第35章:魔女の口づけ《前編》
【SIDE:七森春日】
カギを締められて密室と化した多目的ホール。
部屋の隅っ子に追い詰められた僕に迫る白雪先輩。
彼女は僕に白雪姫の話を語る。
「私は思うの、実は“悪い魔女”は“白雪姫”そのものじゃないかしら?すべてを利用して、本当に欲しいものを手に入れる。春日クン、貴方はどう思う?」
本当の白雪姫はロマンスのかけらもない実母が美人な子を憎しみ殺してしまうお話。
白雪姫は子供の憧れるお姫様にも、悪女にもなる存在。
「――さて、質問です。私はお姫様、それとも悪い魔女?どちらだと思う?」
触れ合いそうなほどに近づく唇。
こちらを見つめてくるそのっ綺麗な瞳に釘付けにされてしまう。
魅了の瞳、というべきなのか。
見るものを引き寄せてしまうだけの力がある。
「お姫様、じゃないんですか?」
「残念。少なくともお姫様はこんな風に男に迫ったりしない。自分から王子様にキスをねだることもね……」
「き、キスって!?」
思わぬ言葉に驚きを隠せずにいる。
軽く瞳を瞑りながら彼女は甘い声で耳元に囁く。
「私は悪い魔女の方よ。いつだって純粋で可憐なお姫様になんてなれない。意地悪な魔女なの。“王子様”に恋焦がれている“お姫様”がいるのを知っていながら、つい相手を誘惑してしまうそんな悪い魔女なんだ」
クスッと微笑みながら彼女は自分で自分の事を魔女と呼んだ――。
色気のあるその雰囲気に僕は飲まれそうになる。
その発言の意味するところは……?
「なんてね。私は名前通り、白雪姫。お姫様願望って言うのは誰よりも強いの」
と、彼女はいきなり態度を変えると僕から距離をとる。
いきなり近すぎるのはドキドキするよ。
何だ、ただ単に彼女にからかわれただけか。
「男の僕にはその気持ちは分かりかねますけど、女の子なら誰もそう感じるものなんですかね、自分だけの大切な運命の相手っていうのは……」
「そうかもしれないわ。誰もが望むの。自分はこの世界の主人公でありたい、と」
そういう彼女の横顔はどこかいつもと違うように見える。
「春日クンはそう思わない?」
「都合のいい世界に夢を見たりしませんから」
特に桜華に日々いじめられていた過去を思うと夢は夢でしかないと思わされた。
理想的な兄と妹の関係にホントに憧れていた過去もありました。
「春日クンって意外と冷めているの。もっとこの世界に興味を持たないとダメよ」
「そ、それより、僕はもう帰らせてもらってもいいですか?」
多分、桜華が怒って待っているに違いない。
いい夢を想像するより、現実を心配する方が先だ。
「そんなにお姉さんとお話するのは嫌かしら?」
「そういうのではなくて。決して、白雪先輩がどうとかじゃないんですよ。これは、その、個人的な問題と言いますか……」
待たせている妹の機嫌を損ねるのが怖いのだ。
だが、先輩は気づいているのかいないのか、僕を帰らせてはくれない。
扉の前に立たれているので強行突破もできやしない。
「じゃ、決定。もう少しだけお話しましょう。桜華が気になるなら、電話でも……あら、ここって電波が入らないのね」
わざとらしく携帯電話を掲げる先輩。
もしかして、僕は……白雪先輩の罠に捕まっちゃいました?
別に先輩を疑うつもりはないのだけど。
「大丈夫よ。そんなに怯えた顔をしなくても、私は取って食うわけじゃないもの。どこかの妹ちゃんと違うんだから」
確かに少しだけ警戒し過ぎていたかもしれない。
桜華の行動に慣れているとつい……。
「あの、桜華のことなんですけど、聞いてもいいですか?」
「ん?別にいいけど、何が聞きたいの?私が知ってる事なら教えてあげるけど」
「桜華とは付き合いが長いんですか?よく慕っていたみたいですから」
先輩と桜華の関係、水面下で火花を散らしている事を知らない僕は彼女にそう尋ねた。
彼女は軽く腕を組みながら答えてくれる。
「初めて会ったのは2年くらい前からまだ彼女は中学2年生で、私は高校1年生。確か、ティーンズ系の雑誌の読者モデルとして今の事務所が採用したのよ。あまりにも可愛いから事務所の社長も彼女を気に入ってね、すぐにお仕事が一緒になったの」
読者モデルというのはよく聞くけれど、実際はそう単純な話ではないようだ。
同世代向けのファッション雑誌のモデルは同世代の方がいい。
「まぁ、その頃の私は普通のモデルとして仕事してたんだけど。初めはあんまり桜華の子とが好きじゃなかったなぁ」
「え?どうしてですか?」
「何て言うか、調子に乗ってるって思ってたのよ。自分もそうだけど、素人からいきなりこういう見た目が派手な世界にいるとつい自分が特別な存在だと“勘違い”する事もいるわけ。上には上がいて、今の自分がどういう立場なのか理解できていない、お調子ものさんが時々いるのよ」
彼女はふっと微笑する。
今までそういう子を何人も実際に見てきたんだろう。
「スタッフへの態度とか礼儀が出来ていない子。ちょっとばかり売れたら、成功っていう楽な仕事じゃないの。モデルの仕事が楽しいって思えるのはそこまでよ。読者モデルみたいに楽しめるだけの間は別にいい」
「先輩は今の仕事が楽しいとか思っていないんですか?」
「やってる事に対しての楽しさはあるわよ。けどね、それ以上に大変なのよ。頑張って努力して、“自分”を心の底から好きにならないといけない仕事なの。自分を嫌いな人間が皆に好かれるわけがないでしょう」
彼女も苦労している様子だ。
桜華はきっと昔からナルシストな一面があるので向いているのかもしれない。
「モデルって楽なイメージがあるのかしら。お仕事、楽勝って入ってくるバカな子はいるけど、半端な覚悟じゃ本物のモデルにはなれずに消えていくのがこの世界よ」
見た目が華やかな分、厳しい世界なんだな。
桜華が初めて雑誌に載るようになった時の事は今でも覚えている。
自慢げに僕にその雑誌を見せてきた彼女はホントに嬉しそうに見えた。
「桜華は……人に好かれるのが上手い人間なのよ。まぁ、それが媚びているかどうかは別として、桜華みたいなタイプの人間って好きじゃなかったけど、同時期に入ってきた女の子達と彼女は少しだけ違っていたわ」
「どこが違ったんですか?」
「彼女は本気でモデルという仕事に向き合っていた。先輩のモデルにアドバイスを求めたりしていたの。それ自体は別に普通のことかもしれない。だけど、浮かれることなく初めから熱心な姿を見ていると私まで応援したくなったの」
それは僕の知らない桜華の姿だ。
モデル=高収入、いつだってデート費用は彼女持ち。
桜華にとってモデルは収入のいいアルバイト程度だと思っていた。
違ったんだな、ちゃんと彼女は真剣に仕事としてやっていたらしい。
半端な覚悟じゃない、そう考えると桜華はえらいなぁ。
「辛い事も、楽しい事も全部含めて仕事と向き合う。彼女はそういう姿を見せてくれた。うちの事務所の社長が気に入るはずよね。逆に今は私にとってはライバルでもあるわ。うかうかしていると桜華にこの地位を蹴落とされてしまうから」
「白雪先輩は将来もそのモデルの道を……?」
「それもしたいんだけど、ダメなのよ。私は小さな頃からお医者さんになるっていう夢があるから。将来的にはうちの病院を継ぎたいし」
「へぇ、医者になりたいんですか?」
「まぁね。下手に看護師とかになると、絶対に医者と結婚させられるじゃない。私は相手と常に対等じゃないと嫌なタイプなの。そういう意味でも頑張りたいわ」
自分の長い髪を指で撫でる先輩、ホント綺麗な人だなぁ。
ちゃんと目標を持っていると言う事はいいことだ。
僕なんて将来の夢と言われたら……。
「そういう春日クンはどういう夢があるの?」
「……笑いませんか?」
「笑わないわよ。人の夢を笑う人間は愚かだもの。夢を笑うような人間にはなりたくないわね。たとえ、冗談でも人の夢を否定しない」
優しい表情、白雪先輩に対する信頼感というのは何気ない台詞ひとつから感じられる。
彼女になら僕は夢を語ることができると思った。
「実は僕の夢はフラワーコーディネーターになることなんです」
「フラワーコーディネーター?どういうお仕事なの?」
「結婚式とかホテルなど様々な場所とシチュエーションに合わせた花をトータルコーディネートする、空間演出の仕事なんです。花が好きだから、自分のショップも持ちたいんですけど、本業はそちらにしたいなって思ってます」
フラワーデザイナー、フラワーデコレーターとも呼ばれる。
それぞれの花の魅力を最大限に引き出すことで、空間に華やかさを演出するお仕事だ。
今の時代、フラワー業界も多種多様な需要により、人気になりつつある。
だからこそ、そう言う職業が人気なんだ。
「そうなんだ。いいじゃない。春日クンはホントにお花が好きなのね。まさしくキミにぴったりの職業だと思うわ」
白雪先輩は笑うことなく答えてくれるので軽く照れてしまう。
この夢を人に話すのはあまり好きじゃない。
「いろいろと資格とかもとったり、専門的な学校に行ったりして勉強したりしたいんです。最近だと女の子だけじゃなくて、男の人でも増えている職業なんですよ。ただ、やはりまだ世間のイメージがアレなんで、人に話すのは先輩が初めてです」
「そうなの?桜華にも話してないんだ?」
「まぁ、そうですね……桜華には話していません」
桜華にこのような話をする事は何となくためらいがあったんだ。
先輩はなぜか嬉しそうな顔をして、僕に甘い口調で言う。
「ふふっ。それじゃ、これは私達だけの秘密ね。秘密の共有しちゃった」
夢の事を話してもちゃんと認めてくれる、先輩はいい人だ。
「いつか、その夢が叶うといいわね。お互いに頑張りましょう」
僕らが握手を交わしあう、そんな時だった。
ガタンッ、という大きな物音と共に多目的ホールの扉が開かれる。
「はぁはぁ……よーやく、見つけたわよっ!!」
僕を探していたらしく息も荒く、雨独特の嫌な湿気もあってか、ほんのりと汗もかいた美少女がそこに仁王立ちしている。
「人気のない場所にいるとは予想外よ。おかげで学校中を探しちゃったじゃない」
迫りくる恐怖、間違いなく僕の妹でした。
……ゲームオーバーかも。
すっかり先輩との話に夢中で、桜華を待たせていたのを忘れていたのだ。
「――何、ラブ甘っぽい雰囲気になってるの?」
「怖ッ!?」
鋭い睨みに僕はビクッと身体を震わせる。
先輩と僕は今、身体をひっつけあうような状態。
妙な勘違いをされては非常に困るのだ。
「さぁて、細かい事はこの際どうでもいいわ。覚悟してるわよね、お兄ちゃん?」
外を降る雨は激しく窓を打ち付けている。
うぅ、僕の命はまさしく風前の灯、生きて帰れるかな……。