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~1~

二〇四七年三月九日から数日後


「ピンクに手を出すなど、間抜けがやることです」

 しん、と静まり返る会場は、まるで空気が凍り付いたかのようだった。

 私の発言はまとまりかけていた話をかき乱す不協和音となって、会議の場に衝撃をもたらした。たちまち溢れるざわめきには侮蔑や動揺の声が混じるが、そのどれにも驚きが付きまとっている。もっとも一番驚いたのは上司の相良さがら氏であろう。オブザーバーとして参加している我々は、本来発言する立場にないのだ。

 町の喧騒も届かぬ地上三十五階のオフィスで、今朝方から開かれているこの会議は、大手証券会社を通じて日本最大の電機メーカーTrixisトリクシスに持ち込まれた業務提携に関するものだった。この秘密会議に我々飛鳥証券が参加できたのは、水面下の動きにいち早く気付いた私の功績によるところが大きい。故に一介の証券マンに過ぎない私も同行を許されたわけだが、この発言は完全な逸脱行為である。なにしろ次世代通信産業の基盤ともなりえる提携を間抜け呼ばわりしたのだ、笑顔が返ってくるはずもない。もっともこの挑発めいた言動は意図あってのこと。二度と戻るまいと思っていたビジネスの世界だが、向けられる非難の視線にまずまずの手応えを覚え、心地よい興奮を感じていた。

「‥‥ほう、ぬしはこの提携に反対と申すか」

 ざわついていた者達の目が、テーブルの上座へと向けられる。視線の先から、それまで一言も発することのなかった老人が好奇の目を向けていた。スーツ姿が居並ぶ中、一人和服のいでたちで異彩を放つ翁だが、その発言力はこの場にいる誰よりも強い。私の発言が彼の関心を買う為のものとは承知の上であろう。射抜くような視線を真っ向から受け止めるも、諾とも否とも答えず沈黙を貫くのは、自信と信頼を窺わせるため。どうやらその意図は伝わったようだ。

「面白い、理由を聞かせてもらおうかの」

 しわがれた声には、愉悦の色が濃い。プレゼンの機会を勝ち得た私は末席にて立ち上がり、会議の席に着くTrixisの重役陣、ならびに大手証券会社のブローカー達。そしてかつての政財界の重鎮にして、今は信州の山奥で隠棲している翁、日比谷典膳氏に対して一礼した。

「装着型端末業界の進歩は、現代においてもその歩みを止めてはおりません。二〇二〇年代、それまで主流を占めていたスマートフォンが『サイバーブック』に駆逐された様に、次世代(アドヴァンスト)装着型端末ウェアラブルターミナル『ソリッドヴィジョン』が新たな標準型スタンダードとなることには、皆様方も異論はございますまい」

 手始めに私は個人通信端末業界の現状から切り出した。装着型端末競争の歴史は古く、二〇一〇年代より始まっていたと聞く。当時の携帯型端末(ポータブルターミナル)スマートフォンは、バッテリーを内蔵する小型の液晶ディスプレイに情報を表示するという不便極まりない代物で、より利便性の高い装着型端末が求められたのは時代の流れと言えよう。その黎明期には、腕時計型や眼鏡型など様々な形状のものが開発され普及に一貫性はなかったが、二〇二一年、光学(オプティカル・)結像(イメージング・)装置(デバイス)を搭載したサイバーブックの登場が、この競争に終止符を打った。

 量子力学の革命児と唄われるローランド・レンツィ教授が開発した光学結像技術オプティカル・イメージング・テクノロジーは、従来の映像技術とは根本思想から異なっていた。集光レーザー光を特殊な結像用結晶イメージングクリスタルに通すことで、空気中に高い結像密度を誇る光のディスプレイとして安定させるこの技術は、液晶など既存のディスプレイを不要のものとした。投射装置を搭載したヘッドセットを装着することで、どこにでも光学(オプティカル)ディスプレイを展開できるこの新技術はたちまち社会に浸透し、今ではテレビや電話、パソコンなどの機能を持つ、日常生活に欠かすことのできない携帯ツールとなっている。

 だが、そのサイバーブックの時代もまた転換期を迎えようとしている。技術革新に伴い、それまで難しかった光学結像の立体化に成功。ヘッドセット型の装着型端末を通じて三次元映像を展開する次世代型端末「ソリッドヴィジョン」が、このほどプレシャス・イノベーション・カンパニーより発表されたのだ。

「ご存じの通り、ソリッドヴィジョンにはサイバーブックで培われた光学結像技術が用いられています。端末に搭載された三つの投射装置によって作り出される立体画像は、表現力は言うに及ばず、利便性の面でもまさに革新的な進化を遂げています。製品発表に対する市場の反応はいずれも高評価で、グランド・リサーチ社による市場調査マーケティング・リサーチでは、発売から三カ月以内に約二割、一年以内に約五割のサイバーブックユーザーが、ソリッドヴィジョンへ転向することが予測されます。この動きに連動して通信業界においても‥‥」

「おい、君ぃ」

 苛立たしげな声が私の説明を遮る。見れば頭に白いものの混じる五十絡みの男が、うんざりした表情でこちらを睨め付けていた。

「そのわかりきった説明はまだ続くのかね。ソリッドヴィジョンが市場を席捲することに、いまさら念を押す必要などなかろう。我々が聞きたいのは、プレシャス社との提携に反対する理由だ。もっと簡潔に述べたまえ」

 相変わらずTYSホールディングスの水岡氏はせっかちの様だ。まったく、ああも簡単に感情が表に出るようで、よく証券取引業界第五位のブローカーが務まるものだ。もっとも彼にしてみれば、三十そこそこの若輩にせっかくの提携話の腰を折られたのだ。愉快な気分になりはすまい。だが予想よりも早かったというだけで、この反応は想定の範囲内。私は一歩核心へ切り込むことにした。

「そう、水岡氏が仰る通り、ソリッドヴィジョンの成功は約束されております。この革新的な三次元映像技術の実用化は、装着型端末はもとより光学テレビやパソコンにも普及していくことでしょう。従って今回の提携によってこの事業に参画できれば、Trixisは言うに及ばず、国内の電子工業分野の大株主であられる日比谷グループにとっても大きなビジネスチャンスとなり得ます。しかしそれこそが、今回の企みに気付かなかった要因と言えましょう」

 再びざわめく場内が、こちらの思惑通りに進んでいることを教えてくれる。おそらくここからがプレゼンの山場となるであろう。そしてこの成否によっては、日本の電子産業界の未来にも大きな影響を与えることとなりかねない。もっともそれは私にとってどうでもいいことなのだが、現在参画しているプロジェクトにも影響が及ぶとあれば、無関係とも言い難い。

「ふむ、詳しく申してみよ」

 さすがは政財界の古老と言うべきか。おそらく日比谷老は全てをご存じなのであろう。にもかかわらず提携話に口を挟まなかったのは、反対を唱え出す者が現れるのを待っていたからか。ならばその期待、私が応えてみせるとしよう。

「では、最初に皆様から確認したいことがございます。三次元画像技術を用いた装着型端末の開発を進めているのは、当然ながらプレシャス社一社に留まりません。いずれはプレシャス社以外からも新機種が発売され、熾烈なシェア争いが始まることでしょう。それでは、この場を代表して水岡氏にお尋ねします。業界最大手であるO&A(オレンジ&アップル)社が開発中の、次世代機『アナザーワールド』について、聞き及んでいることをお教えください」

 突然の指名に動揺も露わな水岡氏だが、さすがにこの面子の前で醜態を晒すのは避けたいのか。渋い表情を浮かべながらも、こちらの要望に応えてくれる。

「あー、もちろん装着型端末の次世代機を語る上で、O&A社の存在は欠かせない。サイバーブックの正式な開発元であり、世界シェアの七割を占める実績は、まさに装着型端末業界のリーダーと呼ぶにふさわしい。いずれはアナザーワールドが正当な後継機としてシェアを大きく占めるだろう。しかし今回はプレシャス社の独立により開発競争では大きな後れを取り、アナザーワールドの正式リリースは早くて一年。レアアース問題次第では、さらに長引くことが懸念される。その間ソリッドヴィジョンが草分けとして果たす役割を踏まえれば、今回の提携には十分価値があるはずだ」

 見ればTrixis重役陣の中にも頷く者が多い。たしかにO&A社の内紛事情を知れば、その反応も無理からぬものがある。

 光学結像技術の開発者であるレンツィ教授率いる研究グループが、O&A社から独立して新会社プレシャス・イノベーション・カンパニーを設立したのは、今から八年前、二〇三九年のことである。離反の背景には、レアアース危機に際して次世代機の開発で見解の相違が生まれたなど、まことしやかな噂はいくつもたてられたが、両者の間にいかな確執があったかは公にされることなく、業界最大のサイバーブック企業は最大の功労者を放逐することとなった。

 ここで重要なのは、新会社が光学結像技術の特許を持って独立したことにある。関連会社は数多あまたあるものの、光学結像技術の核となるレーザー発振装置と結像用結晶の製造特許が認められているのは、米国に四社、欧州に一社、インドに一社と、世界でも六社に限られている。問題は、ここに新たな七社目として加わることになったプレシャス社が、中国資本で運営されていることにあった。

「中国資本をバックにつけたプレシャス社は、水岡氏の仰る以上の発展を見せる可能性もあります。潤沢な資金に加え、レンツィ教授チームの開発力。更にはこれまで開発の妨げとなっていたレアアース問題もクリアされるわけですから、アナザーワールド登場後も、十分比肩しうる製品力が期待できます。ですが、これはあくまでアナザーワールドがソリッドヴィジョンと同じ光学結像技術を用いていることが前提となります」

「馬鹿な、もちろん使っているに決まってるだろう」

 苦笑混じりの水岡氏に、私は冷然と言い放った。

「いいえ、O&A社の次世代機は、光学結像技術に頼らない新システムを導入しています」

 今日一番のどよめきが会場を揺るがした。紙のような顔色に変わる水岡氏を見るまでもない、まさにこの話は寝耳に水であったのだろう。混乱の度合いは先程の比ではなく、口々に意見を交わす重役陣は蜂の巣をつついたような騒ぎ。やがて混乱は怒りへと変わり、その矛先は元凶たる私に対して向けられた。

「何を言ってるんだ、君はプレスリリースを見てないのか。O&A社は開発で光学結像技術を使用していることを明言しているぞ」

「ええ、ですからこれはO&A社自身が流しているデマということになります」

「そんなはずなかろう、一体何を根拠にそんなことを‥」

「そうだ、大体これまで光学結像技術でシェアを独占してきたO&A社が、なぜ次世代機でその技術を生かそうとしないのだ」

「よもや飛鳥グループはこの提携を潰して、自分達を売り込むつもりではなかろうな」

 厳しい糾弾と部下の暴走に慌てふためく上司を尻目に、私は日比谷老の反応を待った。白い顎鬚あごひげを垂らし、痩せた身体の老人はさながら鶴を思わせるが、その鶴の一声がいきり立つ者達を諌めた。

「ふうむ、確かに主の言葉だけでは説得力に欠けるのぉ。この場を納得させれるだけの論拠はあるのじゃろうな」

「もちろん用意してございます。説明の為、資料を配布致しますのでアクセス許可を頂けますか」

「よかろう」

 会議室のメインコンピュータとのアクセス権を得た私は、音声操作で自分のサイバーブックを起動させる。

「open the book」

 登録者の声にだけ反応する音声認識ソフトが、起動ワードを確認。ウォンと言う起動音と共に集光レーザー光が照射され、私の手元に雑誌大の光学ディスプレイを投影する。ほのかに発光するシルバーフレームに透過率二十%のホワイトスクリーン。ビジネスモデルとして人気の高いO&A社製サイバーブック「Aristotelesアリストテレス」シリーズ最新機種は、スペック的に申し分ない。

 サイバーブックと会議室のコンピューターをリンクさせ、プレゼン用の資料を共有データとして送信する。参加者達が各々のサイバーブックにデータを反映する中、会議テーブルの中央にも複合型光学ディスプレイを投影させ、どの方向からでも大型の画面で見れるようにする。

「こちらはO&A社の次世代機に関して、弊社が独自に調査した資料でございます。このデータはお持ち帰り頂けますが、まずは私の方から大まかな説明をさせて頂きます。なお、電子工業分野に不慣れな方もおりますゆえ、幾分説明的になります事はご容赦くださいませ」

 特に異議も上がらず、私は音声操作で資料の「アメリカ合衆国におけるレアアース・レアメタル埋蔵量、保有量の年次報告書」を表示させる。

「NIMSなど公的研究機関による報告書もございますが、飛鳥重工では各国の希土類レアアース希少金属レアメタル類の埋蔵、保有、使用量を独自に調査しております。これには商業ベースの調査データも含まれており、企業ごとの納入量を調べるなど、より詳細な考察が可能です。さてこちらはアメリカ国内、特にO&A社が保有する希土類レアアースイットリウムとジスプロシウムを表すグラフとなります」

 画面を切り替え、ここ三十年でO&A社が取り扱った二つのレアアースの動きを示す。サイバーブック発売以降、輸入、使用量共に急激な右肩上がりのグラフは、二〇三七年をピークに急峻な下降を見せ、二〇四〇年から緩やかに右肩下がりへと転じている。

「この二つのレアアースを巡る米中間の熾烈な争いは皆様もよくご存じのことでしょう。十年前に始まった『レアアース危機』は、いまだくすぶり続けており、次世代機の開発にも大きく影響しています」

 電子工業界は言うに及ばず、あらゆる産業界に飛び火した経済問題、いわゆるレアアース危機は、二〇三七年に中国が出した一つの政策から始まった。その当時米国企業は、特許を盾にサイバーブックの製造を独占していたが、資源の輸入は中国に頼らざるを得なかった。それと言うのも光学結像技術の心臓部とも言える固体レーザー発振用触媒には、ジスプロシウムを添加ドープしたYAG(イットリウム・アルミニウム・ガーネットの略称。イットリウムとアルミニウムの複合酸化物から成るガーネット構造の結晶)が使われ、またそのレーザー光を空気中で安定させるための結像用結晶生成にもイットリウムが欠かせなかったからだ。ところがイットリウムの最大産出国は中国であり、ジスプロシウムに至ってはほぼ中国でしか産出されないレアアースである。米国の市場独占に反発する中国側は、レアアースに高い関税をかけることや輸出制限を加えることで対抗してきたが、ついに強硬策として特許の廃止を求め、それがなされるまでレアアースの輸出を禁止する政策を打ち立てた。

 これに対しては、米国のみならず国際社会も反発を見せた。政府間レベルの交渉が水面下で行われるも妥結には至らず、レアアース市場は一時数十倍にまで高騰。すでに光学ディスプレイが主流となっていた社会において、サイバーブックのみならず、あらゆるパソコンの出荷が止まりかねない状況は、経済的混乱を引き起こした。

 国際社会の反対を押し切って、中国側は一貫して特許廃止の姿勢を貫き続けた。両国間の交渉は長期化の様相を帯び始め、一時は戦争の危機すら危ぶまれたが、その二年後に起きたプレシャス社の独立が転機となった。社名こそ英名で表向きは資本提携となっているが、プレシャス社は中国最大の通信会社『中華移動有限公司』、並びに世界最大の鉄鋼企業『貴鋼集団有限公司』の実質的な傘下にある。これにより光学結像技術の特許を国内に取り込んだ中国は、ようやく態度を軟化。しかし米国に対する厳しい輸出制限は今も継続されたままである。

 無論、米国側とて手をこまねいていたわけではない。O&A社技術部はとりわけジスプロシウムからの脱却を図ったが、代替鉱物となりえるものがどうしても見つからず、技術的な面での革新は見込みが薄かった。またインド、東南アジアでの鉱床開発も採算がとれる状態ではなく、リサイクル技術を発展させ古いバージョンの光学結像装置からレアアースを回収することで、生産力を維持しているのが現状である。

「レアアース市場における中国の優位は変わりません。しかし国際社会の反発を招いた強引な姿勢と、ソフト開発力の脆弱さも相まって、プレシャス社を取り込んで以降発売された、中国製サイバーブックのシェアは低迷しています。ですが次世代機の開発においては、レアアースをふんだんに使える中国との差は顕著です。我々が注目したのはそのような情勢の中で、O&A社が次世代機を開発しているシリコンバレーの動きについてです。こちらのグラフは、研究開発用に本社へ納入されたレアアースの推移を表しています」

 再び画面を変え、今度はO&A本社に納入されたイットリウムとジスプロシウムの納入、保有、使用量を表すグラフを表示する。レアアース危機が起きた三十七年以降、社全体の納入量は激減しているが、研究開発用として納入されている量は一定の水準を保ち、それはプレシャス社が独立した三十九年以降も変わらない。

「一見するとO&A本社では、プレシャス社独立以後も新製品や次世代機開発のため、光学結像技術の研究が進められているように見受けられます。しかし調査を進めていくうちに、我々は奇妙な事に気が付きました。それはレアアースベースで見た場合、光学結像装置の製造特許を持つ四社への納入量と製品出荷量が合わないという点です。この動きは二〇四〇年からのものであり、どこからか秘密裏にレアアースを調達しているのでなければ説明がつきません。ですが、その「どこか」が研究用に納入された分を転用しているのだとすれば、数値的には辻褄があってきます。その場合、研究開発で使われた実際の使用量は‥‥」

 画面を切り替えると、重役陣の中から驚きの声が漏れる。なぜなら新しく示されたグラフには、二〇三九年を境に本社で研究開発用に使われているレアアースが、あからさまに減少していたからだ。

「リサイクルによる還元率の上昇などの名目で巧妙に隠蔽されていますが、輸送方面の記録から裏は取れています。レンツィ教授がプレシャス社に独立して以降、O&A本社での光学結像技術の研究は明らかに縮小されています。さて、皆様にはもう一つ見て頂きたいデータがございます」

 驚き冷めやらぬ会場に対し、今度はO&A社に納入された資源を、各科学分野から検証したデータを提示する。

「それではO&A社は次世代機に対してどのような戦略を打ち立てたのか。我々は資源ベースでその動向を調査しました。レンツィ教授退社後、O&A本社に納入された鉱物資源、並びに人的資源の移動から考察するに、ナノ量子情報科学に関する動きが最も顕著という結論に達しました。この事が指し示すのは‥‥」

「‥‥アルカディアン・プロジェクトか」

 呻くように答えたのはTrixis代表取締役社長、稲垣浩一氏である。海外戦略立て直しのため五十代で抜擢された若社長は、苦々しげな表情を浮かべている。

「その通りです。O&A社がレアアースからの脱却を図るため、光学結像技術搭載のアナザーワールドとは別に進めていたもう一つの研究。Retina Scanning Type Display、すなわち網膜走査型ディスプレイによる装着型端末の開発です」

カリフォルニア(カルテ)工科大学ックと共同で研究を進めているという噂は耳にしたが、それは間違いないのか?網膜走査型ディスプレイはサイバーブックの登場以前に廃れたものだぞ」

「確かに三十年以上前にも、このディスプレイは開発され、実際の製品にもなっています。マックスウェル視を用いたこの技術は、走査したレーザー光を一旦瞳孔に集光させて網膜に投射するもので、着用者にあたかも自然の中に溶け込んだような立体映像を見せることが可能です。しかし映像画角が狭いことや、日常生活で使う際の安全性など種々の問題を解決できず、サイバーブックの登場と共に姿を消しました。当時は光学結像技術が作り出す利便性やクオリティに太刀打ちできなかったからです」

「その技術を今頃になって復活させる意義は何だ?」

「もちろん最大の理由は、中国によるレアアース依存からの脱却です。いかにO&A社が優れた次世代機を開発しようとも、レアアースの供給がなければシェアの拡充を図れません。あくまで光学結像技術による発展を主張するレンツィ教授と袂を分かって以降、O&A社は網膜走査型ディスプレイの開発に活路を見出してきたのです。視野二一〇度までを完全にカバーして、日常の風景の中に映像を張り付ける。そして安全な状況下であれば、視覚、聴覚を完全に仮想現実世界へ没入させる事も可能な新しい映像世界の開拓。それが、真のO&A社次世代機開発計画『アルカディアン(理想郷の住人の意)・プロジェクト』です」

「だがそれは君の推論に過ぎないのではないか。O&A社が本当にそのプロジェクトを軸にしているという確たる証拠はあるのかね?」

「それは儂が保証しよう」

 思わぬ助け舟を出したのは、他でもない。皆の驚きの視線を集める中、日比谷老はむしろ淡々とした様子で話をつなぐ。

「クパチーノの本社研究所で、画角調整システム『ミスティック・アイ』が完成したのは三か月前の話じゃ。時期的に見て、そろそろ試作型プロトタイプが完成する頃じゃろう」

「お察しの通り試作型はすでに完成しており、今は研究所内と軍の一部で試験運用トライアルが行われてます。我々は、この一年内には製品化の見込みがつくものと見ています」

 見ればブローカーや重役陣の間でひそひそ話が進行している。大方、どうして私がO&A社の内情にここまで詳しいかを話しているのだろう。確かに私のような無名の証券マンが、トップ企業の極秘情報まで知っているのだ。不審に思わないほうがどうかしてる。だが少々余計なことまで喋ってしまったか、日比谷老は私の正体を察したようだ。

「軍部か‥‥、なるほど主はFの関係者かの」

 投資ブローカー達はその意を図りかねたようだが、さすが日本の電機産業界のトップは違う。飛鳥グループでFと関わりある者の情報が、どのような意味を持つのか理解している。できればFに触れたくはなかったが、どの道これだけ情報を出せば推察されて然るべし。今は重役陣に対して説得力が増したことを利用するとしよう。

「さて表向きは光学結像技術による次世代機の開発を進めているように見せながら、裏では着々と新型機の開発を進めてきたO&A社ですが、状況は必ずしも有利とはいえません。少なくとも中国側は、すでにアルカディアン・プロジェクトのことを嗅ぎ付けております」

 再び重役陣が色めき立つのも無理はない。何しろ情報戦において彼らは数歩も出遅れている上、その事を外部の者から聞かされているのだ。これで危機感を覚えないようなら、それこそ問題だ。

「言うまでもなく世界一のレアアース企業である貴鋼集団も、世界的なレアアースの動向は把握しております。我々同様O&A社の研究に行きついても何ら不思議はありません。アルカディアン・プロジェクトの遅延、妨害を目的として、水面下で中国側が動き始めたのがおよそ六か月前。合法、非合法を問わず様々な手段を用いてますが、その中の一つが今回の提携です」

「待ちたまえ、なぜ我が社とプレシャス社との提携が、そのアルカディアン・プロジェクトの妨害につながると言うのだ」

「それは今回の提携内容から推察されます。この業務提携の要旨はアジア地域でのソリッドヴィジョン販売に際し、Trixisとプレシャス社で技術協力を行うものとされています。プレシャス社側からはアジア地域での出荷分に限り、コアクリスタル製造特許の使用権を認可するとあり、見返りとしてTrixisが持つ製造特許のいくつかの使用を求めてきています。一見破格の交換条件のように思えますが、実はこれこそが中国側の目的なのです」

 もはや口を挟む者もなく、会場は静まり返り、私の説明に耳を傾けていた。

「そもそも今回の次世代機開発競争は、単純なシェア争いなどではありません。今世紀初頭から海洋進出など強引ともいえる手法で開発を進め、国際社会の批判を浴びてまでレアアースの独占を進めてきた中国の悲願は、レアアースを使った次世代機の普及により世界の電子、通信産業界を席巻することです。しかし非レアアース端末(アルカディアン)の普及によってレアアース産業そのものが衰退することとなれば、中国経済が受ける打撃は計り知れません」

 ここで資料を切り替え、Trixisが持つ製造特許の一覧を映し出し、その中から一つの特許を詳細を大写しにする。

「プレシャス社が関心を寄せているのは、こちらの特許番号第八七五六三八四号、広視野角画像システムに関するものです。本来これは深海底での現場観測や精密作業を行うために開発されたものですが、O&A社の画角調整システム(ミスティック・アイ)も同じ理論に基づいて構成されているため、基本構造に多くの類似点が見受けられます。今回の提携が結ばれたとすれば、プレシャス社はこの特許技術を組み込んで改良したソリッドヴィジョンの開発を持ち掛けてくるでしょう。そして遠からぬ未来、アルカディアンの技術情報が公開された折に、特許侵害で訴訟を起こすことを目論んでいます。もちろん長ずれば言いがかりに等しいものだと明らかになるだけですが、裁判を長引かせれば結審するまでに数年を要するでしょう。その間アルカディアンに販売認可は降りず、中国側は何より得難い時間を手にするわけです」

 事態を察した会場の者達がざわつく中、私はとどめとなる一言を放つ。

「そしてTrixisの特許によって作られ、日本製のコアクリスタルを搭載したソリッドヴィジョンによって打撃を受けるO&A社との関係がどうなるかは、推して知るべしでしょう」

 これで大勢は決した。いまや会場の空気は不穏な提携に対する反対へと傾き、この話を持ち込んできたブローカー達も、憤懣やるかたない重役陣を前に異論を唱える様子はなかった。重役陣の誰かが吐き捨てるように、これでは我が社の丸損ではないかと口にするのに対し、私はこの場を締めるにふさわしい言葉を添えた。

「ええ、ですから最初に申しあげたのです。PINC(ピンク) Precious(プレシャス) INnovationイノベーション Companyカンパニーの俗称)に手を出すのは間抜けだと」

 堪えかねたように、一人日比谷老だけがくぐもった笑いを返す。

「なるほど、面白いことを言うのぉ。さぁ、この件に関して誰ぞ異論のある者はおるか?」

 沈黙が雄弁に私の勝利を物語る。

「では決まりじゃ、この件の対処は飛鳥証券に任すとしよう。ところで、主は名を何と申した?」

 日比谷グループの会長に名を覚えられるのは、証券マンにとって大変栄誉なことであるが、おそらく私の肩書はこの場にいる者達を驚かせることだろう。

「飛鳥証券、証券取引部契約社員、城ケ峰(じょうがみね)雅哉(まさや)と申します。以後お見知りおきを」

 案の定、ブローカー達は驚きの表情を浮かべていた。

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