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~2~

「いやぁ、今回はお手柄だよ、城ケ峰君」

 会議室を後にするや、相良部長は上機嫌ぶりを隠そうともせず誉めそやしてくる。これまでは、グループ上部の命令で仕方なく置いていた契約社員として疎んじられてきたが、結果ありきでこの豹変ぶり。それと言うのも、このところ低迷が続いている相良氏のチームにとって、今回は久々の大口案件。それも他社を差し置いてのものと来れば喜びもひとしおであろう。その差し置かれた他社にしても、うっかり提携話に飛びついて日本の電子産業界に壊滅的な打撃を与える役どころを免れたわけだから、面子を潰されたところで文句を言えようはずもない。

「ありがとうございます。しかし今回は事前に打ち合わせをする間もなく、独断で交渉を進めたことをお許しください」

「ああ、確かに一時はどうなることかと冷や冷やしたが、それでもTrxisの信任を得られたのは大きい。一体いつの間にあれほどのことを調べたのかね」

「発端は飛鳥重工資材部からの情報提供ですが、今回の調査については牧野を褒めてください。まだ若輩ですが彼は使えますよ。私が不在の折には代役として起用することをお勧めします」

「うむ、覚えておこう。それにしてもなぜ本社は、君のような優秀な人材を契約社員などにとどめておくのか不思議でならんよ。西村君、君も彼を見習いたまえ」

 もう一人会議に同行してきた社員西村に、今回鞄持ち以上の活躍はない。年齢的には私とほぼ同輩で、上司の言葉に恐縮したかのように頭を下げるが、無関心ともとれる表情を張り付けている。なんとも影の薄い男である。

 しかし期待をかけてくれる相良氏には悪いが、私自身は証券業界に何の魅力も覚えていない。確かにかつての私であれば、大口の案件を勝ち得たり、お偉方に名を覚えてもらえば喜びもしただろう。生き馬の目を抜く証券業界のトップを目指し、虚飾と欺瞞に満ちた世界を駆け抜けた日々。それはすでに過去のものとなっている。

 そんな私がなぜ証券業界に舞い戻ったかというと、真の雇い元であるプロジェクトが関係している。

 プロジェクトF――

 先の会議で日比谷老(経済界の大物)や重役陣を頷かせたこの名を知る者は、日本でも一部の者に限られている。それは日本経済界を統べる飛鳥グループが、EUと共同で十数年の歳月を費やして進めている極秘プロジェクト。将来的には世界の軍事情勢をも一変させうる、次世代兵装の開発である。

 装着型端末業界で中国と米国が覇権を争ってるように、軍事面での次世代機開発では、日欧と米国で争われている。その来るべき未来の兵器は爆弾や戦闘機ではなく、強化筋肉により装着者の運動能力を劇的に向上させるパワードスーツの開発。時代は高性能な破壊兵器より、人間自身の強化を求め始めたのだ。

 この開発過程で最も難関とされているのが、パワードスーツ着用者にどこまで肉体負荷をかけられるかの測定である。強化筋肉で増強された運動能力に生身の肉体が耐えられず、過性能によって着用者を再起不能に至らしめた事故を教訓に、開発側はモニター試験による性能調整が重視。この危険を伴う試験調整には表社会からドロップアウトした人材が集められ、彼らは多額の報酬と新しい社会的身分と引き換えにパワードスーツのテストパイロットを引き受けている。かくいう私も、そうして集められた人材の一人だ。

 性能調整の問題は、運用時のみにとどまらない。パワードスーツは各国軍隊の一般兵まで普及させることを念頭に置いているので、兵役終了後の日常生活にも支障をきたさないかを懸念。そこで導入されたのがワーキングテスト法、すなわち我々テストパイロットを一般業務に就かせ、日常生活の中で身体的影響が出ないかを確認しようと言うものである。

 その結果、我々は現在生活している飛鳥グループの息のかかった企業都市内で、週三日間一般業務に就くことが義務付けられている。もちろん企業都市内で勤務可能なものに限られるが、職自体は本人の希望により選ぶことができ、これは契約終了後の職業訓練としての側面もある。もっとも私としては特に望む職もなく、三流会社の事務方を務めようが、工事現場で肉体労働に励もうが、回転寿司屋で握りを作るのでも構わなかった。だが、よんどころない事情から金が、それもある程度まとまった額が必要となり、二度と戻るまいと決めた証券業界に再び足を踏み入れることとなった。残念ながら私は証券業界以外に大金を儲ける術を知らないのだ。かくして証券マンとテストパイロットという二つの顔を持つ生活が始まった。

 よくない出会いというものは唐突に訪れるもので、それはドアの向こうで待ち構えていた。一階へ降りるべくエレベーターを待ち受けていると、入れ替わりに三人の乗客が現れた。ブリーフケースを手にしたビジネスマンの一団で、黒いコートの中年男性が二人に、白いコートの若い女性が一人。雰囲気からして同業の者と見て取れるが、私の表情が曇ったのはその内の一人、気位の高そうな美人に見覚えがあったからだ。知らぬ顔をしてすれ違えればよかったのだが、あいにく向こうは相良氏の顔に気づいたようだ。

「あら、飛鳥証券の‥‥」

「おや、篠宮証券の桜井女史ではありませんか」

「相良部長‥‥でしたね、確か最後にお会いしたのは我が社の創立記念パーティでしたか」

「ええ、その節はうちの片桐が大変失礼を‥‥」

 日本証券業界で一、二を争う篠宮証券と、業界順位こそ四位に甘んじているが、飛鳥グループの系列企業である我が社の部長クラスであれば、顔見知りであっても不思議はない。この程度の挨拶はあって然るべしであろう。予期せぬニアミスに驚きはしたが、向こうが私の顔を知るはずはない。とは言えあまり関わり合いを持ちたくない相手には違いない。それなのに上機嫌な部長の舌は軽く、単なる社交辞令の域を超えて余計なことまでさえずりだす。

「そういえば平和を守るお仕事でもご活躍のようで。いえ、私の甥がバスターレンジャーのファンでして、いつも目を輝かせて教えてくれるんですよ」

「ふふ、桜井家の子女として、社会に貢献するのは当然の務めですわ。あら‥‥?」

 こちらに流れた彼女の視線が私の顔で止まると、切れ長の瞳が見定めるかのように細められる。まずいな、これは良くない傾向だ。部長も彼女の視線に気づいたようで、二人の顔を交互に見比べる。

「おや、うちの城ケ峰君とは知り合いでしたか」

「ええ、先日お世話になりまして。‥‥相良部長、少々お話したいことがありますので、しばらく彼をお貸し頂けませんか?」

 どうやら本当に不測の事態のようだ。プロジェクトFのことを知る立場にない相良部長には与り知らぬことだが、彼女が私に話しかけるなど、本来あってはならないことなのだ。迂闊な行動は命取りになりかねない。こちらからもアプローチをかけた方が賢明であろう。

「部長、東南アジア情勢に詳しい桜井女史とはこちらからも相談したいことがございます。昼までには戻りますので、先に社の方でお待ち頂けませんか」

「ご心配なさらずとも、お互い益のある情報交換をしたいだけですわ。貴社に不利益が生じる内容でないことは保障いたします」

 幾分困惑気味ではあったが部長は了承の旨を示すと、車を手配しておくことを言い置き、西村と共に階下へ向かった。桜井女史の方も部下と思しき男性達に待機を命じているところを見ると、二人きりでの会話をお望みのようだ。ならばこちらにも考えがある。私は会談の場として屋上を提案した。

 今いる最上階から屋上へ上がるには、階段を使う他ない。私は先に階段を上がりながら密かにサイバーブックを操作する。軍用システムを積んでいる私のサイバーブックは一般のインカム式と異なり、骨伝導マイクと声帯振動変換ツールを併用することで、ほぼ声を出すことなく音声操作が行える。後ろからついてくる彼女に気づかれないよう、屋上へ着くまでの短い間に手早く作戦部に指示を出す。

 招待者権限で電子錠を開け、春の光に溢れたTrixisビル屋上へと足を踏み出せば、遠くに広がる北アルプスの雄姿が目に飛び込んでくる。ここ長野県安曇野(あずみの)市に高層建築物は少なく見晴らしがよい。このビルと同等の高さがあるのは隣に立つ朱雀ビールホールディングスのビルと、一段低いところの安曇野ロイヤルホテルくらいなものだ。

 強い風が吹き付け、コートの裾をはためかせる。幾分暖かくなってきたとは言え、三月の風はまだ冷たい。特に遮蔽物のない屋上では身に染みるようだ。私は散歩するかのようにフェンスへ近づきながら、サイバーブックの録音アプリを起動させる。光学ディスプレイが未起動な状態でも、集音方向を指定し感度を最大の十五メートルにセットすれば、これからの会話はすべて記録される。慎重に場所を選びながら隣のビルを背に向き直ると、桜井女史は不敵な笑みを浮かべて待ち構えていた。

「この前は随分なことをしてくれたわね」

 どこか愉快気で、それでいて高慢さを感じさせる口調、おそらくこれがこの女の本性なのだろう。風に乱された髪を抑えながら、挑むような目で見つめてくる。

「何のことか覚えにありませんが、どなたかと勘違いされてるのではありませんか」

 我ながら馬鹿らしいとは思いつつも、念の為しらを切ってみる。これが鎌をかけただけと言う可能性も否定できなくはない。だが、幸いと言うべきかあいにくと言うべきか、そんなことはなかった。

「ふぅん、とぼけるつもり、城ケ峰‥‥雅哉だったわね。それとも戦闘員Jと呼んだ方がいいかしら?」

 ‥‥やはりか。

 疑念はこれで確信に変わった。相良部長は私を苗字で呼んだが名前までは口にしてない。その上戦隊作戦でのコードネームまで知っているのなら疑う余地なしだ。

「一応確認しておくが、君が私の素性を知ることは重大な規約違反に当たるのではないか」

「あら、そんなの日米軍間で勝手に決めたことよ、私には関係ないことだわ」

 よもやこのような身勝手な言葉が返ってくるとは思わず、呆れる他なかった。と、同時に前例のない情報漏洩の事態に驚きもしていた。こんなことは戦隊作戦が始まって以来初めてのことではなかろうか。

 戦隊作戦、それは五年前から始まっているプロジェクトFにおける軍事演習の名称であるが、この悪意によって決められたとしか思えない作戦のせいで、毎年三割近い故障者を出す危険な演習が茶番めいたものとなってしまっている。

 当時、パワードスーツ開発における最終工程として、パワードスーツ装着者同士による実戦データの収集は、日本で秘密裏に行われていた。ところがそのことを嗅ぎ付けた米軍側が日欧軍側に接触、様々な政治取引の末、パワードスーツに関する秘密協定が結ばれることとなった。この協定に盛り込まれているのが、開発思想の異なる両軍のパワードスーツ同士で軍事演習を行うという取り決めで、将来的に競合する相手との戦闘データが欲しい開発部にとっては願ってもない話だった。問題はその演習が、子供向けの番組としてテレビで放映されるという点にある。

 いかに飛鳥グループが国内メディアを掌握しているとはいえ、外部で演習を行えば新兵装の秘密を保つのは難しい。そこで日本で昔から放映されている戦隊シリーズに則り、悪の組織と正義の戦隊に分かれて戦うことで、大々的なカモフラージュを図ろうと言うのがこの作戦の要旨である。私としては、なぜこのようないかれた案が採択されたのか、いまだに不思議で仕方がない。

 背景はどうあれ、この作戦における桜井女史の役どころは、日米安保条約に基づき米軍から支援を受けて戦う正義の戦隊の一人と言うことになっている。米軍のパワードスーツは性能面で日欧製より優れているが、その分生身の体にかかる負担も大きい。そのため装着者自身を薬物強化ドーピングすることで運用しているが、健康、精神面への影響から、使用期間は一年までとされている。結果、米軍パワードスーツのテストパイロットは、一年毎に名前を代えた戦隊として登場し、人員は毎年公募によって選出される。ちなみに現在活動しているのは「討伐戦隊バスターレンジャー」だ。

 困ったことに、この正義の味方と言う職業は人気が高い。何しろ謎のテロリストから市民を守る勇敢なヒーローで、子供たちからの人気は抜群、社会的にも大きく評価されている。その裏には飛鳥グループのメディアコントロールも働いているのだが、いずれにせよ名前を売りたい人間にとっては大きなチャンスとして映るようだ。

 テストパイロットに採用されるのは、主に引退したスポーツ選手や格闘経験者、元自衛隊員などであるが、中には売名目的で政治家を志す者もいれば、桜井女史のような名家の子息も含まれる。また戦隊側はテレビのドラマパートにも出演するため、芸能関係者も一名は含まれるのが通例で、いずれにせよ彼らのプロフィールは公的に紹介されることとなる。

 ゆえに私は知っている。米軍製パワードスーツ「トライバスター」のテストパイロット、バスターピンクに扮するは名門桜井家が長女、桜井貴子さくらいたかこ。代々高官を輩出する桜井家の才媛にして、弱冠二十八歳で篠宮証券の部長に登り詰めた才女。茶華道、日舞など伝統文化への造詣も深く、合気道と薙刀の有段者でもある。その名声は私が証券業界にいた時から有名であったが、情報戦ではえげつない手を使う悪女としても有名だった。

 これに対し謎のテロリストである我々の身元は、一切秘密にされている。もともと訳ありの人材が集まっているうえ、中には犯歴のある者も混じっているのだから、これは当然の処置と言えよう。協定により米軍上層部に我々のデータが行ってるのは仕方ないが、戦隊側のテストパイロットは演習時以外の接触を避けるため、我々のことは調べるのも禁止されている。ところが、この女はその禁を平気で破ったようだ。

「‥‥それで、いったい私に何の用だ」

 何より不可解なのはこれだ。私には彼女の意図が全く読めなかった。どうやって調べたのかはさておき、米軍側の人間が日欧軍側の個人情報を不正取得するなど、重大な規約違反もいいところだ。それをわざわざ私の前で告白するなど、泥棒が被害者の前で、あなたのものを盗みましたと言うも同じだ。そんなリスクを冒す理由がどこにあるというのか。

「ふふっ、そんなに警戒しなくてもいいわ。ちょっとあなたに興味があるのよ」

 まるでこの状況を楽しんでるとでも言わんばかりに、桜井女史は笑みを浮かべて近づいてくる。私はその瞳の中に好奇心の輝きを見て取った。こういう目をした女は、大概ろくなことを考えていない。

「ねぇ、あなたこっち側に来る気はない?」

 想定外な言葉に、私は驚きを隠せなかった。この女、よもや私をリクルートする気か?

「本当はね、キーキーやかましいだけの戦闘員なんて調べるつもりなかったのよ。でもこの間あなたがバカレッドを投げつけてきたせいで、ちょっと気が変わったの。ところが蓋を開けてみたらなかなか大した経歴じゃない。正直飛鳥の戦闘員って、クズばかりだと思っていたわ」

 心外な言葉に少々苛立ちを覚える。確かに我々の中に自慢できる経歴の持ち主はいないが、クズは言い過ぎだ。だが、それを表情には出さずにおく。

「東大経済学部を優秀な成績で卒業後、藤岡証券でエリート証券マンとして活躍。在職中の業績も見たわ、なかなか優秀だったみたいね。付け加えるなら、整形前の顔のほうが私の好みよ」

「その後、会社の金を横領して無謀な投資に及んで失敗。挙句の果て逮捕前に逐電‥‥、私の経歴こそクズと呼ぶのにふさわしいではないか」

「それが高田執行役に濡れ衣を着せられたと言うことも知ってるわ。今更になるけど、当時篠宮証券であなたを保護して、ヘッドハンティングしようという動きもあったのよ。でもその情報を掴んだ頃には、あなたもう死んだことになっていたじゃない。さすがにそれが飛鳥の偽装工作だとは思いもしなかったわ」

 一体どこから漏れたのか、どうやら私の情報は本当に筒抜けのようだ。残念ながら飛鳥の情報保秘力に対する認識は改めねばなるまい。しかし今問題なのは、この女の申し出だ。それこそ証券マンであった頃ならともかく、プロジェクトFに参加している人材を引き抜こうなど、国際問題に発展しかねない重大事だ。いくらなんでもそのくらいのことは、彼女もわかっているはずだ。これは何かの罠か?

「話が見えてこないな、君の狙いは何だ?飛鳥の情報が目的なら、私を拉致った方が早いぞ」

「バカね、私はあなたの個人情報を手に入れてるのよ。そういうのが目的なら別にあなたは必要ないでしょ」

「では、協定違反を犯してまで私と接触を持つのは何故だ。言っておくが君の腹の内が見えないようでは、交渉の余地などないぞ」

「失礼ね、最初に言ったじゃない。あなたに興味があるからよ」

 ‥‥いかんな、これでは堂々巡りだ。この女はあくまで惚けるつもりなのだろうか。しかし彼女の顔に浮かんだ怒気は偽りないものに見える。もっとも私の女を見る目はあまりあてにはならない。なにしろ四年間連れ添った妻が裏切っていることに、まるで気が付かなかったのだから。

「まぁ信用できないのは無理ないわね、少し言い方を変えましょう。あなた、元の生活を取り戻したいとは思わない?」

 これまた突拍子もない話に、私は面食らってしまった。まったくこの女と話をするのは疲れる。何を言い出すのか分かったものではない。

「エリート証券マンとしての道を歩いてきたあなたが、たった一度の失敗で転落し、犯罪者に交じって危険な肉体労働に従事する。過去の栄光を取り戻したいと、考えたことがないとは言わさないわよ」

 得意げな表情を浮かべ、彼女は私の真向かいに立つと、まっすぐに視線をぶつけてくる。香水の香りが鼻につき、切れ長の瞳が心を覗き込むかのように見つめてくる。少し角度をずらすため横に移るが、その視線は逸らさない。

「私の家のことは知ってるわね。あなたが望むなら、今の境遇から救い出してあげてもいいわよ。飛鳥の奴隷契約から自由にしてあげるし、望むなら証券マンとしての然るべき地位も約束するわ」

「至れり尽くせりだな。それで、そちらの要求は何だ?」

「そうね、私にふさわしい男になるよう、努力してもらうってとこかしら」

 ‥‥私はこの女が宇宙人に思えてきた。一体何を言ってるのか全く理解できない。そんな思いが表情に出ていたか、彼女は艶かしい笑みを浮かべるや、私の肩に手をかけ、そっと顔を寄せてくる。

「私はね、強い男が好きなの。そして桜井家には強い血が必要よ。ふふっ、これでも人を見る目には自信があるの、こうやって顔を合わせてみればわかるわ、あなたは私にふさわしいだけの力がある。どう、私を手に入れてみたいとは思わない?」

 囁くような声で耳元をくすぐられ、ようやく話が見えてきた。どうやら私は、彼女の婿探しの候補に選ばれたようだ。なるほど、確かに悪い話ではないのだろう。政府筋にも政財界にも顔が利く桜井家の人間であれば、私の退役を一年早めるくらいの交渉は可能なはずだ。ましてや桜井家の現頭首は現職の経産大臣、飛鳥グループにとって敵に回して得はなく、貸しを作っておけば便利な相手と言えよう。それに彼女は美人だ。モデルと言っても通じるほどのプロポーションに美貌を兼ね備えている。多少気の強いところはあるかもしれないが、野心的な男なら逆に征服欲をかき立てられる。私がこの話を断る理由はない、彼女にはそう自信があったのだろう。

 だが、彼女は判断を誤った。情報戦のプロにしてはリサーチ不足が否めない。経歴上の私を知っただけで、肝心の胸の内を察しようとはしなかったのだ。それに私は色仕掛けで心動かされるほど初心ではない。やんわりと彼女の手をひきはがすと、きっぱりとした口調で答えた。

「残念だが君の申し出は受けられないな。他を当たってくれたまえ」

 一瞬、彼女の顔に烈火の如し怒りの表情が浮かぶ。だが、すぐにそれは挑戦的な笑みへと変わり、ますます楽しげに私の目を見つめてくる。

「‥ふふっ、うふふ、そうでなくっちゃね。いいわ、今回は引き下がってあげる。でも、いいこと。諦めたわけじゃないわよ」

「‥‥交渉が決裂した以上、君は協定違反の心配をすべきではないのか?」

「それはここでの会話を証明できたらの話でしょ。悪いけど録音はできないようにしてあるわ」

 予想の範疇ではあるが、やはり対策していたか。たいした期待はしてなかったが、録音は無駄になったと考えるべきだろう。これ以上の交渉は無意味と悟ったか、彼女は床に置いていたブリーフケースに手を伸ばす。

「近いうちにあなたは考え直すことになると思うわ。それじゃ、またね」

「待ちたまえ、こちらも一つ聞いておきたいことがある」

「あら、何かしら」

「今日ここで出会ったのは偶然か、それとも君達が仕組んでのことか?」

「そうよ‥‥、と言いたいところだけど、あいにく本当に偶然よ。ここへは純粋にビジネスで来たの。もっとも、近いうちにあなたとは接触するつもりでいたから、私としては運命と思いたいところね」

「ビジネス?」

「日比谷のご隠居様に耳寄りな話を持ってきたのよ。でも残念、私の申し出を断る以上あなたはまだ部外者だから、これ以上は教えてあげられないわ」

 そう言い残すや、彼女は振り返りもせずに階下へと去っていった。その足音が聞こえなくなるまで待ってから、背後のビルを振り返ると、つい口元が緩んでしまう。

「やはりピンクは間抜けの色だな」

 西の空に雲が増えつつあり、夕方には天気が崩れそうだった。もう一度北アルプスの山並に目をやってから、私は階下へと足を向けた。

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