後章 『死の淵に立つ少女の名は、沙耶』⑥
「それでは、朱音。器の準備を」
「はい」
返事とともに、朱音が、その優しげな瞳を閉じる。深く呼吸をして約五秒。再び目を開いた時には、動くことのない人形になっていた。
「沙耶さんの御霊、お招きいたします」
伊織は両手を掲げた。間もなく、右の手と左の手、その間の空間が、淡く青色に輝き始める。ただ、部屋が薄暗いためか、その光は、いつもよりも心細く感じられた。
青い光は、朱音の体内へと入っていく。全ての光を取り込むと、その体は一度小さく震えた。
「降霊完了です」
真島にそう告げ、伊織は、朱音の背に手を当て呼びかけた。
「沙耶さん、お待たせしました。伊織です。聞こえますでしょうか?」
しかし、返事がない。
「沙耶さん?」
もう一度伊織が名を呼ぶと、沙耶の声が、途切れ途切れで聞こえてきた。
「……けて。……た、……けて」
「沙耶さん、どうしました?」
この三度目の呼びかけで、漸く沙耶は反応した。
「え? 伊織さん? ねぇ、助けて。知らない人が沙耶の腕を引っ張るの。このままだと、連れて行かれちゃう。……もう! 放して!」
沙耶は何かに必死に抗っているようだ。
「待ってください。今すぐ」
言うが早いか、伊織は幾つかの呪を唱えた。
その途端、
「放してって、……あれ?」
沙耶の声は、拍子抜けするほど穏やかになった。
「大丈夫ですか?」
「うん。知らない人、消えちゃった」
「それはよかった」
伊織がほっと息をつく。
すると、先ほどまでの出来事が嘘のように、けろりとした声で彼女は聞いてきた。
「あ、そうだ。伊織さん、お父さんは見つかった?」
「はい、いらっしゃいましたよ。代わりますね」
そう告げ、伊織は朱音の背から手を離した。
「お願いします」
真島を促す。
彼は、恐るおそる朱音の背中に手を当て、口を開いた。
「……さ、沙耶。俺だ。お父さんだ」
「……」
だが、向こうからは何も返ってこない。
「念が足りません。もっと思いを込めて、強く」
伊織からのアドバイスに、真島は、再度力を込めて娘の名を呼んだ。
「沙耶、聞こえるか? 沙耶」
しかし、
「ねぇ、伊織さん。本当にお父さんいるの? 声が聞こえないよ」
沙耶の応答は、父の存在を訝るものだった。
やはり、真島の声は彼女に届いていないようだ。
仕方なく、伊織は朱音の背に手を当てて返した。
「沙耶さん。お父さんは、間違いなくこちらにいらっしゃるのですが……」
「じゃあ、どうして何も話してくれないの?」
「それは……」
伊織が言葉に詰まると、沙耶は悲しげに言った。
「お父さん、沙耶とお話ししたくないんだ」
「いえ、決してそんなことは……」
その時、
「あれ、……何なの?」
沙耶が、再び異変を口にした。
「どうしました?」
「さっきと同じ知らない人が、……たくさん」
「たくさん?」
「うん、百人ぐらい。ど、どうしよう。皆、沙耶のほうにきてる。伊織さん、助けて!」
「は、はい」
伊織は呪を唱えた。
だが、
「だ、駄目、間に合わな……、は、放して! 放してってば!」
抵抗する沙耶の声が聞こえるばかりだ。
額に汗を浮かべて、伊織は呪を唱え続けた。
そこに、
「代わってくれ!」
いきなり真島が割って入った。
伊織を押し退けた真島は、朱音の背に手を当てて叫んだ。
「沙耶!」
「はな、して。……はな、……し」
チューニングの合わないラジオのように、少しずつ沙耶の声が途切れ始める。
ひしと朱音を掴み、真島は有らん限りの声で叫んだ。
「沙耶ああああぁ!」
同時に、
「きゃあああああ!」
朱音の口が、断末魔のような絶叫を響かせた。
ご訪問、ありがとうございました。
次回更新は、4月4日(火)、清明(二十四節気で春分の次)の予定です。