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第一章 悲劇のパイロット Scene3

ルシルは横腹に走る激痛を堪えながらも、何とか体制を立て直し身構えた。


「な、なん…」


ルシルは自身の目に映ったものに思わず息を飲み込む。


そいつは一見すると熊のようであった。人間の倍ほどあろうかという巨体は濃紺の体毛で覆われ、手や足から伸びる爪は研ぎ石で磨いたみたいに鋭い光を帯びていた。もしルシルが生身のままでそいつを受け止めたなら、ロースハムでも切るみたいにパックリと裂けていただろう。


その上は爬虫類にも似た顔が乗っかっており、大きく開かれた口の中には食物を細かく砕くための三層の小さな歯がびっしりと並び、野生を剥き出しにした二つの眼が、獲物を捕らえようと鋭い光を帯びていた。


ルシルは恐怖に後ずさる。


今になってフリーシア兵達が森に近づこうとしなかった理由がわかった。


足を動かす度に爪を受けた傷口に痛みが走った。特殊繊維のジャケットでさえも鋭い爪の前には破れさり、抉り取られた三本の肉溝から止め処と無く鮮血が溢れ出し、地面に赤い痕跡を落としていた。


突然、ルシルの全身に痺れが襲い身動きが取れなくなった。


神経を麻痺させる毒成分があの爪から分泌されていたのか、痺れはルシルを完全に縛りつけ、意識さえも朦朧とさせる。


化け物にとっては全て計算どおりなのだろう。嬉しげに低い嬉声をあげると、じわりじわりと、立つ事さえままならないルシルとの距離を詰めてきた。


手遅れであった。


ルシルは薄れていく意識の中で短かった生涯に別れを告げると、最後の最後に自分を見放した幸運の女神に呪いの言葉を漏らした。


化け物が目の前にやってくる。


もうじき自分の胃袋に納まる獲物を咀嚼するさまを想像しているのだろうか、嬉しそうにひと鳴きすると、大きな口をパックリと開け、三層に並んだ鋭敏な歯を覗かせた。


最後の時を覚悟しルシルは目を閉じようとする…が、それも神経毒が完全に体を麻痺させてしまい脳からの指令を遮断したために実現できない。


このまま自分自身が噛みちぎられるのを死が訪れるまで見続けるのだろうか。


感覚の無くなった冷たい頬を、恐怖と悔しさと自己憐憫の入り混じった熱い涙が伝い落ちた。


眼球を動かせずに逃れる事も出来ずにいるルシルの視野いっぱいを、迫り来る化け物の口が闇の如く覆い尽くした。


―グォォ!


耳をつんざく咆哮が樹々の間に木霊する。


次の瞬間、ルシルは満天の星空を眺めていた。


―ん…?


天国にでも来たのかと思ったがそうではない…染みるような青い夜空は紛れもなくレキングラムのそれだ。美しいレインズも視野に認める事が出来た。


あいつは…?


ルシルはぼんやりとした意識の中で自分に問い掛けた。


その答えは間もなく得ることに出来た。やつは確かにルシルの目の前にいた…が、それは首の下の胴体だけで、彼を飲み込もうとした首から上は見事に落っこちてしまったらしい。


不意に視野が開けたのもそのせいであった。


―助かった…


ルシルは心の中で胸を撫で下ろす。


危険が去った安堵感で緊張が解けたのか、それとも毒のせいなのか、意識が色を失い始め、眠りを求めて夢の領域に入ろうとしていた。


―あれ?


現実の扉が閉まる瞬間、視野の中に一人の少女を見つけた。


少女は長剣を構えたまま、不思議そうな瞳でルシルを覗き込んでいる。


ルシルにはそれが誰であるかはっきりと断定する事が出来た。


―幸運の女神、エフェメラ…


それを最後にルシルは暗闇に落ちた。

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