第71章:桜華の涙《後編》
【SIDE:七森春日】
桜華が僕の前で涙をみせるのはかなり久しぶりのように感じる。
他人には滅多に弱さをみせない、それが強気な性格の桜華らしさだから。
でも、強がっているだけで、本当は弱さもあるんだと僕は改めて気づいたんだ。
「……ぐすっ」
ようやく泣きやんでくれた桜華は僕に身体をしがみつかせて離そうとしない。
『どうして意地悪するのよ』
桜華には僕の態度が意地悪しているように感じていたんだ。
僕は桜華には曖昧な態度をとり続けていたけど、別に意地悪でもなければ嫌いでもない。
「ごめんね、桜華」
「……だったら、今日からお兄ちゃんが私の恋人でOK?」
「そ、それは……ぐふっ、お、桜華さん?」
いきなり抱きつく力が強くなり僕はけふっとせき込んだ。
「私が好きなら離してあげる。嫌いだというならここでお兄ちゃんには死んでもらう」
「何その、デッド・オア・アライブな究極な選択は……ぐはっ」
本気で力を入れてきてる、というか、何か柔らかなふくらみが……うきゃぁっ!?
桜華に抱きつかれて僕は戸惑うばかり、ここで断るといつものパターン。
そろそろ、本気で僕も関係について考えなきゃいけない。
「分かった、言います。桜華の事、妹として好きだ」
「……妹として?その台詞は聞き飽きたのよ、そう、死にたいんだ?」
「ひっ!?こ、答えをそんなに早く求められても」
「こっちはもうずいぶん前から考える時間を上げているじゃない。もういい加減に頭に来ているの。優柔不断で草食系なのは十分に分かったから、答えなさい。私を恋人にするか、否か。どちらか、さっさと選んで」
今日の桜華はいつもと違う、本気モードだ。
気をつけろ、僕……桜華は殺る時は殺る女の子だと言う事を忘れるな。
この選択肢を間違えたら、本当に取り返しのつかないことになる。
今まで散々、桜華には告白されてきたけど曖昧に誤魔化してきた。
それは僕の中にホントに彼女が好きと言う気持ちがないからじゃない。
僕は恋をした事がない、それが一番の問題なんだ。
「桜華、僕は、恋をしたことがないんだ。初恋をしていないから付き合うとか、付き合わないとか……考えるのが難しいよ」
「問答無用で私に恋をしろ、以上。さぁ、選択の時間よ。どっち!?」
そこでそう言い切れるなんて、本当に彼女らしいな。
僕にぐいっと詰め寄る桜華は今日は真剣な顔をしている。
うぅ、いつも以上に逃げ場がありません。
彼女は僕に抱きついたまま離れようとしない。
「……ごめんなさい、ぐはっ!?」
今、ゴキって骨がきしむ音がした……。
く、苦しい、マジで今回は殺されるかも。
「その『ごめんなさい』は、今まで待たせてごめんって意味よね?」
恐喝じみだ桜華、僕に涙を見せた時から本気なんだって強く感じる。
この子の気持ちは痛いくらいに分かるけど、付き合う意味を理解していない僕が恋人になったところできっと意味がない。
そんなに交際する事って大切なんだろうか。
僕にはそれが一番、分からないんだ。
「違う、そういう意味じゃなくて……?」
「気をつけてよ、お兄ちゃん。今日の私はマジで殺るかも」
こ、怖いよ、妹……行き過ぎた愛が憎しみに変わりつつあるようだ。
何で僕はいつも妹にびびってばかりいるんだろう。
こんなんじゃない、僕が桜華に求めている関係はこんな一方的なものじゃないはず。
小さな頃は純粋な意味で兄妹だった僕らの関係。
それなのに、今の関係はどこかおかしい。
僕は自分が震えるのに気付きながら、その言葉を口にした。
「――うんざりなんだよ、桜華っ」
言いたくなかったその言葉、口から出たら止まらない。
「……やっぱり、無理だって!ぼ、僕は好きとか分かんないから無理っ!無理ったら無理、もうっ、恋人、恋人って桜華もうるさいんだよっ!!」
ついに僕も逆切れしてしまう。
唖然とする桜華は僕の身体から離れる。
「お、お兄ちゃん?」
「もういい加減にしてほしいのは僕の方だよ、恋人、恋人ってそんなに恋人になる事って大切なのかな。兄妹じゃダメなの、桜華?」
「それは……だって、私は兄妹より恋人になりたいんだもんっ」
それは桜華が恋人と言う言葉にあこがれているだけなんじゃないか。
「恋人になって何が変わるんだ?好きでもなくて、ただその関係だけに固執する桜華の気持ちが僕には分からない……分かんないんだよっ」
「お兄ちゃんは、ううん、春ちゃんは私の気持ちがどうして理解してくれないの?」
「だったら、桜華も僕の事を理解してよ。気持ちを押しつけずに、僕と接してほしい」
僕が嫌なのは“恋人”と言う関係になるために“好き”にならなきゃいけない事だ。
好きだから恋人になるんであって、恋人になるために好きになるんじゃない。
僕の態度がこれまで桜華を傷つけてきたように、桜華の態度が僕を傷つけてきている。
互いにとって、それはいけない事だと思うんだ。
「……分かった。そう言う事なら、もういいよ。他の誰かで我慢するわ。えぇ、彼氏でも何でも作ってやるわよ。春ちゃんにこだわり続けた私がバカだったのね、春ちゃんなんて知らないっ」
桜華は僕の頬をパンっと叩いて、怒り心頭の様子で部屋を出ていく。
その瞳にはわずかに涙で濡れているように見えたのは気のせいだろうか。
一人残された僕はぐったりとしながら、叩かれた頬を手で押さえる。
「痛いな、うぅ……何でそこで理解するとか、言ってくれないわけ?」
桜華に反抗したのは間違いだったかもしれない。
素直に認めておけば、いや、今回はそういうんじゃいけないと思うんだ。
言うべき事は言わないと僕らはふたりとも間違ってしまう。
「僕は間違ったことは言ってないはずだ」
桜華が僕を好きだと言う想いは否定していない。
けども、今の僕にはそれを受け入れられないんだ。
その気持ちを改めて強く感じた、でも、本当にこれでよかったんだろうか。
桜華と喧嘩してしまう事が本当に正しかったのかどうか、それは分からない。
「これ、明日まで響くかもしれないな、めっちゃ痛い……」
叩かれた頬が痛い、その痛みはきっと桜華も同じような気がしたんだ。
翌日、僕は朝、目を覚ましてから登校準備をする。
いつものようにリビングに出るとそこには制服姿の桜華が朝食をとっていた。
「おはよう、春日。早くご飯を食べないと遅刻するわよ」
「うん。分かってるよ、母さん」
母さんが和食の朝食を準備してくれている間に僕は桜華へと視線を向けた。
「……あのさ、桜華。昨日の事なんだけど?」
僕が桜華に話しかけたその時、その変化に気づかされる。
「――馴れ馴れしく私に話しかけないで、兄貴」
兄貴と呼ばれるのはいつ以来だったか。
そのさげすむような口調、ほんの数ヶ月前の桜華そのものだった。
「え?」
「何をバカみたいな顔をしているの?ったく、うざいのよ。朝から嫌な男の顔を見るのって。私、一晩たって決めたの。アンタみたいな男を好きだった自分が恥ずかしい。私も何、勘違いしてきたんだろ。義兄とはいえ、兄を好きになるって気持ち悪すぎ」
桜華の暴言に母さんも「桜華?」と不思議そうな顔をする。
僕はといえばショックが大きくて何も反論できない。
「兄貴なんかにこだわらなくても、私に言いよる男はいっぱいいるもの。新しい恋をしてやるわ、恋人だって普通に作って遊んでやる。ふんっ、こんな女みたいな男なんてどうでもいいし」
「あの桜華さん、昨日はちょっと言い過ぎたかも」
「うっさいって言ってるでしょ、会話するのも嫌なの。さっさと私の前から消えて」
桜華は言うだけ言うと足早にリビングから出ていく。
言葉は雑でトゲだらけなのに、あんなにさびしそうな顔をして言うんだ。
それは桜華なりのけじめなのかもしれない。
「貴方達、喧嘩でもしたの……?」
母さんの問いかけに僕は「ちょっとね」と誤魔化しながらお茶碗を受け取る。
桜華と喧嘩なんて珍しいことじゃないけど、今回こそかなり溝が深い気がする。
「はぁ……」
あまりにも突然すぎる桜華の拒絶、僕は深いため息をつく。
昨日は言い過ぎだよな、謝るべきか、許してくれそうにないけども。
僕はまだ気づいていない、この桜華の怒りは僕にどれほどの影響を与えるかと言う事を。
そして、僕自身の気持ちに気づかされるということも。
「とりあえず、いただきます」
そんな先の事はまだ分からず、僕は冷めないうちに朝食を食べ始める。
桜華の怒りと悲しみが巻き起こす、ある事件がはじまろうとしていた。