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エレベーターで降りる途中に確認したが、やはり録音は妨害を受けていた。会話の音声が完全にノイズで掻き消されているところをみると、よほど強力な携帯型妨害電波発生機を使ったとみえる。今回の遭遇が意図的なものでないとするなら、日頃から違法機器を持ち歩いていることになるが、それならなかなか大した女と言えよう。
それにしてもいったい彼女はどうやって私の情報を手に入れたのか。第三世代人工知能を導入している、プロジェクトFのセキュリティ相手にハッキングはありえない。ならば内部で情報を売った奴がいると考えるべきであろうか。いずれにせよ、この問題を追及しないわけにはいくまい。問題と言えば、プロジェクトFの戦闘員が米軍のレンジャーと接触を持ったのだ。こちらに作為性がないとは言え、うちの情報保全部が黙ってはいるまい。そう遠からぬ未来に追及を受けることとなるだろう。
ひとまず社に戻るためロビーを抜けて表に出ると、ボンネットに飛鳥証券のマークが電子表示された車がこちらに来るところだった。部長が手配してくれた銀色のレンタカーは、自動運転で私の前に停止すると、ドアの電子表示部分が「鍵を挿入してください/Please insert key」と点滅する。
ここ十数年の間における自動車業界の進歩は、目覚ましいと言っても過言ではない。電力革命と呼ばれる二〇二九年の非接触電力伝送(wireless energy transfer)技術の確立、並びに二〇三一年の宇宙太陽光発電(Space-based solar power)の実用化により、地上の電力事情は劇的に向上し、その恩恵は自動車業界にも及ぶこととなった。私が子供の頃にはまだ手動運転のガソリン車が走っていたが、二〇三三年には大手自動車メーカーはガソリン車の販売を終了。電動自動車生産へ完全移行し、翌三四年には自動運転装置の搭載が法律で義務化。そして今から十年前にあたる二〇三七年よりスカイネットこと、衛星交通管理システム(Satellite traffic control system)の導入により、全ての車両がシステムの管理下に置かれることで、いよいよ交通社会は新世紀を迎えたのである。
国家単位の交通システムを一括管理することは、既存のシステムでは不可能とされていたが、現在も開発が進む光コンピューターの開発過程で実用化した「光/電子ハイブリッドコンピューター」の登場がこれを現実のものとした。フォトニック結晶の製造が不安定なため、民間には出回っておらず稼働台数も少ないが、スーパーコンピューターを遥かに凌駕する情報処理能力を備えた新型コンピューターは、管理範囲内の全交通網を把握し、交通システム専用の回線で登録車両の運行システムを管理。行き先を告げるだけで最適なルートを選択し、自動運転で目的地まで運行する全自動型のシステムは、旅客運送はもとより貨物運送でも活躍を見せている。、また安全面でも交通事故の発生を激減させ、車両による犯罪を不可能なものとし、同時期に起きたレアアース危機のため遅れてはいるが、今では世界的な導入が進められている。
無論便利な反面、危険性も示唆されている。そもそもスカイネットと言う通称も、人工知能によって交通インフラが支配される未来を懸念して、システム導入以前に古いSF映画からの揶揄を込めてつけられた呼び名である。戦時やテロリズムの攻撃目標となりえることはもとより、システムの故障やサイバーアタックにより交通インフラが麻痺する懸念は当然のものと言えよう。そのためシステムは天地式、すなわち人工衛星(天)と交通管理局(地)の二つの頭脳を並列化することで管理し、有事や故障の際には一方だけでも代行できる体制がとられている。またた光/電子ハイブリッドコンピューター用に開発された第三世代人工知能「メタトロン」が張り巡らすサイバー防壁は、いまだ人間の手で突破されたことのない強固さを誇っている。
自家用車ではないため、私はポケットから六角柱型のライセンス・キーを取り出し、スロットに挿入する。スカイネット導入後、車のキーは免許情報やカーアシストシステムの個人設定などが記憶されたメモリスティックと一体化し、情報を読み取った車載コンピューターが私を旅客対象と認証してドアを開く。一昔前のガソリン車と異なり、車の内部は快適な客室となっており、環境調整システム(environmental adjustment system)の働きで快適な温度に保たれ、空気も爽やかだ。革張りのソファに腰を落ち着けると車は滑るように走り出し、フロントガラスのスクリーンに見慣れた執事の姿を映し出す。
「おかえりなさいませ、雅哉様。相良様よりお一人で帰社する件は窺っております。当車ジャパン・レンタカー・サービス所属の「ウィンゲートFX」は、飛鳥証券長野支社ビルへ向かっており、到着は四十八分後、午前十一時四十二分を予定してございます。目的地に変更はございますか?」
厳格さと老獪さを感じさせる初老の男性が、私に穏やかな笑みを投げかける。白髪を撫でつけ燕尾服を着こなした、いかにも執事然とした男は、私のカーライフアテンダント「セバスチャン」である。
快適な自動車生活を実現するため、全自動運転の次に自動車メーカーが提供したのが、この人工知能によるサポートシステムである。「あなたの車に優秀な従者を」と言うメーカーの謳い文句に恥じず、カーライフアテンダントは車両の運行管理や環境設定、車内設備の使用を音声指示で受理。学習型の人工知能であるが故に、長く付き合いほど性格や嗜好を理解し、まるで本物の人間のような気配りを見せてくれる。私はコートを脱いで傍らに置くと、セバスチャンに指示を出す。
「いや、行き先に変更はない。相良部長に到着予定時刻と、車の手配を感謝するメールを送っておいてくれ」
「承りました‥‥、送信致しました。他にご用命はございますか?」
「社に戻るまで一仕事したい。フロントスクリーンにビジネスニュースと日経平均のリアルタイムチャート、それとコロンビア経済自治区の暴動に関する報道を三分割で表示。それから車内温度を二度ほど上げてくれ」
「かしこまりました。日々春めいてきましたが、外はまだ寒いようでございますな。温かいお飲み物などいかがでしょう?」
「ああ、コーヒーを頼む。いつもので」
「ではモカ・マタリのエスプレッソを砂糖一杯半でご用意させて頂きます」
一礼してセバスチャンの姿が消えると、指示通りの映像が現れる。全十種類ある従者の中から私がこの執事を選んだのは、落ち着いた雰囲気と口数の少ないところが気に入ったからである。私くらいの年代の男性には、長い黒髪が美しい大和撫子タイプの「静香」や、グラマラスなボディのブロンド美人「クリスティーン」の人気が高いが、女性タイプは気が散るので好まない。このセバスチャンにしてもそうだが、いかに親近感を覚えようとて、しょせん相手は人工知能。人間相手のつもりでいると、コミュニケーション能力に支障をきたす。現に「乖離性現実生不適合症」や「疑似人格依存症」など人工知能依存の精神疾患が社会問題化しているのも事実。対応を誤れば、本物の人間は気分を害したり怒ったり、切れたりすることを忘れてはいけない。
エスプレッソ・マシンからコーヒーの香りが漂いだし、私は作業に集中することにした。サイバーブックを開き、プロジェクトF本部にいくつか確認をとると、対プレシャス社用の資料を作り始める。社に戻るまでに草稿くらいは立てておきたい。
作業は順調にはかどり、三十分もしないうちに一段落ついた。少し気を張りすぎていたか、多少疲れを覚え、根を詰めすぎるのも良くないと思いリクライニングを倒して横になる。何気に外に目を向けると、郊外の田園地帯を走行中だとわかる。ぼんやりと天井を見上げながら私はセバスチャンを呼び出した。
「お呼びでしょうか、雅哉様」
「この車にスケルトンモードは搭載されているか?」
「ございます。ちょうど郊外を走行中で、天気も大変よろしゅうございます。お使いになられますか?」
「そう言えば、夕方から天候が崩れそうだが、どうなっている?」
「‥‥気象庁に確認しましたところ、十七時以降の長野市の予報は曇り、降水確率は二〇%となっております。もっと詳しい情報は必要でしょうか?」
「いや、いい。少し休みたい、到着五分前までスケルトンモードを展開。もし寝ていたら起こしてくれ」
「かしこまりました。それでは、ごゆるりと」
一礼したセバスチャンの姿が消えると、同時に車の外壁まで消えていき、眩い太陽の光が差し込んでくる。ある程度ハイクラスな車種に限られるが、外装に電子スクリーン処理を施した車は特殊偏光モードに切り替えることでボディを透明化し、究極のオープンカーへと変貌する。外からは普通の車に見えるが、内側からは壁を透過して屋外の景色が見えるようになるこの新技術は、CMで紹介されるや大人気を博し、高級車への羨望を一層のものとした。
外はのどかな景色が広がっていた。まだ田おこしも始まってない荒れた田んぼを、エサでもいるのか、鳥がせわしなげについばんでいる。寝転がって空を見上げれば弧を描いて飛ぶトンビの姿が見え、走行中の車に乗っていることを忘れ、日向ぼっこでもしているような気分になる。柔らかな日差しを全身で浴びつつ目を閉じると、まどろむような心地良さに包まれる。
東京生まれの東京育ちで、ずっと都会の暮らしに慣れていた私だが、こういう山に囲まれた田舎の暮らしは思いのほか気に入っていた。私が自然に対して敬意を抱くようになったのは、大学に入って間もない頃、縁あって参加した登山に由来する。初めて北アルプスの頂に達し、雄大な自然を目の当たりにした時の感動を生涯忘れることはないだろう。それまでは人間社会の頂を目指してきた私だが、自然の前で人間などちっぽけな存在にすぎず、自分の考えがいかに利己的なものかと思い知らされた。以来登山は自分を見直す心身練磨の機会としてとらえるようになり、それは自らの傲慢が招いた失敗で、全てを失った今でも変わってはいない。
ぽっかり浮かんだ雲が、束の間太陽の光を遮る。おそらく午後からは会議で一日を費やすこととなるだろう。当面こちらの仕事に集中したいが、明日はプロジェクトFの訓練に参加せねばならない。今日中にある程度めどがつくまで進めておくなら、深夜までかかることは請け合いだ。ならばしばしの休息を求めても罰は当たるまい、そう呟いて私はひと時の安らぎに身を委ねることにした。
三十分後。予定に反し、私はとある建物の独房のような一室にいた。いや、正確には連行されたというのが正しい。長野市にある飛鳥証券のビルに着いたところで黒服の男達に囲まれ、同行を余儀なくされたのだ。
連行された先は、表向き「飛鳥重工バイオテクノロジー研究開発部門 第二研究施設」との名称で、医療用強化筋肉繊維をはじめとする様々な医療研究が行われている施設となっているが、実態は全国に四か所あるパワードスーツ開発の研究施設の一つである。ここではプロジェクトFに関するほとんどのことが行われており、我々テストパイロットも普段は、この施設で様々なテストや検査を受けたり、訓練に従事している。同時に秘密結社「ファウスト」の秘密基地とも称されており、戦隊作戦におけるドラマパートの撮影も、この施設にあるスタジオで行われる。
だが、私が通されたのは、立ち入り禁止区画とされる情報保全部の管理棟。窓すらない殺風景な部屋はさしずめ尋問室と言ったところか。拘束こそされていないが、唯一の出入り口たるドアの前には黒服の大男が二人、不動の姿勢で待機している。やむを得ず椅子に腰かけて待つと、ほどなく二人の男が姿を現した。
向かいの椅子に年配の五十代と思しきグレーのスーツの男が座り、手にした封筒から無言のままに写真を並べ始める。予想通り、そこにはTrixisビルの屋上で話す、私と桜井女史の姿があった。肩に手をかけて親密そうに話す姿も映されており、傍目には恋人同士の逢瀬にも見える。
「説明してもらおうか‥‥」
こちらはイノシシのようないかつい顔をした三十代の偉丈夫が、唸るような声で命じる。どちらも面識はないが、情報保全部のエージェントに間違いなかろう。彼らが出張ってくるのは想定内だが、思っていたより対応が早い。
バンッ!
狭い室内に音が響く。イノシシ面がデスクを叩き、写真がびっくりしたように飛び上がる。どうやら黙っていたのが気に入らないらしい。立ったままのイノシシ面は蔑むような目つきで見下ろしてくるし、入口の黒服共も無言の圧力をかけてくる。普通ならこれで居たたまれなくなるのだろうが、やれやれ私も舐められたものだ。こんなこけおどしが通用すると思っているのか。
「まずは自己紹介ぐらいしたらどうだ。それとも情報保全部の狗は脅せば話すような小心者しか相手をしたことがないのか?」
「おい貴様、頭に乗れる立場だと思っているのか」
今にも殴り掛からん勢いで、偉丈夫が顔を近づけてくる。大きい顔の割に目が小さく、鼻息も荒い様はまさにイノシシを連想させる。これで頭の中身も獣並みなら救いがないが、プロジェクトFの人事審査がそこまで甘くないことを願うとしよう。
「私は軍事部兵装開発課、パワードスーツ開発チーム戦闘モニター班小隊長の城ケ峰雅哉だ。我々戦闘モニター班はクイーン・イリーヤ作戦指揮官、並びにアスタロテ総統閣下直属の部下である。所属の確認できない相手に情報の開示はできない」
正攻法で対峙され、男の瞳に動揺が浮かぶ。同時に少しは冷静さも取り戻したか、舌打ちをしてではあるが諦めたように身を離す。少なくとも脅しが通じるような相手ではないと判断したのだろう。すると待ち受けていたかのように、それまで無言だった向かいの男が、温厚そうな笑みを浮かべて切り出してきた。
「まぁ落ち着きなさい、佐藤君。彼の言うことはもっともです。申し遅れましたが私、情報保全部情報管理課主任の鈴木と申します。さて貴方には現在、接触禁止条例違反、機密漏洩、並びにスパイ容疑がかけられているわけですが、プロジェクトF秘密保守契約事項第一条八項に基づき、私には機密漏洩の嫌疑がかけられた者に対して尋問を行う権利があります。それでは、この写真が表すことをご説明頂けますか」
なるほど、この二人は「良い警官・悪い警官」を演じているわけか。古典的ではあるが、尋問にはそれなりに効果的な手法と言えよう。改めて写真に目を落すと、どれにも画像補正をかけた跡がある。おそらくサイバーブックのカメラで撮影したものが電波妨害の影響で、まともに映っていなかったのだろう。一般の裁判でなら、証拠能力を疑われるような代物だ。
「‥‥これだけか?」
「はい?」
「こんな修正された写真だけで、私にスパイ容疑をかけているわけではあるまいな。西村は集音マイクくらい持ち歩いていなかったのか。せめて会話を録音したものぐらいは提示してもらいたい」
西村の名を出されて、佐藤と呼ばれたイノシシ面の顔がピクリとひきつる。あの鞄持ちが保全部の内部調査員であることくらい最初から気づいていたことだ。いくらワーキングテスト法がプロジェクトの一環とは言え、重要機密を知っている我々を監視もつけずに放置するなどありえない。さすがに鈴木主任とやらは承知の上らしく、にこやかな笑顔を崩さない。
「あいにく西村君は保全部の人間ではなく協力員に過ぎないので、反妨害電波発生装置までは用意してなかったようですねぇ」
「白々しいことを。貴様らがどんな妨害電波発生装置を使ったか知らんが、録音がないにしても監視カメラの映像や目撃証言だけで十分接触を持ったことを証明‥‥」
「落ち着きたまえ、私は何も接触があったことを否定してるわけではない。確認したかったのはそちらが現状を把握してないということだ」
これ以上イノシシ面を近づけられてはたまったものではない。どこまで演技か知らないが、憤る佐藤に対して私は答えた。
「‥‥つまり、米軍のテストパイロットと接触を持ったことは認めるのですね?」
「ああ、だがこれは情報保全部の重大な情報漏洩が原因だ。聞かせてもらおう、なぜあの女が私の個人情報を知っているのだ?」
眉をひそめる鈴木に、私は事の次第を説明した。情報管理課の主任は怪訝な表情を浮かべて聞いていたが、話が進むにつれ笑顔が凍り付いていくのがわかる。獅子身中の虫を炙り出すつもりが、痛くもない腹を探られて、業病が出てきたのは自分たちの方だったと言う話だ。笑顔の鉄面皮を崩さないのはさすがだが、内心歯噛みする思いであろう。
「‥‥なるほど、要するに貴方は、我々の側に落ち度がある。そう仰りたいわけですね」
「プロジェクトFの機密情報は、メタトロン《第三世代人工知能》に守られているのだろう。ハッキングが考え難い以上、人為的な流出を疑うのは当然のことだ」
「馬鹿な、そんなのは貴様が保身のためにでっち上げた言いがかりだ。それこそ、何の証拠もない出まかせだろう」
まったく、これではどちらが尋問しているのか分かったものではないな。とは言え、こちらの言い分に説得力がないのは事実である。かと言って、向こうは向こうで証拠と呼ぶにはお粗末なものしかない。この場合、切り札を持ってる方が有利な状況を作れる。
「証拠か‥‥、では私が潔白を証明して見せれば、君達は非を認めるわけだな」
「と、仰るからには、何か確たるものをお持ちなのでしょうね」
「それが実は、ある。ところでこの部屋から外部との通信は可能なのか?」
いぶかしむ鈴木が可能であることを告げると、私はサイバーブックを開き、プロジェクトFの作戦部情報解析課とコンタクトをとる。依頼してあった映像の翻訳は完了しており、ダウンロードを確認する。飾り気のない部屋の壁はスクリーンとして最適だろう。プロジェクターモードで壁に映像を投影すると、そこにはビルの屋上に現れる私と桜井女史の姿があった。
「これは、何の映像ですかな」
「先ほど私が桜井女史と話をした時の録画だ」
「録画だと?それは電波妨害でまともに映らないはずだろう」
「そうだ。私も録音を試みたが、電波妨害で防がれた。おそらくあの女が使った電波妨害発生装置は、強力な分、範囲が限られる短距離障害型だろう。だから少し離れたところから撮る必要があったのだ」
画面の中で私はビルの屋上をぶらつきながら、フェンスを背にもたれかかる。向かいに立つ桜井女史共々横からのアングルで撮影されており、二人が立ち止まるとカメラが若干ズームし顔に焦点を絞る。強い風がコートをはためかせているが、音声は聞こえてこない。
「合成映像とも思えませんが、いったいどうやってこんなものを撮ったのですか」
「隣のビルにあるテレビ局のカメラを拝借した。出所を疑うようなら、作戦部に履歴がある。確認をとりたまえ」
桜井女史との接触には、私も慎重を期していた。彼女が無防備に接してくることから、何らかの電子対策を講じていることは予想していた事態である。そこでこちらも対策として、階段を上る間に作戦本部へ緊急指令を与えていたのだ。戦隊作戦を最前線で指揮する私には様々な権限が与えられており、こと機密保持に関しては作戦指揮官に準ずる権限を有している。隣のビルに安曇野市の町並みと北アルプスの遠景を映すカメラがあることは、テレビを見て知っていたことで、そのカメラをコントロールして屋上に出てくる二人を、特に口元を録画するよう指示していた。テレビ局の定点カメラを利用するなど、国内メディアを掌握している飛鳥グループにとっては造作もないことである。
画面の中の桜井女史が笑みを浮かべ、乱れる髪を押さえながら口を動かす。観測用カメラであるため音声は入ってないが、代わりに画面下部に字幕が現れる。
女:コノマエハズイブンナコトヲシテクレタワネ
男:ナンノコトカオボエニアリマセンガ、ドナタカトカンチガイサレテルノデハアリマセンカ
「これは?」
「読唇術ソフトで解析した我々の会話だ。立ち位置を選んで、ちゃんと口が映るようにしているから翻訳に問題はないはずだ。どの道、屋外のこの距離で音声は拾えない」
ここまで説明すれば、保全部の男達も黙らざるを得ない。後は桜井女史が私の個人情報をしゃべりだすところから、私が誘惑を突っぱねるところまでの映像を、字幕映画でも見るような感覚で眺める他なかった。
男:ヤハリ、ピンクハマヌケノイロダナ
最後に私が呟いたところで映像が終了すると、鈴木主任の顔からは笑顔がこそげ落ちていた。形成が逆転したことは言うまでもない。
「さて、私は身の潔白を証明したうえ、米軍側が重大な協定違反を犯した証拠映像まで手に入れた。これに対して君達は、私の個人情報を流出させたばかりでなく、スパイ容疑までかけてくる始末だ。どういう対応をするつもりか、聞かせてもらおう」
先ほどまで強気だった佐藤は青ざめた顔で押し黙り、鈴木のほうは無表情のまま、じっと考え込んでいる。ようやく沈黙を破ったのは鈴木のほうだが、その声には苦渋が滲んでいた。
「‥‥残念ながら、我々は失態を認めねばならんようですな」
「ああ、上層部はこれを隠蔽することを望まない。たとえ君達の管理体制が疑問視されようと、この映像を材料に米軍側へ協定違反の補償を求めるだろうな」
「我々は無能のそしりを免れないというわけですか。いずれにせよ、内通者は速やかに炙り出さねばなりますまい。この件に関する貴方への補償も早急に考慮させて頂きます」
「‥‥ではその調査が終了するまで、戦隊作戦への参加は控えさせてもらおうか」
「なんだと!」
声を荒げる佐藤に対し、私は冷然と言い返す。
「当たり前だろう。君達はよもや我々をボランティアだと思っているのではあるまいな。デビルハンターなどと言うバカげた戦闘員に扮して、危険なテストパイロットを引き受けているのは報酬あっての話だ。ところが私の新たな身分は君達の不手際で流出し、いつ公に露呈してもおかしくない状況だ。契約が履行されない以上、労働を拒否するのは当然のことだと思わぬか?」
「それに関しては、そちらの納得のいく補償を‥‥」
「これが金の問題でないことは承知だろうな。我々は新たな身分を欲しているが、君達はその安全を保証できない。これでは契約そのものの真偽が問われても仕方あるまい。納得がいかないようなら、この件でアスタロテ総統閣下‥‥、いやパワードスーツ研究開発プロジェクト本部長、飛鳥総司氏にお伺いを立ててみるか?」
どうせ偽名であろうが、どうもこの佐藤と言う男は交渉事に不向きらしい。何の交渉材料も持たずに怒鳴り散らすだけなど、その辺のチンピラと大差ない。慌ててフォローに入る鈴木主任が哀れに思えて来るほどだ。
「わかりました、内通者は次回のミッションまでに必ず見つけ出します。我々の失態でプロジェクトを遅延させるわけにはいきませんし、それはあなたとて本位でないでしょう。どうか我々に汚名挽回の機会をお与えください」
情報保全部に手心を加える義理などないが、プロジェクトの遅延は私とて望むところではない。これ以上渋ったところでお互い益もなく、落としどころと見るべきだろう。それに情報部に貸しを作っておけば、将来的にも損にはなるまい。ふと時計に眼をやれば、思った以上に時間が過ぎている。恐縮する鈴木に対して要求を告げながら、さぞ相良部長は気を揉んでいるだろうと考えると、内心ため息をこぼしてしまう。やはり今日は長い一日になりそうだ。