループにはまり、危うくのぼせそうになってしまったのであった。
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翌日も、田舎の空は晴れ渡っていた。
その日私は祖母に頼んで、物置から2年前まで乗っていた自転車を出してもらい、軽く整備をした。整備、といっても、当然そんなに大袈裟なことではない。汚れを拭いて、油をさし、家の周りをぐるりと試運転した。幸い、それほど錆は酷くなかったので、昼前にはもう私は家を出ていた。
もう、中学校は夏休みのはず。
こんな暑い日は、この辺りの子供達は学校のプールに集まるに違いない、という確信のもと、自転車を懐かしい母校へと飛ばしていたのである。
私の通っていた学校は、小学校と中学校が同じ校舎に入った、しかしそれでもかなり小さな学校だった。私のいた学年は、男子4人、女子が3人の計7人だったが、それでも、他の学年に比べればかなりの大人数だった。聞くところによると、昨年は小学校に新入生が1人もいなかったため、今年小学校の2年生になるはずだったクラスには、現在生徒が1人もいないのだという。
私の家から学校の正門に行くときには必ず、プールと校庭が見渡せる道を走るのだが、やはり、私がそこを通ったときにも、校庭にいるのは、ゴム飛びや鬼ごっこをしている、小学校の低学年くらいの子供数人だけだった。人数が人数なので、野球部だとかサッカー部なんてものは、作れないのだ。あるとすれば、文芸部とか合唱部とか、そんなところだ。
よって、暇な生徒達は大抵、夏休みには毎日のようにプールに通い、冬休みには雪合戦をするのである。
私はそんな校庭を眺めながら、正門まで辿り着いた。プールに行くのが待ちきれなくて早めの昼飯を済ませて自転車を飛ばしてくれば、そろそろ人が集まり始めるはず、と思っていると。
「・・・・・・あぁっ!!?」
案の定、私が自転車を停めたところに、見慣れた顔がやって来た。彼は、軽快に飛ばして来た自転車からひらりと飛び降りた瞬間に私に気付き、勢い余ってその自転車の前輪を植え込みの中に突っ込んでしまった。
「カッちゃん、久しぶり!」
私は、植え込みの枝の引っ掛かった前輪を引き抜いている彼に、微笑んだ。
その枝を払って自転車に鍵を掛けてから、彼は改めて私を見た。
「お前っ・・・・・・マキか!?」
私がニッコリ笑うと、彼は驚きの表情から一転、満面の笑顔になって、私の肩をやや乱暴に叩いた。
「なーんだよ、お前、帰ってたんか!?電話くらい寄越してもいいだろうがよ!?」
『変わってないねぇ。』と言って、私も負けじと彼の肩を叩いた。
彼は、私の同級生のカツトシ、通称カッちゃん。クラスの男子4人の、いわばリーダーの様な存在だった男の子だ。好奇心旺盛な、それこそ典型的なやんちゃ坊主、と言うほど活発な男の子だった。
ただ、見た目はまるでそうは見えないのだが。切りに行くのが面倒だと言って、髪の毛はまぶたにかかるまで伸ばしっぱなしで、腕も足も細い。ちょっと髪を結って服装を整えたら、女の子と言って通用するかも知れない。
そして、その格好は、2年経った今日も、相変わらず変わっていないのであった。
「いつ、来たんだ?」
「んーと、昨日の昼過ぎ。んだけど、ウチのばぁちゃんの手伝いしてたから。」
「あー、畑か?」
「うん。久しぶりだったから、すっかり暗くなっちゃって。」
「へぇー。まぁ、とにかく元気そうでよかった。」
「ありがとうね。」
ひとまずの挨拶を済ませてから、私は、彼が担いでいるビニール袋を見て、例のことを確かめた。
「そんで?絶対来るだろうと思ってたんだけど、やっぱりプール?」
「ん?おう、コレか。まぁ、他にやることもねぇんだよ。こっちはよ。」
「あー、またそんなこと言ってぇ!家で静かに勉強すればよかんべよ!」
「バカ、ンなことやってられっか!」
相変わらず、夏休みの宿題は最終日にまとめて、というか、慌ててやるタイプのようだ。私は、ちょっと脅し半分で『クマザワ先生だったら、またゲンコツよ?』と彼に釘を刺した。
「クマザワなー。去年だから、いなかったんだな、そういや。」
クマザワ先生こと、体育担当の倉沢先生は、私達が小学校の最後の2年間で担任としてお世話になった先生である。ずんぐりと大きな身体に、日焼けして真っ黒な肌、そして毛深い腕と、さらに怒ったときのまるで吠えるような怒鳴り声は、まさに『クマ』というあだ名がふさわしい、頼もしい先生だった。
クラスの男子達は、夏休み明けなどよく宿題に全く手をつけていなくて、2学期が始まって早々にゲンコツを喰らっていたものだった。
しかし残念ながら、先生は今年の4月に、転勤でこの学校を去ってしまった。私も連絡を受けたときは、駆けつけて先生に一言お礼を言いたいと思ったのだが、東京の学校の方が始業式が早かったため、行くことができなかった。今は、遠くの、と言っても県内なので東京よりはよっぽど近いのだが、氏家という町の中学校で、やはり体育を教えているのだそうだ。
ふ、と2年前の教室の景色が、頭をよぎる。6人のクラスメイトと、大きな先生が並んで立っているのが、見えた気がした。
「・・・・・・元気にやってる、みんな?」
「おう。全っ然変わんねぇよ。」
彼は、言った通りの全く変わらぬ笑顔を見せた。
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私は、小学校の5年生の1学期まで、ずっといじめられっ子だった。
いじめ、と言ってしまうと、それを体験した事の無い人達にとっては、少々大袈裟な表現だと思う。しかし、小さい頃から典型的な『からかうと面白い奴』だった私は、気付くと、クラスの男子4人組にことあるごとにちょっかいを出される存在になっていた。すぐに怒って、すぐに泣き、すぐに逃げ出す。そんな子をからかって面白がるなんて、その年頃の男子にはいかにもありそうなものだった。
私以外の女子2人は、男子がいなくなるとすぐに、『大丈夫?』『気にしたらいかんよ?』と優しい声を掛けてくれたのだが、それも、私を一層悲しい気分にさせるだけだった。今思えば、そんな私をかばうなんてことをすれば今度は自分がちょっかいを出される、という怖さがあったのだろうが、その頃の私はそんなことに気付かずに、『だったらなんですぐに助けてくれないのよ』と、彼女達に怒りすら覚えていたのである。我ながら、身勝手な話だ。
しかし。
そんな、どん底のような日々にも、転機が訪れることになる。
それは、私にとっては、なんの前触れも無い、本当に突然の出来事だった。
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「・・・・・・マキ?」
彼にそう呼ばれて、私は我に返った。
なんだろう。どうして今、あんなことを思い出していたんだろう、私は。
「うん?」
彼は、少し不思議そうに私を見つめた後・・・・・・今さっき乗ってきた自転車の鍵に、手を掛けた。
「・・・・・・ちょっと、話でもしねぇか?」
「え?」
彼はそう言って自転車の鍵を外し、サドルにまたがった。
「そうだな・・・・・・武山神社でも行くか?」
「え、だって、皆来るんじゃないの?」
「いや、ヤスマサは今日は家で宿題やれって母ちゃんに言われて来れねぇんだと。」
「ケンイチ君は?」
「かまねぇよ、どうせ来なきゃ来ないで、小学校の奴等に泳ぐの教えたりしてっからよ。いつも。」
そうか。別に、約束の上で集まっているわけではなかったのか。
「でも、どうせだったら皆揃って・・・・・・。」
「いいから、いいから!ホレ、行くぞっ!」
私がまだ話し終わらないうちに、彼は自転車をこぎ出してしまった。私は慌てて自分の自転車にまたがり、帽子が吹き飛びそうになるのを押さえながら、急いでそのあとを追った。
しかし、そういえば武山神社といえば、ここから歩いても15分掛かるか掛からないかの、ほんの近場である。私はそれを思い出すとすぐに自転車の速度を緩め、ゆっくりと農道を走っていった。
そんな私に気付かずに、彼の背中は、どんどん私を引き離して行った。
木々のざわめく林の横を通り、小川に掛かった古いコンクリートの橋を渡ると、赤い塗装が半分程剥がれ落ちた鳥居と、苔の生した石段が見えた。その石段の前で彼は自転車を停めて、腕組みして私を待っていた。
「なんか、お前、声とか掛けろよ!」
私も彼の自転車の隣に自分の自転車を停めて、1度麦藁帽子を被り直した。
「だって、勝手にどんどん行っちゃうんだもん。」
私は、べぇっ、と舌を出した。
そして、また2人でくすくす笑ってから。私達は、少し滑りやすくなった石段を、ゆっくりと登っていった。そういえば、昔、隣を歩いている彼の率いるクラスの男子達に泣かされて学校を飛び出したときは、短い足で一生懸命この石段を登り、ちゃんと神様に断ってから、神社の縁の下に潜り込んでこっそり泣いたものだった。そこは絶好の隠れ場所で、結局私が引っ越すまで、この場所に隠れた私を見つけることができたのは、彼1人だけだった。体中泥だらけで、いなくなった私を探してくれたのだ。
「(・・・・・・あれ?)」
そう。彼だけだった。
彼だけは、私を見つけてくれたのだった。
・・・・・・・・・なぜ?
「(なんで・・・・・・カッちゃんが?)」
そのときに、私の中でずっとくすぶっていた疑問と、今思い当たった疑問が、繋がった。
まず、私がいじめられなくなった、きっかけのこと。それが終わったときの様子は、ちゃんと、覚えているのだが・・・・・・しかし、そこまでの経緯を、私は思い出せなかったのだ。いや、思い出せない、と思い込んでいたのだ。
そして、この神社である。彼が私を見つけたのは、なぜか。私を探したからだ。なぜ、いじめっ子の4人組のリーダーが探すことになったのか。しかも、体中泥だらけになるほど、必死で。本気で、私を探してくれたのだ。
思い出せないんじゃない。
知らないのだ。
私がいじめられなくなるに至った経緯を、私はまだ、知らされていない。
「あぁーーー、涼しいっ!」
彼の声に、またも独りで考え込んでしまっていた私は、我に返った。
気が付くと私は、もう石段を登りきって、その縁の下に潜り込んでいたという神社の前に立っていた。それは、やはり2年前と全く変わらぬ姿で、私を迎えてくれた。この景色は、今も覚えている。所々砕けた灯篭。2個並んでぶら下がる鈴。その下の賽銭箱には、2年前にもあった落書きが、今も残っていた。どこの誰が描いたのか知らないが、私が気が付いたときにはもう既に、それはそこにあった。
「・・・・・・・・・。」
つまらない疑問など吹き飛ばしてしまうような、堂々とした姿で。それは、微動だにせずにそこに鎮座していた。
「・・・・・・ホント、気持ち良い。」
林のすぐ下を流れる小川のせいなのか、それとも単に日影だからなのか、境内は真夏でもひんやりとした空気に覆われていた。夏休みならここで遊んでいる子供もいそうなものだが、今日はどこにも人影は無いようだ。
彼は、神社の裏手に私を呼んで、『一番涼しいんだぜ、ここ。』と言って、しめ縄の巻かれた大きな木の根っこに腰掛けた。いわゆる、御神木というやつだ。私は躊躇したが、1度手を合わせて『失礼します。』とその大きな幹に挨拶して、彼の隣に腰掛けた。
「・・・・・・おかえり!」
彼が、唐突にそう言った。
今更になって、いきなりそんなことを言われたものだから、私はなんだかおかしな気分になった。
おかしな気持ちになった、けれど。
「・・・・・・ただ、いま。」
変なリズムで、そう、返事をした。
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・プッ!」
何度か今のやりとりを反芻するうちに、私はついついおかしくなって、吹き出してしまった。
「・・・・・・なんだよっ!」
つられて、彼も笑いながらそう言った。私はお腹を押さえて、前屈みになって笑い転げていた。なんでもない、ただの『おかえり』と『ただいま』が、なんだか妙に場違いなように思えて仕方なかった。
「おかえりっつっただけだろ!」
「だって、なんか・・・・・・あーもう、変!変だもん!!」
なんだか、本当にあの頃に帰ってきたようだった。本当に、どうでもいい馬鹿な話で、クラス皆でゲラゲラ大笑いして。誰かが何か言う度に、皆で笑い転げて。授業が始まっても、思い出し笑いを堪えるのに必死で、先生の話なんか耳に入らないのだ。
全然、考えられなかった。そんな関係なんて。
あの頃は・・・・・・・・・。
「フフッ・・・・・・。」
「・・・・・・ハハハ。」
頭の中で、そこまで思考が繋がったところで、彼と私は、同時に静かになった。
辺りが、穏やかな沈黙に包まれた。木の葉の擦れるさざ波のような音と、じわじわと蝉の鳴く声だけが聞こえた。
「・・・・・・よかった。」
「え?」
また唐突に、しかし今度は、遠くを見るような眼で、真剣な声で、彼はそう言った。私は、やはりいきなりそんなことを言われて、なんだか不思議な気分になった。しかし、それは、さっきのおかしな気分とは、大分違った気分であった。
「オレ、さ。心配してたんだぜ?」
「・・・・・・心配、って?」
「・・・・・・お前さ。」
そこで1度、彼は息をついた。
「お前、変わっちまうんじゃねぇかってさ。東京行って。」
「っ!」
「東京暮らししてるうちに、こっちの田舎のことなんか、忘れちまんじゃねぇかって、な。」
ときどきつっかえそうになりながらそう言って、彼は大きく伸びをした。何度か違う動きで身体をほぐすように動かしてから、彼は立ち上がって、私のほうに向き直った。
「でも、全っ然変わってねぇな、お前!心配して損した!」
白い歯をみせて、彼は笑った。
私はその態度が少し腹立たしくもあり、馬鹿にされたようで恥ずかしくもあり、けれどどうしようもなく懐かしくも嬉しくもあり・・・・・・複雑な気持ちを振り払うようにして、『もうっ!』と、怒ったように立ち上がった。彼は、また笑いながら、ひょいと1歩後ろへ飛び退いた。
「あっ・・・・・・。」
そこで私はまた、あの再三考え続けた疑問に思い当たり、思わず声を上げた。どうして今の今まで。彼の思わぬ言動に惑わされていたのか。
今のやりとり。そう、まるで・・・・・・あの頃、私がずっと彼にからかわれていた頃のような。
同じだ。
あの頃と、同じだ。
「・・・・・・あ?」
彼は、不思議そうに私の驚きを復唱した。
聞こうか、聞くまいか。
いや。
聞くなら、今しかない。
「ねぇ・・・・・・。」
「なんだよ?」
あの日のこと・・・・・・。
「・・・・・・覚えてる?」
「は?」
「あのときの、こと。」
「いや・・・・・なんだよ、ハッキリしろよ。」
やはり、彼は笑った。けれど。
「カッちゃんが、ここで、私のこと見つけてくれた日。覚えてる?」
「・・・・・・・・・・・・えっ?」
彼は私の言葉を聞いて・・・・・・少しの間を空けてから、本当に、頭の上に疑問符が浮かんだような顔で聞き返した。
・・・・・・・・・・・・いや。
気のせいかも、知れないが・・・・・・彼が、まるで『ギクッとした』ように見えたのは、私の思い過ごしだろうか。
とにかく彼は、少しの間うつむいて、なにかを考え込んでから、こう、返した。
「・・・・・・アレか、お前が、帰りの会んなっても、帰って来なかったとき?」
「そう!」
思わず、声のボリュームが大きくなった。
「アレか・・・・・・で、どうかしたか?」
「いや、それで、ね・・・・・・。」
私が難しくあれこれ考え込んでいた割には、思わず返事が早く返ってきたので、私は少し口ごもった。
一旦、頭を整理する。
「その・・・・・・なんで、探しに来たの?」
「え?いや・・・・・・なんでって?」
「ホラ、その・・・・・・カッちゃん、皆の中心になって、私のこと・・・・・・からかってたじゃない?」
『いじめてたじゃない?』とは、さすがに言えなかった。
「不思議だったのよね。『なんで?』って。」
「・・・・・・ふぅん。」
「なんか、変な気分だったの。なんて言うか・・・・・・すっごく、ものすごく意外な人が来た、って言うか。」
彼は、今度は笑わなかった。
「別に、どうってわけじゃ・・・・・・。」
言いかけて、彼は完全に黙り込んで、腕を組んで下を向いてしまった。
私も、黙って彼の返答を待っていた。
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
ひときわ大きな風が頭の上を駆け抜け、林の頭をかすめて行った。木の葉が一段と強く音を立てても、彼はそのまぶたを通り越しそうな黒い髪をなびかせただけで、身動きひとつしなかった。
そして・・・・・・その波が、通り過ぎたとき。
彼は一転、今度は木々の間から覗く青空を仰いで・・・・・・やっと、口を開いた。
「・・・・・・初めて。」
「えっ・・・・・・?」
よく聞き取れなくて、私は聞き返した。
「初めて、殴られたんだよクマザワに。ゲンコツじゃなくて、平手だぜ?」
彼はそう言って、視線を私のところまで降ろして、また、笑った。しかし、その笑顔はさっき笑い転げていた子供の様な笑顔ではなく・・・・・・懐かしむような、微笑みだった。
彼が、一瞬、とても大人びて見えた。
「オレたちが、お前のこといじめてたって知ってさ。ケンイチにヤスとマサの奴等も、殴られた。」
彼はさらりと、自分のしていたことを『いじめていた』と言ってのけた。
『首へし折られるかと思ったぜ。』と、彼は笑った。笑顔は、元に戻っていた。
「・・・・・・・・・。」
私は、黙っていた。
「んでさ、わかったんだよ、クマザワに説教されて。『ああ、ヒデェことしてたな、オレ達』って。」
彼は天を仰いで、そう続けた。
「(・・・・・・・・・そうか、それで。)」
心の中で私は、彼が私を見つけてくれた、次の朝の出来事を思った。
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私はあの日は、彼に見つけられてから1人で学校まで帰り(彼は他の場所を探しているという皆を呼びに行ってしまった)、教室でクマザワ先生に『人に心配を掛けるなよ。』と優しく言われ、家に帰った。その出来事は両親に知らされることはなかったと思っていたが、引っ越してから母にそのときの話を聞いて、しっかり両親にその事件が伝わっていたことを知った。
あれが、私が小学校の5年生の1学期の話だから、3年以上も前ということになる。
その間ずっと知らないふりをしてくれた両親には、今も、それなりに感謝している。
そして、次の日の朝。私はいつも通り、しかしいつもとは少し違う変な気分で教室の戸を開けた。いつも通りの景色。皆がいるところ、していることもいつも通り。変化はこれっぽっちも見られないように思えた。
そうして私が、『あれは、夢だったんじゃないだろうか。』と思い、溜息を吐きかけた、そのときである。
「おう!マキ、おはよう!」
いつもは聞いたことのなかったはずの挨拶が、聞こえた。
思わず私はうつむきかけた顔を上げた。
彼だった。
何を思ったか、笑いながら、手を振っているではないか。
「・・・・・・・・・。」
私は、少しの間戸惑ったが・・・・・・そのときは心の中で、『ああ、またなにか企んでいるんだ。』と思い、黙って自分の席に向かった。
そして、ランドセルを机の脇のフックに掛け、蓋を開けて教科書を取り出し、机に収め、蓋を・・・・・・。
閉めようとした、そのとき。
私の目が、机の横に立っている誰かの足を捉えた。
「・・・・・・?」
私が足から顔までを身で追っていくと、そこには彼が、1番中心になって私をからかっていた、しかし、なぜか昨日私を探し出してくれた、彼が立っていたのだ。なにか言いたそうに、そわそわしながら座った私を見下ろしているのだ。
「・・・・・・!」
反射的に、ビクッ、と身体が跳ねた。
彼は、なにか言葉を探しているような様子で、なおも黙ったままそこに立っていた。右を向いたり左を向いたり、かと思えば私の目を伺うように見たり、すぐに視線を外したり。
思わず私は、自ら彼に声を掛けた。
「・・・・・・何?なんか用?」
彼の目が、止まった。視線が止まった先は、私の目だった。
「あー・・・・・・あの、さ。」
「何よ?またなんか、馬鹿にしに来たの?」
「違う、違う、あの・・・・・・だから・・・・・・。」
珍しく私が強気に出ても、彼は『生意気だ』とか、『マキのくせに』とか、いつも言っているようなことは、言わなかった。
そして、ややあって。彼は、やっと意を決したように、こう言った。
「・・・・・・ゴメンな!」
彼は、私の目をもう1度見てから、頭を下げた。
「・・・・・・・・・え?」
あまりに意外な言葉に、私は一瞬、自分の目が点になったような気がした。
彼は、重々しく顔を上げて、また私を見つめながら、言った。
「今まで、なんか、いろいろ悪口言ったり、イタズラしてよ・・・・・・ゴメンな。反省したんだ。」
「え・・・・・・なんで?またなんか、変なこと考えてるんでしょ?」
疑ってかかる私を無視して、彼は続けた。
「ホントは、なんつーか・・・・・・普通がよかったんだ。オレも、他の奴等もみんな、反省してる。」
言葉が出なかった。
「あの、だから・・・・・・そういうことなんだ。そんだけだ。」
教室の後ろの方を振り返ってみると、残りの男子3人が、気まずそうに私を見ていた。
「んじゃぁ、すぐにはダメかもしんねぇけど・・・・・・仲良くしてくれよ。気が向いたらでいいから、な!」
彼はそう言い終えると、まるで逃げ出すように、どこかへ走り去ってしまった。残っていた3人の男子も、慌ててそれを追うように教室を出て行った。
取り残された私は、まだどこか嘘臭い、と感じながら・・・・・・なんとなく、女子2人の方を見た。
すると、どうだろう。
泣いているのだ。2人とも・・・・・・合唱部のミチコも、茶道部のシズエも。いつも遠くで私の様子を見ていた2人は、私と目があうと、泣きながらこちらへ駆け寄って来た。
「ゴメンね、マキちゃん!なんも出来なくて!」
「怖くて助けてあげらんなかった!ごめんね、ごめんね!」
2人で私の机に突っ伏して、大声で泣いているのだ。
なんなんだろう。いつもと違う。違い過ぎる。
さっき彼が言っていたことは本当なのか。本当に、もう私をいじめたりはしないのだろうか。仲良くして欲しいと思っているのだろうか。
あの、悲しかった、苦しかった毎日は、終わるのだろうか。
「ミチコ・・・・・・シズエ・・・・・・。」
そのときの私はただ、オロオロとうろたえながら、泣きじゃくる2人を見ていることしか出来なかった。
そして、その日はまるでなんの事件も無く終わり。
次の朝も、彼は元気に声を掛けてきて。
私も、だんだんとそれに慣れていって。
1学期が終わるまでには、私はすっかり、クラスの全員と打ち解けてしまっていた。
そして。
そんな楽しい学校生活の中、私は6年生へ進級し。
その年の8月、夏休みに・・・・・・転校の話を聞かされたのだった。
「あー、1つ残念なことを知らせなくちゃならん。」
クマザワ先生は、朝の会、つまり朝のホームルームの終わりに、クラスの皆にそう告げた。数少ないクラスメイト達が少しだけどよめく中、私は眼の前、机に刻まれた傷をじっと見つめていた。今にも涙が溢れそうになるのを必死で堪えながら、私は先生に促されて、教卓のところまで歩いていった。どよめきが、大きくなった。
「・・・・・・竹田は、お前達と一緒に中学生になることが、出来なくなった。」
教室が、急に静まり返った。
「親父さんの仕事の都合で、引っ越すことになった。」
私はうつむいたまま、黙って立っていた。
「・・・・・・マキちゃん、ホントなの!?」
「冗談だろ!?」
「ねぇ、何も言ってなかったのに!」
誰かが声を上げたのを合図に、皆が一斉に立ち上がって、騒ぎ立て始めた。私は、思わずその場でしゃがみ込んでしまった。クマザワ先生が教卓を叩いて皆を静かにさせてから、話を続けた。
「残念なのは解かる、先生も寂しい。だけど、こればっかりは仕方ない。」
また、教室は静寂に包まれた。
「竹田に、今やってやるべきことを考えてやれ。いい思い出をいっぱい作って、笑って別れられるように、な。」
先生は力強くそう言うと、クラス名簿を持って、私の肩に手を置いた。
「・・・・・・お前は、皆に心配掛けたいか?」
私は、すぐさま首を横に振った。
私が涙目で見上げると、先生は、にっこりと笑いながら、言った。
「なら、泣くな。笑え。」
それだけ言って、先生は、まるで何事も無かったように、いつも通りの足取りで、教室を出て行った。
クラスの皆が私に駆け寄って、各々に、私に声を掛けてくれた。それがとても嬉しくて、私はまた、しゃがみ込んだまま泣いたのだった。
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「・・・・・・中学校で、また楽しくやってこうと思ってた、矢先だもんなぁ。」
陽は、既にかなり傾いてきている。
私達は、神社から学校までの道を、今度は自転車を押しながら、並んで歩いていた。
「悔しかったなぁ、ホント。もっと早く、気付いてりゃぁ良かった、ってさ。」
彼は、微笑みながらしかし、心底残念そうに、言うのだった。
・・・・・・・・・でも。
「・・・・・・でも、カッちゃん。」
「ん?」
「私・・・・・・嬉しかったよ?」
「・・・・・・・・・っ!」
彼が自転車を押していく足が1度止まり、また歩き出す。止まる前より、少し足取りが速くなった気がした。
「2年も、無かったけど・・・・・・楽しかったよ?」
私はわざと早足になって彼を追い越して、その顔を覗き込んだ。
「ありがとうね。」
私が笑うと、彼は、耳まで真っ赤にして下を向いてしまった。伸び過ぎの前髪に隠れて視線を合わせないようにしているその姿を見て、なぜだかそう言った私の方まで、気恥ずかしくなってしまった。
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
私達は横並びのまま、歩いていった。
そうこうしているうちに私達は、学校の正門の前に立っていた。私はそこで、彼に、私が帰らなくてはならない日を告げた。
昨日帰ってきて、今日の丸1日で皆と会って、学校の登校日の関係で明日の昼前の電車でもう東京に向かうつもりだった、と言うと、彼は申し訳無さそうに頭を掻いた。
「あちゃー、悪ぃな、1日潰しちまった。」
「ううん、夕方のでもいいよ。夜に向こう着いたら、車で駅まで迎えに来て貰うから。」
私は彼に微笑んで見せて、明日の夕方までに皆と会おうと、予定を改めた。
・・・・・・と。そのとき、である。
「・・・・・・マキ、ちゃん?」
すぐそこから、聞き覚えのある声がした。しかも、2人分、重なって聞こえた。
「あれ・・・・・・?」
気付くとそこはもう、校門の前だった。そして、自転車を押したままの格好で、足元に落としていた視線を上げた私の前には・・・・・・中学校の鞄を持った女の子が2人、立っていた。
私はすぐにそれが、合唱部だったミチコと、茶道部だったシズエだということに気が付いた。
「やっぱりぃ!私よ、ミチコよ、覚えてる!?」
「嘘、マキちゃん!?うわぁ、キレイになったねぇ!私よ、シズエ!」
2人は嬉しそうにそう言って、私の腕に抱きついた。
「帰って来てたなら、言ってくれればいいのに!あ、私、中学校でも合唱やってるの!今、練習終わったのよ!」
「あのね、私もね・・・・・・って、あれ、カッちゃん!なんで?」
シズエはそう言って、彼の名前を呼ぶ。しかし彼はそれよりも早く、校庭をプールの方から歩いてくる誰かに向かって、駆け出してしまっていた。
「あー・・・・・・行っちゃった。」
「・・・・・・ねぇ、マキ?」
すると、まるで彼が離れていくのを見計らったかのように、ミチコが私の耳元に近寄って、囁いた。
「うん?」
「あの、カツから、聞いた?」
さて。一体、何のことだろうか。
「・・・・・・え?」
『何を?』、と私が聞き返すよりも早く、シズエが話を遮った。
「あ、なんだ、やっぱ聞いてないんだ。」
「ち、ちょっとミチコ、アレ、カツ君が言うなって・・・・・・?」
「えぇー、だって、もう時効でしょ?いいじゃんいいじゃん!」
私が何の話だか全く解からずにぽかんとしている前で、2人はああでもない、こうでもないと言い合いを始めた。
「あのね、カツの奴ずっとね・・・・・・。」
「ミチコってば・・・・・・あ、カツ君戻ってきたよ!」
「え!?んもう、シズエが邪魔するから!」
まるで訳が解からないでいる内に、彼が校庭を横切って戻ってきた。その後ろから歩いてくるのは・・・・・・あれは、そうか、ケンイチ君だ。彼といつも体育の授業で成績を競っていた男の子だ。
「よぉ、マキィ!!お前、久しぶりじゃねぇか!!」
ケンイチ君は勢いよく手を振りながら、そう叫んだ。私も大きく手を振って返した。偶然だろうか、これは。これで、ヤスマサの兄弟も来れば、7人全員が揃うのだが、彼の話では2人は揃って家で勉強中とのことだ。明日にでも、改めて集まって会えばいい。
・・・・・・と、思っていると。
「・・・・・・・・・?」
プールの方から、あと2人、誰かが走ってくるのが見えた。まさか、と思いながら見ていると、その2人はどんどん近づいてくる。近づいてみると、同じような背丈で、同じような髪型で、同じような服装で、同じような袋を、水着が入っているらしいビニール袋を持っていて・・・・・・。
顔も、そっくりだ。見覚えのある、双子ではないか。
「おーい、ヤスマサ!マキが帰ってきてるぞぉ!」
ケンイチ君がそう呼びかけると、やっとそこに追いついた双子が、同時に私を見て、言った
「え、あれ!?おい、マキお前、なんで居んの!?」
「久しぶりじゃんか!マキ、帰ってくるなら連絡ぐらいしてくれよ!」
ヤスマサ、という名前ではない彼らは、同じクラスだったヤスユキとマサユキの双子の兄弟だ。私達が2人をいっぺんに呼ぶときは、専ら『ヤスマサ』で通じてしまう。ケンイチ君が、その名付けの親だった。
「お前等、家にいたんじゃなかったんか?」
「いや、も必死こいてやること終わらせたら、出られた。」
「昼過ぎくらいには来てたぞ。珍しくいなかったな、お前。何してた?」
なんと、いつの間にやら、2年前のクラスの仲間達が揃ってしまったのであった。皆はそれぞれバラバラに私に質問をしたり、なにか全然関係の無いことを言って笑っていたり、まるで2年前の様子をそのままビデオで再生しているようだった。
ああ、そうだ、これだ。
これが、私が別れたくないと思い涙した、仲間達。それが今、目の前に集まっている。
2年前と全く変わらずに、こうして集まっているのだ。
そう考えると・・・・・・なぜだか少し、目頭が熱くなるように感じた。
そして、少しの間私達はそこで思い出話などに花を咲かせ、その場はそれぞれの事情もあって、一旦別れることになった。
話の中で、ミチコが急に『ねぇ、せっかくだから皆で花火でもしましょうよ!』と言い出したのがきっかけで、その夜のうちに私達は、もう1度学校に集まって、花火をしようという約束をし、家路についた。
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・・・・・・まぁ、案の定というか、なんというか。
私が待ちきれずに、約束よりも30分も早く校庭に着くと、もう7人中6人が、そこには集まっていた。もしまだ誰もいなかったときのために、と鞄に忍ばせてきた文庫本の出番は無くなったのだった。
聞けば、ヤスマサ兄弟に至っては、さらにその30分も前から来ていたのだという。しかし2人は、実は約束の時間を間違えただけ、と笑いながら言った。
そして、私達は持ち寄った花火を広げて、大きめの蝋燭に火をつけた。
まず最初にケンイチ君が、景気付けに1発打ち上げ花火を打ち上げた。パン、と乾いた音が、校庭中、いや、辺りの山の方にまでこだました。
それからは、手持ちの花火で字を書いてみたり、それを何本も持って走り回ったり、色とりどりの火花が吹き上げる花火を何個も並べて順々に火をつけたり、そこを男の子達が飛び越えたり、まぁ少々危険なことも交えながら、私達は小さな花火大会を楽しんだ。
持ち寄った山ほどの花火は、気が付けばもうあっという間に無くなってしまい、残るは手持ちの花火が数本と、線香花火が1束、それに、最後の取っておきといってシズエが持ってきた大きな打ち上げ花火だけとなっていた。
私が、もうすぐ花火が無くなってしまうのを、名残惜しく思っていたときである。ミチコが、線香花火をぶら下げながら、こっそりと私のところへ寄ってきた。
「ねぇ、マキ、昼間のあの話の続き・・・・・・。」
私はシズエと一緒になって、残り少ない手持ち花火で線を描きながら歩き回っていたところだった。やはりシズエは、『ちょっとミチコ!』と、話を遮ろうとした。しかしミチコは『いいじゃん、減るもんじゃないんだから!』と、シズエをなだめる様に言った。何を言っても無駄、と観念したのか、少しすると、シズエはおとなしく私の隣で話を聞く気になったようだった。
男の子達は、勢いの衰えてきた吹き上げ式の花火を囲んでなにやら盛り上がっていた。
「あの、さっきの話ってなんだったの?私、さっぱりなんだけど?」
正直、私も昼間から、気になって気になって仕方が無かった。
しかしミチコは自分が話すよりも先に、思いがけず、逆に私にこんなことを聞いてきた。
「その前に、昼間カツ君と居たでしょ?なんの話してたの?」
「・・・・・・・・・へ?」
私と、隣で聞いていたシズエは、思わず間抜けな返事をした。
「ちょっと、もしかして、って。」
「ああ・・・・・・そっか、マキちゃん、なんか聞かされた?」
シズエには、ミチコの言葉の意味が解かったようだった。
私が戸惑っていると、ミチコは私の顔を覗き込んで、言った。
「カツ君、もしかしてもう自分で言ったんじゃないかと思ったんだけど。なんだ、違うみたいね。」
「やっぱり、恥ずかしいんでしょ。でも、ホントに言う?」
「もう遅いでしょ、ねぇ?マキも気になっちゃっただろうし。」
聞かされた話というか、私が彼から聞き出した話なら、あるが。恥ずかしい、とはなんのことだろうか。別に、あの話自体は全く恥ずかしいことなど無いはずだ。どうも、私が少しだけ引っ掛かったあの『話』と、2人が言っている『話』は、別物らしい。
しかし、一応私は、『話は、したよ?』と、2人に昼間の彼との話のことを簡単に説明した。
私が帰ってくることを知らせなかったこと、ずっと気に掛かっていたこと、彼と神社に言ったこと、私が聞きだしたこと。
一通り私が話し終わると、2人は、『やっぱり』というか、『なんでだよ』というか、難しそうな顔をして、男の子達のグループに目をやった。
「・・・・・・カツトシ君、嘘ついてるのよ。」
先にそう言ったのは、シズエだった。
「え?・・・・・・嘘、って?」
「そう、照れてるんだわ、カツ君。正直に言っちゃえばいいのに、ったく。」
「でも、やっぱり恥ずかしいのよ。他人事だと思って、そんな。」
私が、やはりさっぱり事情を飲み込めずにいると、2人は、再度男の子達の様子を伺ってから、そちらに背を向けるようにして、話を始めた。
そう。
彼が教えてくれなかった、あの日の『真相』は、私にとっては、驚くべきものであった。
私がその話を全て聞いた後で、私達は、とっておきの打ち上げ花火を打ち上げた。それは、一際大きく、一際綺麗で・・・・・・一際、儚く見えた。
そして。
それを見上げる私の胸の中には、そのとき、ある想いが芽生えていたのだった。
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7人だけの花火大会の後は、私は驚くほどぐっすりと眠れた。疲れもあっただろうが、それ以上に、考えるべきことが無くなった、精神的な安心の方が、強く影響していたように思える。
そして翌日は、私はしっかり正午過ぎまで眠っていた。いくらよく眠れたとはいえ、眠り過ぎたとは思ったが、夕方6時の電車で東京に戻るつもりだ、と皆に告げていたので、私は顔を洗って眠気を覚ますと、ゆっくりと祖母の家を出る準備を始めた。
そして、私はその午後の5時には、祖母に別れを告げて、バス停留所へ向かった。祖母は足が悪いので、駅までは見送りには来られないのだ。
けれど、そんな事情を知ってか知らずか、昨日の夜のうちに皆は、バスに乗って駅で私が電車に乗るまで見送りに行く、という予定を立ててくれた。私はそれが嬉しくて、夜中寝る前に、またこっそりと泣きそうになった。
そして、バス停に着いてから、バスに乗り込んで駅に向かうまでの時間の、なんと楽しかったことか。別れの時が近づいていることなど、いつの間にやら忘れてしまうような時間だった。
私は、昨日学校の門の前で感じたあの感覚を再び噛み締めながら、皆と笑い、騒ぎながら、駅へと向かっていった。途中何度か運転手の初老の男性と目があったが、その人は私達がバスの中で騒いでいるのを、他に乗客が居なかったこともあってか、笑って見逃してくれた。
あっという間に、バスは目的の駅の前までやって来た。あんなにも程短い30分間は、後にも先にも、あのときだけの体験だったように思える。
私達は、どやどやとバスを降りた。料金を払って降りるときに、私は1度、運転手の男性にお礼のつもりで軽く会釈をしたが、その人は窓を磨いていて気が付かなかったようだった。
その日の駅員さんは、気の良さそうな、祖母よりも少し若いおばぁさんだった。田舎の駅では、ホームで見送りをするときの為の入場券なんて気の利いたものは無いのだが、私が『皆、私の見送りで来てくれたんです。』と言うと、おばあさんは笑って皆をホームに通してくれた。私が会釈すると、今度は、『いえいえ。仲良くて、いいねぇ。』と、おばあちゃんと同じ栃木訛りで答えてくれた。
私は、夕焼けが照らし出すそのホームに立った。風が吹き抜けて、私の髪を撫でていった。振り返れば、そこには、別れを惜しむ仲間達が、自然と横1列になって、並んでいた。
そして・・・・・・最初に口を開いたのは、彼だった。
「・・・・・・また、来いよな。」
私は、黙って頷いた。必死に笑顔を作っても、声を出したら、涙声になってしまうような気がした。
「・・・・・・っ・・・・・・。」
彼が視線をずらすのと同時に、ホームに列車が滑り込んできた。それが、軋んだ音を立ててゆっくりと止まるのに、嫌に長い時間が掛かったように感じた。
心の中で別れの言葉を呟きながら、私は胸元で手を振った。そして、皆の顔を順番に見つめてから、踵を返して、列車に乗り込んだ。
・・・・・・・・・そして。ホーム側の座席に座った、後。
「・・・・・・カッちゃん?」
「・・・・・・うん?」
私は、電車の窓から顔を出し・・・・・・笑いながら、言った。
「カッちゃんの、嘘吐き!」
「・・・・・・は?」
その言葉に、彼は反応しなかった。いや、きっと、出来なかったのだろう。
「私のこと、好きだって。」
彼は一瞬、訳が解からない、とでもいうように眉をひそめたが・・・・・・私の顔を見つめているうちに、急ににギョッとしたように目を剥いて、半歩後退った。
私は、まるでからかう様に・・・・・・あの頃とはあべこべな態度で、なおも続けた。
「全部、聞いたよ。カッちゃんが、皆に言ってくれたんだよね?」
それが、あの日の、真実だった。
彼が全てをクマザワ先生に告げ、自ら先生の制裁を受け、自ら、クラスの皆に、自分達の過ちを、なんと涙ながらに訴えてくれていたというのだ。
それは・・・・・・好きという気持ちの裏返し、というやつだったのだろう。当時の彼もその段になってようやく自覚したようだし、からかわれていた当人である私にはそんなことに気付ける余裕すらなかったのだけれど。
それを聞いたときの私の気持ちは、言葉で表現するには、少々複雑で、衝撃的過ぎるものがあった。しかし、それを強いて、簡潔に述べるとするならば・・・・・・。
嬉しかった。
本当に、心の底から。
慌てている彼の背後を見てみると、私にそのことを教えたミチコが、にやにやしながら、彼の様子を見ていた。一方その横でシズエは、そのミチコと彼を交互に心配そうに見つめているのだった。
彼はがばっと振り返って、他の皆を見回した。ヤスマサ兄弟とケンイチ君は、『自分じゃない。』と身振り手振りで必死で弁解している。そして彼は、にやついているミチコとオロオロしているシズエを見て、拳を振り上げて怒鳴った。
「お、お前等、あんだけ言っといただろ!?」
「違う、違う!ミチコが言ったの!」
「シズエ、あんたも共犯でしょ!大体、しつこいわよ、いつまでもウジウジしちゃってさ!」
彼は怒鳴ってから、もう1度こちらを覗き見るように振り向いて、私を見た。私は、もう1度にっこり笑ってみせた。
そして、昨日彼に言った言葉を・・・・・・もう1度、繰り返した。
「・・・・・・ありがとうね。」
彼はまた昨日のように、その前髪に隠れるようにして、下を向いてしまった。
彼の顔が赤くなっていたかどうかは・・・・・・西日の所為で、よく解からなかった。
そして。
私が、そんな微笑ましい様子を見ている間に、列車が、シューッ、と空気の抜けるような音を立てた。皆がそれに気付いてこちらを見たとき、丁度、今私がくぐったドアが、閉じられ、同時に、発車を告げるベルが鳴り響いた。
ガタン。
重々しい音と振動とともに、窓の外の景色が、動き出した。
列車が走り出すと同時に、皆も歩き出す。速度が上がるにつれ、歩くのが、走るのに変わった。
「またなぁ!!」
「また、帰って着てね!!」
「待ってっかんな!!」
「マキちゃん、じゃぁね!!」
「気ぃつけろよ!!」
各々に別れの言葉を告げながら、皆は、私のいる窓のすぐそばを、ホームの端まで追いかけてきた。
そして、ホームの終わりで、皆の姿が窓から見えなくなったとき・・・・・・私は思わず、窓から身を乗り出して、駅の方を振り返った。
「また来るよ!!絶対、また帰ってくるから!!」
私がそう叫ぶのに答えるように、他の5人が飛び跳ねながらなにかを大声で叫んでいる中で。彼だけは1人静かに、しかし、誰よりも大きく手を振って、こちらを見つめていた。
顔までは見えないところまで離れてしまっていたが・・・・・・そこには、ほんの数十秒前までの恥ずかしそうな彼の様子は、微塵も感じられなかったように思えた。
列車は、まるで私と皆との時間を少しでも長くしてくれようとしているかのように、緩やかにカーブし・・・・・・しかしそれでも、確実にその速度を増しながら、田園の中を駆け抜けていった。
皆の姿が見えなくなるまで手を振り続けた私は・・・・・・列車の中、数少ない他の乗客に気付かれぬように、静かに、涙した。
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陽は赤く傾き、景色を橙色に染め上げている。
窓のすぐ横を駆け抜ける風は、ヒグラシの声を、遠く小さく運ぶ。
飛ぶように流れ去る、故郷の夏の景色は。
あまりにも・・・・・・あまりにも、雄大であった。
もう何年も前に、ウェブ上で開催されていた某小説コンペに投稿させて頂いた小説です。この作品で参加させて頂いたときの募集テーマは「うそつき」でした。
初めから読み直しながら、表現など適宜修正はしましたが、話の流れそのものには手を加えていません。二次創作から小説を書き始めた自分にとっては、初めてゼロから作り上げた、思い出の作品です…少しでもお楽しみ頂けたら幸いです。




