後章 『死の淵に立つ少女の名は、沙耶』⑦
「さ、沙耶。……おい、返事をしてくれ、沙耶」
声をかけるが、沙耶からの応答はない。
しかし、それでもなお真島は、娘の名を呼んだ。零れる涙が頬を伝うが、それを拭うこともなく、彼は、娘の名を呼び続けた。
……すると、
「お父さん、いるの?」
朱音の口から声が聞こえてきた。
すぐさま人形に飛びつき、真島が返す。
「いる。ここにいるぞ。お前の、沙耶のお父さんだ」
「……よかった。やっとお話しできた」
心底嬉しそうに沙耶は言った。
「あぁ、本当によかった。それで、大丈夫なのか?」
「うん、平気。たくさんの人に抱えられた時、声が聞こえてきたの。沙耶の名前を呼ぶ声。あ、お父さんだ、って気づいたら、知らない人たち、皆いなくなってた」
「そうか」
「ねぇ、お父さん」
「何だ?」
「もう一度、沙耶と一緒に暮らそう。お父さんとお母さんと沙耶と、三人で」
「そうだな」
「じゃあ、病院にいるから会いにきてね」
「約束する」
真島がそう誓うと、沙耶の声はそこで途絶えた。
「お、おい、どうなったんだ?」
慌てて尋ねる真島に、伊織は答えた。
「戻ったのですよ、沙耶さんの魂が、彼女の体に。私が魂を御霊として降ろすことができるのは、一両日中に死が決定づけられている方に限りますから」
「それは、つまり……」
「はい。もう沙耶さんは大丈夫です。直に意識を取り戻すことでしょう」
「そうか、それは祝着だ。ありがとう、伊織さん」
真島が、喜び勇んで手を差し出してくる。
だが、それを握り返すことなく伊織は告げた。
「今、この場でお礼を言われるのは困ります。何故なら、まだ貴方は……」
「分かっている。もちろん、会いに行くさ。沙耶と由紀に」
「それがよろしいでしょう」
大きく頷くと、漸く伊織は真島の手を握った。
「だが、未だに降霊術師を続けている私を、由紀は許してくれるだろうか?」
思い悩む様子で問う真島に、伊織は答えた。
「由紀さんが許せなかったのは、貴方が降霊術師を続けていたからではありません。本来の修行を疎かにし、違法紛いの霊感商法をやっていたからです。その証拠に、彼女は一度、貴方の手助けをしようと降霊術の勉強をなさっていたではありませんか。真島さん、もし、貴方がひとつの仕事に真摯に取り組むのならば、由紀さんは、きっと貴方とともにいてくれるはずです。たとえそれが、降霊術師であろうと、別の仕事であろうと」
「そうか。では、俺は、もう一度やり直せるのだろうか?」
「もちろんですよ。だって、貴方には、帰ってきて欲しいと思ってくれている人がいるではないですか。帰る場所がある人は、必ずそこから再出発できるのです」
「……ありがとう」
淡く笑みを浮かべる真島に、伊織は、
「あ、そうです、そうです」
と、何かを思い出したように懐に手を入れた。
それから、取り出した一枚の紙を真島に手渡す。
「それ、再出発した記念に、私からの餞別です。受け取ってください」
「え?」
真島は紙に目を落とした。
それは、昼に伊織が保純から貰い受けた一千万円の小切手だった。
「お、おい、さすがにこれは貰えない」
慌てて真島が返そうとする。
「いえいえ、どうぞお納めを。お金は、それを必要とする方が持つのが一番ですから」
「必要? あぁ、沙耶のことか。……すまない」
真島の礼に、伊織は、「構いません」と、小さく首を横に振って見せた。
「では、私はこれで。あ、そうだ。近い内に、病院へ顔を出してもよろしいでしょうか?」
「もちろんだとも。三人で、出迎えさせてもらうよ」
「それは賑やかですね。ならば、私も三人でお邪魔することにしましょう。私と朱音と葵の三人で……」
そう言うと、伊織は朱音を優しく抱き上げた。
顔の辺りまで軽く手を上げ、見送る真島。
それに微笑み、会釈をすると、伊織は部屋をあとにした。
午後九時。オフィスビルを背に、伊織がゆっくりと歩き出す。
何気なく見上げた街中の夜空は、星々が煌く屋敷のそれとは異なり、吸い込まれるように黒く、そして、狭かった。
「ふふっ」
ふと寂しげに小さく笑い、伊織がその歩みを止める。
それに気づき、朱音が尋ねた。
「伊織さん、どうしました?」
「いや、あれだけ恰好をつけてしまってから言うのもなんですが、結局、只働きになってしまったな、と」
「まぁ、伊織さんったら」
咎める朱音の眼差しから痛そうに逃げると、伊織は続けた。
「ですが、本日は、朱音も葵も、渋沢様や沙耶さんから大変よい影響を戴きましたので、これで、よしとしますか」
「うふふ。そうですよ。……さて、葵姉様が心配なさっていることでしょうから、急いで帰りましょう」
「えぇ、そうですね」
可愛らしく笑う朱音に促され、伊織は、再び帰路へと歩を進め始めた。
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これにて、本編終了です。次回は、エピローグ。最終回となります。
更新は、4月7日(金)を予定しております。