前章 『八朔に訪れし女性の名は、保純』①
前章 『八朔に訪れし女性の名は、保純』
午後一時を少しすぎたころのことだ。ひとりの女性が、伊織の屋敷を訪ねた。
年の程は、三十路後半。中年と言って差し支えのない年齢の女性である。
玄関で応対する伊織が用件を問うまでもなく、彼女は口を開いた。
「占い師がいらっしゃるというのは、こちらですか?」
伊織、確かに占いもやらぬことはない。
だが、あくまでもそれは自分のためであり、本業は降霊術師。ドールマンサーである。
とはいえ、このような間違いはよくあること。
そこで彼は、
「左様ですが……」
と、何の躊躇いもなく答えた。
「そうですか。では、占ってください」
「降霊施術を? 今すぐにですか?」
伊織が戸惑う。
ところが、それでも女性は大きく身を乗り出し、
「はい」
と、頷いて見せた。
このように、前に出てくるタイプの女性を大の苦手とする伊織は、思わず半歩後退りした。
「あの、どなたの降霊をお望みなのかは存じませんが、本日は先約がありまして、できれば、日を改めてお越しいただけますでしょうか?」
幸運なことに、伊織に先約があるのは本当だった。
しかし、彼のこの返答は、裏目に出てしまったようだ。
少し語気を荒げて女性は言った。
「日を改めて、って、貴方、あの石段をもう一度上がってこいとおっしゃるのですか?」
「え? 石段が何か? 私は毎日使っておりますが……」
「石段自体ではなくて、段数の問題です。貴方は男性だから平気でしょうが、私は女なんですよ。あんなに長い階段を、そう何度も上がる気にはなれません」
「そうですか。それは、困りましたね」
伊織が言葉どおりの困り顔を見せたまさにその時、女性の背後から、ひとりの人物がひょっこりと姿を現した。
それは、女性よりひと回り以上も歳の差がありそうな、それでいて妙に落ち着いた雰囲気漂う若い男性だった。
男性は、伊織に向かって軽く会釈をすると、
「私、保純の、……あ、いえ、渋沢の付き添いで参りました加納と申します」
と、挨拶をした。
「は、はぁ。どうも」
困り顔のままで伊織も会釈を返す。
加納は、保純の肩にそっと手を置くと言った。
「実は、彼女には、十年間連れ添った旦那がいたんですが、三か月ほど前に他界しまして……」
「なるほど。その方の御霊を降ろしたいと?」
「そのとおりです。どうでしょうか? 何とぞ、お引き受け願えないでしょうか?」
加納は、保純の後ろからその頭を深く下げた。
「そうですねぇ……」
少し、考える素振りを見せる伊織。
しかし、その腹は、降霊施術を行うことで既に決まっていた。別に夫を想う女性の情に絆されたわけではない。彼女の名前と今日が八月一日であることに理由があったのだ。
八月一日は、一日が朔日とも表現されることから、八月朔日。略して、八朔と呼ばれる。
それとともに、八月一日だけの特別な呼び名として、“ほずみ”がある。
そして、今日、屋敷を訪れた女性の名も、保純。
つまり、八月一日の日に保純がやってきた、というわけだ。
一般の者たちは決してそんなことはないだろうが、降霊術師である伊織はこういった縁というものを気にかけ、また、大事にもしている。それだけに、放っておくことができなかったのである。
「お願いします。伊織さん」
再び頭を下げる加納に、伊織は告げた。
「承知しました。引き受けましょう。……ですが、ひとつだけ条件があります」
「何でしょうか?」
「実は、今朝の占術で、“本日、降霊施術を行う場合、同席者があるのは凶”との結果が出ております。そのため、加納様は、この場でお待ちいただくということになりますが、それでもよろしいでしょうか?」
「はい。構いません」
加納が即答する。
だが、ほぼ同時に、保純からも声が上がった。
「いいえ。それは、困ります」
「我儘を言うんじゃない」
やっとまとまった話なのに、と、慌てた様子で加納が割って入る。
しかし、それでも彼女は、自分の意見を曲げようとはしなかった。
「伊織さん、貴方、占い師なんでしょう? 加納さんの同席が凶だとおっしゃるのでしたら、そうならないようにしてくださればよいのではないですか?」
と、伊織に詰め寄った。
これに対し、伊織は冷静に返した。
「私個人のことでしたらどのようにでもいたします。しかしながら、此度の凶相は、私にではなく、ご依頼主に出ているのです」
「え? 私に? それは、加納さんが私に災いをもたらす、という意味ですか?」
「まぁ、そういうことです。もちろん、降霊施術に加納様がご同席なさった場合に限りますが」
「それなら、心配無用です。加納さんが私の災いになるなんて、考えられないことですから」
伊織の言葉を、保純は鼻で笑った。
「そうですか」
呟くように返事をして伊織がちらりと加納に視線をやると、彼は表情を変えることなく静かな眼差しで見つめ返してきた。
小さくひとつ溜め息をつき、伊織は加納から視線を外した。
それから、今度は、それを保純へと向けて告げる。
「まぁ、いいでしょう。ですが、覚えておいてください。私は、忠告しましたからね」
「平気です」
強気で答える保純に、微かに哀れむような表情を見せると、伊織は二人を屋敷の中へと招き入れた。
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次回更新は、3月5日(日)、啓蟄の日の予定です。