前章 『八朔に訪れし女性の名は、保純』⑤
「御霊がお帰りになりました。以上で、降霊終了です。お疲れ様でした」
一礼する伊織に、聞いてもいないのに保純が言った。
「私、加納さんと別れる気はありませんから」
「それは、どうぞご自由に。私が口を出す問題ではございませんので」
「分かっていればいいの。それで、お代は幾らお支払いすればいいのかしら?」
「此度の降霊料は、一千万円となっております」
「い、一千万円!」
屋敷中に響くほどの大声で、保純が叫んだ。
だが、伊織は平然と繰り返した。
「はい。一千万円です」
「そんな……」
「お支払い、いただけませんか?」
伊織が、ぞっとするほどに冷酷な眼差しを向ける。
「当たり前でしょう。そんな大金……」
保純は声を震わせた。
「大金、ですか? 貴女は、これから三十億円を手にするのですよ。それに比べれば、一千万円など、微々たるものでしょう」
「……」
口を閉ざす保純に、伊織は続けた。
「それに、もし、私が然るべきところに電話を一本入れれば、それに関わる税金は、一千万円どころでは……」
「もういい。伊織さん、あんたの勝ちだ」
途中でそう答えたのは、加納だった。
「加納さん……」
保純が、「心外だ」との顔を向けてくる。
そんな彼女を加納は諭した。
「口止め料だと思えば、安いものじゃないか」
「でも……」
なおも渋る保純。
しかし、恋人の前であまり愚図るのも恰好が悪いと思ったか、
「分かったわ」
と頷くと、指定された金額を小切手に書き入れ、伊織に手渡した。
記された零の数を、伊織が確認する。
「確かに」
彼は、懐中深くそれを収めた。
「まったく、人の足下を見るなんて最低な男ね」
腹立ち紛れに保純が悪態を吐く。
だが、それを負け犬の遠吠えとばかりにさらりと聞き流すと、伊織は言った。
「それでは、玄関までお見送りいたします」
「結構です!」
きっぱりとそう告げると、保純は立ち上がり、そのままずかずかと部屋を出て行った。
「お、おい、保純」
慌てて加納がそのあとを追う。……が、何を思ったか、彼は、部屋の敷居の前で一度立ち止まり、ふり返った。
「伊織さん」
「はい? 何でしょう?」
「あんた、いい死に方しないよ」
どすの利いたその言い回しに、ふっと小さく伊織は笑った。
それから、彼は、すぐにそちらを真っ直ぐに見据えて返した。
「それは、お互い様ではないでしょうか?」
「……」
加納は何も答えなかったが、ただ、にやりと口の端を上げて笑って見せた。
「お付き添い、お疲れ様でした」
廊下の先を、伊織が促す。
彼は、そのまま黙って去って行った。
「こんなに要らなかったんじゃない?」
依頼主がいなくなった部屋で、小切手を手にした葵が伊織に話しかける。
「確かに、そうかも知れませんね。今回の降霊で渋沢様の御霊が葵に与えた影響、決して悪いものではなかったですから」
「じゃあ、どうして?」
「私、言われたんですよ。気味が悪い人、って」
「あの気の強いおばちゃんに?」
「はい」
伊織は頷いた。
「それで、その悪口の腹いせに、一千万円も取り上げたの?」
「はい」
「呆れた。それが“比類なき降霊術師”とまで言われた人のすることなの? 小さい男ね」
自分の気持ちを表現するかのように、葵は大きく首を左右にふった。
「いいんです。何と言われても構いません。これで、気が晴れましたから」
伊織は、葵が持つ小切手を取り上げた。
そんな伊織を横目に、葵が朱音に耳打ちする。
「よく見ておきなさい。あれが、駄目な男の見本よ」
「は、……はい」
返答に困りつつも、朱音は頷いた。
「聞こえていますよ、葵」
小切手に目をやったまま伊織が言うと、葵は首を竦めておどけて見せた。
そこに、ふと思い出したように朱音が尋ねた。
「あの、伊織さん。そろそろ外出の時間では?」
「え?」
慌てて伊織が腕の時計を確認すると、時刻は午後三時を指そうとしていた。
「本当、もうこんな時間なのですね。町の病院まで、ここからだと二時間はかかります。急ぎましょう」
小切手を懐に入れた伊織は、その手で朱音を抱え上げると、今度は、逆の手を葵にも伸ばそうとした。
しかし、葵は、
「私は行かないわよ。こんなに暑い中、外になんて出たら日焼けしちゃう」
と、顔をしかめて拒絶する。
「人形は、日焼けしませんよ」そう言葉にしようとして、伊織はその口を閉じた。葵が一緒にこないのは、降霊の器になりたいと願う朱音の想いを汲むものであることに気づいたからだ。
「それでは、葵は、お留守番をお願いしますね。行って参ります」
「行ってらっしゃい。朱音、伊織の面倒をしっかりと見るのよ」
手をふる葵に見送られながら、伊織と朱音は屋敷をあとにした。
ご訪問、ありがとうございました。
これにて、前章終了です。
次回からは、後章。更新は、3月17日(金)を予定しています。
引き続き、後章もよろしくお願いします。それでは、失礼いたします。