前章 『八朔に訪れし女性の名は、保純』②
玄関からすぐ左手へと続く細長い廊下を歩き、最奥の右。障子を隔てた先は、十二畳の和室になっていた。客間や応接間と呼ぶにはあまりにも殺風景な、まったく何もない部屋である。
上座に厚みのある座布団を二枚出し、二人にそこで待つよう告げると、伊織は別室へと姿を消した。
伊織が遠くに離れたのを確認したのち、保純が、隣の加納にそっと耳打ちする。
「ねぇ、あの人、本当に信用できるんでしょうね?」
「もちろんだよ。それこそ、古今東西に例を見ないほど腕は確からしい。でも……」
「でも、何なの?」
「あの柔らかな物腰の裏には、別の顔があるって噂なんだ」
「別の顔?」
「あぁ。あの男が請求する降霊料が、時価だって話はしたよな?」
「えぇ」
「それが、億単位の料金を請求されることもあるそうなんだ」
「お、億? そんな法外なお金、支払うわけが……」
「払っているんだよ。あの男に降霊を依頼した人たちは、皆、必ず」
「どうして?」
「分からない。だが、金を払ったということは、恐らく、見たんだろうな。優男っぽいあいつの、別の顔を……」
「何だか、怖い話ね。大人しそうなのに、気味が悪い人」
眉を顰めて保純が言ったその時、
「大丈夫ですか? ご気分が優れないのですか?」
と声が聞こえてきた。いつの間にか、伊織が部屋の敷居の前に立っていたのだ。
「あ、いえ。だ、大丈夫です」
飛び跳ねんばかりに驚いた保純は、慌てて首を横にふって見せた。
「そうですか。ですが、お顔の色がよろしくないようです。お大事になさってください」
保純の体調に気遣いを見せると、伊織は、二人の対面に端座した。彼の左右には、今し方別室から持ち込んだ箱が、ひとつずつ置かれていた。いずれも、ランドセルほどの大きさの桐箱である。
「伊織さん。それは?」
二つの箱を目に留め、加納が尋ねた。
「これですか? これは……」
そう言いながら伊織が、左右の桐箱を自分の前に出してその蓋を開ける。
中に入っていたのは、どちらも日本人形。一体は赤色の、そして、もう一体は、藍色の着物を身に纏った少女の人形だった。
双方の大きさはほぼ同じだが、顔つきや髪形から判断するに、赤い着物は十歳ほど、藍色の着物のほうは十五、六歳である。
伊織は、まるで我が子のように二体の人形を両の腕に大事そうに抱えると、続けた。
「ご覧のとおりの日本人形です。しかしながら、通常の人形とは異なる点が、ひとつ。それは、この娘たちは、私の術により、生命を得ているということです」
「はぁ?」
加納が頓狂な声を上げる。
「信じられませんか? では、証拠をお見せするとしましょう」
そう言うと、伊織は空の桐箱を退かし、畳の上に二体の人形を並べて寝かせた。
黙って見ている二人の前で、何やら呟くように呪を唱え始める。それが終わると、彼は、最後に手をひとつ打った。
その途端、
「お呼びでしょうか? 伊織さん」
明らかな子供の声とともに、赤い着物を着た人形のほうがむくりと起き上がった。
「はい、お仕事です。ご依頼主は、あちらの女性の方で、渋沢保純様。男性は、お付き添いの加納様です」
伊織がそう答えると、赤い着物の人形は二人へと向き直った。
それから、一度端座をし直し、
「渋沢保純様、加納様、初めまして。私、朱音と申します」
と、実に礼儀正しくその頭を下げた。
「あの、伊織さん。……いったい、これ、どんな仕掛けで?」
突然動き出した人形相手に挨拶を返すなどできようはずもなく、加納が伊織に尋ねた。
「仕掛けなどございませんよ」
伊織がにこりと笑う。
そこに、今度は朱音が、
「伊織さん。葵姉様が目を覚まされないのですが……」
と、不安そうに聞いてきた。
「おや? 本当ですね。葵、起きてください。葵」
今も横になったままの藍色の着物を纏う日本人形を伊織が軽く揺する。
すると、
「……煩いわねぇ。起きているわよ」
そんな面倒そうな声とともに、葵は、伊織の手を押し返した。
「よかった。心配したんですよ、葵姉様」
朱音が抱き縋ると、葵は漸くゆっくりと上体を起こした。
「平気よ。最近、私にばかり仕事が回ってきていたから、ちょっと疲れているだけ」
「そうですか……」
「それで、あの人たちが、今回の依頼者?」
葵は、朱音から上座のほうへと視線を移した。
「はい。ご依頼主の渋沢保純様と、お付き添いの加納様だそうです」
そう朱音が答える。
「ふーん」
自分で聞いたにも拘らず、葵は、さほど興味がなさそうな返事をすると、不承不承といった様子で伊織の右隣に端座した。
すぐさま、朱音も、伊織の左隣に並ぶ。
自由に話し、自在に動く二体の人形を、保純と加納の二人は、ただ唖然として見つめていた。
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